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南天
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「どうしたら、お前の中からそれを殺してやれるのだろうな」
《医師が口にしていい台詞ではないですよ》
物騒なことを言う恭一郎様を、雪狐が諌めた。
「本当に大丈夫です。何度も言うように、悪夢なんかじゃなくて……今朝は悲しい夢でした。私は、本当に自分に都合のいいことしか見ていなかったんだなって。記憶が途切れ途切れなのは、そのせいかもしれません」
都合の悪いことだけ、忘れていただけなのかも。
恐らく、他にもまだまだあるはずだ。
受け入れがたい事実は奥底に沈め、嬉しくて楽しい記憶はすぐに取り出せるように浅瀬に置いて。
「……小雪? 」
そういえば、恭一郎様にこんなふうに漏らすのは初めてだ。
あの夢に対して、いつも肯定的なことばかり主張していたから。
ますます心配そうに見つめられ、慌てて首を振った。
「知ってたんです。あの子は、もう私に会いたくないんだって。でも、いざその場面を思い出すと悲しくて……夢の中の私も、泣いていたから」
雪狐は気を遣って、拒んでいるのは現在の成長した男の子だと言ってくれたけれど。
今朝の夢からして、あの時点で既にもう二度と会わないと彼は決めていたように見えた。
「仕方ないです。よく知らない子の子守りなんて、誰だって困りますよね。……兄様も」
私は何を言おうとしているのだろう。
もちろん、兄様にはあの子以上に迷惑を掛けたし、その期間も長い。
子供の頃どころか、今になってもずっとだ。
けれど、それを訊ねたとして答えを強要しているようなものだ。
それも、もう兄ではないと言うただの恭一郎様に。
ほら、こんなふうに困った笑い方をさせた。
「……お守りか。そう思ったことが一度もないとは言わないが、そんなのはもうずっと昔のことだ。言っただろう? 私がお前をただの妹だと思っていたのは、随分昔のごく僅かな期間だけだと」
軽く、目の端に親指が当てられる。
何だか、頼むから、涙はもう落ちてくるなと言うように。
「好きになってしまえば、それはもうお守りでも面倒でもない。……私が、手を掛けたかっただけのことだ」
それは、いつ頃のことなのだろう。
歳が離れていることもあるし、言うまでもなく私は兄様に懐きすぎていて、本当にものすごく手を焼かせていた。
そんな疑問が浮かんだのがバレたのか、教えないとばかりに更に笑う。
「だが、お前がそんなことを言うとは思わなかった。お前は泣いているのに、酷いと重々承知しているが……私としては、好都合で正直嬉しい」
《……承知しているのなら、せめて姫の前ではその感情を隠していたらどうです? 》
扇で隠されたのは口元だけで、その瞳だけで十分それは伝わってくる。
そこまで、言葉どおりに正直に気持ちを知らされてしまうと、もう笑いしか出てこない。
「あの子に再会するのは諦めます。嫌がっているのを、無理強いはできないもの。でも、記憶は取り戻したいんです。……それも、恭一郎様には不都合があるのでしょうか」
彼にはもう会おうとしない。
どんなに悲しくても、強要できることじゃない。第一、その手段すら不明なのだ。
無理やりどうにか扉を抉じ開けて、再会したとして、あの子に被害でもあろうものなら申し訳なさすぎる。
会いたくもない子に会ったせいで、今のその子の生活を脅かすなんて。
だけど――。
「自分のことは知りたい。私はどこに行って、ここに……帰ってきたのか。その扉はどこで開いて、どこへ通じているのか。私が見たものを思い出したいんです」
もしも、私はここに「帰ってきた」のではなく、向こうの世界から「来たまま帰れない」でいるのだとしたら。
そこは、どんなところだったのだろう。
あの子の方がこちらの世界の住人だったのなら、今どこで暮らしているのだろう。
案外近くにいるのか、それとも、かつて私がいたかもしれない世界に反対に飛ばされてしまったのかもしれない。
「あるに決まっている。記憶を全て取り戻せたとして、次はどうする? 一度は、いや、過去に何度も開いた扉だ。永遠に閉じたままとは限らない。それを狙って別の世界に行ってしまうのではないだろうな。お前は、ここを窮屈に感じているから」
《確かに、私が何もせずとも何かをきっかけに時空に歪みが生じ、扉が開くこともあるかもしれません。しかし、私は少なくとも今のところは自分の力を使うつもりはないのです。……申し訳ありません、雪兎の君》
途端に低くなった恭一郎様の声を遮り、雪狐が頭を下げた。
「ううん、そうじゃないの」
昔は、今よりも力が弱かったという雪狐。
つまり、今の彼でも当然可能なのだろう。
それでも、これまで力を使わずにいたのは、雪狐にその意思がないから。
そんな雪狐に頼むなんて酷すぎるし、私一人あちらの世界に行っても仕方がない。
どんな世界なのか、一目見てみたいという気持ちはあるけれど、もう二度と帰ってこられない可能性もあるのに今ここにあるもの全てを捨てることはできない。
