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「あ……ん、んぅっ」
ピチャピチャと深夜のオフィスに水音が響く。
二十七連勤目の夜。デスマーチを乗り越えて、今井理乃の心身は限界に達していた。
広告代理店のアカウントプランニング部に勤める理乃の仕事は、顧客の要望を汲み取り、社内の企画部と調整しながらキャンペーンを形にしていくことだ。企画書を作り、提案し、時には無理難題にも対応する。
今回担当している大手化粧品メーカーの新商品キャンペーンは、本来なら二週間前に企画が固まっているはずだった。だが、クライアントの役員会議で急遽コンセプト変更が決まり、理乃は一からやり直しを迫られた。
納期は動かせない、印刷所のスケジュールも、ウェブ広告の配信開始日も、すでに確定している。
だから、理乃が削れるのは自分の睡眠時間だけだった。
体も心も、疲れ切っていて……。何か気を紛らわせないとやっていられないくらいの状況だった。
そんな時、深夜遅くまでオフィスに居残っている理乃のもとに、彼氏からメッセージが飛んできた。
『なんでまた会えないんだよ。もう一ヶ月だぞ。男みたいに働いて、女らしさのかけらもない。お前みたいな女にはもううんざりだわ。別れよ』
女らしくない。女じゃない。男みたい。
仕事に邁進するたびに、言われてきた言葉だ。
ただ頑張って働いているだけなのに、なぜそんな言葉をかけられなければいけないのか。
今回の二十七連勤だって、コンセプト変更になったのは理乃のせいじゃない。
爆発的な怒りに仕事が手につかず、それでもやらなければいけないことは残っていて——。
宙を泳いだ手が向かったのは自分の下半身。
疲れ切った体が、女としての快楽を欲していた。
椅子に浅くもたれかかり、スカートをたくしあげ、下着を膝まで下ろす。
すぅすぅとした空気が秘部に当たって、それがいけないことをしている背徳感を煽った。
指を陰核に這わせると、そこはすでに固くしこっていた。
「はうっ……」
ぐにぐにと押しつぶし、時にはつまみ、擦る。
気づけば秘部からは溢れ出した蜜がお尻まで伝っていた。
「あ……あんっ……だめっ」
自分で自分を追い詰める倒錯。
もうすぐ絶頂に達するという、その時——。
ガチャ。
開くはずのないオフィスのドアが、開いた。
時刻は深夜一時半。
もうすでに、他の社員はみんな帰った後である。
「今、井……?」
そこにいたのは、上司の原達明。驚きに目を見開き、ドアを開けたままの姿勢で固まっている。
「は、原さん……」
理乃はゆっくりと下半身から手を離した。
だが、言い訳はできない。スカートはだらしなくたくし上げられ、ショーツは足に引っかかっているのだ。
ぬらぬらと濡れた性器が、蛍光灯の冷たい光に晒されて光っていた。
「あ、あの……これは……そのっ……」
言葉にならない声を理乃は発する。
説明なんて、しようがない。だって、オフィスでこんなはしたないことをしていたのは、紛れもない事実なのだ。
それを見られて、どうやって弁明したらいいというのだろう。
「あー……。とりあえず、服を着ろ、今井」
達明はそう言うと、背を向けた。
慌ててショーツをずり上げ、スカートを整える。机の上にあったティッシュで乱雑に濡れた指を拭った。
「俺は何も見ていない。何もなかった。いいな?」
達明は背を向けたまま、そう言った。
紳士的な態度だ。堅物上司と名高く、女性社員にも礼儀正しい達明に、理乃は以前から好感を抱いていた。
顔立ちも良く、スーツを着こなしている姿は俳優みたいだが、堅物すぎて女子社員がなかなか近寄れないと評判だった。
でも、まさかこれほど堅物だとは。
はしたない行為を理由に脅されて、オフィスで乱されると言う妄想を一瞬してしまった。そんな自分を恥じる。
達明は理乃が服を整えると、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その頬はかすかに赤く染まっている。
「あ、あの、それで、原さんはなんでこんな時間に?」
