高松、若頭の妻

羽翼綾人

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第四話 瀬戸の海に流されて

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 美代子は数日かけて、帳簿の写しを入念に作成した。
 そして、それをどう使うべきか、考えを巡らせた。
 ──細川組の組長さんに渡すんや。
 それしかない。健司はきっと蜥蜴の尻尾切りのように処分されるだろう。
 何よりも確実で、筋が通る。
 美代子の心は、復讐の炎で燃えながらも、不思議なほど冷静だった。
 夫の非道を、組の親に報告する。
 それは若頭の妻としての真っ当な務めだと、彼女は心に決めた。
 ──そして、うまく立ち回れば。
 この一件を、銀太郎の功績にできるかもしれない。
 美代子は、この筋を通したら、自分が無事では済まないことを予感していた。
 健司には絶対に共犯者がいるはずだ。
 それを組長なら手際良く処理して、おかしな動きを封じ込められるだろうが、それでも美代子に報復の動きがないとは言い切れない。
 場合によっては、銀太郎も巻き込まれるかもしれない。
 決行の前夜、美代子は銀太郎のアパートを訪れた。
 ──これが最後になるかもしれんね……。
 銀太郎が玄関に出ると、美代子は時間を惜しむかのようにいきなり抱きついた。
 そして、そのまま床に倒れ込んだ。「今すぐ、今すぐやってもうて!」と、銀太郎の唇を奪い、耳に強く吸い付いた。
「姐さん……どうしたん、今夜は」
 息を切らしながら尋ねる銀太郎の唇に、美代子は自身の頬を無理に押し当てた。
「ここ、吸うて、跡がつくぐらい、強う!」
 銀太郎も問いを重ねることなく、そこに唇をつけて、精いっぱい吸い始めた。
 そこは、あの痣があったところだった。
 美代子が、銀太郎の首に吸い付く。
 それまで薄紫の跡をつけたのは、外からは見えない胸や背中だけだったが、彼女は自分の愛をこの男のどこにでも永く残したいという気持ちで、強く噛みつき、ひたすらに吸い付いた。
「姉さん、本気にさせるんか?」
「そうやで、今夜は本気や。本気になって! うちんことここで殺すんで!」
 獣でもここまで狂おしくなることはないぐらい、二人は互いを求めて、バタン、バタンと転げあった。恥じらいもなく、品もなく、声をあげた。
「姐さん、なんで? なんで?」
 銀太郎は懸命な顔をして、腰を打ちつける。
「あんたんこと、愛しとるけんっ、愛しとるけん!! な、姐さんや言わんで! 美代子言うてぇ!」
「美代子、お前んこと、好きや!」
 夜が更け、疲れ果てて二人は眠りについた。
 そして、瀬戸の海に朝日が見え始めてくる。
 銀太郎の寝顔を見つめながら、美代子はそっと髪を撫でた。
「銀太郎さん……」
 起こさぬよう、囁きかける。
「あんたは、しっかり生きるんよ。もし……もし、うちがここからおらんようになっても、自分のせいやとか、絶対に思わんといてな」
 言い終えると、美代子は静かに涙を一粒こぼした。
 その日の午前中、美代子は白いシンプルなワンピースに身を包み、一人で細川組の事務所の前に立っていた。
 事務所奥の若い者に若頭の妻である旨を告げると、すぐに奥へと通される。
 組長と二人きりになった座敷は、張り詰めたような静寂に包まれていた。
「若頭の嫁御さんが、お一人とは。何ができよんや?」
「恐れ入ります。本日は、夫に代わり、お詫びとご報告に上がりにきました」
 美代子はそう言うと、深々と頭を下げ、ハンドバッグから帳簿の写しを組長の前に差し出した。
「これは……」
「夫、健司が組に内密で行っていた不正の証拠です。若頭の妻として、これ以上、組の名誉を汚す夫の所業を見過ごすことはできませんでした」
 組長は帳簿に目を通し、やがて暗い溜息をついた。その顔には怒りよりも深い失望の色が浮かんでいる。
「……それで、なぜこれをわしに」
「節義を通すためです」
 組長の頭上に「節義」と大書した額縁があった。
 美代子は顔を上げ、凛とした声で続けた。
「この一件は、若い衆の銀太郎が、彼の正義感から内々に調べていたことです。彼が、若頭の非道を正そうと動いた結果、明らかになりました。どうか、彼の忠義にご配慮いただけますよう、お願い申し上げます」
 組長は、美代子の目をじっと見つめた。その瞳の奥にある覚悟と、銀太郎という男を庇う深い愛情を、老練なヤクザは見抜いていた。
「……分かった。こん先は、わしが全部うまいことしとく。銀太郎のことは、安心しといてええ」
 組長は静かに言った。
「お前の処遇も、このわしに任せろ。今すぐ、荷物をまとめて高松を出ろ。もう二度と、この街には戻るな」
 それは、組の恥を隠し、同時に美代子の命を救うための、最大限の温情だった。組長は、机の引き出しから、札束をひとつ取り出し、「今の時代に、あんたほどの者はおらん。男でもおらん。惜しいわ。本当に」と手渡した。
 美代子は思わぬことに「その儀は」と断ろうとしたが、組長は「これだけはせんと、わしも人に『節義』や言えんようになる。頼むわ。明日にはあんたの家は、もうあんたの家ではない」と言って、そのハンドバッグの中に押し入れた。
 美代子はもう一度、深く頭を下げた。
 その日のうちに、健司は組から姿を消した。その身体も永遠に見つかることはない。
 夜が明け、高松港には宇野行きの始発便の出港を知らせる汽笛が響いていた。
 小さな荷物一つで、船のタラップを上がっていく美代子が波止場に目を向けると、一人の男が息を切らして走ってくるのが見えた。
 美代子は、あっと思った。
「銀太郎さん!」
 男は、美代子を見上げて、手を振った。
「姐さん! 親父さんに……、姐さんを港まで送るよう言われて……。どこぉ、行かれるんですか?」
 何も知らない彼の顔を見るのが、辛かった。だが、美代子は穏やかに微笑んだ。
「うん、岡山。親戚んとこ!」
「帰ってくるん、待ってますけん!」
「銀太郎さん、あんたはぁ、これからやけんな。親父さん言うこと、よう聞いてぇ。立派な男、ならないかんでぇ!」
 そう言うと、美代子は後ろからやってくる客に押されるように船へと足を進めていく。
 本当はこれから、行き先未定の一人旅──。
 彼には祖母がいる。無理に連れていくことはできなかった。
 彼に自分を追わせるわけにもいかない。
 美代子は、頬に残る愛の痣を撫でながら、席についた。
 波が大きく船を揺らす。
 そしてもう、高松には振り返らなかった。
【終】
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