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境界線とルール
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「屋上、よく来るの?」
階段の上、鉄の扉に寄りかかった鈴の声が降ってくる。それは冷たくはないけれど、温かくもない。感情というものが欠如した声だった。瞳もガラス玉のように、何の表情もない。でも、唇は柔らかなカーブを描き、微笑んでいることをわざとらしくアピールしていた。
きっと、鈴は怒っている。
私は、返事をするのも忘れてごくりと唾を飲み込んだ。
「晶って、屋上によく来るの?」
口を開くことすら出来ずにいる私に、焦れたように鈴が言う。苛立ちを隠すようにゆっくりと告げられた言葉に答える前に、親密な距離にいた青い上履きが鈴から少し離れた。
「ほとんど来ないかな」
「じゃあ、今日は珍しいんだ。屋上に何か用でもあった?」
「別にないよ。たまたま来たら鈴がいただけ。鈴こそ、こんなところで何しているの?」
屋上へ続く扉は閉まっているのに、肌寒さを感じて声が小さく震えた。私は、吹いてもいない風に耐えるようにスカートをぐしゃりと握る。
「先輩と話してた」
そう答えて、鈴が隣を見た。長い髪を一つに束ねた“先輩”が切れ長の目をさらに細め、私に視線を合わせる。鈴よりも白い、というよりも青白く見える顔は、歳が一つしか変わらないにも関わらず、もっと年上に見えるほど落ち着いた表情を浮かべていた。
「初めまして。鈴の友達?」
どういう先輩かは知らないけれど、何かの先輩であるらしい青い上履きが階段を二段下り、名乗らずに私に近づく。
「そうです」
「美術部に入らない?」
唐突に、大人っぽい雰囲気とはかけ離れた脳天気な声で先輩が言った。
「え?」
「幽霊部員しかいなくて、廃部になりそうなんだよね」
「美術部なんですか?」
間の抜けた質問だったと思う。
幽霊部員の存在なんて知らないし、絵を描こうと考えたことすらない私にとって、美術部の存亡なんて興味のない話だった。それなのに、私は先輩のペースに巻き込まれ、くるりと包まれて身動きが取れなくなっていた。
「あたしは引退したから、元ね。で、入部する?」
「……しません」
「そっか、残念。鈴は入部する?」
「しない」
「やっぱり駄目か。勧誘失敗したし、あたしは教室帰ろうかな」
それほど残念でもなさそうに言って、先輩は階段を一歩下りる。そして、振り返って鈴を見た。
「またね」
ひらひらと手を振って、先輩がぱたぱたと足音を立てて階段を下り、踊り場で一度足を止めて私を見てから立ち去った。
「知り合い?」
私は階段を上って、先輩がいた場所を避けるようにして鈴の隣に立つ。
「まあね」
「鈴って部活、やってないよね」
答えは、聞くまでもなく知っていた。鈴は帰宅部で、いつも私と一緒に帰っている。ただ、私が鈴に会えずに委員会へ行くことになった日、確か彼女は用事があって美術室にいたと言っていた。
私の頭の中で、元美術部の先輩と鈴が繋がる。あまり良い気分はしない。
「この前も言ったけど、やってないよ」
「……なんで、美術部の先輩と仲が良いの?」
なるべく普通に、と思ったけれど、口から出た声は小さなものだった。
私は屋上と階段を隔てる扉に、背中をぴたりと付ける。制服越しでもわかるひんやりとした感覚に、鳥肌が立ちそうになる。返事がなかなか聞こえてこなくて、扉にぺたりと手のひらをつけると、体の半分くらいが冷えたような気がした。
「仲よさそうに見えた?」
たっぷり三十秒ほど経ってから答えが返ってくる。鈴を見ると、視線がくすんだ床に張り付いていた。
「良くないの?」
「美術部に入部するほど仲良くはないけど、悪くもないかな。それと、先輩とは美術部に見学に行ったときに知り合っただけだよ」
聞きたいことはこれでしょ、と言わんばかりの口調で鈴が言った。けれど、彼女の言葉が正しいとは思えない。
友達と言うには近しい距離にいた二人。
肩と肩が触れ合って、制服が混じり合っていた二人。
仲良くもないけれど、悪くもないという二人には見えなかった。
私は階段を一つ下りて、鈴をもう一度見る。床に張り付いていた視線が私に向けられる。冬空のような凍えた目で見られて、私はそれ以上先輩との仲を聞くことができなくなった。
