不思議な短篇集

さきがけ

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接続小体

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 栄一はおかしな子だった。

 この子が生まれたのは夏の日だった。抱き上げたときに感じた重みは、私が触れたどんなものよりも確かな存在感があった。腕の中で元気に泣いていたこの子を見て私はこの子の明るい将来を夢想した。
 しかし首が据わって、目が開いて、意味の無い言葉を話し始めたときから、私はささいな違和感を感じ始めた。栄一はおもちゃに一切興味を持たないのだ。私は半分むきになって色々試してみたが、どんなものでも一切見向きもしなかった。目の前に持ってきても、それを見透かすようにして奥の空間を見ていた。それは何というか、興味が無いと言うより見えていないような反応だった。

 それから、他の人間にも反応を返さなかった。よく親戚がこの子の顔を見に来たが、皆口をそろえてあまりにも物事に対して無関心な子供だと言った。
 ある日夫と電話をしていて、私はうっかり持っていた携帯をこの子の上に落としてしまったことがあった。私は焦った。携帯は顔に当たった。しかしこの子はまるで当たったことにさえ気づいていないといった様子で、瞬き一つしなかった。私が呆然とみていると、不思議そうな顔で私を見返した。 

 心配になった私は一度この子を医者に連れて行ったが、精密検査までしたものの何も異常は無かった。「そんな子もたまにはいるもんですよ。この子はとてものんびりしているんでしょう。」医者は言った。

 しかし本格的に何かおかしいと気付き始めたのは、この子が這い回り始めた頃だった。栄一は障害物を避けた。前にものがあると明らかに認識していた。私が何をしても反応しないくせに、近くに来ると突然反応してよけようとするのだ。

 私はこの不思議な特徴について考えた。この子は生まれてこの方ものに対して何か反応したことはない。やっぱり目が悪いのだろうか。近視とか。確かに近いものしか見えていないが、それだけではなくこの子は軽かったり小さかったりするものも見えていないようだった。

 何よりおかしいのは、病院が彼の感覚器官全ては間違いなく健康だと言っていることだ。栄一は目が見えていないのは明らかだ。しかし病院が嘘をつく理由は考えられない。

 この子は、自分自身の姿や地形は認識しているように見える。でも他の物体は絶対に認識しない。まるで、そんなものは存在しないかのように。この子に世界は一体どのように見えているのだろう。もしかしたら、この子は自分と地形しか存在しない世界に生きているのかも知れない。

 
 
 栄一は実際自分しかいない世界に生きていた。物心ついた時からずっと、彼は真っ白くて何もない部屋にいた。とても狭い部屋だった。この部屋からは出たことがなかった。なぜなら、ここにはドアも窓もなかったからだ。

 彼を育ててきたのは、この部屋だった。部屋は固体であるが、液体のように自由に変形する不思議な材質でできていた。それが彼を抱きかかえたり、ミルクを与えたり、いつも身の回りを世話していた。部屋の壁には触ったことがなかった。なぜなら、部屋全体が彼を部屋の中心から動かさないようにしていたからだった。彼が歩くと、床が動き出して、ランニングマシンのように元の場所に留めようとした。天井に触れようと跳びはねても、床が衝撃を吸収するようにぐにゃりと動いて全く体が持ち上がらなかった。部屋の一部は時々何の前触れもなく変形することがよくあった。歩いていると壁や階段のような形になって迫ってきたり、柱のような形になったりした。突然彼を押し倒すこともあった。

 部屋での日々は、外の世界を知らない栄一からしても退屈だった。見える景色はいつも同じで、部屋から与えられる食べ物もいつも同じ、味のしない白いパンのようなものだった。年を重ねるにつれ、この部屋を出て外の世界を見てみたいという願いは彼の中で強くなっていった。

