雲の上のシャボン玉

雨宮ノリオ

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 シャボン玉はしばらく雲のすぐ上を漂いました。どうやらシャボン玉を押し上げていた上昇気流は、今度こそ本当に終わったようです。何とかギリギリのところで体の膨張は止まり、割れないですんだようでした。雲のほんの二メートルくらい上をゆっくりと漂っていると、地上に戻ったような錯覚を覚えました。自分のすぐ下の雲の連なりは、地面の上に敷き詰めた綿の絨毯だと言われても見分けはつかない。もしそうだったら良かったのにと思いました。
 これから訪れるであろう真っ暗な世界に、たった一人でとり残されるのはものすごく怖かったからです。地上だったら人間もいるし、鳥たちも近くにいるはずだから、話ができて励ましてもらえるかもしれません。
「タカさん、僕のところに来てよう」
 シャボン玉は心細くて思わずそう呼びかけました。でもそれは無理というものです。
 もしもこの雲の上にいる者があるとしたら、それは自分より先に雲の上に昇って行った風船くらいしかいないはずです。シャボン玉はその風船にも呼びかけてみました。
「風船君、もしいたら僕のそばに来てくれないかー・・・・・・」
 ですが、その後には、哀しい思いがしただけでした。
 風船君はもういない。ずっと高いところへ昇って割れてしまったんだと、シャボン玉ももうこの頃には気づいていたのです。シャボン玉は上昇気流が終わったらもう上へは行かないけれど、体の中に軽い気体の入った風船はもっとはるかに高いところまで上昇してしまうのです。割れないはずがありません。
 そうだ。ぼくは風船君のためにもしっかりしなくちゃならない。初めて友達になってくれた彼の分まで長く生きて、世界を見てまわらなくちゃあいけないんだ。
 シャボン玉は、怖くて思わず「ひいいいいんっ」と泣きたくなる心をぐっと押さえて、決意をあらたに固めたのでした。

 太陽は沈んでゆく一方で、世界はしだいに暗くなってきました。シャボン玉はもう太陽は怒っているなどとは思いません。
 シャボン玉は、太陽が沈んでしまうと暗くなることを恐れていたのですが、実はもっと困ったことがあると分かってきました。太陽の光が無いと、気温ががくんと落ちてしまうのです。シャボン玉は体の芯に届き始めた寒気に耐えられず、ガタガタ激しく震え始めました。
 空は暗くなり、天空には多くの星が美しく瞬き始めていましたが、とてもそれをながめる余裕などありません。天空に、冷たい氷の粒が散りばめられているように感じられただけです。月は出ていませんでしたが、もし満月が見えたとしても氷のかたまりかと思えただけでしょう。完全に太陽が消え去り夜になってしまうと、恐ろしい危険が迫ってきました。シャボン玉のいる空域の気温は、五度を下回り、冷蔵庫も同然になっていたのです。このままではいずれ零度以下になり、凍ってしまいそうでした。シャボン玉は寒さに耐えて必死に踏ん張ろうとしましたが、相手が温度では頑張りようも無いのでした。
 人間の時間で午前零時を過ぎた頃、ついに気温は零度を下回り、マイナス三度にまで達してしまいました。
 シャボン玉は「寒さに負けたらダメだ。割れちゃあダメだ」と必死に繰り返して踏ん張り続けていましたが、だんだん気が遠くなってきました。それとともに体の震えがピタリと止まりました。
 冬山で遭難した人が眠りに誘い込まれるように、シャボン玉の意識はあまりの寒さに四散して行って、深い眠りに落ちて行ってしまったのです。