「――そっか。なんで入部しなかったの? 先輩、入部して欲しそうだったけど」
「美術部がどうなろうと関係ないし、絵の才能もないし、帰宅部の方が気楽だから。晶は? 美術部入りたい?」
「私も絵の才能ないし。それに、美術部には興味ない」
ぺたん、ともう一段階段を下りると、鈴が私の隣にやってくる。そして、にこりと笑顔を貼り付けて言った。
「もうすぐ期末テストでしょ」
「そうだね。勉強まったくしてないけど」
「じゃあ、また一緒に勉強しようよ」
「うん」
条件反射のように喉の奥から飛び出した言葉が、埃っぽい空間にぽかりと浮かんで消える。
私の苦手な科目が得意で、私が得意な科目が苦手な鈴。
中間テストのときは、お互いを補い合うように勉強を教え合った。静かな図書館で過ごす時間は秘密の会合みたいで楽しかったけれど、また同じように思えるかわからない。
「テスト期間に入ったら、そっちに集中しようね」
「会わないってこと?」
「そう。中間テストと同じ」
ぱたぱたと鈴が階段を下りていく。一段飛ばして、踊り場に着地して振り返る。
「わかった」
少しだけ大きな声で答えると、鈴がくるりと背を向けて歩き出した。踊り場の窓から差し込む光が、そう広くもない階段と廊下の継ぎ目を後にした鈴をぼんやりと照らす。
私は、彼女の背中を追う。
ステップを踏むように階段を下りる鈴に並ぶと、予鈴が聞こえてくる。
「急ごう」
普段の鈴ならチャイムなんて気にしそうにないのに、そう言って足を速めた。私も駆け出すようにして、教室を目指す。
がらりといつもの扉を開ければ、クラスメイトの大半が席に着いていた。藤原さんも、平野さんも机の上に教科書を出して、つまらなそうに黒板の方を向いている。
私は急ぎ足で席に戻って、机の中から教科書を引っ張り出す。鈴をちらりと見ると、教科書も出さずに窓の外を眺めていた。
私は視線をすぐに前へと戻す。
チャイムが鳴って、先生が教壇に立って、いつものように授業が始まる。けれど、ぼそぼそと喋る先生の話は半分も頭に残らない。ノートも真っ白のままで、何かを得ることもなく、私の午後は終わった。
放課後がやってきても、心は弾まない。鈴と一緒に帰ったけれど、思考の大半を先輩が占めていたせいで何も記憶に残ることはなかった。
期末テストの勉強を一緒に始めても、それは変わらない。先輩のことを考える時間は減ったけれど、かわりに教科書とノートに落書きが増えた。
鈴と一緒にいると、心の狭い自分に気がつく。
語られない時間、知らない先輩、隠された気持ち。
そうしたものが許せなくなっていく自分が嫌になる。紙に落ちたインクが滲んで、広がっていくように、綺麗だとは言えないドロドロとしたものが私の中を汚していく。
自分自身にできた染みのようなものは落とすことができなくて、私はテストの前日になっても勉強に集中できなかった。
「話、聞いてる?」
放課後のファーストフード店、向かい側に座った鈴に手の甲をつつかれる。感じることすら忘れていたざわざわとした空気に、ノートに落書きをしていた私は顔を上げた。
「うん。わからないところ、ここだっけ?」
鈴の教科書を指さし、尋ねる。けれど、教科書は閉じられ、私のノートに楕円形の生き物が書き加えられた。
「イルカとクジラって、違いがないんだって話。定義がないから、大きさだけで決めてるらしいよ」
ポテトを前に、鈴が頬杖を付いてつまらなそうな顔で言った。でも、それは朧気にだけれど記憶にある会話と一致しない。一応は話を聞いていた私は、首を傾げる。
「そんな話、してた?」
「してないよ」
鈴があっさりと言い放ち、両手を前に伸ばしてうーんと唸った。
「イルカ、好きなの?」
「別に」
「鞄に付けてるし、好きなのかと思った」
「ああ、これ。そんなに好きじゃないよ。もらったから付けてるだけ」
鞄を手に取り、鈴がピンク色のキーホルダーを指で弾く。実際の色とはかけ離れたイルカが泳ぐように揺れた。
「じゃあ、仲が良い人からもらったんだ」
「なんでそう思うの?」
「鈴って、好きじゃないものつけたりしないでしょ」
悪気の欠片もなく、鈴は好きなものを私に押しつけてくるけれど、嫌いなものの話はあまりしない。そして、言いたくないことは決して話してくれない。好ましくないものは寄せ付けないとでも言うように、好きなものだけを集めているように見えた。