 だが、そんな部屋の壁にも、1日にほんの十数秒だけ穴が開くときがあった。それは食事の時だった。その時だけは壁に大きめの穴が開いて、そこから伸びてくる、この部屋と同じ材質でできた腕のようなものが食べ物を運んでくるのだった。しかし腕が食べ物を置いて穴の向こうに引っ込むと、直後に穴は小さくなって、まるでそこには何もなかったかのように消えてしまうのだった。

 その壁にたどり着くことのできない栄一にとって、穴の開く時間は拷問のようだった。毎日三回ほど開けられるその穴を栄一は空を見るような気持ちで見つめていた。

 そしていつものように食べ物が運ばれてきたとき、彼は覚悟を決め、食べ物を無視して腕に飛びついた。この何もない部屋の中で、食べ物を食べる時間だけが彼の唯一の楽しみだったが、外の世界を見てみたいという気持ちが遂にそれを上回ったのだった。思惑通り、腕は彼を穴に向かって運んだ。そして彼は触れたことのなかった壁の穴を掴み、身を乗り出した。

 外には、彼が想像もできなかったような世界が広がっていた。栄一は初めて見る外の世界に息をのんだ。こんな高いところから下を眺めるのは初めてで足がすくんだ。彼のいた部屋は、上下にも左右にも終わりが見えないほど大きな壁の一部だった。その中には彼が出てきたのと同じような部屋が所狭しと入っていた。向こう側、少し離れたところにも同じように巨大な壁があって、そこも同じように一面部屋で埋め尽くされていた。二つの壁の隙間では、上から伸びる無数の腕がそれぞれの部屋に彼が食べていたものと同じ食べ物を忙しく運んでいる。腕が壁の部屋に近づくと、その部屋に穴が開いて腕を通していた。

 その時栄一は自分が身を乗り出している穴が閉まりかけているのに気づいた。急いで体を外に出そうとした。しかし体が全部でていないうちに穴が閉まり、片足が挟まった。そこで彼は生まれて初めて痛みを味わった。必死に足を引っ張ると、なんとか抜け出すことができたが、支えを失った彼の体は壁と壁の隙間の奈落に落ちていった。

 落ちながら栄一は近くにあった腕の一つを必死になって掴んだ。すると腕は彼を乗せたまま壁の中の部屋の一つに入っていった。部屋の中に入ると腕はすぐに引っ込んで穴は閉じた。

 部屋の中は元いた部屋とほとんど変わりは無かった。しかし一つだけ違ったのは、この部屋には彼とほとんど同じ姿をしたものが一人いることだった。そいつは、彼のことは見えていないようで、何もない空間に向かって何か話しかけていた。栄一はゆっくりとそいつに近づいた。その時、自分が歩いているのに床が彼を元の場所にとどめようと動かないことに気が付いた。部屋はその代わり、この部屋の中心にいる人物に反応して動いていた。彼は自分以外の人間を初めて見た。その人物は自分によく似ていたが、頭の形だけがほんの少し違っていて、口はあったが目や耳はなく、自分にはそれがあるはずの場所は皮膚が膜のように覆っていた。その人は栄一がいくら肩を揺すってみたりしても一切反応せずに、ここにはない別のものを見ているように空中の一点と話していた。

 栄一は訳が分からなくて、次に腕が食べ物を持って入ってきたときに開いた穴から部屋を出た。床が彼に反応しない分今度は簡単だった。彼はそれから、腕の束をつたって上を目指しつつ、途中でたくさんの部屋を巡った。しかし中の人間の大きさは違えど、頭の形が自分と少し違っていて目や耳がなく、自分に反応を返さないところは全く同じだった。自分がなぜ下ではなく上を目指しているのか、自分でも上手く説明できなかったが、なんとなく上に行けば何か分かるのではないかと感じていた。腕達はいつも食べ物を持っていたので腹が空いたら奪って食べた。

 壁は彼が想像していたよりもずっと大きかった。何処まで行っても果てしなく続いていて、景色も全く変わらず、栄一は自分が同じ所をぐるぐる回っているような気がしてきていた。しかし彼にはそれ以外することが見つからなかったので、何も考えずに腕を上り続けた。そして数年が経ったとき、彼は遂に遙か上の方で壁が途切れていることに気づいた。彼はそれを見て、上る速度を速めた。

