獣神転生ゼノキスァ

石動天明

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転章 極刑

第四節 parallel world

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 頭がぼうっとする。まるで思考にもやが掛かったかのようだった。うだるように全身が痛む。身体のあちこちで火が燃えているようだった。何処も動かしたくない。動きたくない。出来る事ならばそのまま眠りを貪てしまいたかった。しかし俺にそれを許さないと、何かが俺を呼ぶ。甲高い音……コンドルの鳴き声。空気を裂く金属質なそれは俺の頭の芯をかっと燃え上がらせた。頭の中に詰め込まれた液体が蒸発したように、思考を覆う霧の濃度が高くなる。全身を苛んでいた熱も感じられなくなり、俺はその場で騒ぎ出したいような衝動に駆られていた。しかし衝動が高まるに連れて俺の理性は掻き消えて、ただ本能に任せて暴れるケダモノのようになってしまっていたのかもしれない。俺は、俺の匂いを嗅いで何処かへと移動した。まるで獣が、自分の匂いを染み込ませた縄張りに戻るようにして、俺は俺の血と肉の匂いがする方向へ向かって行った。何を見ているのか何を聞いているのか分からないが、何かを嗅いで俺はふらふらと歩み寄り、疲労困憊の身体を横たえた。俺が身を投げ出した寝床はとても柔らかく良い匂いがした。ご馳走の匂いだ。いや、と言うよりも俺がこの世に生まれ出る前の匂いだった。暖かくて優しく心地良い感触に俺は包まれた。それと同時に腹がぐぅぐぅとなって下腹部が硬質化した。腹が減ったのではない、その欲望を引き摺り出す場所の近くにあるもう一つの器官が騒ぎ始めたのだった。俺はコンドルの鳴き声を聞きながら自分が蛇になってゆくのを感じた。俺の脳みそを突き破って蛇が出現し、背骨に絡み付いて血を流す。どくどくと俺の腹の中に蛇の毒が溜まり、弾けそうになっていた。俺は暖かくて優しく柔らかいものにむしゃぶりついて本能を満たそうとした。ケツァールのように五色の羽を太陽に煌かせて飛んでいるような気分だった。コアトルのように大地に根を張って身体を折り曲げてゆく。筋肉を伸ばして縮める運動は身体に適度な痛みと快感を与えてくれた。俺の腹の底から脳天まで毒が回っている。俺は叫びと共に毒を迸らせた。脳天から輝きが迸る。眼の前で無数の光が火花を散らした。自分の中から何かが溢れる。こぼれる。流れ出す。背中を突き破って何かが飛び出す。鳥が卵を割るように、蛇が自らの皮を脱ぐように、俺は俺ではない何ものかへと変じながら堪らぬ快楽の中で法悦へと至った。





 ――俺が我に返った時、眼の前には、荒縄を巻き付けられたが如き痕を付けられたマキアの乳房が曝け出されていた。

 そしてその乳房に痕を付けたのは、この俺の、異形と化した手であった。石包丁のような鋭い爪が、柔い果実に突き立って血を流させていた。

 俺の知るマキアとは違う浅黒い肌には血と涙が伝っている。黄色い濁りから解放された黒い瞳は虚ろで何処に焦点が合っているのか分からなかった。

 俺は下腹部に熱を感じて、ぱっと腰を引いた。ぬるりと、何かが俺の中から抜け落ちるような感覚があった。正確には俺の方が、マキアから抜け落ちたのであったが。

 俺は両手足を左右に広げてぐったりとしたマキアの姿を見て状況を察し、心臓が鼓動を速めてゆくのを感じた。全身に血が巡り、その熱さと裏腹に俺の頭の芯は氷のように凍て付き始めていた。


 はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ……


 空気の塊が牙の間を通り抜ける。俺は再び獣戦士の姿となっていた。

 マキア……その名を呼んだ心算が言葉にならない。俺は、既にケダモノになってしまっていた。だから精霊が俺から人間の言葉を奪ったのだった。

 マキア……マキア……マキア!

 俺は脱力した妹に歩み寄ろうと思ったが、眼の前に棒を突き立てられ動きを制された。見ればそれはオウマの持つヴォルギーンであった。オウマは眼球を血走らせ、唇を強く噛んで、鬼のような表情で何かを堪えているようだった。

「許せ……」

 オウマは血を吐くように言った。

「許せ、トゥケィ……許せ……!」

 何に対して許しを請っているのか? 俺には分からなかった。オウマはその場で跪いた。
 彼に声を掛けようとした俺の頸に、蒼い手が掛けられた。“穿孔の盾と矛”を装着したメルバだ。メルバは俺を神殿の頂上で天に掲げた。

「この男は――言の葉により砦の者たちを騙し、戦によって無数の屍を築き、敗残兵から自由を奪う奴隷とする事を目論み、あまつさえ、酒に溺れて妹を姦淫おかした大罪人である! その罪によって彼の獣戦士の処刑を執り行う。皮を剥ぎ、肉を削ぎ、骨を砕き、心臓を抉り出す!」

 それら全てが、メルバの都合の良い解釈である事は確かであった。特にマキアとの姦通は、彼女の手によるものである。それは誰もが分かっている事だ。

 しかし、これから彼女の下で築き上げられる新王国の礎として、彼の処刑は必要であった。一つの見せしめとして、大罪人の未来を示して置く事は重要である。そして一騎当千の戦力を有する獣戦士トゥケィを絶命させて、旧ヴァーマ・ドゥエルの人々に完全なる屈服を促す効果もあった。

