上 下
31 / 51
G6第六戦:プレジャーRd

第三十話:黒い天使と白い悪魔

しおりを挟む
 ひとたびオトコとして生まれたからには、決して他人ひとには見せたくない、そんな情けない場面というものが必ず出現する。
 まあ、その基準となるものはひとそれぞれといったところなんだろうが、少なくとも粗相で汚れた自分のパンツを無言で洗っている姿なんぞは、その最右翼だって言い切ることができるだろう。
 目覚まし時計に介入されたこの俺が夢の中から舞い戻ったのは、まだ陽が昇って間もない午前五時過ぎのことだった。
 普段なら、まず起床することのないこの時間帯。
 体内時計が主に文句を付けるのも、ここは致し方のないところだと思う。
 そっか。今日は薫子との約束があるんだっけ。
 ボケた頭でそのことを思い出し、俺はベッドの上で身を起こした。
 そう。今日はあいつとの約束で、地元開催のジムカーナ練習会にそろって参加することとなっているのだ。
 待ち合わせ場所は、行程途中にある高速道路のサービスエリア。
 七時にそこで落ち合って朝食を取り、そのまままっすぐ会場入りするってのが、薫子と定めた本日序盤のスケジュールだった。
 とりあえず熱いブラックホットコーヒーでも飲んで、それからひとっ風呂浴びて来るか。
 ふとそんなことを思い立ち、俺はゆるりと身体をひねる。
 無造作に布団を除けつつ、居心地のいい寝床からの脱出行動を試みた。
 異様な香りが鼻を突いたのは、その瞬間のことだった。
 はっきりと嗅ぎ覚えのある、不愉快極まるイカの香り。
 股間で味わう粘着感が、続けて俺の後頭部を打つ。
 やっちまった!
 速攻ですべてを把握し、パンツの中を確認する俺。
 直に見たそこは、まさに地獄絵図と言っていいものだった。
 たんまりと放出された白濁液が、ねばねばとした過激なアートを現出している。
 そしてその惨状のど真ん中では、電柱みたいな俺の息子が「自分は今朝も元気だよ」と親に向かって訴えていた。
 これで三週連続か──…
 いまにも何かを言いたそうなマイ愚息。
 その先端としばしの睨めっこを楽しんだのち、俺は深々と頭を抱えた。
 「俺って、こんなに絶倫だったか?」と、自嘲気味な呟きが思わず口を突いて出る。
 思春期の頃ですら経験したことのない、睡眠中の射精行為。
 巷では「自分でするより気持ちがいい」とさえ言われているが、残念ながらそいつを実感したことはない。
 でも、その引き金となっているのがなんであるかの確信はあった。
 薫子だ。
 あいつと出会ってすぐの時にもこういうことは何度かあったが、先日の罰ゲームデート以来、発生頻度は加速度的に高まっている。
 あいつを抱きたい。
 あいつのオンナに自分のオトコを突き入れて、子宮に子種を植え付けたい。
 あいつを孕ませ、俺だけのものにしたい。
 そんな行為を求めてる、下衆な我が身を自覚していた。
 駄目だ、駄目だ、駄目だ。
 繰り返し頭を振りつつ、俺は黙って風呂場に向かった。
 衣服を脱いで洗濯機にポイ。
 湯舟を満たす合間を使って、汚れたパンツを揉み洗いする。
 生身のオンナと絡んだところで、いいことなんてひとつもないだろ?
 俺の脳裏で、もうひとりの俺が叫んだ。
 初恋の顛末あかねとの一件を思い出してみろ。
 三次元オンナなんて生き物はな、上っ面と中身とが行って帰ってくるほどに違うんだよ。
 清純な二次元乙女フレデリカたちと違って、薄汚い本性をあいつら全員が抱え込んでるんだよ。
 それにな。
 おまえの面は、あの薫子と釣り合いの取れるシロモノなのか?
 オンナがオトコを顔で選ぶってのは、そりゃあもう絶対的な真実だぞ?
 空が青かったり、海の水がしょっぱかったりするのと同じレベルだ。
 どんな天才科学者だって、それを否定することなんてできるわけない。
 否定の根拠は、ただ感情論があるのみだ。
 なあ楠木圭介。
 おまえはまず、自分の商品価値って奴を自覚しろよ。
 そしてそれが済んだら、次は現実って奴を見詰めなおせ。
 現実って奴はな、いまのおまえが期待してるほど優しいもんじゃないぞ。
 傷付きたくないんだろ?
 痛い目見たくないんだろ?
 だったら、なんで他人に期待する?
 なんで他人を信用する?
 初めから期待しなければ、そもそも失望することなんてないぞ。
 初めから信用しなければ、そもそも裏切られることなんてないぞ。
 いままでの経験で、独りで生きてくことを決めたんだろ?