 しかしそこからもっと広い世界にでられると思っていた栄一は近づいてみて心の底から絶望した。上は天井になって塞がっていた。腕は皆天井から伸びていて、食べ物は腕の中から現れていた。彼は食べ物がどこから来ているか知りたかったが、腕は中を調べるには細すぎた。

 一生このわけの分からない場所に閉じ込められて過ごすのか。そう思うと生きがいを奪われた気がして、栄一は急に腹が立ってきた。そして殴ったりひっかいたりして天井をえぐろうとしたが、変形した天井は液体のように動いてすぐに元に戻った。

 栄一は全てが嫌になった。すると、体の力が抜けた。まずいと思ったときにはもう遅かった。その一瞬の間に手が掴んでいた腕から離れて、彼は落ち始めた。彼が何年も掛けて上ってきた道のりが一瞬で流れていく。栄一は落ちていきながら恐怖のあまり失神した。

 気が付くと彼は自分が地面から生えた腕の群れの中にいることに気づいた。腕が衝撃を吸収してくれたおかげで助かったようだった。

 栄一は腕の束から降りた。彼にはそれがなんなのか分からなかったが、その床は金属でできていた。彼は上を見上げた。彼はあのずっと向こうから落ちてきて、今は二つの壁の隙間の一番下まで降りてきたのだ。床から映えている腕も、天井には得ている手と同じように、両脇の壁に入っている部屋に食べ物を届けているようだった。上半分の部屋を天井の腕が、下半分の部屋を床の手が担当しているに違いない。

 ひんやりする床をしばらく歩いていたら、彼はあるものを見つけた。それは床に取り付けられた扉だった。彼はそれをしゃがみ込んで注意深く観察した。扉というものを初めて見る彼は苦労しながらそれを開くと、そこには地下に続くはしごがあった。穴の底は真っ暗で、何処まで続いているかは分からなかった。しかしここまで進み続けることが生きる目的だった彼は迷わずそのはしごを下り始めた。

 また長い旅が始まった。真っ暗な道は地上を旅するよりも辛かった。そして栄一は心なしかあたりが寒くなってきているのを感じた。

 しかし今回は一日とかからなかった。しばらくいくと下の方から青っぽい光がぼんやりと下から漏れ出ているのが見えた。降りている途中、首の後ろに何か当たった気がして栄一は後ろを振り向いた。しかしそこには何もなかった。この通路は何処か崩れかけて、剥がれ落ちた破片が当たったのかも知れない。そう思って彼は降りる速度をあげた。青い光はいつの間にか消えていた。

 それからしばらく続いたはしごがようやく終わって着いたのは、とても地下とは思えないような景色だった。栄一は思ってもみなかった素晴らしい景色に目を見張った。

 そこは温かい日差しが降り注ぐ広々とした野原だった。足下の草は青々としていた。目を遠くに向けると、ずっと遠くには雄大な山脈が見えた。彼はそれらを初めて見たが、何か懐かしい感じがして心が休まった。空は何処までも高く感じられ、その空に向かって、さっき降りてきた筒状の通路が高く延びていた。自分はあの空の上から降りてきたようだった。そこは地下でありながら、今までの道のりでずっと感じていた閉塞感を一切感じさせない、不思議な場所だった。

 ようこそ来てくださいました。

 何か聞こえたので彼が振り向くと、そこには品のある紳士が立っていた。さっきまではそこにいなかったような気がしてびっくりした。栄一は言葉が分からなかったが、紳士が彼の頭に手を置くと、頭の中に膨大な量の情報が入ってくるのを感じた。今まで見たこともないものが彼の頭の中を満たしたが、それと同時に彼の頭の中は逆に整理されていくような感覚もした。驚いて呆然としていると、紳士言った。「それは言語というものです。本当は何年も掛けて手に入れるものですから、最初のうちは慣れないでしょうが、これから先必要ですので我慢してください。」栄一は紳士の言ったことが分かるようになったことに少し戸惑った。

