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三、花は秘めて
セシリア嬢の秘密 第一話
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明け方。地平線が白み始め、しかしまだほとんどが紺色の空の下、霧の濃く出た牧地に雀が鳴きはじめる。バラ園の花たちはそのつぼみにしっとりと露をまとい、大陽のお出ましを待っている。森と牧草地、小さな人工湖。そのどれもが今は沈黙し、息を潜めている。
風のない静かな朝。商人ゴードン・ルーカスの邸は皆眠りについていた。たった一人、末娘のセシリアを除いて。
この日十八歳になったセシリア・ルーカスは、柔らかなベッドの上で冴えた目を窓の外に向けていた。薄く開けたカーテンの隙間から、父親の財産である土地が目に入る。広い牧地の向こうにはどこまでも森が続き、セシリアはどこからどこまでが自分の家のものなのか知らなかった。
(今朝は冷えるわ)
しんと忍び寄る冷気に身体を震わせ、セシリアはシーツを喉元まで引き上げた。秋の朝は顔を洗うのも嫌になってくる。鳥のさえずりを耳に、セシリアは小さくあくびをした。
女中じゃあるまいし、ずいぶん早く目が覚めてしまった。窓の外に黄みがかった白い光が射した。払暁。野鳥が歓びの声を上げる。セシリアは身体を起こした。
(今日、お客様が来るんだったかしら)
豪商の父のところにはひっきりなしに客が訪れる。借り入れの申し込みだったり、チャリティーへの寄進の案内、パーティーの誘い、それからもちろん商談。今日の客がどれに当たるのかセシリアは知らないが、自分も挨拶しろときつく言われたので、借り入れや商談ではないだろう。
セシリアはため息をつく。結婚して出て行った、年の離れた姉の事を思い出した。結婚を認めなければ駆け落ちする、とまで言って承認させた相手のところへ嫁いでからは、一度も会っていなかった。
自分にも、じきに縁談が来る。いや、もう来ている。父ゴードンが渋っているだけだ。唯一の男子であった兄エリオットが戦死して、家を継ぐのは末娘セシリアの配偶者に決まった。この家を継承するにふさわしい、才気ある若者を探しているのだ。
家を出て行かなくていいのはありがたい、とセシリアは思う。住み慣れた邸、気に入りのバラ園を離れるのは考えただけでも惜しい。それに。セシリアには秘密があった。誰にも知られていない、誰にも知られてはいけない秘密が。
朝食室で祈りを捧げ、まだ湯気の立つパンを頬張る。父ゴードンは貴族趣味だ。邸ももともと貴族の館だったものを買い取って使っている。朝食に使うバターも、買わずに離れの酪農室で作らせているくらいだ。おかげで美味しいバターが食べられるので文句はなかったが。
「セシリア」
「はい」
「今日は間違いなく家にいるように。いつものようにふらふらと何処かへ出かけるんじゃないぞ」
「……はい」
ゴードンは満足げに頷いて紅茶を煽った。
その男、ジャスティン・ハウエルズはどちらかと言うと青白い顔の、しかし精悍な雰囲気の侯爵家三男坊だった。もう三十路を回っていると言うが、猛禽を思わせる錆びたところのない鋭い目つきと、痩せ型だが堂々とした風格が人の目を惹く。後ろに流したブルネットの髪には白髪の一本もない。
父が気に入るはずだ、とセシリアは思った。貴族の出であるところも、威厳のある佇まいも、人並み以上に優れた容姿もゴードンにはないものだった。つまり、彼はセシリアの聟(むこ)候補としてここにいるのだ。
「美しいお嬢さんだ。私にはもったいないほどです、ルーカスさん」
「いやあ、死んだ妻に似ましてね。我儘な娘ですが、ハウエルズ卿。もし娘とこの家を継いでくださるのなら願ったり叶ったりですよ、ええ」
灰色の瞳に見つめられても、当のセシリアは愛想笑い以上のものを返さなかった。確かにジャスティンは身分も見てくれも素晴らしく魅力的だったが、彼も父親の財産に惹かれてやってきた俗物なのではないかという疑念が何処かにあった。せめて、社交期に運命的な出会いでもできればよかったのに。
「どうです、バラ園をご覧になりますか。秋バラがそろそろ見頃になりますのでね」
