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第二章 闇の闘士
第十四節 次
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二日後、治郎はマリーと会っていた。
夜、上野の不忍池で待ち合わせをして、アメ横の回転寿司に入った。
金は治郎が払った。“暗黒プロレス”で治郎が得たお小遣いの内の幾らかを、池田享憲から渡されていたのである。銀座の高級寿司で大の男を一〇人近く引き連れて訪れても余るくらいの金額であったが、治郎には使い道がないのでマリーの誘いはありがたかった。
その後、アメ横でアクセサリーだの服だのをマリーが欲しがるままに買ってやった。それでもまだ余るので、全てマリーに押し付けた。
「今日もしたいんだ?」
前に会った時と違い、ブロンドの髪を下ろしているマリーは小悪魔のように笑った。白いTシャツにタイトな七分丈のパンツという動き易い格好で、印象ががらりと違う。
あの夜、治郎はマリーを抱いた。と言っても真っ当なマスターベーションの経験さえない治郎であるから、全てマリーに言われるがままに抱かされたという感じであった。
食事をして旨いと感じる事があるように、女を抱くのは悪い気持ちではなかったが、あんな風にいちいち指示を出されながらやりたくもない動きをさせられるのは、面倒である。
「ジローってばマリーの事、好き過ぎよ。こんなに貢いでくれちゃうんだモン」
夜の上野公園を、二人で歩いた。閉園時間が迫っているので、人の姿が他になくなっている。しかし他に行く当てのない人間が、物陰やベンチの上に転がっている姿もちらほら見られた。
「そろそろ行こっか」
京成上野駅から入って、さくら通りを歩き、文化会館と西洋美術館に挟まれた道を出口に向かって歩いていた二人だが、
「篠崎──」
と、背後から呼び止められた。
五、六メートルの距離を置いて、一人の男が立っている。
「誰? 知り合い?」
「俺だ。山瀬だよ……」
顔がぱんぱんに腫れ上がっていたから分からなかったが、ヲロチの山瀬であった。
自分を敗北させた相手に対し、治郎は異常とも言える敵意を抱く。けれども不思議な事に、山瀬に対してはそうした情念が沸いて来なかった。ゼロではないが、間合いに入った途端にぶちのめしてやろうとまでは感じていない。
ただ、警戒はしている。例え学校のクラスメイトが声を掛けて来ても、治郎は警戒心を緩めない。学友など一人としていないが、山瀬は友人でないばかりか敵対しただけの男である。
山瀬は治郎の警戒を感じ取って、距離を詰めはしたものの蹴りがぎりぎり届かない場所で立ち止まった。その地点からも、全身に塗った膏薬の匂いが漂って来る。
半袖シャツから覗く太い腕は、青痣でいっぱいだ。胴体も、絹のズボンの下もそうだろう。
「この間の事、謝りたいんだ……」
「あや、まる……?」
山瀬との接点は、“暗黒プロレス”しかない。だが何を謝るというのか。
「俺は卑怯な事をした。着ていたものを武器に使って、あんたに勝った」
それは──
確かに卑怯である。
武器を持ち込まずに素手でやり合うのが、“暗黒プロレス”の最低限のルールだ。眼を狙ってもキンタマを潰しても噛み付いても良いが、武器の携帯は禁止だ。
ただ、着衣を本来の用途ではなく武器にして使う事は、可能である。そもそも柔術では相手の袖や襟を掴む、逆に自分の道衣を掴ませるなど、道具として使用する場合もある。ボクシングのグローブだって、重さを利用したパンチなどは外付けの武器と同じだ。
卑怯ではあるが、厳格に禁じられていないのであれば、反則ではない。謝る事ではない。
「ふざ、け、る、な……」
治郎は、それまで燻るばかりであった怒りの炎が、一気に燃え立つのを感じた。自分を倒した上に謝る男に、とてつもない殺意が沸いたのだ。
「あんたを侮っていた」
だが山瀬が謝罪したのは、治郎に対して卑怯な技を使った事ではないようだ。
「俺は卑怯な事をした。それを悪いと思っている。あんたに、卑怯な事をしなくても勝てると思っていたからだ。だけど違う。俺は卑怯な事をしなければ、あんたに勝てなかった。俺が謝りたいのは、あんたを舐めていた事に対してだ。すまなかった……」