そう思うようになるなんて、やはりあの子に再会したいという想いは、とても大きかったのだ。
《医師が口にしていい台詞ではないですよ》
物騒なことを言う恭一郎様を、雪狐が諌めた。
「本当に大丈夫です。何度も言うように、悪夢なんかじゃなくて……今朝は悲しい夢でした。私は、本当に自分に都合のいいことしか見ていなかったんだなって。記憶が途切れ途切れなのは、そのせいかもしれません」
都合の悪いことだけ、忘れていただけなのかも。
恐らく、他にもまだまだあるはずだ。
受け入れがたい事実は奥底に沈め、嬉しくて楽しい記憶はすぐに取り出せるように浅瀬に置いて。
「……小雪? 」
そういえば、恭一郎様にこんなふうに漏らすのは初めてだ。
あの夢に対して、いつも肯定的なことばかり主張していたから。
ますます心配そうに見つめられ、慌てて首を振った。
「知ってたんです。あの子は、もう私に会いたくないんだって。でも、いざその場面を思い出すと悲しくて……夢の中の私も、泣いていたから」
雪狐は気を遣って、拒んでいるのは現在の成長した男の子だと言ってくれたけれど。
今朝の夢からして、あの時点で既にもう二度と会わないと彼は決めていたように見えた。
「仕方ないです。よく知らない子の子守りなんて、誰だって困りますよね。……兄様も」
私は何を言おうとしているのだろう。
もちろん、兄様にはあの子以上に迷惑を掛けたし、その期間も長い。
子供の頃どころか、今になってもずっとだ。
けれど、それを訊ねたとして答えを強要しているようなものだ。
それも、もう兄ではないと言うただの恭一郎様に。
ほら、こんなふうに困った笑い方をさせた。
「……お守りか。そう思ったことが一度もないとは言わないが、そんなのはもうずっと昔のことだ。言っただろう? 私がお前をただの妹だと思っていたのは、随分昔のごく僅かな期間だけだと」
軽く、目の端に親指が当てられる。
何だか、頼むから、涙はもう落ちてくるなと言うように。
「好きになってしまえば、それはもうお守りでも面倒でもない。……私が、手を掛けたかっただけのことだ」
それは、いつ頃のことなのだろう。
歳が離れていることもあるし、言うまでもなく私は兄様に懐きすぎていて、本当にものすごく手を焼かせていた。
そんな疑問が浮かんだのがバレたのか、教えないとばかりに更に笑う。
「だが、お前がそんなことを言うとは思わなかった。お前は泣いているのに、酷いと重々承知しているが……私としては、好都合で正直嬉しい」
《……承知しているのなら、せめて姫の前ではその感情を隠していたらどうです? 》
扇で隠されたのは口元だけで、その瞳だけで十分それは伝わってくる。
そこまで、言葉どおりに正直に気持ちを知らされてしまうと、もう笑いしか出てこない。
「あの子に再会するのは諦めます。嫌がっているのを、無理強いはできないもの。でも、記憶は取り戻したいんです。……それも、恭一郎様には不都合があるのでしょうか」
彼にはもう会おうとしない。
どんなに悲しくても、強要できることじゃない。第一、その手段すら不明なのだ。
無理やりどうにか扉を抉じ開けて、再会したとして、あの子に被害でもあろうものなら申し訳なさすぎる。
会いたくもない子に会ったせいで、今のその子の生活を脅かすなんて。
だけど――。
「自分のことは知りたい。私はどこに行って、ここに……帰ってきたのか。その扉はどこで開いて、どこへ通じているのか。私が見たものを思い出したいんです」
もしも、私はここに「帰ってきた」のではなく、向こうの世界から「来たまま帰れない」でいるのだとしたら。
そこは、どんなところだったのだろう。
あの子の方がこちらの世界の住人だったのなら、今どこで暮らしているのだろう。
案外近くにいるのか、それとも、かつて私がいたかもしれない世界に反対に飛ばされてしまったのかもしれない。
「あるに決まっている。記憶を全て取り戻せたとして、次はどうする? 一度は、いや、過去に何度も開いた扉だ。永遠に閉じたままとは限らない。それを狙って別の世界に行ってしまうのではないだろうな。お前は、ここを窮屈に感じているから」
《確かに、私が何もせずとも何かをきっかけに時空に歪みが生じ、扉が開くこともあるかもしれません。しかし、私は少なくとも今のところは自分の力を使うつもりはないのです。……申し訳ありません、雪兎の君》
途端に低くなった恭一郎様の声を遮り、雪狐が頭を下げた。
「ううん、そうじゃないの」
昔は、今よりも力が弱かったという雪狐。
つまり、今の彼でも当然可能なのだろう。
それでも、これまで力を使わずにいたのは、雪狐にその意思がないから。
そんな雪狐に頼むなんて酷すぎるし、私一人あちらの世界に行っても仕方がない。
どんな世界なのか、一目見てみたいという気持ちはあるけれど、もう二度と帰ってこられない可能性もあるのに今ここにあるもの全てを捨てることはできない。
そう思うようになるなんて、やはりあの子に再会したいという想いは、とても大きかったのだ。
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