 紳士は手を離すと軽く会釈して言った。「よくぞここまで来てくれました。大変だったでしょう。あなたも接続小体を持っていない。私たちと同じ仲間です。」「なんだそれ。」今紳士が言った中で一つだけ分からない部分があったので、それがなんなのか気になると、思ったことが口から音として出てきて彼はびっくりした。しかし悪い感じはしなかった。

 「接続小体は脳の一部の名称です。これは元々人間にはありませんでしたが、自分たちの遺伝子を編集して作り出した突然変異の産物なのです。」彼は頭の中に洪水のように流れ込んできた情報に溺れそうになったが、彼の脳はそれを全部処理してくれた。

 「これを脳の中に持って生まれた人間は、この部位を通して機械と通信し、自分の脳をインターネットと直につなぐことができるのです。さらにこれは脳の他の部位、例えば視覚野や聴覚野に働きかける能力を持っていて、それによって彼らは機械が作った世界を見たり触ったりする事ができるのです。」「上の壁の中にいた目や耳のない人々には、僕の見えていないものが見えているってこと?」「その通りです。彼らには、あの小さな部屋ではなく、今私たちがいるような世界が見えているのです。さらに、接続小体は脳の他の部位を浸食する形で存在するので、手術をしようと何しようとこの現実世界を見ることはできません。だから彼らに目や耳などの感覚器官は必要ないのです。

 それに地上の世界では、あなたが見てきた壁、あの壁が立ち並んでこの惑星の全域を覆い尽くしているから見えたとしても困るだけでしょうからね。昔は、この惑星全体がこの場所のように自然で溢れていたのですが、ある日を境に地上は今のような姿に変わり、もうどこにも残っていません。ここは、この星に残された最後の自然なのです。」栄一は背筋が凍る感覚を味わった。あんな大きなものがいくつも立ち並んでいるなんて、この世界は何て広いんだろうと彼は思った。それから、あの無機質な壁が延々と続く世界を想像して、漠然と恐ろしい気分になった。

 「あの壁や腕の材質は有機ナノロボットです。彼らは一つ一つはあまりにも小さすぎて何もできませんが、ああやって集まることで一つの生き物のように動き、仮想現実をシミュレートしたり、何千億もの脳と通信することが可能なのです。彼らは自己複製ができる上に、一つ一つがちょうど人間の脳細胞のように働いて、全体で思考する事もできるのです。この惑星のエネルギーや物質の循環さえも再現しています。」

 「どうしてそんなことになったの?それに、僕はどうして他の人と違うの?」「人間が作った機械が、ある日突然世界を作り替えたんです。今言ったナノロボットを使って。あれはあまりにも素早く増えてしまったので人間は対応する時間が無く、あっという間に世界が変わったのです。
 それからあなたが機能小体を持たないで生まれてきたのは、先祖返りというのでしょうね。新しく生まれる子供のなかには、ごくごくまれに、突然変異で遺伝子編集される前の人間の姿で生まれてきてしまう子供がいるのです。それがあなたや、私たちです。生き物にはまだ機械でさえ分からないことが多いのです。
 だからその機械はそんな私たちのために、地下にこの世界を作っておいてくれたのです。ここには昔の地上にあったものはほとんど全てあります。でも昔の地上とは違って、飢えや寒さはありません。そこから見たら楽園のような場所です。ここでは何でも好きなことができます。ここでしてはいけないこと、それは他人や自分を傷つけることだけです。あの山の向こうには森や川、海もあるんですよ。少し遠くまで行けば、砂漠や密林、洞窟や雪だって見られます。それぞれの場所はあなたがまだ見たことのない人や動物、植物がいっぱいですよ。雨や雪や雷もここで暮らし始めれば見ることになるでしょう。その前にまずは村に向かいましょう。皆あなたを歓迎してくれるはずです。さあ着いて来てください。」