「明日の朝イチで旭食品とのミーティングがあるだろう。その資料に不備があったことを思い出してな」
「ああ……」
あの厄介なクライアントだ。細かい点をネチネチ詰めることで有名なのである。
朝イチでの資料に不備があるとするなら、この時間に社に来るのも納得であった。
「じゃ、じゃあ。私は仕事に戻りますので」
「ああ、お前もあまり無理するなよ」
気まずい空気が流れる中、理乃はキーボードを叩き始めた。
次第に集中力を取り戻し、クライアントに急遽変更を指示された内容をこなしていく。
一時間ほど経過した頃——。
「今井、お疲れ」
達明がコーヒーを買ってきてくれた。
「原さん……! ありがとうございます。すみません」
「いや、いつもお前には頼ってしまってるからな。……よく頑張ってるよ、ほんとに」
自分の苦労を、わかってくれている。
そう思うと、じんわりと喜びが込み上げてきた。
(あ……、私、原さんのこと、好きかもしれない)
それは、先ほどの紳士的な態度とも相まって、自然と芽生えた感情だった。
だが——。
(あんなにはしたない姿を見られて、絶対に淫乱の変態女だって思われた……)
淡い思いが芽生えると同時に、理乃は深い失望に襲われた。
こんなの、叶いっこない、と思う。
あんなことしなければ、可能性はあったかもしれないのに。
でも、あんなことをしなければ、思いも芽生えなかった。
そう思うと、複雑な気分だった。
達明に渡されたコーヒーの温かさを、手のひらで感じる。冷たいオフィスの中で、そこだけがぬくもりを持っているように感じられた。
その日から、理乃は自然と達明のことを目で追うようになった。
翌日以降も達明の理乃に対する態度は変わらなかったが、やはりあの夜のことを気にしているのだろうか。やけに目が合う頻度が高い。
理乃が達明のことを見ているのと同時に、達明もまた、理乃のことを目で追っているのだ。
(少し、ドキドキしちゃうな……)
もしかしたら、職場で自慰行為に及ぶ不逞の輩だと思って目で追っているだけかもしれないけれど。
それでも、オフィスで達明と目が合うたび、理乃はドキドキと胸を高鳴らせてしまうのだった。
だけど、理乃が抱えていた大型の案件が終わった日の打ち上げで、状況は一変した。
「いやぁ、今回は特に大変でしたねぇ。今井さん、ずいぶん頑張ってたけど」
「今井ちゃんは要領悪いからねぇ。大変でしょー、大型案件任されちゃったら」
理乃をライバル視している同僚の望月が、わかりやすく嫌味を言う。その妙にねっとりとした言い回しに、理乃はイラついた。
「望月さんは小型の案件で他の方の補助をたくさんこなされていてすごいですよね」
大きな案件は任されないし、小型の案件ですら他人の補助じゃない、と思わず理乃は言い返す。
気が強い質の理乃は、やられっぱなしは性に合わなかった。
「今井は本当によく頑張ってるよ、頼りになるうちのエースだ」
プロジェクトリーダーである達明からそう言われて、嬉しくなる。恋愛的には脈なしだとしても、社員として信頼してもらえているなら、それだけでも報われた気持ちだった。
そうして、飲み会は進んでいく。珍しく、達明はペースが早く飲んでいた。
理乃の隣に座った達明は、時折理乃の足に手先が掠ったりなどして、その度に心臓が早鐘を打つ。
体育会系の多い広告業界、二次会、三次会と終わる頃には、皆したたかに酔っ払っていた。
「今井は俺が送っていく」
解散の運びとなった時、いつにない強引さで達明が理乃の腕を取った。
「は、原さん!?」
タクシーを呼び止めると、半分引きずるように達明が理乃を連れて歩いていく。その様子に、他の面々は呆気に取られていた。
月曜日に社の噂になっていなければいいが、と理乃は気を揉む。
タクシーの中に押し込まれると、達明はその隣にどっかりと座った。
「お客様、どちらまでですか?」
「えっと……新小岩まで」
タクシーに住所を説明すると、運転手は滑らかに車を走らせた。
「あの……原さん、一体どうしたんですか?」
じっと黙っている達明に、おずおずと理乃は問いかける。
