わたしの婚姻

山岸ンル

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一、わたしの婚姻

晴江と「礎さん」 第一話

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 『彼』に名前はなかった。
 人間社会から少々逸脱した存在であるところの彼には戸籍がなかったのである。
 とは言え、彼は完全に社会から隔絶されていたかといえばそうではなく、近年は特にインターネットを使って世間との繋がりを持つようになっていた。
 晴江の両親と彼の繋がりもそういったところから始まったということだったが、晴江にとってはそんなことはどうでも良かった。
(結局は単なるひきこもりじゃないか)
 というのが晴江の当初の見解だった。

 『彼』――、その生き物は、定型の姿を持っていなかった。人間が言うところの『定着型粘質性多肢生物』である彼は、もちろん人間ではなかったし、人間の世界で人間のようには生きていなかった。
 かろうじて町外れの、小さな山の洞窟を利用した祠の中で、古くから彼を知る周りの人間によって助力を得ながら暮らしているのだった。
 前述のとおり名前というものはなかったが、呼び名がないのは不便であるとのことで、いつからか彼は『礎さん』『礎の人』と呼ばれていた。
 これも晴江に言わせれば、
「人間でないくせ、何が『ヒト』か」
 ということになるのだが。

 晴江が彼に嫌悪を抱いているのには訳があった。彼が人間でないからではない。
 晴江がまだ小学生のころ、事業を営む晴江の父が資金繰りに困り、『礎さん』を頼ったことがある。
 どういうわけか『礎さん』には資産があり、快く晴江の父に大金をほとんど無条件で融資してくれた。晴江の父はそれで難を乗り切り、今でも何とか商売をやっていられる。
 と言っても、晴江の家は決して裕福にはならなかったし、礎さんへの金の返済も毎月滞っている。そこで、一時は一家心中まで考えた晴江の父は、返しても返しきれない恩のために、まだ子供だった晴江を彼の許嫁に据えたのだった。
 晴江はそれこそ幼い頃から、「お前は礎さんのお嫁さんになるのだよ」と聞かされて育ってきた。
 単なる婚約者なら別に良かったのだ、と晴江は思う。
 父が『礎さん』に自分を売ったのだ、という認識は子供の頃から持っていた。一家心中しなくて済んだのはまあ有り難いが、礎さんは金で嫁を買ったのだ、と思うとやはり好感など持てるものではなかった。
 それに、人間でないものに嫁いで果たして幸せになれるのだろうか。
 聞いた話では、彼はこの町が戦前に拓かれる前からその祠に住んでいるのだという。
 だとすると相当なおじいさんではないか。たとえ人間であっても嫌な金持ちのヒヒジジイに嫁に出されるなんて、と晴江は身の上を嘆くしかなかった。
 礎さんの妻となるべく育てられた娘は、それでもそうやって生きる以外の方法を知らなかったのである。

 大学を卒業したら。
 それが晴江が独り身でいられる期限だった。
 高校、大学と、周りの友達が気兼ねなく恋愛し、結婚に夢を見ていることが、晴江には羨ましくてならなかった。
 高校生のころ、密かに同じ学年の男子生徒と恋愛関係になったことがある。しかし、それはすぐに露見し、晴江は厳しく叱責された。
 礎さんの嫁になるのだから、他の男などと付き合ってはいけない。晴江の父と礎さんが取り交わした決め事は、町内の人間の誰もが知っていたのだ。
 それ以来、晴江は誰とも恋愛などすることなく、時に恋をしても、その気持ちを無理矢理封じ込めて過ごしてきた。そのたびに、僅かずつ鬱積を心に貯めこみながら。

 晴江は、この春大学を卒業する。

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