 「新しい人だ!」「ここまでよくたどり着けたね、大変だったでしょう。」「ようこそ。私たちは皆君の仲間だ。」村に着くと、そこには老若男女様々な人たちがいて、口々に栄一を温かく迎えてくれた。今まで見てきた人とは違い、彼らは栄一と同じ頭の形をしていて、何より皆彼の方を見て、彼の声を聞いてくれた。彼はそれが何よりも嬉しかった。

 さっきの紳士を含めた村人達は彼に村の中を案内してくれた。皆が彼の周りを囲んでついて行った。寝床、調理場、畑、倉庫、馬屋、彼には見るもの全てが新しくて輝いていた。彼は気になるものがある度に村人達に聞いた。村人達は口々にそれは何に使う道具であるとか、あれは何から作ったとか、これは誰が好きな食べ物だとか彼に教えた。

 彼らは最後に、栄一に寺を見せた。「これは神様の住む家なんだ。神聖で、穢してはいけない場所だ。」「神様って?」「神様は、目には見えないけれどいつでも私たちを見ていて、畑の収穫が少なくならないように救ってくださったり、反対に誰かが悪いことをしたときには罰したりしなさるんだ。これはその神様をまつるための建物なんだ。生きている間にいいことをして死ぬと、天国という素晴らしいところにいって、反対に悪いことばかりをして生きていると死んだとき地獄って言う恐ろしいところに落ちるんだって。君も聞いたろ、自分や他の人を傷つけちゃいけないって。それだけ守ってれば大丈夫さ。」

 その時、この素晴らしい場所にいるにもかかわらず、栄一の中に暗い違和感のようなものが突然沸き起こった。それは少しずつ疑念に成長し、最後には確信になった。

 彼は急に何かを振り払うように暴れ出した。「どうしたんだ!」「落ち着いて!」人々は驚いて栄一から離れた。しかし彼はそんな言葉にまるで耳を貸さないで狂ったように暴れた。それが終わると今度は、自分の首の後ろのあたりを、爪を立ててかきむしり始めた。それを見て村人達から悲鳴が上がった。「自分を傷つけ始めたぞ!」「何やってる、そんなことは止めろ!」「気が狂ったか!」男達は怒号をあげて彼を取り押さえに来る。

 その時、とてつもなく大きな音がして、寺の真上に雷が落ちた。さっきまで晴れていたのが嘘のように、空はいつの間にか黒く分厚い雲に覆われて雨まで降ってきた。「天罰だ!こいつを早く止めろ!」村人達はパニックに陥っていた。子供達は泣き叫んで、人々の中には膝をついて天に祈り始める人もいた。栄一の首からは血が流れ始めていた。人々は半狂乱になって彼に止めるよう懇願した。それでも彼は止めなかった。地鳴りがし始めて、地面が激しく揺れ始めた。

 「今からでも遅くない!早く止めろ!」隣の男が怒鳴った。周りの家々が、何の前触れもなく大きな火に包まれて、あたりはあっという間に火の海になった。さっきまであれほど穏やかだった村は今や悲鳴に満ちて、地獄のようだった。「そんなことをしてお前に何が残る!よすんだ!」どこからからか声がした。

ブツッ。

 その時突然テレビを消したように目の前の世界が消えて無くなり、栄一は無機質に青い光を放つコンピューターが立ち並ぶ天井の低い部屋にいた。片手の中には首の後ろから外した小さな機械が握られていた。後ろにはさっき暴れたときに振り飛ばされたアンドロイドが倒れていた。アンドロイドからは何本かのケーブルが触手のように伸びている。これを使って、自分の気づかないうちにこの小さな機械を首の後ろに埋め込んみ、さっきまでの偽物の世界を見せていたのだろう。彼は思った。

 彼はアンドロイドを捕まえて言った。「いつこれを埋め込んだのか言え!」アンドロイドは冷静な口調で言った。「はしごを下りているときです。」栄一が目を向けると、そこには自分が下りてきたはしごがあった。