「お前のせいだ」
達明はボソリと一言、意味のわからないことを言った。
「え?」
「あの夜以来、お前のせいで俺は冷静ではいられない」
あの夜、と言われて、理乃の頬に血が上る。あの夜とは、理乃がオフィスで一人遊びに耽っていた夜のことだろう。
最近は気にしなくなっていたのに、あの時の羞恥を思い出して、理乃は居た堪れなくなった。
タクシーの運転手も話を聞いているはずだ。どうか具体的な言葉を出さないでくれますように、と祈りながら、理乃は達明を見つめた。
だが、達明はそれ以上の言葉を発さなかった。むっつりと黙り込んだまま、睨むように前を見つめている。
タクシーが交差点に入った。ここを曲がれば、理乃の家の前だ。
「こちらでよろしいですか?」
「あ、は、はい」
滑るようにして、タクシーは理乃のマンション前に停まった。
達明は支払いをしようとする理乃を制して、手早く会計を済ませると、車を降りる。
「あ、あれ? 原さんはタクシー……」
「今井……、わかってるんだろう?」
達明は、主語を省略した。熱っぽい瞳が、理乃をじっと見つめる。その眼差しが、どくどくと理乃の心臓を波うたせた。
「あの……その……」
「部屋は何号室だ?」
「えっと、403です」
達明は理乃の腕を引っ張り、マンションのエントランスに向かう。理乃に自動ドアを開けさせると、足早にエレベーターホールへと向かった。
四階のボタンが、淡く光る。
事この後に及んでも、理乃はまだ覚悟を決められていなかった。
このまま体を重ねたとして、恋人になれるわけじゃないだろう。
オフィスで一人遊びに耽る変態女として、利用されて終わるだけだ。
だけど——。
(それでも……それでもいい)
達明に掴まれた右腕が熱を持つ。
このたくましい腕に抱かれる自分を想像したら、引き返すことなんて、到底できそうになかった。
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お読みいただきありがとうございます。本作、第19回恋愛小説大賞にエントリーしております。
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ピチャピチャと深夜のオフィスに水音が響く。
二十七連勤目の夜。デスマーチを乗り越えて、今井理乃の心身は限界に達していた。
広告代理店のアカウントプランニング部に勤める理乃の仕事は、顧客の要望を汲み取り、社内の企画部と調整しながらキャンペーンを形にしていくことだ。企画書を作り、提案し、時には無理難題にも対応する。
今回担当している大手化粧品メーカーの新商品キャンペーンは、本来なら二週間前に企画が固まっているはずだった。だが、クライアントの役員会議で急遽コンセプト変更が決まり、理乃は一からやり直しを迫られた。
納期は動かせない、印刷所のスケジュールも、ウェブ広告の配信開始日も、すでに確定している。
だから、理乃が削れるのは自分の睡眠時間だけだった。
体も心も、疲れ切っていて……。何か気を紛らわせないとやっていられないくらいの状況だった。
そんな時、深夜遅くまでオフィスに居残っている理乃のもとに、彼氏からメッセージが飛んできた。
『なんでまた会えないんだよ。もう一ヶ月だぞ。男みたいに働いて、女らしさのかけらもない。お前みたいな女にはもううんざりだわ。別れよ』
女らしくない。女じゃない。男みたい。
仕事に邁進するたびに、言われてきた言葉だ。
ただ頑張って働いているだけなのに、なぜそんな言葉をかけられなければいけないのか。
今回の二十七連勤だって、コンセプト変更になったのは理乃のせいじゃない。
爆発的な怒りに仕事が手につかず、それでもやらなければいけないことは残っていて——。
宙を泳いだ手が向かったのは自分の下半身。
疲れ切った体が、女としての快楽を欲していた。
椅子に浅くもたれかかり、スカートをたくしあげ、下着を膝まで下ろす。
すぅすぅとした空気が秘部に当たって、それがいけないことをしている背徳感を煽った。