 六神衆の組み上げた木の十字架に拘束されたトゥケィの前で、メルバが呪文を唱え始めた。月夜、神殿頂上から響く詠唱がヴァーマ・ドゥエルの祭祀にのみ伝承されるものである事が、同じく巫女であるカーラには分かった。

 ヴァーマ・ドゥエルの神々を讃える歌だ。

 豊穣を齎した白き神。
 猛々しくも知略に長けた黒き神。
 生贄を求める蒼き神。
 死と再生を司る赤き神。

 彼らの協力によって世界は創り上げられた。その為、何の儀式に於いても先ずは彼らの名前と功績が唱えられる。
 そして大罪人の処刑に際して、身体に宿った罪を肉と共に剥離するべく赤き神を呼び、その心臓を抉り出すべく蒼き神が呼び出された。

 今回、赤き神の役割を果たすのは、その名を持つ鎧を纏ったハーラである。
 メルバから双剣を受け取ったハーラは、十字架に掛けられたトゥケィの前に立ち、双剣を振り上げ――

「――何だと?」

 メルバが唖然とした声を上げた。
 一対の剣は、蒼い鎧に向けて振り下ろされ、メルバの身体から鎧が剥がれ落ちた。

「ハーラ!」

 自身の名を呼ぶ姉の胸に、弟の赤い拳が突き立っていた。腕を引くと、メルバの胸からは大量の血液と共に心臓が引き抜かれていた。

「な……何をしている!?」
「どういう心算だ!?」

 六神衆の間に緊張が走った。
 ハーラは双剣を用いてトゥケィの拘束を解き、十字架から解放した。力なく落下したトゥケィを掴み上げると、ハーラは囁いた。

「転生者よ、俺を導け。お前には見えている筈だ、こことは違う場所が……」
「違う……場所……」





 違う場所……

 ハーラに言われて思い出したのは、この男が俺を死に追いやった時、夢のようにして見た異世界の事だ。
 自然との共存ではなく、高度な技術の発展を旨とする世界で、俺は自らの弱さに敗れ、命を断った。

 そして再びこの世界に舞い戻って、戦う事を決意したのだ。

「何処だ? 俺をその世界へ……俺の魂と肉体の欠片の在り処へ、導け、転生者よ!」

 この男が何を言っているのか、俺には分からない。
 分からないが、俺は、もう自分が生きている資格はないという事が分かっていた。

 俺は、メルバの策略にまんまと乗り、最も愛する者を、妹のマキアを犯した。
 妹の命と身体を弄んだ……。

 俺は蘇るべきではなかったのだ。
 俺は還るべきなのだ、あの暗闇の中で。
 そしてもう二度と永遠に、この世界へ戻って来る事は許されないのだ。

 俺は疲労を塗り込まれた細胞を駆使して、自分の命を終えるべく歩き出した。
 赤々と輝く月に向かい、神殿を転がり落ちるようにして地上を目指す。

 混乱する人々の間を縫って、砦の西側――グェルヴァにやって来た。
 俺はここで、死肉を喰らって蘇った。
 俺はもう一度、罪を背負って、今度こそ彼らの仲間に入らなければならなかった。

「ここか……」

 俺の後を付いて来たらしいハーラは、赤い鎧を纏っていたが、同時に蒼い鎧を担いでもいた。
 そして俺を押し退けると、蒼い鎧を抱き締めて、融合させてしまう。

 ヒヒイロカネとアポイタカラが融合し、一つになった。それは、形状こそ変わらないが、それまでとは異なる紫色の鎧であった。いや、二つの鎧が融合した事で増した体積が、その背中からまるで生き物のように、新しい部分を創造し始めた。巨大な一対の鉄の翼が、ハーラの背に生えていた。

 高貴なる輝きを秘めた鎧を纏ったハーラは、俺に対して打ち込んだあの赤黒い光球と、メルバが用いた蒼い光の球をそれぞれ両手に作り出し、胸の前で合わせる事で巨大な光の珠を作り出した。

 それはまるで太陽のように眩く、月のように冴えた光を湛えた。

 ハーラがその光をグェルヴァに向けて放射すると、まだ腐敗し切っていなかった死肉が念動力によって空中に浮上し、一つの塊となって赤い月を覆い隠した。

 砦の誰もがその光景を見ていただろう。月を覆い隠す黒い塊……そのふちから漏れる赤い光の環。

 その時、地面が大きく揺れた。
 俺はその場に倒れて、グェルヴァを覗き込む形になった。ハーラが死体を除けた為に剥き出しになったグェルヴァの底には、赤くふちどられた黒い太陽が映り込んでいた。

 そして天空と水面の二つの月蝕が重なった時、地面の揺れによって俺の身体が浮かび上がった。
 いや、俺ばかりではない。揺さ振られた木々が地面から引き抜かれ、上空に引き寄せられてゆくではないか。

「何だ!? 何だ……これは……!?」

 全てが、空中に浮かび上がろうとしている。人も、獣も、建物も、植物も――
 念動力によって死体の塊を維持するハーラだけが、その場に留まっていた。

「トゥケィ――!」

 覚えのある声がした。
 カーラだった。

 カーラはあの人波から抜け出して俺たちを追って来たようだった。そして彼女も亦、黒い太陽に吸い上げられようとしている。

「カーラ……」
「トゥケィ、戻って来て! 私たちの所へ! 約束したじゃない、トゥケイ‼」

 カーラが叫ぶように言った。

 俺にその資格はない。
 無論、戻れるものならば、戻りたい。

 だがそれは、出来なかった。

「カーラ……カーラ・ウシュ!」

 俺は決別の意を込めて、彼女に言った。
 カーラ・ウシュ……一の葦よ、と。
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