 殴られて、罵られて、毛嫌いされて、それが骨身に染みたんだろ?
 だったらなんで、いまさらそれを翻す?
 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」って言うじゃないか。
 おまえはもう、十分すぎるほど経験に学んだ。
 これ以上、愚かな道を選択してなんになるってんだ?
 立て続けの正論が、俺の脳裏に飛来する。
 これまでの俺だったら、黙ってそれを受け入れてたろう。
 でも今朝の俺、いや、ここ最近の俺は、その正論に反発することが増えていた。
 突如出現した三人目の俺が、斜に構えた二人目を諭す。
 でもあのオンナは、薫子だけは違うんじゃないかな──…
 他所には出せない作業が終わり、熱めの湯舟に浸かった俺は、弛緩した頭でそう思った。
 まるで自分自身に言い聞かせるよう、何度も何度もそう思った。
 表情豊かなあいつの顔が、俺の心を制圧する。
 澄まし顔の薫子。
 悪戯猫みたいな薫子。
 莫迦笑いする薫子。
 膨れっ面の薫子。
 真面目腐った薫子。
 そして、イケメン相手に啖呵を切る薫子──…
 あいつと出会ってからの数か月、そのドタバタした流れを可能な限り思い出し、俺は不思議な感覚に身を任せていた。
 確か「恋人はいない」みたいなこと言ってたよなァ、あいつ──…
 「トラップRdラウンド」前夜に聞いた、奴の言葉を反芻する。
『あたしはね、「医者」なの。それも、親の七光りとかで登ってきたエリートさんたちと違って、苦学生しながら医師免許取った、紛うことなきぺんぺん草なの。そこいらにいる同性と同じようにグルメやオシャレの時間を楽しむ、そんな余裕なんてちっともなかったの。暇さえあれば、勉強勉強また勉強。わかる? こんなコイバナひとつまともにできないあたしみたいな女にはね、普通の男女は寄ってこないの』
 待てよ。
 そしてその刹那、突然俺は気付いてしまった。
 てぇことは、なんだ?
 ひょっとしていま俺が立ってるのは、オトコとして、あいつの側に一番近い場所だっていうことか?
 二度三度、お湯をすくって顔を洗う。
 思い至った内容を、頭の中でリサーチした。
 それってつまり、俺にもチャンスがあるってことだよな。
 そんな無様な結論が、俺の頭蓋に降臨した。
 もちろんのこと自覚はある。
 その内容が、あまりにも手前勝手だって言うことに、だ。
 しがないエロ漫画家に過ぎない俺と、社会的にも認められた職業医師の薫子とでは、文字どおり人間としての格が違う。
 職業に貴賤はない。
 綺麗事を言うなら、そりゃあ確かにそのとおりだろう。
 でも現実社会というものは、哀しいことにそんな建前だけの世界ではない。
 娑婆の人間百人に聞いたら、そのうちの九十人以上は医者の立場をエロ漫画家の上に置く。
 そうした事実に疑う余地などひとつもなかった。
 その上さらに、外見格差という切実な障壁が俺たちふたりの間にはあった。
 方や、道行く男がことごとく振り返るような「絶世の美女」
 方や、リア充どもにゴミ扱いされるような「非モテの眼鏡」
 どう楽観的に捉えても、男女としては釣り合いの取れるレベルにない。
 月とスッポン。
 雲泥万里。
 提灯に釣り鐘。
 あまりに隔たりがありすぎて、問題外という評価が可愛らしく聞こえてくるくらいだ。
 まともな視点でこれを見れば、俺にチャンスなんてあるわけなかった。
 薫子アイツを手に入れる機会なんて訪れるわけなかった。
 確率を計算するのもおこがましい。
 竹槍で爆撃機を撃墜するほうがまだ期待できる。
 まさに、それっくらいの夢物語だった。
 なのにいまの俺は、そんなどうしようもない期待をちょっぴりだけど抱いている。
 寄りにも寄って、あの薫子を俺専用にできるかも、なんていう身の程知らずな願望を、心の奥で弄んでる。
 これぞまさしく増上慢。
 我田引水極まれり。
 その手の教科書があったとしたら、太文字にして載せてもいいくらいだった。
 でも同時に、その淡い期待を拭い去ることもまた、俺にはどうしてもできなかった。
 ありもしない一縷の望みって奴を、どうやっても払拭できなかった。
 こいつは危険な兆候だ。
 そんな風に俺は思った。
 理由は簡単。
 この心境に、確たる覚えがあったからだ。
 それは、俺が山崎あかね想い人に告白しようと昂っていた、あの高校三年の時とまったく同じ心境だった。
 身の丈と真実とを知らなかったオコチャマ過ぎる当時の俺。
 そんな出来損ないに現実認識を誤らせた、あの時の心境とまったく同じそれだった。
 これはまずい。
 まずい、まずい、まずい──…
 必死に自分を戒めながら、俺はずるっと身体を沈めた。
 風呂の湯面が、上唇をするりと飲み込む。
 俺の中に君臨していた常識っていう名の軍師が、その危険性を最大デシベルで主張しだした。
 いいか。
 薫子だって、しょせんはだ。
 なんだ。
 迂闊な気持ちで心を許せば、必ずしっぺ返しを喰らわしてくるはずなんだ。
 あかねを見ろ。
 あいつの主張を思い出せ。
 あいつはなんと言っていた?
