いつかまた、バス停で。

第１６話「帽子」①

    志保を送り出し、その日の診療を済ませたあと、一人あの子のいた病室へやってきた。今日もあわただしく一日が過ぎ去り、気が付けば午後五時を過ぎていた。
    窓から見える遠く海の水平線に、同じく今日の仕事を終えた太陽が見えた。藍に暮れゆく町並みを、志保もここから眺めていたのだろうか。
「お疲れさん」海へ浸かるお天道さんにそう言って、お互いの労をねぎらう。

    ベッドへ近付いて、そっと手のひらを押しあてる。今朝まであの子が使っていたベッドからは、その温もりはとうに拭い去られていた。
    寂しくはないと、自分自身を誤魔化すことはできても、心配などいらないと嘘をつき通すことは最後までできなかった。なまじ自分が医者であるだけに、志保に降りかかる試練が、そう甘いものではないことがわかってしまう。
    いっそみんなのように、希望だけに身を浸せたならと思わずにはいられなかった。

    ふと、ベッドサイドのワゴンが目に入る。そこには、志保が私に返し忘れたあの帽子があった。ボロボロにくたびれて、ところどころほつれた釣り用の帽子。手にとって、あの子がまだ幼かった頃に想いを馳せる。


    病気のことをとやかく言うようになるまでは、志保はおじいちゃん子だったと思っている。一人歩きできるようになってからは、私があちこち移動するたびに、《プープー》と妙な音を出すサンダルを履いて追いかけてきたものだった。
    すぐ足に抱きつこうとするので仕方なしに抱き上げると、決まってギュッと抱きついては笑うのだ。
    その頃から心臓への不安は垣間見えていたが、頭の隅に追いやって『どうかこの子は』と祈ったりもした。その願いが届いたのか、対して大きな発作も無く、あの子は元気で明るく育ってくれた。同年代の子どもたちに比べれば少し小さなその体に、皆の愛が、願いが、優しさが詰まっていた。

「じいちゃ！かっこいいね！」
    そう言ってくれた日のことを、あの子は憶えているだろうか。