「まあね」
店内に溢れるハンバーガーの包み紙を剥がす音のように、鈴が軽く答える。
「それでもつけてるってことは、仲が良いってことじゃないの?」
「そうかもね」
「私がそういうのあげたら、つける?」
「それ、つけないと思われてるってこと?」
「……自信ないもん」
自分で聞いておきながら、鈴の言葉に肩を落とす。
私にとって、他人の言葉は聞き流すものだった。けれど、今は違う。鈴の言葉に振り回されて、感情が乱される。こんなことを望んでいたわけではないから、今の状況を楽しいとは思えなかった。
「自信持ちなよ」
元気のないポテトを一本つまんで、鈴が言った。
焼かれたり、揚げられたりと散々な目に遭ったジャンクフードの匂いに包まれた店内を見れば、制服を着た女の子たちが楽しそうに笑っている。
目に映る世の中が随分と楽しそうで、私はため息を一つついた。
“つける”という一言が欲しかったのかはわからない。わからないけれど、胸の中にもやもやとしたものが残って、私は手をぎゅっと握った。
誰かが立ったら、誰かが座る落ち着かないファーストフード店は、常に忙しなく誰かが動いている。私には、鈴がそんなたくさんいる誰かの一人に見えた。
「帰ろうか」
鈴が立ち上がって、鞄を持つ。
キーホルダーが揺れて、私は目を強く閉じてから開く。
「そうだね」
教科書を詰め込んだ重たい鞄を手に取って、店を出る。駅までの数分、つまらない話をしながら歩く。
電車が来る時間が近づいて、私は鈴を見送る。
家に帰っても、勉強をする気が起きなかった。
結局、何もしないまま翌日になり、期末テストが始まって、鈴が中間テストと同じように先に帰った。私は、ここがあっていた、間違っていたと答え合わせをしている藤原さんと平野さんに手を振って教室を出る。
廊下をゆっくりと歩いて下駄箱へ向かう。
真っ直ぐ家に帰って、中間テストと同じように教科書とノートを開いて勉強する。
そうするつもりだったのに、足が勝手に美術室へ向かう。行っても意味がないと思う私は家に帰りたいのに、鈴が本当に帰ったのか確かめたいと思う私が体を運んでいく。二つの意思の片方だけが重くなって、足を止めることができなかった。
階段の上、鉄の扉に寄りかかった鈴の声が降ってくる。それは冷たくはないけれど、温かくもない。感情というものが欠如した声だった。瞳もガラス玉のように、何の表情もない。でも、唇は柔らかなカーブを描き、微笑んでいることをわざとらしくアピールしていた。
きっと、鈴は怒っている。
私は、返事をするのも忘れてごくりと唾を飲み込んだ。
「晶って、屋上によく来るの?」
口を開くことすら出来ずにいる私に、焦れたように鈴が言う。苛立ちを隠すようにゆっくりと告げられた言葉に答える前に、親密な距離にいた青い上履きが鈴から少し離れた。
「ほとんど来ないかな」
「じゃあ、今日は珍しいんだ。屋上に何か用でもあった?」
「別にないよ。たまたま来たら鈴がいただけ。鈴こそ、こんなところで何しているの?」
屋上へ続く扉は閉まっているのに、肌寒さを感じて声が小さく震えた。私は、吹いてもいない風に耐えるようにスカートをぐしゃりと握る。
「先輩と話してた」
そう答えて、鈴が隣を見た。長い髪を一つに束ねた“先輩”が切れ長の目をさらに細め、私に視線を合わせる。鈴よりも白い、というよりも青白く見える顔は、歳が一つしか変わらないにも関わらず、もっと年上に見えるほど落ち着いた表情を浮かべていた。
「初めまして。鈴の友達?」
どういう先輩かは知らないけれど、何かの先輩であるらしい青い上履きが階段を二段下り、名乗らずに私に近づく。
「そうです」
「美術部に入らない?」
唐突に、大人っぽい雰囲気とはかけ離れた脳天気な声で先輩が言った。
「え?」
「幽霊部員しかいなくて、廃部になりそうなんだよね」
「美術部なんですか?」
間の抜けた質問だったと思う。
幽霊部員の存在なんて知らないし、絵を描こうと考えたことすらない私にとって、美術部の存亡なんて興味のない話だった。それなのに、私は先輩のペースに巻き込まれ、くるりと包まれて身動きが取れなくなっていた。
「あたしは引退したから、元ね。で、入部する?」
「……しません」
「そっか、残念。鈴は入部する?」
「しない」
