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六つの花

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・・・



『……さゆ……さゆっ……!! 』

(……あ……)

恭一郎様にああ言われたばかりで、しかも、こちらの夢を見てしまうとは。

『……すごい熱だ。早く治療しないと……』

まだ幼く、私よりは大きいけれど、今の私からすると子供らしい柔らかさを残した手。
額に触れられ、ひんやりとして気持ちいい。
この後、恭一郎様に助けられた時と同じく、小さな私は熱があって、結果的に今の私もぼんやりしている。

『でも、ここじゃ……』

上手く頭が働かなくて、相変わらず男の子が憎々しげに睨んだ風景を見ることができないのだ。

(大丈夫、心配しないで。この後ね、兄様……恭一郎様が助けに来てくれるから)

この先の展開を知っている私は、やはりそう伝えようとするけれど、目も口もちっとも開いてはくれなかった。

『……ごめん。さゆ、ごめん……』

謝罪してもらうのを逆に申し訳なく思いながら、必死に他の手がかりを得ようとする。
「ここ」は互いの時代の狭間だろうか。
それとも、彼の住む時代を指しているのだらうか。
そう考えると、やはり私は恐らく未来から来たのではないかと思えた。

「ここでは治療できない」

それはつまり、裏を返せばもともと私がいた時代ならば、十分な医療を受けられた――そういう意味ではないかと。

『でも、さゆのことだけは絶対に助ける。たとえ、もう二度と会うことができなくなったとしても、絶対に。……大好きだ、さゆ』

放っておくこともできるのに。
わざわざ危険を犯して、何より嬉しい言葉を続けてくれた。
彼が再会を望まない理由は、ここにあるのだろうか――なんて、都合の良すぎる解釈だ。
でも、もし……万が一にも、このことを悔いているのだとしたら。

(私の為に、無理をさせてごめんなさい。でも、あなたには感謝しかないから。おかげで、今日の私もこうして元気でいられるの)

だからもう、気にしないで。
泣かないで。

――私も、大好きだったよ。



・・・


瞼が熱い。
泣いていたのかと、目を瞑ったまま頬に触れて確めてみたが、そうじゃなかった。
あの夢を見ていないか、夢に泣かされてはいないかと心配して、瞼を這う指が熱いのだ――そう思い当たった瞬間に、本当にぽろっと涙が落ちた。

「大丈夫だ。お前のことは、私が絶対に守る。……絶対だ」

決意に満ちた声、奇しくも夢とほぼ同じ台詞にふるふると首を振る。

違うの。
もう十分すぎるほど、私は守ってもらえた。
だから、そうじゃなくて。
早く、その呪縛から逃れてほしい。

「……まだ、その日が来るまで……」

眠っているのに安心して、不用意な内容を漏らしてしまった。
まるで、そう思ったみたいにハッと指の動きが止まる。
意識がここにあるのがバレただろうか。
なぜヒヤリとしたのか分からぬまま、やがて恭一郎様の気配はなくなってしまった。

「ん……」

目を覚ましていいのか尋ねる為に、わざと声を出してみる。
たった今起きましたという、下手くそな演技の必要もなく、やはり恭一郎様の姿はない。

(どういう意味だろう……? )

その言い方では、まるで再びあの扉が開くのを知っているみたいに聞こえる。
考えすぎだろうか?
もしも、そうではないのだとしたら、どうして――……。

「そこで、何をしていらっしゃるのですか」

庭から聞こえた刺のある声に、まるで悪いことを考えていたかのように心臓が跳ねた。

「またお前か。人に会いに来ただけだ」

「主人の不在を知っていて? そんなことでは、疑われても仕方がないと思います」

(……何だ、一彰か)

びっくりした。
でも、いくら嫌われているとはいえ、まさか部屋で大人しくしているのに咎められることもないだろう。
それにしても、よかった。
一彰は当然、長閑に会いに来たのだ。
そこをあの子に見つかったようだが、おかしな疑いはすぐに晴れるはず。