指を陰核に這わせると、そこはすでに固くしこっていた。
「はうっ……」
ぐにぐにと押しつぶし、時にはつまみ、擦る。
気づけば秘部からは溢れ出した蜜がお尻まで伝っていた。
「あ……あんっ……だめっ」
自分で自分を追い詰める倒錯。
もうすぐ絶頂に達するという、その時——。
ガチャ。
開くはずのないオフィスのドアが、開いた。
時刻は深夜一時半。
もうすでに、他の社員はみんな帰った後である。
「今、井……?」
そこにいたのは、上司の原達明。驚きに目を見開き、ドアを開けたままの姿勢で固まっている。
「は、原さん……」
理乃はゆっくりと下半身から手を離した。
だが、言い訳はできない。スカートはだらしなくたくし上げられ、ショーツは足に引っかかっているのだ。
ぬらぬらと濡れた性器が、蛍光灯の冷たい光に晒されて光っていた。
「あ、あの……これは……そのっ……」
言葉にならない声を理乃は発する。
説明なんて、しようがない。だって、オフィスでこんなはしたないことをしていたのは、紛れもない事実なのだ。
それを見られて、どうやって弁明したらいいというのだろう。
「あー……。とりあえず、服を着ろ、今井」
達明はそう言うと、背を向けた。
慌ててショーツをずり上げ、スカートを整える。机の上にあったティッシュで乱雑に濡れた指を拭った。
「俺は何も見ていない。何もなかった。いいな?」
達明は背を向けたまま、そう言った。
紳士的な態度だ。堅物上司と名高く、女性社員にも礼儀正しい達明に、理乃は以前から好感を抱いていた。
顔立ちも良く、スーツを着こなしている姿は俳優みたいだが、堅物すぎて女子社員がなかなか近寄れないと評判だった。
でも、まさかこれほど堅物だとは。
はしたない行為を理由に脅されて、オフィスで乱されると言う妄想を一瞬してしまった。そんな自分を恥じる。
達明は理乃が服を整えると、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その頬はかすかに赤く染まっている。
「あ、あの、それで、原さんはなんでこんな時間に?」
「明日の朝イチで旭食品とのミーティングがあるだろう。その資料に不備があったことを思い出してな」
「ああ……」
あの厄介なクライアントだ。細かい点をネチネチ詰めることで有名なのである。
朝イチでの資料に不備があるとするなら、この時間に社に来るのも納得であった。
「じゃ、じゃあ。私は仕事に戻りますので」
「ああ、お前もあまり無理するなよ」
気まずい空気が流れる中、理乃はキーボードを叩き始めた。
次第に集中力を取り戻し、クライアントに急遽変更を指示された内容をこなしていく。
一時間ほど経過した頃——。
「今井、お疲れ」
達明がコーヒーを買ってきてくれた。
「原さん……! ありがとうございます。すみません」
「いや、いつもお前には頼ってしまってるからな。……よく頑張ってるよ、ほんとに」
自分の苦労を、わかってくれている。
そう思うと、じんわりと喜びが込み上げてきた。
(あ……、私、原さんのこと、好きかもしれない)
それは、先ほどの紳士的な態度とも相まって、自然と芽生えた感情だった。
だが——。
(あんなにはしたない姿を見られて、絶対に淫乱の変態女だって思われた……)
淡い思いが芽生えると同時に、理乃は深い失望に襲われた。
こんなの、叶いっこない、と思う。
あんなことしなければ、可能性はあったかもしれないのに。
でも、あんなことをしなければ、思いも芽生えなかった。
そう思うと、複雑な気分だった。
達明に渡されたコーヒーの温かさを、手のひらで感じる。冷たいオフィスの中で、そこだけがぬくもりを持っているように感じられた。
その日から、理乃は自然と達明のことを目で追うようになった。
翌日以降も達明の理乃に対する態度は変わらなかったが、やはりあの夜のことを気にしているのだろうか。やけに目が合う頻度が高い。
理乃が達明のことを見ているのと同時に、達明もまた、理乃のことを目で追っているのだ。
(少し、ドキドキしちゃうな……)