ゴードンの提案にジャスティン・ハウエルズは微笑む。
「ええ、ぜひ」
「それはよかった。セシリア、ご案内して差し上げなさい。失礼をするんじゃないぞ」
「はい、……お父様」
表面的に、セシリアは笑った。
ルーカス家のバラ園はかなりの規模で、貴族の庭に勝るとも劣らないと常々ゴードンが自慢しているものだ。セシリアは傲慢で気分屋の父親のことはさほど好きではなかったが、バラ園は気に入っていた。美しく整えられた庭園は庭師の苦心作だ。季節ごとにバラの咲く様子を楽しめるようにガーデンテーブルが置かれていて、初夏の旬には家族で団欒を楽しんだものだ……昔のことだったが。
「よく手入れされていますね。腕の良い園丁がいるようだ。もちろん貴女も美しいが、花だって負けてはいないな」
「恐れ入りますわ」
上辺を滑るお世辞に内心辟易して、セシリアは社交辞令を返す。決して華美すぎず優雅にまとめ上げた髪はブロンドで、瞳は薄いブルー。抜けるような肌。桜色の口唇からよどみなく流れ出る声は心地よい鈴の音に似ている。セシリアは自身の麗しい見た目を自覚していた。そして、男たちがどう考えているか、も。
(そうよ。わたしを手に入れた暁には、きっとトロフィーのように自慢するのでしょうね)
父が母にそうしたように。人間は何かと、他者と優劣をつけたがる。そのとき最も手っ取り早いのは、努力して何かを成し遂げることではなく、素晴らしいアクセサリーを身につけることだ。配偶者というお飾りを。
「セシリア嬢」
は、と顔を上げると、ジャスティンが薄く笑っていた。
「ごめんなさい、少し考え事を……、」
「それは、私とのことについて考えて頂いている、という解釈でよろしいかな」
ややからかい気味にジャスティンが言う。上手い受け流しを考える前に、彼はもう一度口を開いた。「それとも」
「貴女の『秘密』について?」
セシリアは、一瞬表情を取り繕うのを忘れてジャスティンの双眸を見た。逆光になった男の顔には寒気のするような冷たい笑みが浮かんでいる。
「秘密……とは、なんでしょうか」
ようやく少女は首を傾げて、解らない、という仕草をしてみせる。
「貴女と、内緒の『お友達』のことですよ……セシリア嬢」
今度こそ、セシリアの顔から余裕が消えた。この男は、知っている。『秘密』を、知っているのだ。
風のない静かな朝。商人ゴードン・ルーカスの邸は皆眠りについていた。たった一人、末娘のセシリアを除いて。
この日十八歳になったセシリア・ルーカスは、柔らかなベッドの上で冴えた目を窓の外に向けていた。薄く開けたカーテンの隙間から、父親の財産である土地が目に入る。広い牧地の向こうにはどこまでも森が続き、セシリアはどこからどこまでが自分の家のものなのか知らなかった。
(今朝は冷えるわ)
しんと忍び寄る冷気に身体を震わせ、セシリアはシーツを喉元まで引き上げた。秋の朝は顔を洗うのも嫌になってくる。鳥のさえずりを耳に、セシリアは小さくあくびをした。
女中じゃあるまいし、ずいぶん早く目が覚めてしまった。窓の外に黄みがかった白い光が射した。払暁。野鳥が歓びの声を上げる。セシリアは身体を起こした。
(今日、お客様が来るんだったかしら)
豪商の父のところにはひっきりなしに客が訪れる。借り入れの申し込みだったり、チャリティーへの寄進の案内、パーティーの誘い、それからもちろん商談。今日の客がどれに当たるのかセシリアは知らないが、自分も挨拶しろときつく言われたので、借り入れや商談ではないだろう。
セシリアはため息をつく。結婚して出て行った、年の離れた姉の事を思い出した。結婚を認めなければ駆け落ちする、とまで言って承認させた相手のところへ嫁いでからは、一度も会っていなかった。
自分にも、じきに縁談が来る。いや、もう来ている。父ゴードンが渋っているだけだ。唯一の男子であった兄エリオットが戦死して、家を継ぐのは末娘セシリアの配偶者に決まった。この家を継承するにふさわしい、才気ある若者を探しているのだ。
家を出て行かなくていいのはありがたい、とセシリアは思う。住み慣れた邸、気に入りのバラ園を離れるのは考えただけでも惜しい。それに。セシリアには秘密があった。誰にも知られていない、誰にも知られてはいけない秘密が。
