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G6第六戦:プレジャーRd

第三十四話:開かれた扉

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 あれからいったい、どれぐらいの時が経ったんだろう?
 気が付いたとき、俺はまだ深淵の片隅で、身動ぎもせず膝を抱えたままだった。
 その場所は、紛れもなく俺の部屋。
 いや、紛れもないこの俺だけの「神殿」だった。
 締め切られたカーテンが外の光を完全に遮断し、主の孤独を強烈に後押ししている。
 暗闇が支配する重々しい空間。
 だが、かろうじて光源はあった。
 点けっ放しになっている壁面のプラズマテレビだ。
 もちろんそこには、なんの画像も映っていない。
 ただぼんやりとした四角い画面が、ほのかな灯りを周囲に発しているだけだった。
 崇める女神を失った独りよがりの神官と、神々しさの欠片すらないその棲家。
 ぼやけた視線がひと回り、あたり一面をスキャンした。
 なぜそうしたかには理由がない。
 ただなんとなく、といった表現こそが、たったひとつの正解だった。
 冷たい光に照らされて、白い何かが浮かび上がる。
 それは、床一面に散らばっている手提げの付いたビニール袋だ。
 その中には、コンビニ弁当の空き容器だの飲み残しの入ったペットボトルだのが、なんとも無造作に放り込まれていた。
 買い物に出た記憶はないけど、断食をしてたってわけでもなさそうだな。
 他人事のようにそう思う。
 とは言いつつも、そいつをヨシと思えるだけの余裕なんて、この時の俺には存在しなかった。
 ぼやけた頭が唐突に空腹を認識する。
 仕方がない。何か食べるか──…
 めんどくさいが、身体を動かす気になった。
 床上を這いずるように移動して、ビニール袋のいくつかを物色。
 そのうちのひとつに、手を付けてないハンバーガーを発見した。
 無開封パックのオレンジジュースも一緒に、である。
 その場で無造作に胡坐を組み、俺は手にしたそれらを口に運んだ。
 噛り付き、咀嚼し、吸引し、機械的に飲み込んだ。
 確かめてはないが、買ってからそれほど日にちが経ってなかったんだろう。
 幸いにして、おかしい味はしなかった。
 まあ、たとえ痛んだシロモノであっても、全然気になどしなかっただろうが。
 オレンジジュースの甘い酸味が、俺の意識を覚醒させる。
 とはいえ、完全に、というわけにはさすがにいかない。
 とりあえず完調を百とするなら、せいぜい二十から三十が関の山と言ったところか。
 それでもそいつは、俺という人間が人間らしい反応を見せるために必要な最低ラインをギリギリのところでクリアしていた。
 プラズマテレビの画面を背にして、改めて自室の惨状を実感する俺。
 至るところにゴミが溢れた狭い部屋で、片隅に見えるベッドシーツの白さだけが奇妙な具合に浮いていた。
 その光景は、なんだかひどく幻想的で、現実離れしているように見えた。
 とてもじゃないが、この世のそれとは思えないくらいだ。
 おかしいな。
 ボケた頭で俺は思った。
 この光景は、以前どこかで見た覚えがあるぞ。
 それはどこだ?
 どこだ?
 どこだったっけ?
 俺は、記憶の引き出しを無意識に漁った。
 どういうわけか、心の中のもう一人の自分が必死にそいつを制止した。
 が、実際の俺は、まったく聞く耳を持たなかった。
 異変が起きたのは、まさにそんなおりでの出来事だ。
 ゴミの散らばる床の上。
 その一角にある闇の中から、そいつはぞろりと現れた。
 それは、紛れもなくオンナだった。
 豊満な胸、細い腰、水蜜桃みたいな丸い尻──…
 長い茶髪を振り乱した、一糸まとわぬ裸のオンナだ。
 染みひとつない柔肌が、大理石みたいに冷たく光る。
 温もりなどは少しもない。
 艶やかだがただひたすらに冷たい、
 そう、ただひたすらな冷たさだけが目立つ、悪い意味で白雪みたいな、そいつはそんな輝きだった。
 その存在がヒトでないのは明らかだった。
 なぜなら、卵型をした奴の顔には、本来そこにあるはずの各種パーツがなかったからだ。
 だからといって、のっぺらぼうってわけでもない。
 ルージュを引いた唇だけが気持ち悪いくらいの媚を浮かべていた。
 俺は我が目を疑った。
 山崎あかねを上回る、俺の人生最大の悪夢。
 そいつがついに、現実世界に浸食を果たしたのだ。
 これを恐怖と言わずになんと言おう。
 戦慄が一気に背筋を駆け抜けた。
 逃げだしたくても、肉体が硬直して微動だにしない。
 お袋──…
 必死になって憎悪を煽り、俺はそいつを睨みつけた。
 言葉にならない激情を、強引にのどの奥から絞り出す。
 アンタ、実の息子にあれだけの真似をしでかしといて、まだこの俺を苦しめようってのかよッ!
