上 下
26 / 26

昔昔ノ御話 弐拾伍

しおりを挟む
あの月の美しい夜、孤独を湛えた瞳で空を見ていた禍津火。切なそうな表情で、私のことを抱きしめ、愛していると囁いた禍津火。

彼がその邪神なんてこと、あり得るだろうか。


「別に家が近いからといって、千代が危険だとかそういうわけじゃない。それ以降そいつが山を降りてきたなんて話は聞かないし、千代が禁忌を破って子供の頃みたいに山に入っているとも思わないよ。ただ、なんとなく心配だったんだ。脅かすような話をして、ごめんな」

「…大丈夫。でも、文太の勘違いだから。私は伏せっていただけで、そんな伝説とも、あの山とも、なんの関わりもないから」

「そうだよな。俺自身、婆ちゃんの話が妙に生々しくて忘れられなくてさ。怖かったのかもしれない。忘れてくれ」

「いいの。私も咎めるような言い方をして、さっきはごめんね」


文太はゆっくりと首を振り、いつもの歯をむき出す快活な笑顔をつくった。


「じゃあ、俺、行くわ。ちゃんと元気になったら、また団子を食べに来いよな」

「言われなくてもそのつもり。ありがとう」


表面上はいつも通りに手を振って別れた。文太の姿が見えなくなるのを確認して、私は家の裏へ急ぐ。


どんな顔をして禍津火と会えばいいのだろう。さっきの話を信じているわけじゃない。それなのに家に戻るまでの安心感はどこかへ吹き飛び、今はただ、彼に抱きしめられてほっとしたかった。


たとえ人間じゃなくても好きだと、断言したのは私だ。その言葉に嘘はない。
人間じゃなくても。そう、さっきの話の邪神そのものだとしても。過去なんて私は知らないし知りたくもない。


雑草を踏みつけ足早に山に入ると、すぐのところに禍津火がいた。大木の幹にもたれるようにして立っている。


「千代、早かったな」

「そんな。遅かったくらいです。待たせてごめんなさい」

「荷物を貸しなさい」


優しく差し出された手のひらを見つめる。


邪神。
大火災。
死んだ村人たち。
男を愛して死んだ娘。
…殺された、娘。


私は俯いたまま、お願いしてみた。


「あの…」

「どうした?」

「抱きしめて、くれませんか」

「千代は俺にお願い事をするとき、いつもそうして恥ずかしがるんだね。もっと恥ずかしいことをした仲だというのに」

「なっ…!そんなこと、言わなくてもいいじゃないですかっ」

「可愛いよ。来なさい」


そう言うと抱きしめるどころか、そのままひょいと抱きかかえられてしまった。池から家に共に帰ったあの時と同じように。


「もとより帰りはお前を抱いて帰るつもりだったんだ。山を歩いて疲れただろう?」
「ひとりでちゃんと歩けるのに…禍津火の方が、疲れてしまいますよ…」
「ふふ。あんまり俺を甘く見てもらっては困るな」


ああ、好きだ。その気持ちを表すように、私は彼の身体を強く抱きしめた。

文太の話なんてどうでもいい。邪神であるということは禍津火が自ら言っていた。不幸を司る神だと。でも私はそれでもいいと言い、決意したのだ。今更不安になるのはおかしい。


彼になら、とり殺されてもいい。罠でも呪いでもなんでもいい。この笑顔や優しさが嘘でも、そんなの知ったことか。

私は信じる。だからずっと信じさせてほしい…。


心の中で想いを反芻しながら、彼の匂いを胸いっぱいに吸い込む。

私の持っているものならすべてあげる。たとえそれが命でも、喜んで差し出します。



だから、ずっと側にいてほしい…。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...