朝食室で祈りを捧げ、まだ湯気の立つパンを頬張る。父ゴードンは貴族趣味だ。邸ももともと貴族の館だったものを買い取って使っている。朝食に使うバターも、買わずに離れの酪農室で作らせているくらいだ。おかげで美味しいバターが食べられるので文句はなかったが。
「セシリア」
「はい」
「今日は間違いなく家にいるように。いつものようにふらふらと何処かへ出かけるんじゃないぞ」
「……はい」
ゴードンは満足げに頷いて紅茶を煽った。
その男、ジャスティン・ハウエルズはどちらかと言うと青白い顔の、しかし精悍な雰囲気の侯爵家三男坊だった。もう三十路を回っていると言うが、猛禽を思わせる錆びたところのない鋭い目つきと、痩せ型だが堂々とした風格が人の目を惹く。後ろに流したブルネットの髪には白髪の一本もない。
父が気に入るはずだ、とセシリアは思った。貴族の出であるところも、威厳のある佇まいも、人並み以上に優れた容姿もゴードンにはないものだった。つまり、彼はセシリアの聟(むこ)候補としてここにいるのだ。
「美しいお嬢さんだ。私にはもったいないほどです、ルーカスさん」
「いやあ、死んだ妻に似ましてね。我儘な娘ですが、ハウエルズ卿。もし娘とこの家を継いでくださるのなら願ったり叶ったりですよ、ええ」
灰色の瞳に見つめられても、当のセシリアは愛想笑い以上のものを返さなかった。確かにジャスティンは身分も見てくれも素晴らしく魅力的だったが、彼も父親の財産に惹かれてやってきた俗物なのではないかという疑念が何処かにあった。せめて、社交期に運命的な出会いでもできればよかったのに。
「どうです、バラ園をご覧になりますか。秋バラがそろそろ見頃になりますのでね」
ゴードンの提案にジャスティン・ハウエルズは微笑む。
「ええ、ぜひ」
「それはよかった。セシリア、ご案内して差し上げなさい。失礼をするんじゃないぞ」
「はい、……お父様」
表面的に、セシリアは笑った。
ルーカス家のバラ園はかなりの規模で、貴族の庭に勝るとも劣らないと常々ゴードンが自慢しているものだ。セシリアは傲慢で気分屋の父親のことはさほど好きではなかったが、バラ園は気に入っていた。美しく整えられた庭園は庭師の苦心作だ。季節ごとにバラの咲く様子を楽しめるようにガーデンテーブルが置かれていて、初夏の旬には家族で団欒を楽しんだものだ……昔のことだったが。
「よく手入れされていますね。腕の良い園丁がいるようだ。もちろん貴女も美しいが、花だって負けてはいないな」
「恐れ入りますわ」
上辺を滑るお世辞に内心辟易して、セシリアは社交辞令を返す。決して華美すぎず優雅にまとめ上げた髪はブロンドで、瞳は薄いブルー。抜けるような肌。桜色の口唇からよどみなく流れ出る声は心地よい鈴の音に似ている。セシリアは自身の麗しい見た目を自覚していた。そして、男たちがどう考えているか、も。
(そうよ。わたしを手に入れた暁には、きっとトロフィーのように自慢するのでしょうね)
父が母にそうしたように。人間は何かと、他者と優劣をつけたがる。そのとき最も手っ取り早いのは、努力して何かを成し遂げることではなく、素晴らしいアクセサリーを身につけることだ。配偶者というお飾りを。
「セシリア嬢」
は、と顔を上げると、ジャスティンが薄く笑っていた。
「ごめんなさい、少し考え事を……、」
「それは、私とのことについて考えて頂いている、という解釈でよろしいかな」
ややからかい気味にジャスティンが言う。上手い受け流しを考える前に、彼はもう一度口を開いた。「それとも」
「貴女の『秘密』について?」
セシリアは、一瞬表情を取り繕うのを忘れてジャスティンの双眸を見た。逆光になった男の顔には寒気のするような冷たい笑みが浮かんでいる。
「秘密……とは、なんでしょうか」
ようやく少女は首を傾げて、解らない、という仕草をしてみせる。
「貴女と、内緒の『お友達』のことですよ……セシリア嬢」
今度こそ、セシリアの顔から余裕が消えた。この男は、知っている。『秘密』を、知っているのだ。
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