 あれだけの不実を、あれだけ堂々と見せつけておいて、その上で、まだこの俺を絞めつけようってのかよッ!
 オンナめッ!
 オンナめッ!
 汚らわしいオンナめッ!
 いい加減にしろッ!
 いい加減にしろッ!
 いい加減にしろッ!
 もういい加減に、俺を解放してくれよォッ!
 だが奴は、そんな若造の抗議など意に介そうともしなかった。
 四つん這いのままじわりと俺に這い寄ると、分厚い唇の間からべろりと長い舌を出す。
 あからさまな挑発だった。
 それが証拠に、続けざま奴の口腔は嘲りの声を放った。
 大きな乳房をゆさゆさと揺らし、ヒトならざる音律でもって、この俺のことを嘲笑した。
 オスとしての魅力がない俺を、心底莫迦にしてるんだろう。
 オスとしての価値がない俺を、心底蔑んでいるんだろう。
 そうだ。
 俺は奴から学んだはずだ。
 オンナっていう生き物にとって、大事な部分はそこしかない。
 奴らが求めるのは、ただひたすらにオスだけだ。
 アトラクティブなオスでさえあれば、奴らは平気で股を開く。
 それがオンナとしての本能だからだ。
 オンナとしての本質だからだ。
 汚らわしいッ!
 なんて汚らわしいんだ、オンナって奴はッ!
 突如として、いにしえの光景が蘇った。
 いや、蘇ったという表現は正しくない。
 それは墓場から強引に引きずり出され、俺の目の前に力尽くで吊り下げられたのだ。
 立て続けに閃くフラッシュバック。
 そいつは到底受け入れがたい、だけど、忘れることの決してのできない、そんな痛烈な記憶だった。
 絡み合う男女。
 絶え間のない嬌声。
 鼻をつく性交の匂い。
 激しい吐き気が俺を襲った。
 酸っぱい胃液が急速に込み上げ、否が応にも胸を焼く。
 動かせる身体を認めたのは、その瞬間のことだった。
 俺は転がるようにその場を逃れ、トイレの中へと駆け込んだ。
 冷たい便座を抱きしめながら、何度も何度も嘔吐する。
 胃袋が空っぽになるまで、延々と内容物を吐き出した。
「薫子……」
 吐き出した体液で顔中ぐしゃぐしゃにしたまんま、俺は、あいつの名前を口にした。
「なんでだよ……なんでなんだよ……どうして、俺じゃないんだよ」
 目の奥が熱い。
 そこから溢れた液体が、頬を伝ってしずくになる。
 まぶたの裏に浮かんだのは、薫子と見知らぬ男のキスシーンだった。
 無理矢理に唇を奪われた次の刹那、あいつが見せたオンナの表情。
 蕩けるような、それでいて誘うような、オスを求めるオンナの顔付き。
 わかってる。
 わかってる。
 本当は、俺だってわかってるんだ。
 俺は自分を説得した。
 そんなことは、とっくのむかしにわかってる。
 俺は、あいつの恋人でも何でもない。
 たまたまあいつの側にいただけの、有象無象の野郎のひとりだ。
 だから、あいつが俺以外のどんなオトコとどんな関係にあろうとも、そのことに口出しできる立場にない。
 そんな真似をしようものなら、周りから「てめえの分をわきまえやがれ」ってお叱りを受ける、そんな「その他大勢」の一員でしかないんだ。
 わかってる、わかってる……そんなことは、言われなくてもわかってる。
 でも……でも……わかっててもこんな気持ちになっちまうんだから、仕方ないじゃないか。
 いったい俺に、どうしろっていうんだよ!
