されど御曹司は愛を知る

雪華

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◇第5章 愛してはいけない◇

深海①

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「玲旺様は今、後継者としてフォーチュンの地固めをする大切な時期だ。こんな時にスキャンダルは絶対に避けなければならない。お前なら解るだろう」
「ああ……軽率だった。もう間違えない。だけど、会社ですれ違った時に話をするくらいは大目に見てくれないか」
「会社ですれ違った時、か。残念だが玲旺様は今、日本にいない」
「は? どういう事だよ」

 何を言っているんだと、信じられない気持ちで藤井の肩を掴んだ。

「イタリアで開催するショーにフォーチュンも参加する。社長と同行してその視察に行かれた」
「イタリア? 社長が出張なら、第一秘書のお前が何でここにいる」

 肩を掴む手に力がこもる。藤井は痛みに顔を歪めながらその手を払った。

「元秘書である副社長も同行している。俺よりずっと百戦錬磨の凄腕だ。まぁ、社長にとっては妻だし玲旺様にとっては母親だが。きっと今頃玲旺様は、副社長に鍛えられているだろうな。仕事に関してはとても厳しい方だから」
「戻ってくるんだよな?」

 すがるような久我の声には、焦りの色が濃く滲んでいた。藤井は目を閉じて一呼吸置く。

「二週間で戻ってくる。ただ、その後すぐに玲旺様の一番上の姉夫婦が代表を務める、ロンドン支社に転勤することになるだろう」

 久我は言葉にならず、息を吸い込んだまま固まった。玲旺が自分の視界から消えてしまうと知っても、脳が認めようとせずに混乱する。

 二度と会えない訳じゃない。わかっている。
 二週間後に玲旺は戻ってくる。少しの間は社内で見かけることもあるだろう。話だってできるかもしれない。でもその後は? 本格的にロンドンに渡ってしまった後、次はいつ会える?

 そもそも「会いたい」なんて、今更どのツラ下げて言うつもりだろう。自分から恋人にはならないと突き放したくせに。

 ヒヤッとした空気が流れて、いきなり深い海の底にいるような気分になった。さっきまで海面近くを泳いでいて、息継ぎなんていつでも出来ると余裕でいたのに。暗い海底から水面を見上げ、その距離を知ってゾッとした。海上に顔を出すまでに、自分の息が続くわけがないと絶望する。

「要、顔が真っ青だ。お前まさか、玲旺様に本気になっていないよな? 大学時代のトラウマはまだ克服してないんだろう? 玲旺様みたいなタイプはお前にとって一番の鬼門じゃないか。だから俺も油断していたんだぞ」

 久我は胃液が上がってくるのを堪えるように口元を押さえる。藤井にトラウマと言われて、嫌な記憶まで蘇ってきた。

「……トラウマは健在だ。だから桐ケ谷を愛するなんて恐ろしいことは出来ない。今ならまだ間に合う……多分」

 藤井に答えていると言うよりも、自分に言い聞かせているようだった。藤井は久我の肩に手を置いて、気遣うように顔を覗き込む。

「なるほど、もう手遅れみたいだな。かなりの重症だ」

 思いつめたような久我に藤井が嘆息した。久我から離れ、会議室のドアを開ける。

「朝から悪かったな。仕事に戻れるか?」
「問題ない」
「そんな顔色でよく言う。お前も難儀な性格だなぁ。臨海地区に来年オープンする商業施設に出店申請中なんだろう? お前なら大丈夫だと思うが、スペース確保はなかなか熾烈な戦いらしいな。足元をすくわれるなよ」
「ああ。わかってる」

 若者をターゲットとした複合商業施設。臨海地区でアクセスにやや難はあるものの、注目度は高かった。出店したいアパレル業者は多いが、売り場の面積には限りがあるので、必然と店舗の数も限られてくる。

 椅子取りゲームみたいなものだと久我はこめかみを押さえた。フォーチュンならば出店すること自体は難しくないだろう。問題は場所だ。できれば中央エスカレーター前が望ましい。

 オフィスに戻りノートパソコンを開いたものの、何もやる気が起きなかった。机に肘をつき、組んだ手の甲に額を乗せる。自然と溜め息が漏れた。

「久我さん」

 吉田に呼ばれ、顔を上げるのも億劫だったが「なに?」と何とか笑顔で応えた。

「桐ケ谷くんからのメール、共有した方が良さそうなのは久我さんにも送っておきました。あ、桜華大は桐ケ谷くんが戻ったら改めて挨拶に行くそうです」
「うん。了解」
「あと、コレどうぞ」

 吉田からペットボトルの水を差し出されて驚いた。受け取りながら、周囲に気を使わせるほど露骨に落ち込み過ぎたと反省する。

「具合悪いんですか?」
「いや、大丈夫。……ありがとう」

 なるほど秘書に欲しいと言われるわけだと、納得しながら水を口に含んだ。冷たい塊が喉を通って胃に落ちる。少しだけスッとして、気持ちを仕事に切り替えようとメール確認に没頭し始めた矢先だった。

「桐ケ谷くん」

 玲旺を呼ぶ声がして、久我は勢いよく顔を上げた。呼んだ張本人の男性社員が、頭を掻いて「ああ、そうか」と吉田の席に近づく。

「桐ケ谷くん異動したんだっけ。面白い味の飴見つけたから渡そうと思ったのに。仕方ない、吉田くんにあげるよ」

 一瞬、玲旺が戻ってきたのかと期待してしまい、自分でも信じられないほど心が掻き乱された。「玲旺はいない」と解っていながら、気付くと姿を探してしまう。玲旺の声が聞こえないだけで、なんとも心細い。

「今頃何してるんだろう」

 思わずポツリと呟いた。この先、「元気かな」とか「今、向こうは朝かな」とか、そんな風に想いを馳せる存在になってしまうのが酷く寂しかった。いずれ思い出す頻度も減り、いない事に慣れてしまうのだろうか。

 ところが何日経っても玲旺のいない環境に慣れるどころか、むしろ日を追うごとに禁断症状は悪化していった。商業施設の担当者から「来週末にテナントの場所が決まる」と言う電話を受けながらもどこか上の空で、つい玲旺の事を考えてしまう。

「来週末ですね、わかりました。エスカレーター前のあの好立地、うちが取れそうですかね?」
『いやあ……。正式発表前に洩らせませんよぉ』

 何となくおかしな間があったのだが、違和感を気のせいで片付けてしまった。

「そうですね。じゃあ、来週楽しみにしてます」

 念を押すように軽めのプレッシャーをかけると、担当者は「ははっ」と笑って電話を切った。恐らくいつもの久我なら、気のせい程度でもすぐに直接担当者に会いに行ったに違いない。
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