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音楽喫茶の出来事

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その日は秋の新月の夜だった。

一度帰宅し、猫に餌をやりスヤスヤと眠っていることを確認し、夜の元町に繰り出した。
たくさんのネオンがひっきりなしに光り、行きかう人並にまぎれる。

あちこち旅して東京にいた10代のときはよく覚えたての化粧をして銀ブラをして大人になったつもりでいた。
だが神戸に来てからは元町を歩くことを元ブラと言うそうな。

やることが若いころから変わらんねんな?と思いつつ元町を歩く。

最近は仕事をセーブしてこうして夜の街に繰り出しているがどうも刺激があるとまた服を作りたい欲がせりあがってきてしまう。
一生仕事人間なんやなあと自分自身にため息をつきたくなるがまたそれも一興。というところか。

しかし子どもたちも旦那もそれぞれ仕事や自立でいないのでよく未亡人と間違われるし口説かれる。
この結婚指輪が見えてへんのやろか?

それだけ若いって思われるのもまあ、悪い気はしないからええんやけどな。

なーんて思案をしながら最近入り浸っている音楽喫茶の扉を開いた。

いつも座っているBARカウンターに向かうと店長となじみの客が談笑していた。

「あ、フミさん久しぶり!元気?」

「マスター久しぶり!あ、せんせも来とるんかいな」

「せんせて呼ぶな言うてるやろ生徒おんねんから」

「ほー-。それで変装したつもりかいな。ほんまに熱心やな」

「それがあいつ、こいつがココの常連だって知らんねん」

「鈍いやっちゃなあ」

「ほんまに鈍い奴やでえ。いい加減にしてほしいわ。口を開けば俺なんてって言うん辞めたらええんに」

「まあ、あの感じじゃしゃーないわな。あ、フミさん何飲む?」

「一度しばいたらええんちゃう?マスターのおすすめカクテルで!」

おなごがしばくとか言うもんやないで、あいよ」

「決断力のない男私きらいやねん」

「四半世紀年下の男に決断力ないとか言うたらあかん」

「年齢のコトはご法度って言うてるやろがー」

「はいはい、そんなフミさんにはチェリーブロッサムを」

マスターが出してきたのはかわいらしいピンク色をしたカクテルだった。

「かわええ!いただきます!」

一口飲むとチェリーの芳醇な香りが口いっぱいに広がり、幸せな気持ちになる。

「これ初めて飲んだわー。オリジナル?」

「いや、この前横浜から来た言うてた人が教えてくれてん。なんやフミさんに似合うなあって思うてな」

「やだあ嬉しい」

「単純なやっちゃなー」

「なんかいうた?」

「お、そろそろアキラ、出るんちゃう?」

「楽しみやなあ」

水を打ったように静かになったフロアで全員が見守りながら
アキラの演奏を待つ。

全員が息をのむような沈黙の後、アキラのバイオリンの音色があたりに響き渡る。

曲はラヴェルのボレロ。

元はオーケストラの壮大な曲でありながら静かなアレンジのバイオリンソロに聞き入る常連客。
誰が見てもアキラの腕は天才だった。

編曲、構成、どれをとっても丁寧なアキラのことを常連客は言わずもがな認めていた。

ええ音奏でますやん。と良いお酒を飲みながらアキラの演奏を聴きこむフミ。

「ええお酒とええ音楽。最高や」

「ほんまやなー。ほな、俺は明日早いからお暇しますわ」

「うちを口説く暇あるんにせんせも忙しいんやなー」

「それは今関係あらへんがな」

「はいはい。頑張ってな」

「まあまたあいつの様子見に来てやってな。サービスするで」

「ありがとうマスター。ほなな」

先生を見送ったあとにアキラのほうへ目をやるとたくさんの人だかりができていた。

「ええ人材見つけたやん」

「まあな」

「おー?調子乗っとんのう。マスター、お代わり」

「……飲みすぎちゃうか?まあええけど。……ん?」

「なしたん?」

マスターが目を配った先にいたのは異国の青年だった。
大きなギターケースをそばに置いてほかのカウンターで店員と談笑している。

「あれ、見かけない顔やなあ」

「ほんまや、異国の常連さんなら何人かわかるけどあの子は見たことあらへんな」

「フミさんがわからんならわからんな」

遠くから見守っていると座っていた場所から立ち上がり、つかつかとステージに近づく青年。

“je voudrais jouer la guitare ici ⁇”

アキラのそばにいた常連客はシンと静まり返ってしまった。

「あそこで弾いていいかって聴いとるわ。許可出さんでええの?」

「あー、あそこにいるうちの従業員がええって言ったんやろ。ま、お手並み拝見といこうやないか」

ステージに上がった青年はおもむろにギターを取り出し、音を奏でる。

透き通るような声とギターがたちまちBARに響き渡り、
あっという間に場の空気が青年のものになっていく。

息をのむとはこういうことを言うのだろう。

暫く聞き入りながらフミが口を開く。

「ほー。ブロードウェイにいたんやな。あの子。フランス人でブロードウェイってなかなか難しいで。すごい子やなあ」

お代わりのカクテルを飲みながらフミがつぶやく。

「わかるんかい」

「まー、留学時代、ちいとな」

「ほんまにいろんなところ飛び回ってたんやな。曲目は?」

「遠い昔のことは忘れた」

「酔ってるだけちゃうか」

「人聞きの悪いこといわんでー」

暫くすると青年の演奏が終わり、深々とお礼をすると
その場にいた人々はみな立ち上がり、拍手喝さいをした。
今までに聞いたことのない大きな歓声とたくさんのチップが彼に向かっていく。

彼はその後つかつかとアキラのほうに向かっていき、声をかけた。

“Vous voudrais jour violon avec moi?”

「ほー、なかなか見る目あるやん、あの子」

「なんていうたん?」

「僕と……ん?」

意味をすべて言い切る前にまたあたりがざわつく。

見るとアキラが走って店から飛び出していったところだった。

「なーんか勘違いしたな、あの子。」

「……心折れたんちゃうかあいつ」

「ま、折れたやろな」

「相変わらず塩対応なやっちゃな―。ほんまはあの異国の人、なんて言うとったん?」

「あー、それはな」

こっそりとマスターに耳打ちをするフミ。

驚くマスター。

「ほんまに言うとる?」

「ま、ちょうど良かったんちゃうか。殻を破るのにええ刺激や。やろ?」

「あいつにはまだ確かに音の深みが足らん。技術は確かだが人の心を打つ音楽には程遠い」

「楽しくなってきたねえ」

「まーた賭け事とか考えてへんやろな」

「ま、ちょっとやそっとじゃあの子は折れんと思うで。うちのブティックかけても惜しないわ」

「それは重責だからやめてくれ……」

「どいつもこいつも根性無しばっかやなあ」

「やかましいわ!」

「さて、そろそろ帰るかな。こんな時間やし」

「おおきに。また来てな」

フミは勘定のお金を置いて音楽喫茶を後にした。
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