もしかしたら、職場で自慰行為に及ぶ不逞の輩だと思って目で追っているだけかもしれないけれど。
それでも、オフィスで達明と目が合うたび、理乃はドキドキと胸を高鳴らせてしまうのだった。
だけど、理乃が抱えていた大型の案件が終わった日の打ち上げで、状況は一変した。
「いやぁ、今回は特に大変でしたねぇ。今井さん、ずいぶん頑張ってたけど」
「今井ちゃんは要領悪いからねぇ。大変でしょー、大型案件任されちゃったら」
理乃をライバル視している同僚の望月が、わかりやすく嫌味を言う。その妙にねっとりとした言い回しに、理乃はイラついた。
「望月さんは小型の案件で他の方の補助をたくさんこなされていてすごいですよね」
大きな案件は任されないし、小型の案件ですら他人の補助じゃない、と思わず理乃は言い返す。
気が強い質の理乃は、やられっぱなしは性に合わなかった。
「今井は本当によく頑張ってるよ、頼りになるうちのエースだ」
プロジェクトリーダーである達明からそう言われて、嬉しくなる。恋愛的には脈なしだとしても、社員として信頼してもらえているなら、それだけでも報われた気持ちだった。
そうして、飲み会は進んでいく。珍しく、達明はペースが早く飲んでいた。
理乃の隣に座った達明は、時折理乃の足に手先が掠ったりなどして、その度に心臓が早鐘を打つ。
体育会系の多い広告業界、二次会、三次会と終わる頃には、皆したたかに酔っ払っていた。
「今井は俺が送っていく」
解散の運びとなった時、いつにない強引さで達明が理乃の腕を取った。
「は、原さん!?」
タクシーを呼び止めると、半分引きずるように達明が理乃を連れて歩いていく。その様子に、他の面々は呆気に取られていた。
月曜日に社の噂になっていなければいいが、と理乃は気を揉む。
タクシーの中に押し込まれると、達明はその隣にどっかりと座った。
「お客様、どちらまでですか?」
「えっと……新小岩まで」
タクシーに住所を説明すると、運転手は滑らかに車を走らせた。
「あの……原さん、一体どうしたんですか?」
じっと黙っている達明に、おずおずと理乃は問いかける。
「お前のせいだ」
達明はボソリと一言、意味のわからないことを言った。
「え?」
「あの夜以来、お前のせいで俺は冷静ではいられない」
あの夜、と言われて、理乃の頬に血が上る。あの夜とは、理乃がオフィスで一人遊びに耽っていた夜のことだろう。
最近は気にしなくなっていたのに、あの時の羞恥を思い出して、理乃は居た堪れなくなった。
タクシーの運転手も話を聞いているはずだ。どうか具体的な言葉を出さないでくれますように、と祈りながら、理乃は達明を見つめた。
だが、達明はそれ以上の言葉を発さなかった。むっつりと黙り込んだまま、睨むように前を見つめている。
タクシーが交差点に入った。ここを曲がれば、理乃の家の前だ。
「こちらでよろしいですか?」
「あ、は、はい」
滑るようにして、タクシーは理乃のマンション前に停まった。
達明は支払いをしようとする理乃を制して、手早く会計を済ませると、車を降りる。
「あ、あれ? 原さんはタクシー……」
「今井……、わかってるんだろう?」
達明は、主語を省略した。熱っぽい瞳が、理乃をじっと見つめる。その眼差しが、どくどくと理乃の心臓を波うたせた。
「あの……その……」
「部屋は何号室だ?」
「えっと、403です」
達明は理乃の腕を引っ張り、マンションのエントランスに向かう。理乃に自動ドアを開けさせると、足早にエレベーターホールへと向かった。
四階のボタンが、淡く光る。
事この後に及んでも、理乃はまだ覚悟を決められていなかった。
このまま体を重ねたとして、恋人になれるわけじゃないだろう。
オフィスで一人遊びに耽る変態女として、利用されて終わるだけだ。
だけど——。
(それでも……それでもいい)
達明に掴まれた右腕が熱を持つ。
このたくましい腕に抱かれる自分を想像したら、引き返すことなんて、到底できそうになかった。
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