 に求めるものは、徹頭徹尾、ルックス&セックスだって言ってなかったか?
 オンナっていう生き物はな、そもそもそういう存在なんだ。
 その場の打算と快楽だけを求めて生きてる。
 否定する材料なんてどこにもない。
 あらゆる数字が、その正しさを物語ってる。
 そんな腐った連中が、俺らみたいな非イケメンの底辺野郎サンドバッグを、まともに扱うわけなんてないだろう?
 油断するな!
 警戒しろ!
 弱みを見せるな!
 薫子だって例外じゃないぞ。
 そんなこと、ちょっと考えればわかるだろ?
 あれだけの美女に付き合ってる男がいないだなんて、本当だったらありえない話なんだ。
 たとえ奴の側にその気がなかったとしても、ダボハゼみたいなリア充どもが、あいつのことをフリーにしておくわけがないんだ。
 推測しろ!
 論を巡らせ!
 じゃあ、なんでいま奴の隣に特定の彼氏オトコがいないんだ?
 貴重なはずのプライベートタイムを、なんで俺みたいな非モテと過ごしてたりするんだ?
 あいつのスペックをもってすれば、どれだけだって良縁があったはずだ。
 ハイレベルな男を掴み取りすることくらい、造作もないことだったはずだ。
 なのに、いったい、どうしてだ?
 それはたぶん、何か重篤な理由があったからに違いないんだ。
 そう。
 あれだけのオンナに男っ気がない、その現実を招いたあいつは決定的な理由ワケあり物件だがあったからに違いないんだ。
 その理由って奴は、きっと深入りした俺をガブっとやるに違いない。
 水辺で待ち伏せるワニみたいに、俺を攻撃するに違いない。
 莫迦な非モテを食い物にすべく、襲い掛かるに違いない。
 いやそれは、きっと、なんていう甘い表現で語るべきじゃないだろう。
 確実に、という正しい言葉で表すべきだ。
 なぜならあいつはだからだ。
 俺たちみたいなの非モテオタクが信用するに値しない、そんな最低最悪の生き物だからだ。
 だけど、だけど、だけど──…
 ドス黒い感情溢れる俺の内部で、ほんのわずかな冷や水が小さくそっとささやいた。
 もし本当に奴の言うとおりだったら。
 もし本当に、奴の言うとおり男と縁がなかっただけだったとしたら、おまえはいったいどうするんだ?
 自分で自分にブレーキかけて、それで後悔しないって言えるのか?
 幸運の女神ってのは、前髪しか生えてないんだ。
 その前髪を掴み取るには、彼女とすれ違うその前に、自分から手を伸ばさないといけないんだ。
 自分の気持ちを偽るのなら、いくらでもそうすればいい。
 でも、いまのおまえは、そんな自分を許せるのか?
 あいつに対する酷い評価を吐きながら、それでもおまえはここ最近、あいつのことばかり考えてるじゃないか。
 過激な発言ばっかりだけど、気さくに話せて楽しくて、誕生日いつだろうとか、好きな食べ物はなんだろうとか、四六時中、あいつのことばかり考えてるじゃないか。
 そんなおまえが、そんな自分を押しつぶせるのか?
 改めて、自分の気持ちを見詰めなおせ。
 こんなチャンスは二度とないぞ。
 決断しなかったことをあとあとになって後悔するくらいなら、潔く玉砕して、その蛮勇をこそ後悔すべきなんじゃないのか?
 黒い天使と白い悪魔が、俺の頭上で喧嘩を始める。
 戦況は、いまのところ五分だ。
 どちらの言に耳を傾けるべきなのか、一向に考えがまとまらない。
 そんな時、夢の中で薫子が発した台詞、そのひとつが耳の奥に蘇ってきた。.
 それはあまりにも生々しい手管で、俺の背筋を上から下まで撫でさする。
 組み伏せられた幻のあいつが、艶めかしい唇で言葉を紡いだ。
『あの……あたし、初めてなの。だから、お願い……優しくして』
「まさか、な」
 自嘲気味な苦笑いが、つい俺の口元をほころばせた。
しおりを挟む

処理中です...