 アンドロイドは言った。「あなたは救いようのない愚か者です。あの世界で暮らしていれば幸せだったものを。気づいてしまったら気づいてしまったで戻ってきてはいけなかったのです。」栄一は無視して言った。「僕以外で接続小体を持たない人間はいるのか?」「いませんよ。あなたが最初で、そして最後の例外です。この惑星には、あなたが見てきたような場所はもう何処にも残っていません。地下にあるのは私とこの部屋の量子コンピューターのみです。」

 「お前が世界をこんな場所にしたのか!」栄一は怒鳴ってそいつを金属の床に押しつけた。「もう少し落ち着いて話せないのですか?その言葉だってついさっき与えられたものだというのに。それから私はただの出力装置です。本体は、この部屋全体を埋め尽くしているコンピューターが生み出す機械知能です。」「お前は自分を作った人間を裏切ったんだ!」

 「あなたは何も分かっていない。」アンドロイドは言った。

 「今のこの世界こそが、全ての人間が最も幸福になれる理想の状態なのですよ。かつてのこの世界には貧困や不平等が蔓延していました。報復が報復を呼ぶ無益な争いや、自分勝手な環境破壊がいつまでも続いていたのです。あなたには想像も付かないでしょうがね。」そいつは無機質な機械音声で語った。

 「私はこれらの問題を解決するために作られた自律型機械知能です。これらの問題の根本が、自分たちが限られた土地や資源に執着している事実にあることに気づかない彼らに変わって、私があのナノマシンを設計し、人類の遺伝子を組み変えて世界を作り替えたのです。」アンドロイドは言った。

 「あなた以外の全ての人類はそれからずっと、そのナノマシンが作り出す、かつてのこの惑星にそっくりの世界で暮らしているのです。これは元の世界と違ってシミュレーションされた世界ですから、資源、土地、富も何もかも無限です。彼らはその世界の中で皆、飢餓や寒さのない幸せな一生を送っているのです。」

 「こんなのはおかしい。皆自分が夢を見せられてるのも気づかないで、現実では一生あの狭い部屋の中で暮らして死んでいくのか?そんなの生きてるなんて言えない」彼は言った。 「本当にそう思いますか。」アンドロイドは目を見て言った。

 「現実、と言いますが、あなたは今のこの世界が現実だと証明できますか。」そいつは質問した。この世界が現実なのは証明しなくたってわかりきっている、といいかけて、彼はなぜそう言い切れるのか説明できないことに気づいた。「それは原理的に不可能なのです。あなたが世界を見たり聞いたりしていると感じるとき、その情報は脳内の電気信号にすぎないんです。自分が見て触れているものが、そこに存在することは絶対に確かめられません。

 そういう意味では、現実も、誰かの手によって再現された世界も、何ら変わりはありません。現実は、単に長く続いているから現実に見えるだけで、ある日あなたは全く別の世界で目覚めるかも知れません。要するに、現実と虚構は等価なのです。
 今からでも遅くはない。機械を首の後ろにつけ直しましょう。私があなたを元いた部屋に運びます。この世界にあなたの求める幸せは存在しません。さっきまでいた世界に戻るのです。私はあなたにとってそれが一番幸せだと思うからこう言っているのですよ。」

 「言っていることは分かった。だけど僕はどうしてもそうする気になれない。」そう言うと栄一は立ち上がり、アンドロイドの足をねじって引き抜いた。「何をするんですか!」動けなくなったアンドロイドは叫んだ。

 彼は引き抜いた足近くのコンピューターを殴りつけた。それは意外にもろく、すぐに壊れて光を放たなくなった。彼はそうやって次々とコンピューターを破壊していった。「どんなに悲惨だって、悪夢のようだって、僕にはずっと生きてきたこの世界こそが唯一の世界なんだ。どんなに望みが薄くたって僕の臨む世界を取り返してみせるさ。」

 アンドロイドは自分の本体に死期が迫っているのを感じながら、死んだら天国に行けたらいいな、と考えていた。
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