「やっぱり駄目か。勧誘失敗したし、あたしは教室帰ろうかな」
それほど残念でもなさそうに言って、先輩は階段を一歩下りる。そして、振り返って鈴を見た。
「またね」
ひらひらと手を振って、先輩がぱたぱたと足音を立てて階段を下り、踊り場で一度足を止めて私を見てから立ち去った。
「知り合い?」
私は階段を上って、先輩がいた場所を避けるようにして鈴の隣に立つ。
「まあね」
「鈴って部活、やってないよね」
答えは、聞くまでもなく知っていた。鈴は帰宅部で、いつも私と一緒に帰っている。ただ、私が鈴に会えずに委員会へ行くことになった日、確か彼女は用事があって美術室にいたと言っていた。
私の頭の中で、元美術部の先輩と鈴が繋がる。あまり良い気分はしない。
「この前も言ったけど、やってないよ」
「……なんで、美術部の先輩と仲が良いの?」
なるべく普通に、と思ったけれど、口から出た声は小さなものだった。
私は屋上と階段を隔てる扉に、背中をぴたりと付ける。制服越しでもわかるひんやりとした感覚に、鳥肌が立ちそうになる。返事がなかなか聞こえてこなくて、扉にぺたりと手のひらをつけると、体の半分くらいが冷えたような気がした。
「仲よさそうに見えた?」
たっぷり三十秒ほど経ってから答えが返ってくる。鈴を見ると、視線がくすんだ床に張り付いていた。
「良くないの?」
「美術部に入部するほど仲良くはないけど、悪くもないかな。それと、先輩とは美術部に見学に行ったときに知り合っただけだよ」
聞きたいことはこれでしょ、と言わんばかりの口調で鈴が言った。けれど、彼女の言葉が正しいとは思えない。
友達と言うには近しい距離にいた二人。
肩と肩が触れ合って、制服が混じり合っていた二人。
仲良くもないけれど、悪くもないという二人には見えなかった。
私は階段を一つ下りて、鈴をもう一度見る。床に張り付いていた視線が私に向けられる。冬空のような凍えた目で見られて、私はそれ以上先輩との仲を聞くことができなくなった。
「――そっか。なんで入部しなかったの? 先輩、入部して欲しそうだったけど」
「美術部がどうなろうと関係ないし、絵の才能もないし、帰宅部の方が気楽だから。晶は? 美術部入りたい?」
「私も絵の才能ないし。それに、美術部には興味ない」
ぺたん、ともう一段階段を下りると、鈴が私の隣にやってくる。そして、にこりと笑顔を貼り付けて言った。
「もうすぐ期末テストでしょ」
「そうだね。勉強まったくしてないけど」
「じゃあ、また一緒に勉強しようよ」
「うん」
条件反射のように喉の奥から飛び出した言葉が、埃っぽい空間にぽかりと浮かんで消える。
私の苦手な科目が得意で、私が得意な科目が苦手な鈴。
中間テストのときは、お互いを補い合うように勉強を教え合った。静かな図書館で過ごす時間は秘密の会合みたいで楽しかったけれど、また同じように思えるかわからない。
「テスト期間に入ったら、そっちに集中しようね」
「会わないってこと?」
「そう。中間テストと同じ」
ぱたぱたと鈴が階段を下りていく。一段飛ばして、踊り場に着地して振り返る。
「わかった」
少しだけ大きな声で答えると、鈴がくるりと背を向けて歩き出した。踊り場の窓から差し込む光が、そう広くもない階段と廊下の継ぎ目を後にした鈴をぼんやりと照らす。
私は、彼女の背中を追う。
ステップを踏むように階段を下りる鈴に並ぶと、予鈴が聞こえてくる。
「急ごう」
普段の鈴ならチャイムなんて気にしそうにないのに、そう言って足を速めた。私も駆け出すようにして、教室を目指す。
がらりといつもの扉を開ければ、クラスメイトの大半が席に着いていた。藤原さんも、平野さんも机の上に教科書を出して、つまらなそうに黒板の方を向いている。
私は急ぎ足で席に戻って、机の中から教科書を引っ張り出す。鈴をちらりと見ると、教科書も出さずに窓の外を眺めていた。
私は視線をすぐに前へと戻す。
チャイムが鳴って、先生が教壇に立って、いつものように授業が始まる。けれど、ぼそぼそと喋る先生の話は半分も頭に残らない。ノートも真っ白のままで、何かを得ることもなく、私の午後は終わった。
放課後がやってきても、心は弾まない。鈴と一緒に帰ったけれど、思考の大半を先輩が占めていたせいで何も記憶に残ることはなかった。