 ・・・・・・シャボン玉はどうなったでしょうか。実はそれでも凍らなかったのです。普通の水なら当然凍る寒さですが、シャボン玉の体はシャボン液なので、氷結する温度は零度よりも少し下になっていたのでした。旅するうちに少し水分が蒸発したせいで、シャボン液が濃いめになっていたのも幸いしました。
 どのくらいの時間がたったのでしょうか。
 気がつくと、シャボン玉はまだふわふわと宙に浮いていました。寒さはもう無くなって、世界は白々と明るみを帯びています。
 僕はどうなったんだろう。あんまり寒いので気を失ってしまったけど。まさか死んでしまったんじゃないだろうな。
 シャボン玉は下を見おろしました。シャボン玉の下に雲は無く、はるか下まで見通せるようになっていました。シャボン玉は地面を見て自分がどのあたりにいるのかを確かめようとしました。ところがどうしたことでしょう、その地面が見あたりません。
 盆地も山も、もちろん建物や田んぼや道路も無く、ただ何も無いのっぺらぼうの青っぽい平面が続いているのがぼんやりと見えるだけです。まるで別の星にでも、迷い込んでしまったようでした。いや、ひょっとしたら、ここは死後の世界なのでしょうか。
 シャボン玉は周囲を見回して、何かないのかと捜してみました。するとはるか後方に、一本の長くて茶色い線のような陸地が見えました。シャボン玉はいつの間にか南に流されて、海の上空に出てしまっていたのでした。
 それからしばらく時間がたつと、東の水平線の向こうから、真っ赤な太陽が体の上部をのぞかせてきました。
 サーッと音をたてて伸びるように、果てもなく差し込んで来る直線のきらめき。それを受けた世界は、一気に息を吹き返したかのようでした。シャボン玉も温かい陽光に照らされて、昨夜の寒さが嘘のように、熱を感じ始めます。
 シャボン玉は自分が昨日より大分低いところにいると気づきました。自分よりも高いところに雲があったからです。雲は、空の端に少しあるだけでした。快晴と言っていい天気です。昨日はあれだけたくさんあったのに、いったいどこへ消えてしまったのか。すごく不思議でした。
 下にある海面は、波の動きがかすかに見て取れます。どこまでもうねっていて、まるで生きているかのようでした。夜の間は上昇気流が無いので、ちょっとづつシャボン玉の高度は下がっていたようです。ですが、太陽が出てしばらくすると、また上昇気流が発生してきました。
 陽が高くなるにつれて、シャボン玉は再びゆっくりと上昇を始めたのです。
 昨日と違って雲が少ないので、太陽が翳るおそれはありません。シャボン玉は真っ青に広がる晴れ空を見渡して、その気持ち良さを初めて知ったのでした。昨日より、空の広さが倍になったかのように思えます。
 それにしても太陽は不思議だなとシャボン玉は思いました。タカの言った通り、分からないほどゆっくりと天の高みへと昇り、それにしたがって光の強さが増してきます。なのに光は強くなるほどに色が無くなり、どうかすると「光はあるのが当たり前」と思えてきてしまいます。シャボン玉は太陽が山の後ろに隠れるのは、「自分がいなかったらこんなに大変なんだぞ」とみんなに分からせるためなのかもしれないと思いました。
 昼近くになると、はるか下の海の上を白い鳥が群れをなして飛んでいるのが見えました。シャボン玉は話しかけたかったのですが、距離が遠すぎてどうにもなりません。たぶん下を飛んでいる鳥からは、高い空に浮かんだシャボン玉は見分けられなかったでしょう。海の上にはタカのように高いところを飛ぶ鳥はいないようでした。もっとも、シャボン玉は、タカが飛ぶ高さよりもずっと上の空にいたのですが。
 風はわずかで日差しは暖かく、下から体を押し上げてくる優しい気流を感じ続ける。心地の良い時間が続きました。
 この調子なら旅をするのも難しくはないな。夜も何とか耐えられたし。ぼくはかなり遠くまで行けるんじゃないだろうか。また人間のいる外国の陸地が見れるかもしれない。そして外国の人に「海を渡ってやって来たんです」と言ったら、きっとビックリして歓迎してくれるんじゃないかな。
 シャボン玉はそう思って楽しい気分になってきました。午後になってさらに南に流されて、元来た陸地が見えなくなっても、そう不安にはならなかったのです。
 前を見ても後ろを見ても、右を見ても左を見ても全部水平線で、それが自分をぐるりと取り囲んで一直線につながっているのは何だかすごく変てこな感じで、自分が世界の中心にいる気がして気分がいいのでした。大げさに言えば、世界の王になったようだとも言えるかもしれません。
 ですが、やっぱり世の中はそうは簡単に行きません。
 シャボン玉はそのうちに、だんだんに気分が悪くなってきて、めまいを覚えはじめたのです。
 そんなに暑くないのに暑さにまいってばててしまうような、体が縮んでいくような、体の芯がひりつくような、とても変な気持ちです。何かが足りない。何かが欲しいと思うのですが、それが何なのかが分からなくて焦ってしまいます。自分を照らす日光が、ものすごく嫌なものに感じられてきました。イライラして、太陽に向かって「もう僕を照らすのはやめてくれー」と叫びたくなってきました。
 それも無理はありません。シャボン玉は朝からずっと太陽の光を浴び続けたので水分がほんのちょっとづつ蒸発し、体を作る水が足りなくなってきていたのでした。昨日の時点でもうすでに少なくなり始めていたのが、今日になって体調がおかしくなる水準にたっしてしまったのです。
 ですが、空の上では日光から隠れる場所などありません。シャボン玉は、砂漠の真ん中で水を無くして喉がカラカラになっても太陽に照らされている遭難者も同然なのです。下には果てしなく水をたたえた大海原があるというのに、水が足りないとは皮肉なことでした。
 みなさんは体の水が少なくなったのなら体を小さくすればいいじゃないかとお思いでしょうか。ことはそんなに簡単ではありません。シャボン玉の中には空気が詰まっているのです。そしてシャボン玉の体にはその空気を抜く穴が無いのです。もしも空気を抜くために体に穴を空けたなら、その瞬間に割れてしまうでしょう。ひどい便秘をしてお腹の中におならのガスが溜まってしまったようなものです。それに体を作っているシャボン液には、ちょうどいい濃度というものがあります。水分が減ってシャボンの濃度が濃くなりすぎたのも、シャボン玉の気分を悪くしていました。シャボン玉は、ゲーッとゲロを吐きたいような気分にもなってしまっていたのです。
 シャボン玉は、それでもゆっくりと上昇し続けていました。
 そして陽がまだ沈まないうちに、昨日と同じくらいの高さにまで達しようとしていました。昨日と違って地上から昇って来た訳ではないので、同じような気流に乗ったらてっぺんに到達するのは早いのでした。
 気温は下がり、シャボン玉の体はまた膨らみ始め、今にも破裂しそうな危険な大きさになってきます。昨日より水分が減ってしまっているのでさらに危険です。
 なのに今日は体をしっとりと包んでくれる水分を含んだ雲はありません。
 かわりに高い上空にあったのは、ものすごい速さの風なのでした。
 ジェット気流というやつです。




          
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