すぅ、と。
治郎の胸に灯った黒い炎が、火勢を弱めた。
どうして怒りが薄まったのか、治郎には不思議であった。ただ、自分らしからぬ安らぎが、脳の片隅から広がってゆくようだ。
「今度やる時は……まぁ、そんな機会があるかは分からんけど。若しそうなったら、篠崎、次はあんたを舐めないよ。卑怯な事をやっても恥じたりはしない。初めから全力で戦いたいな」
山瀬は、膨れ上がった頬を持ち上げ、晴れた瞼に圧迫される眼を細めて、恐らく笑った。開いた唇から覗いた口腔には歯が少なくなっている。
「つ……ぎ」
あるのか。
自分とこの男が、もう一度戦う事が。
また池田組と矢堂会が“暗黒プロレス”を行なうなら、そういう事もあるのだろうか。
「次なんてないよ──」
山瀬が、後方から聞こえた声に振り向いた。
次の瞬間、背中を反らして崩れ落ちた。膝がコンクリートの地面に落下し、上半身を背中側に倒して、顎から髪の生え際まで、正中線上にぱっくりと開いた傷口を治郎に見せ付けている。
「ダサいよな、こーゆーの。青春ドラマの登場人物の心算なのかな?」
如月宗だった。
如月宗は山瀬の胸に右足を振り下ろす。びくんと、山瀬の身体が震えて動かなくなった。
「篠崎……治郎。ふふふ……篠崎……篠崎、治郎、か」
気に喰わない男に名前を連呼され、治郎の中で再び黒い情念が渦を巻き始める。
「治郎くん」
如月宗は急に、やたらと親しそうに名前を呼ぶと、にっと唇を吊り上げて言った。
「君の姉は、僕の女なんだぜ──」
治郎は足を止めた。
一晩掛けて、埠頭から水門市内に戻って来たのである。
下水を吸った着衣に、歩いている間に掻いた汗が染み込んでいる。青蓮院純に潰された睾丸の傷口も、折角塞がり掛けていたのに開いて、血と精液とが股間を濡らしていた。
「治郎くん……」
名前を呼ばれて顔を上げると、数日前に再会した女が、朝焼けを背に浴びて立っていた。
里中いずみだ。
どうやら自分は、市内に入ってから知らぬ間に、愛着もないいずみのアパートに向かっていたようである。
夜、上野の不忍池で待ち合わせをして、アメ横の回転寿司に入った。
金は治郎が払った。“暗黒プロレス”で治郎が得たお小遣いの内の幾らかを、池田享憲から渡されていたのである。銀座の高級寿司で大の男を一〇人近く引き連れて訪れても余るくらいの金額であったが、治郎には使い道がないのでマリーの誘いはありがたかった。
その後、アメ横でアクセサリーだの服だのをマリーが欲しがるままに買ってやった。それでもまだ余るので、全てマリーに押し付けた。
「今日もしたいんだ?」
前に会った時と違い、ブロンドの髪を下ろしているマリーは小悪魔のように笑った。白いTシャツにタイトな七分丈のパンツという動き易い格好で、印象ががらりと違う。
あの夜、治郎はマリーを抱いた。と言っても真っ当なマスターベーションの経験さえない治郎であるから、全てマリーに言われるがままに抱かされたという感じであった。
食事をして旨いと感じる事があるように、女を抱くのは悪い気持ちではなかったが、あんな風にいちいち指示を出されながらやりたくもない動きをさせられるのは、面倒である。
「ジローってばマリーの事、好き過ぎよ。こんなに貢いでくれちゃうんだモン」
夜の上野公園を、二人で歩いた。閉園時間が迫っているので、人の姿が他になくなっている。しかし他に行く当てのない人間が、物陰やベンチの上に転がっている姿もちらほら見られた。
「そろそろ行こっか」
京成上野駅から入って、さくら通りを歩き、文化会館と西洋美術館に挟まれた道を出口に向かって歩いていた二人だが、
「篠崎──」
と、背後から呼び止められた。
五、六メートルの距離を置いて、一人の男が立っている。
「誰? 知り合い?」
「俺だ。山瀬だよ……」
顔がぱんぱんに腫れ上がっていたから分からなかったが、ヲロチの山瀬であった。
自分を敗北させた相手に対し、治郎は異常とも言える敵意を抱く。けれども不思議な事に、山瀬に対してはそうした情念が沸いて来なかった。ゼロではないが、間合いに入った途端にぶちのめしてやろうとまでは感じていない。