期末テストの勉強を一緒に始めても、それは変わらない。先輩のことを考える時間は減ったけれど、かわりに教科書とノートに落書きが増えた。
鈴と一緒にいると、心の狭い自分に気がつく。
語られない時間、知らない先輩、隠された気持ち。
そうしたものが許せなくなっていく自分が嫌になる。紙に落ちたインクが滲んで、広がっていくように、綺麗だとは言えないドロドロとしたものが私の中を汚していく。
自分自身にできた染みのようなものは落とすことができなくて、私はテストの前日になっても勉強に集中できなかった。
「話、聞いてる?」
放課後のファーストフード店、向かい側に座った鈴に手の甲をつつかれる。感じることすら忘れていたざわざわとした空気に、ノートに落書きをしていた私は顔を上げた。
「うん。わからないところ、ここだっけ?」
鈴の教科書を指さし、尋ねる。けれど、教科書は閉じられ、私のノートに楕円形の生き物が書き加えられた。
「イルカとクジラって、違いがないんだって話。定義がないから、大きさだけで決めてるらしいよ」
ポテトを前に、鈴が頬杖を付いてつまらなそうな顔で言った。でも、それは朧気にだけれど記憶にある会話と一致しない。一応は話を聞いていた私は、首を傾げる。
「そんな話、してた?」
「してないよ」
鈴があっさりと言い放ち、両手を前に伸ばしてうーんと唸った。
「イルカ、好きなの?」
「別に」
「鞄に付けてるし、好きなのかと思った」
「ああ、これ。そんなに好きじゃないよ。もらったから付けてるだけ」
鞄を手に取り、鈴がピンク色のキーホルダーを指で弾く。実際の色とはかけ離れたイルカが泳ぐように揺れた。
「じゃあ、仲が良い人からもらったんだ」
「なんでそう思うの?」
「鈴って、好きじゃないものつけたりしないでしょ」
悪気の欠片もなく、鈴は好きなものを私に押しつけてくるけれど、嫌いなものの話はあまりしない。そして、言いたくないことは決して話してくれない。好ましくないものは寄せ付けないとでも言うように、好きなものだけを集めているように見えた。
「まあね」
店内に溢れるハンバーガーの包み紙を剥がす音のように、鈴が軽く答える。
「それでもつけてるってことは、仲が良いってことじゃないの?」
「そうかもね」
「私がそういうのあげたら、つける?」
「それ、つけないと思われてるってこと?」
「……自信ないもん」
自分で聞いておきながら、鈴の言葉に肩を落とす。
私にとって、他人の言葉は聞き流すものだった。けれど、今は違う。鈴の言葉に振り回されて、感情が乱される。こんなことを望んでいたわけではないから、今の状況を楽しいとは思えなかった。
「自信持ちなよ」
元気のないポテトを一本つまんで、鈴が言った。
焼かれたり、揚げられたりと散々な目に遭ったジャンクフードの匂いに包まれた店内を見れば、制服を着た女の子たちが楽しそうに笑っている。
目に映る世の中が随分と楽しそうで、私はため息を一つついた。
“つける”という一言が欲しかったのかはわからない。わからないけれど、胸の中にもやもやとしたものが残って、私は手をぎゅっと握った。
誰かが立ったら、誰かが座る落ち着かないファーストフード店は、常に忙しなく誰かが動いている。私には、鈴がそんなたくさんいる誰かの一人に見えた。
「帰ろうか」
鈴が立ち上がって、鞄を持つ。
キーホルダーが揺れて、私は目を強く閉じてから開く。
「そうだね」
教科書を詰め込んだ重たい鞄を手に取って、店を出る。駅までの数分、つまらない話をしながら歩く。
電車が来る時間が近づいて、私は鈴を見送る。
家に帰っても、勉強をする気が起きなかった。
結局、何もしないまま翌日になり、期末テストが始まって、鈴が中間テストと同じように先に帰った。私は、ここがあっていた、間違っていたと答え合わせをしている藤原さんと平野さんに手を振って教室を出る。
廊下をゆっくりと歩いて下駄箱へ向かう。
真っ直ぐ家に帰って、中間テストと同じように教科書とノートを開いて勉強する。
そうするつもりだったのに、足が勝手に美術室へ向かう。行っても意味がないと思う私は家に帰りたいのに、鈴が本当に帰ったのか確かめたいと思う私が体を運んでいく。二つの意思の片方だけが重くなって、足を止めることができなかった。
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