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第一話 痣が作った恋
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「美代子、その顔は、どうしたんや」
鏡台に向かう女の白い項に、男の低い声が突き刺さる。
振り向かなくとも、夫である入江健司の冷たい視線が背中に注がれているのが分かった。
入江美代子は紅を引く手を止め、鏡に映る自分の左頬に目をやる。
薄化粧の下、青黒い痣が痛々しく滲んでいた。
「昨夜、お前、ふらふらして柱に顔をぶつけとったよな?」
「はい……すみません。少しふらついて柱に」
「ほうか」
健司はそれ以上何も言わず、美代子の隣に腰を下ろして煙草に火をつけた。
紫煙がゆらりと立ちのぼり、鏡の中の夫婦の顔を曖昧にぼかす。
この男は決して謝らない。ただ、自分のつけた傷跡を確かめるように眺めるだけだ。
「わしの顔に泥を塗るような真似だけは、せんでくれよ」
言い捨てて部屋を出ていく広い背中を、美代子はただ黙って見送った。
ふと、再び鏡に目を戻す。そこに映っているのは、今年で二十六になる女の、冷たく整った顔だった。
切れ長の目に、すっと通った鼻筋。自分でも愛想のない顔だと思うことがある。
きっちりとシニヨンにまとめた髪は、一筋の後れ毛もなく、まるで彼女の心を縛る枷のようだ。
今日着ている薄紫のタイトなワンピースは、かつて健司が機嫌の良い時に洋服店で見立ててくれたものだった。だが、今の美代子には、その上品なシルエットさえ、頬の痣の色と重なって不吉に見えるのだった。
昭和三十七年、高松──。
港を縄張りとする細川組の若頭の妻という立場は、この海沿いの街では重い。
だが、美代子の心を占めているのは、その重さよりも、息もできぬほどの虚しさだった。
その夜、空から冷たい雨が降り注いでいた。
健司が子分たちを連れて飲みに出たのを見計らい、美代子はそっと家を抜け出した。
頬の痣を隠すように深く傘を傾け、向かうのは路地裏にある古びた銭湯だ。
組の者が使わない、ささやかな安息の場所だった。
「ごめんください」
そう言って暖簾をくぐってみると、番台に、いつもいるはずの老婆の姿がなかった。
代わりに座っていたのは、見慣れない若い男だった。というより、見覚えのある顔だった。
細川組に入ってまだ日の浅い、銀太郎という青年だ。
「あっ、姐さん……」
銀太郎は驚いたように目を見開き、慌てて立ち上がろうとする。
「あぁ、ええで。おばあさんはどうしたん?」
「婆ちゃん、風邪ぇこじらせとって……わし、孫なもんで、代わりに来とるんです」
朴訥とした喋り方だった。
──若頭の姐さん、噂に違わず美しい人や……。
銀太郎は内心で息を呑んだ。
雨に濡れて艶を増した黒髪。グレーのシンプルなトレンチコートの襟元から覗く、繊細なレースのブラウス。
派手さはないが、それがかえって彼女の気品と、どこか儚げな雰囲気を際立たせていた。
美代子は小さく頷き、湯銭を三枚、その手に渡す。
その時、傘を畳んだ拍子に乱れた髪をかき上げた。露わになった頬の痣が、銀太郎の目に入ってしまった。
「そこ……どうしたんです?」
銀太郎は美代子を気遣って、遠慮のない声をかけたが、ここで「あっ」と思い、すぐに口を固く閉ざした。
その素朴さが美代子の胸を締め付けた。
今、ここには人気など、まるでない。
浴室で身を洗い流し、誰もいない湯船に体を沈めていく。
そして重いため息を吐いた。湯気が痣の熱を和らげてくれる。
夫の暴力にも、もう慣れたはずだった。
しかし、あの言いようは、耐えがたかった。
理由もなく自分の拳で殴りつけておきながら、そして美代子が意識を失いかけて、柱にもたれかかったのを見ておきながら、自分は何も知らないという顔。
さらには、美代子自身の不注意だったことにする言いようのない卑劣さ。
──あんなん、図体以外、なんも男らしぃない。
小一時間ほどして湯から上がると、番台にはまだ銀太郎が一人で座っていた。
美代子が黙って通り過ぎようとした時だった。
「姐さん、これ」
呼び止められ、振り返ると、銀太郎が小さな薬の壺を差し出していた。
「打ち身によく効くんじゃ。婆ちゃんがいつも使いよるやつで」
「……いらないわ」
「でも、その顔……痛むんやないですか」
まっすぐな瞳だった。ヤクザの世界には似つかわしくない、澄んだ瞳。