ただ、警戒はしている。例え学校のクラスメイトが声を掛けて来ても、治郎は警戒心を緩めない。学友など一人としていないが、山瀬は友人でないばかりか敵対しただけの男である。
山瀬は治郎の警戒を感じ取って、距離を詰めはしたものの蹴りがぎりぎり届かない場所で立ち止まった。その地点からも、全身に塗った膏薬の匂いが漂って来る。
半袖シャツから覗く太い腕は、青痣でいっぱいだ。胴体も、絹のズボンの下もそうだろう。
「この間の事、謝りたいんだ……」
「あや、まる……?」
山瀬との接点は、“暗黒プロレス”しかない。だが何を謝るというのか。
「俺は卑怯な事をした。着ていたものを武器に使って、あんたに勝った」
それは──
確かに卑怯である。
武器を持ち込まずに素手でやり合うのが、“暗黒プロレス”の最低限のルールだ。眼を狙ってもキンタマを潰しても噛み付いても良いが、武器の携帯は禁止だ。
ただ、着衣を本来の用途ではなく武器にして使う事は、可能である。そもそも柔術では相手の袖や襟を掴む、逆に自分の道衣を掴ませるなど、道具として使用する場合もある。ボクシングのグローブだって、重さを利用したパンチなどは外付けの武器と同じだ。
卑怯ではあるが、厳格に禁じられていないのであれば、反則ではない。謝る事ではない。
「ふざ、け、る、な……」
治郎は、それまで燻るばかりであった怒りの炎が、一気に燃え立つのを感じた。自分を倒した上に謝る男に、とてつもない殺意が沸いたのだ。
「あんたを侮っていた」
だが山瀬が謝罪したのは、治郎に対して卑怯な技を使った事ではないようだ。
「俺は卑怯な事をした。それを悪いと思っている。あんたに、卑怯な事をしなくても勝てると思っていたからだ。だけど違う。俺は卑怯な事をしなければ、あんたに勝てなかった。俺が謝りたいのは、あんたを舐めていた事に対してだ。すまなかった……」
すぅ、と。
治郎の胸に灯った黒い炎が、火勢を弱めた。
どうして怒りが薄まったのか、治郎には不思議であった。ただ、自分らしからぬ安らぎが、脳の片隅から広がってゆくようだ。
「今度やる時は……まぁ、そんな機会があるかは分からんけど。若しそうなったら、篠崎、次はあんたを舐めないよ。卑怯な事をやっても恥じたりはしない。初めから全力で戦いたいな」
山瀬は、膨れ上がった頬を持ち上げ、晴れた瞼に圧迫される眼を細めて、恐らく笑った。開いた唇から覗いた口腔には歯が少なくなっている。
「つ……ぎ」
あるのか。
自分とこの男が、もう一度戦う事が。
また池田組と矢堂会が“暗黒プロレス”を行なうなら、そういう事もあるのだろうか。
「次なんてないよ──」
山瀬が、後方から聞こえた声に振り向いた。
次の瞬間、背中を反らして崩れ落ちた。膝がコンクリートの地面に落下し、上半身を背中側に倒して、顎から髪の生え際まで、正中線上にぱっくりと開いた傷口を治郎に見せ付けている。
「ダサいよな、こーゆーの。青春ドラマの登場人物の心算なのかな?」
如月宗だった。
如月宗は山瀬の胸に右足を振り下ろす。びくんと、山瀬の身体が震えて動かなくなった。
「篠崎……治郎。ふふふ……篠崎……篠崎、治郎、か」
気に喰わない男に名前を連呼され、治郎の中で再び黒い情念が渦を巻き始める。
「治郎くん」
如月宗は急に、やたらと親しそうに名前を呼ぶと、にっと唇を吊り上げて言った。
「君の姉は、僕の女なんだぜ──」
治郎は足を止めた。
一晩掛けて、埠頭から水門市内に戻って来たのである。
下水を吸った着衣に、歩いている間に掻いた汗が染み込んでいる。青蓮院純に潰された睾丸の傷口も、折角塞がり掛けていたのに開いて、血と精液とが股間を濡らしていた。
「治郎くん……」
名前を呼ばれて顔を上げると、数日前に再会した女が、朝焼けを背に浴びて立っていた。
里中いずみだ。
どうやら自分は、市内に入ってから知らぬ間に、愛着もないいずみのアパートに向かっていたようである。
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