「思ってもないことを言うな。そんなもの、これっぽっちも疑っていないだろ、お前。いい加減、俺に難癖つけるのやめろよ。……あと、あいつにも」

どういうことだろう。
意味はさっぱり分からないが、「あいつ」はもちろん私を指すのだ。
いけないと知りつつ、どうしても気になって耳をそばだてた。

「……私は、あの姫君をどうしても信用できません。あの方を少しでも想うのならば、なぜお気づきにならないのです? それほど遠くにいらっしゃるのでもない。むしろ、何の隔てもなくお会いになるくらい、側で過ごされているのに。私に主を止める権利はありませんが、苦言を申し上げるのも無理ないではありませんか」

「……あいつが気づかないでいるのが、その主の希望どおりだったとしてもか」

(気づく……? 何に……? )

話は見えないが、あの子が私を嫌っている理由はこれなのだ。
私は、何か大きなものを見逃している。
そしてそれは、恭一郎様に関することで――お側にいれば、気がついて当たり前のこと。

「あの姫は、自分勝手です。都合のいい時だけ、あの方の愛情を利用して。あれほど主が苦しんでおいでなのに、当の姫君は暢気に過ごしていらっしゃる。もうそろそろ、今度は姫の方が、あの方を救ってくださればいいのに」

――自分勝手。
胸を深く抉られるように痛んだのは、それが事実だからだ。
差し出される愛情を、見返りを求めるという恭一郎様の甘すぎる優しさを、そのまま鵜呑みに受けたりして。

「いい加減にしろ。あいつが暢気に過ごしているように見えるのは、お前だってそれをお前の側からしか見えていないからだ。小雪だって、お前の知らないところで悩みを抱えている。……このうえ、恭が病に侵されていると知ったら、どんなに……」

(……え……? )

……今、何て?
はっきりと聞こえたはずの言葉を、脳が処理するのを拒んでいる。

「……どういう……こと……? 」

だから尋ねようと、二人に近づこうとした足は何も感じなかった。
ふわふわした足取りのまま、それでも近寄り――ただ、知りたくない答えを求めようと、一彰と童の間を目が彷徨い続ける。

「小雪……。……っ、お前……!? 」

手がかりを渡されてなお、自分で握ることができない私を、この子はますます嫌悪するだろうか。
でも、とてもではないけれど、今聞こえてきた言葉の意味を理解する勇気がない。

「……それで? お前は一体、小雪にどうしてほしいんだ。弱った男と寝てくれとでも?」

「……一彰」

とても、子供に向ける表現ではない。
意思とは関係なく言わされたとはいえ、自ら私に伝えてしまったことに、一彰は心配になるほど唇を噛んでいる。

「構うものか。こいつは、お前が聞いていると知ったうえで俺を煽った。お前が一番辛く、手っ取り早く事情を知る手段をわざと選んだんだ。そのどこに、話を子供用にする必要がある」

一彰の瞳が苦しそうに揺れ、それでも逸らすまいとこちらを見下ろしている。

「……でも、この子の言うとおりだわ。普通では考えられないほど、一緒に過ごしてきたのに。何も知らないまま今日までいられるなんて、暢気としかいいようがない。……そんな……そんなことに、私は……」

口にはできなかった。
こんな酷い嘘を吐く人間はどこにもいないと分かっているのに、二人を疑いたくてしようがない私は最低だ。

「……こんな形になって、悪かった。言ったとおり、お前が知らないでいたことは恭の希望どおりだったんだ。だから、自分を責めるな」

遠慮がちに肩に触れた手がぎこちない。
こんなふうに一彰と話すのは、いつ以来だろうか。

「知られたくないあいつの気持ちも分かるし、恭の友人としては俺は後悔していない。……だが、お前の友人としては言うべきだったと……もっと早く言いたかったと思ってる」

いつもの悪口や憎まれ口ではなく、私を友人だと言ってくれた不器用な優しさが、それが嘘でも冗談でもないことを証明している。

「……一彰は悪くない。私……私が……っ」

――どんなに信じたくなくても、真実なのだと。

「……っ……夢なんて、見てる場合じゃなかったのに……っ」

そう告げられても、まだ頭は拒もうとしてやめない。

そういえば、雪の結晶は六つの花弁の形をしているのだと、昔兄様が教えてくれた。
こうして、皆の上ではらりと舞っている雪すべて、そうなのだろうか。
だとしたら、今私の頬の上で解けた雪花は――一体、いくつ花弁が散ったのだろうと。

そんな、ちっとも逃避にならないことばかり、浮かんでは解けるように消えていくのだ。

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