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二、秋風ファインダー
晴江の見るもの 第ニ話
しおりを挟む『ストックホルム症候群』――壮馬が例示したのはそれだった。
晴江は嫌がっていた異形の相手と長い時間暮らすことで、あたかも犯罪加害者に対し被害者が陥ることのある精神状態に近いものを感じていて、それを愛情と勘違いしているのではないか……壮馬はそう言いたいのだった。
晴江は、言い返せなかった。
礎さんに対して嫌悪感を持っていたのは事実である。それを壮馬に話しもした。壮馬はその時の記憶からそう言っているのだろう。明確に否定できるほどの材料を晴江は持っていなかった。
「高杉」
壮馬は真摯な眼差しで晴江を見ている。
「今は封建制の時代じゃないんだ。嫌なら嫌と言う権利は保障される。逃げたっていいんだ。もし高杉が『礎さん』を嫌だと思ったら俺――」
「進藤くん!」
晴江の心臓は鼓動を早めていた。壮馬がもしかしたら今でも晴江を憎からず思っているかもしれないことが分かったからではなく、夫と自分の感情をいわば否定されたことに恐怖を感じたからだった。この感情が偽物かもしれない。自分はいつかそれに気づいて夫をまた嫌悪するようになってしまうかもしれない。そしてそれは礎さんの妻になるべくして育てられた自分の人生への否定……。
「ごめんなさい……、夫が待っているから、帰ります」
「高杉……」
立ち尽くす壮馬に背を向け、晴江は帰路についた。
「ただいま帰りました」
声を掛けたが、夫の返事はなかった。昼寝でもしているのかもしれない。動けない礎さんはよく眠る。大抵は晴江が声がけすると起きてパソコンモニタの電源が入るが、そうでない時は割合深い睡眠状態にあるようだ。
そして今、リビングのモニタは電源が落ちている。
夕食を作るまでに時間があると思い、晴江は普段しない場所の掃除をすることにした。
半年間一度も動かしていないスチールラックの荷物をどかし、ラック自体も動かして、掃除機で埃を吸う。大して荷物のない家ではあるが、それでも部屋の隅には綿埃が積もっているものだ。それらをさっぱりと除去して、壁を雑巾掛けする。綺麗好きの晴江には大して苦にもならない作業だ。
さて、と晴江は腰を上げて雑巾をバケツに放り込み、ラックを元の位置に戻そうとする。が、絨毯の皺にラックの足を取られ、ラックは大きく傾いてしまった。
「あ、あー」
ゴン、と音を立てて、スチールラックの柱が壁にぶつかった。小さな余韻が祠の中に響いた気がした。晴江はふとそれに違和感を覚える。
家の構造的に、寝室の北側にあたるこの壁の向こうは岩か土の塊だと思っていた。だが、今それなりに重量のあるスチールラックが当たった感触では、壁の向こうに空洞があるような気がする。
祠を『家』に設えた時に、断熱材やなんかを入れて壁を貼ったために空間ができたのだろうか。だとしたら、ラックを思いっきり倒してしまわなくてよかった。もし少し離れたところから当てていたら、壁に穴が空いてしまったかもしれない。
しかしそういえばこの寝室は北側だけ取ってつけたように人工的な壁になっている。他の場所は岩と土塊が剥き出しだというのに、寝室の雰囲気を作るためだろうか。ダブルサイズのベッドは壁から少し離れている。
考え過ぎか。晴江はラックを戻し、荷物を片付け始めた。
<<何かありましたか?>>
「えっ」
壮馬とのことが知れたのではないか、と晴江はぎくりとした。
<<なにか、撮ったものがあれば見せてほしいです>>
「あ……、ああ、はい。えっと。これを繋いで……、あ、こうね」
パソコンの画面に写真の一覧が映しだされ、小さなサムネイルが並んだ。
「今日は三枚撮りました。新しく出来たパン屋さんの外観と、井上さんちの庭の花と……ごめんなさい、花の名前は分かりません。あと、……あの、猫、です」
<<かわいいですね>>
スピーカーから流れる声は機械音なのに、礎さんが笑ったような気がして晴江は内心安堵した。雑貨店のベンチは洒落ていて、剥げかけたペンキも色も相まって雰囲気がある。そこにハチワレの猫が寝転び、大口を開けていた。
<<彼はお知り合いですか?>>
「え?」
壁から一本出た触手がモニタを示した。猫の写真の端、明らかに立ち止まっている男性の靴が写っていた。
「あ……、高校の時の同級生です。あの、ばったり会って」
<<そうですか。私も晴江さんと街なかでばったり会ってみたい>>
冗談を言った夫に、晴江は思わず吹き出した。小さなことだが、最近はこうやって打ち解けて話すことができている。晴江が初めてこの家に来た時より、礎さんはユーモアを身に着けたようだ。おそらくそれは晴江が持ち込んだ雑誌からであったり、晴江のよく見るウェブサイトからであったりするだろう。
夫に少なからず影響を与えていると思うと、晴江はどこか満たされたような気持ちになった。
<<彼とはどんな話をしましたか>>
その質問に、晴江の喉は少し狭まった。何の話、と言われても、結婚した話くらいしかしていない。
「ええと……、元気か、とか、……あとは、結婚の報告を」
<<結婚の報告……ですか。そういえば、世間では写真付きの年賀状などでその報告をすることがあるといいますが、本当ですか>>
上手いこと話題が逸れて晴江はホッとした。自分がストックホルム症候群に陥っているかもしれないなどと、夫に知られるわけには絶対にいかない。
「あ、そうですね。年賀状でお知らせすることもあります。……写真、撮りますか?」
<<いいえ。カメラのフラッシュの光はかなり強いので、私には少々毒で。当り障りのない動物のつがいの写真などで送ることにしましょう>>
「わかりました。あと二ヶ月もすれば年賀状の季節だから、覚えておくことにします」
晴江は壁の向こうの空洞のことについて礎さんに訊こうかと思ったが、やめておいた。なんとなく、青髭の童話を思い出したのだ。『開けてはならないと言われた扉』ではないが、もし壁の向こうにあるのが礎さんにとってあまり好ましいものでなかったら、それは結果的に晴江の居心地も悪くするだろう。
晴江にとってはありがたいことに、それから何度か街に赴いても壮馬と出会うことはなかった。写真は都度数枚のペースで増えていく。
<<今度写真プリンターを買ってもいいかもしれませんね。気に入ったものはプリントして壁に貼るのもいいし、アルバムにしてもいい>>
「ええ、そうね」
プリンタを買った時のために何枚かピックアップする。その共同作業がなんだかくすぐったくて、晴江は机に乗った触手をそっと撫でた。
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