美代子は戸惑い、視線を逸らした。
「ええから、放っといて」
「我慢せんで……わしが塗りますけん」
銀太郎は番台から出て、美代子の前に立った。
有無を言わさぬ力強さで腕を取られ、番台の脇にある小さな椅子に座らされる。
「やめて……誰かに見られたら」
「もう終いです。誰も来いせんです」
銀太郎は薬壺の蓋を開け、真っ白な軟膏を指先ですくった。
間近で見る彼の顔は、まだどこか少年のようなあどけなさが残っていた。
少し太い眉の下で、心配そうに自分を見つめる実直な瞳。
ごつごつと節くれだった大きな指が迫り、美代子は小さく息を呑んだ。
それが頬に触れると、美代子の肩がびくりと震えた。
銀太郎の指は不器用ながらも、その芯に、優しさがあるのはよく伝わってくる。
「……っ、あ」
吐息が漏れた。それは痛みからではなかった。
痣をなぞる指の感触が、冷え切っていた体の芯に、じわりと熱を灯していく。
「すみません、痛みますか」
「ううん……」
美代子は首を横に振った。銀太郎の顔がすぐそこにある。
若い男の匂いと、自身の石鹸の香りが混じり合って、美代子の理性を揺さぶった。
気づけば、美代子の手は銀太郎の逞しい腕を掴んでいた。
「あんた……」
潤んだ瞳で見上げると、銀太郎もまた、熱っぽい眼差しで美代子を見つめ返していた。
彼の指が痣からそっと離れ、唇の輪郭をなぞる。
「姐さん……お綺麗や」
その言葉が引き金だった。
美代子は銀太郎の首に腕を回し、夢中でその唇を奪っていた。初めは驚いた銀太郎も、男だった。
力強い腕で美代子の体を抱きしめ、深く応える。
「銀太郎、あんた自分が何しよんか、わかっとるん?」
彼女はまるで銀太郎から強引に迫ったかのようなことを言いながら、また彼の唇を奪っていく。
「わからんけど、姐さん、おれ」
番台の薄暗い灯りの下、二人は互いの渇きを埋めるように求め合った。
外への鍵は銀太郎がすでに閉めていた。
「あんた、こんな悪いことできるんやな」
湯上がりの火照った肌が触れ合う。
「はい……ヤクザやけん、悪い者です」
その手はしっかりと美代子の胸を揉みしだいていた。
そして、衣服をはだけ、下半身をあらわにして、美代子もまた脱いでいく。
「男らしい、うちん人より男らしいわ」
二人の身体に甘い痺れが走った。それは夫への復讐心から始まった、危険な火遊びだった。
鏡台に向かう女の白い項に、男の低い声が突き刺さる。
振り向かなくとも、夫である入江健司の冷たい視線が背中に注がれているのが分かった。
入江美代子は紅を引く手を止め、鏡に映る自分の左頬に目をやる。
薄化粧の下、青黒い痣が痛々しく滲んでいた。
「昨夜、お前、ふらふらして柱に顔をぶつけとったよな?」
「はい……すみません。少しふらついて柱に」
「ほうか」
健司はそれ以上何も言わず、美代子の隣に腰を下ろして煙草に火をつけた。
紫煙がゆらりと立ちのぼり、鏡の中の夫婦の顔を曖昧にぼかす。
この男は決して謝らない。ただ、自分のつけた傷跡を確かめるように眺めるだけだ。
「わしの顔に泥を塗るような真似だけは、せんでくれよ」
言い捨てて部屋を出ていく広い背中を、美代子はただ黙って見送った。
ふと、再び鏡に目を戻す。そこに映っているのは、今年で二十六になる女の、冷たく整った顔だった。
切れ長の目に、すっと通った鼻筋。自分でも愛想のない顔だと思うことがある。
きっちりとシニヨンにまとめた髪は、一筋の後れ毛もなく、まるで彼女の心を縛る枷のようだ。
今日着ている薄紫のタイトなワンピースは、かつて健司が機嫌の良い時に洋服店で見立ててくれたものだった。だが、今の美代子には、その上品なシルエットさえ、頬の痣の色と重なって不吉に見えるのだった。
昭和三十七年、高松──。
港を縄張りとする細川組の若頭の妻という立場は、この海沿いの街では重い。
だが、美代子の心を占めているのは、その重さよりも、息もできぬほどの虚しさだった。
その夜、空から冷たい雨が降り注いでいた。
健司が子分たちを連れて飲みに出たのを見計らい、美代子はそっと家を抜け出した。
頬の痣を隠すように深く傘を傾け、向かうのは路地裏にある古びた銭湯だ。
組の者が使わない、ささやかな安息の場所だった。
「ごめんください」
そう言って暖簾をくぐってみると、番台に、いつもいるはずの老婆の姿がなかった。
代わりに座っていたのは、見慣れない若い男だった。というより、見覚えのある顔だった。
細川組に入ってまだ日の浅い、銀太郎という青年だ。
「あっ、姐さん……」
銀太郎は驚いたように目を見開き、慌てて立ち上がろうとする。
「あぁ、ええで。おばあさんはどうしたん?」
「婆ちゃん、風邪ぇこじらせとって……わし、孫なもんで、代わりに来とるんです」
朴訥とした喋り方だった。
──若頭の姐さん、噂に違わず美しい人や……。
銀太郎は内心で息を呑んだ。
雨に濡れて艶を増した黒髪。グレーのシンプルなトレンチコートの襟元から覗く、繊細なレースのブラウス。
派手さはないが、それがかえって彼女の気品と、どこか儚げな雰囲気を際立たせていた。
美代子は小さく頷き、湯銭を三枚、その手に渡す。
その時、傘を畳んだ拍子に乱れた髪をかき上げた。露わになった頬の痣が、銀太郎の目に入ってしまった。
「そこ……どうしたんです?」
銀太郎は美代子を気遣って、遠慮のない声をかけたが、ここで「あっ」と思い、すぐに口を固く閉ざした。
その素朴さが美代子の胸を締め付けた。
今、ここには人気など、まるでない。
浴室で身を洗い流し、誰もいない湯船に体を沈めていく。
そして重いため息を吐いた。湯気が痣の熱を和らげてくれる。
夫の暴力にも、もう慣れたはずだった。
しかし、あの言いようは、耐えがたかった。
理由もなく自分の拳で殴りつけておきながら、そして美代子が意識を失いかけて、柱にもたれかかったのを見ておきながら、自分は何も知らないという顔。
さらには、美代子自身の不注意だったことにする言いようのない卑劣さ。
──あんなん、図体以外、なんも男らしぃない。
小一時間ほどして湯から上がると、番台にはまだ銀太郎が一人で座っていた。
美代子が黙って通り過ぎようとした時だった。
「姐さん、これ」
呼び止められ、振り返ると、銀太郎が小さな薬の壺を差し出していた。
「打ち身によく効くんじゃ。婆ちゃんがいつも使いよるやつで」
「……いらないわ」
「でも、その顔……痛むんやないですか」
まっすぐな瞳だった。ヤクザの世界には似つかわしくない、澄んだ瞳。
美代子は戸惑い、視線を逸らした。
「ええから、放っといて」
「我慢せんで……わしが塗りますけん」
銀太郎は番台から出て、美代子の前に立った。
有無を言わさぬ力強さで腕を取られ、番台の脇にある小さな椅子に座らされる。
「やめて……誰かに見られたら」
「もう終いです。誰も来いせんです」
銀太郎は薬壺の蓋を開け、真っ白な軟膏を指先ですくった。
間近で見る彼の顔は、まだどこか少年のようなあどけなさが残っていた。
少し太い眉の下で、心配そうに自分を見つめる実直な瞳。
ごつごつと節くれだった大きな指が迫り、美代子は小さく息を呑んだ。
それが頬に触れると、美代子の肩がびくりと震えた。
銀太郎の指は不器用ながらも、その芯に、優しさがあるのはよく伝わってくる。
「……っ、あ」
吐息が漏れた。それは痛みからではなかった。
痣をなぞる指の感触が、冷え切っていた体の芯に、じわりと熱を灯していく。
「すみません、痛みますか」
「ううん……」
美代子は首を横に振った。銀太郎の顔がすぐそこにある。
若い男の匂いと、自身の石鹸の香りが混じり合って、美代子の理性を揺さぶった。
気づけば、美代子の手は銀太郎の逞しい腕を掴んでいた。
「あんた……」
潤んだ瞳で見上げると、銀太郎もまた、熱っぽい眼差しで美代子を見つめ返していた。
彼の指が痣からそっと離れ、唇の輪郭をなぞる。
「姐さん……お綺麗や」
その言葉が引き金だった。
美代子は銀太郎の首に腕を回し、夢中でその唇を奪っていた。初めは驚いた銀太郎も、男だった。
力強い腕で美代子の体を抱きしめ、深く応える。
「銀太郎、あんた自分が何しよんか、わかっとるん?」
彼女はまるで銀太郎から強引に迫ったかのようなことを言いながら、また彼の唇を奪っていく。
「わからんけど、姐さん、おれ」
番台の薄暗い灯りの下、二人は互いの渇きを埋めるように求め合った。
外への鍵は銀太郎がすでに閉めていた。
「あんた、こんな悪いことできるんやな」
湯上がりの火照った肌が触れ合う。
「はい……ヤクザやけん、悪い者です」
その手はしっかりと美代子の胸を揉みしだいていた。
そして、衣服をはだけ、下半身をあらわにして、美代子もまた脱いでいく。
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