 理性による戒めは頓挫し、制御不能な感情が俺の内部で炸裂した。
 号泣。
 絶叫。
 泣き喚き。
 他人には見せられない底抜けの無様を、俺はこれでもかってぐらいに演じ続けた。
 ひとり分のスペースしかない狭い個室で、それこそ生まれたての赤子みたいに吠え続けた。
 そして、本当にのどが枯れるほどそうしたのち、俺はようやく、足を引きずるようにして自分の居場所に舞い戻った。
 拠り所をなくした、抜け殻みたいな俺の「神殿」
 恐る恐る扉を開け、壁面のスイッチを操作する。
 間を置かず、室内灯に明かりが点った。
 あの忌まわしい妖怪は、すでにどこかへ去っていた。
 それと入れ替わるようにして、天井に張られた自筆の美少女ポスターが白々しいまでの自己主張を果たしてきた。
 脩道服に身を包んだ、青いひとみのフレデリカ。
 それは俺だけの天使。
 俺だけの女神のはずだった。
 少なくとも俺は、そいつを望んで筆を執り、彼女の姿を精魂込めて創造した。
 でもいまとなっては、そうした努力が妙に空しい。
 ちょっと前まで抱いていたあの燃えるような熱意と誠意と忠誠心は、忽然と俺の中から消え失せてしまっていた。
 仕事しなくちゃ……
 疲れた頭を叱咤して、仕事机に目を向ける。
 正直な話、なんにもやる気が起きなかった。
 こんな時に仕事をしてもろくな結果に繋がらない。
 そのことは、経験則でわかってた。
 それでも俺は、おのれの戦場に足を運んだ。
 そうすることで少しでも気が楽になると、プロとしての本能が必死に訴えていたからだった。
 俺は思った。
 やっぱり、世の中ってのはなるようにしかならないんだ。
 恵まれた奴は何やったって上手くいくし、俺みたいに本質的に駄目な奴は、何をやっても上手くいかない。
 綺麗事なんて聞きたくない。
 残酷なようだけど、それがこの世の真実だって、改めて思い知った。
 それでも、手の届く何かにすがらないことには、ひとってものは生きていけない。
 俺は徹底的な駄目人間だ。
 誰からも求められず、誰からも愛されない、そんな存在自体が不必要な人材だ。
 だけど、ただ腐っていくだけの生ゴミに堕することだけは、何がなんでも嫌だった。
 俺は俺だ。
 いつだって俺だ。
 いまも、むかしも、これからもずっと、俺であること、俺であるために努力することだけは絶対放棄したくない。
 そして、いまの俺に残された、俺が俺であり続けるための何か。
 それはもう、創作活動ライフワークの中にしか存在し得ないものだった。
 椅子に座った直後、置きっぱなしのスマートフォンに気が付いた。
 着信履歴が凄まじいことになっている。
 五十を超える件数なんて、俺の人生では前代未聞だ。
 五月雨式に送り込まれた電話とメールの送信者は、そのことごとくが薫子だった。
 それを知った瞬間、嫌悪の混じった不愉快感が俺の首筋を鷲掴みにする。
 ほっといてくれよ。
 俺は、拗ねたガキみたいに独言した。
 おまえみたいに出来たオンナは、似合いのオトコと好き勝手やってりゃいいんだよ。
 俺みたいな童貞小僧と一緒にいたって、いいことなんてひとつもないだろ?
 ははは、はははは──…
 それでも俺は、そこにある留守電のひとつを再生した。
 最新の奴だ。
 受信時間は昨日の夜。
 時刻にすれば、金曜日の午後八時。
 いまこの瞬間から換算するなら、ざっと二十六時間前といったところか。
『もしもし、圭介くん。お願い、電話に出て!』
 ハスキーボイスが俺の鼓膜を刺激した。
 なんともあいつらしくない懇願が、間を置くことなくそれに続く。
『聞きたくなかったら、話なんて聞かなくてもいい! あたしのことを嫌いになっても構わない。でも、練習には来るんだよね? 今回もG6にエントリーするんでしょ? 表彰台に登って、あたしとバトルするんだよね? 勝負に勝って、あたしとベッドインするんだよね? 待ってるから! いつもの場所で、いつもの時間。あたし、ずっと待ってるから! 待ってるから!』
 電話はそこで切れていた。
 いつもの場所で、いつもの時間。
 改めて時計を確認するまでもない。
 その時は、とっくのむかしに過去のそれへと成り果てていた。
 人気のない山間の駐車場。
 いつも練習に使っていたその場所で、ぽつねんと俺の来訪を待つ薫子──…
 その姿を思い浮かべた刹那、胸の奥に鋭いナイフが突き刺さった。
 口内に罪悪感の苦みが満ちる。
 一切合切を振り払うようにして机に向かった。
 パソコンに火を入れ、ディスプレイに明かりを灯す。
 編集中のデータを呼び出し、出来上がってるプロットの再確認を試みた。
 俺の連載作「双刃のガロー」
 当初のプロットに従えば、残すところあと一話をもって見事大団円を迎える予定になっていた。
 最強の敵・魔王ベールゼバブと対決するガロー。
 だがさすがの彼も、ラスボスの持つ圧倒的武力を前に著しい劣勢を強いられてしまう。
 左右の剣をへし折られ、その命運はまさに風前の灯火。
 そんなおりさっそうと現れるのが、ガローのことを宿敵として付け狙う美貌の魔族、魔戦将姫カオルゥ=コーだ。
 「裏切り者め!」と罵ってくるかつての自分の主に向かい、彼女は決然と言い放つ。
「この男を殺していいのは、あたしだけ。あたしだけなんだよッ!」
 そしてふたりは力を合わせ、強大な悪の魔王を討ち倒す。
 目的を果たし、ふたたび流浪の旅に出るガロー。
 その傍らには、不敵な笑みを浮かべるカオルゥが恋人のように寄り添っている。
 そんな彼女にガローは問う。
「なぜ付いてくる?」
 そしてその問いかけにカオルゥは答えた。
「貴様が死ぬところをこの目で見たいからさ」
 俺が初めに目論んでいた「双刃のガロー」のエンディングは、おおよそこういうものだった。
 まるでどこかで見たような、ありきたりすぎるハッピーエンド。
 しかし俺は、土壇場になってその筋書を切り替えた。
 いや正確に言おう。
 まったく記憶のないままに、その筋書を書き直していた。
 新しく構築されたプロットは、だいたい次のようなものだった。
 最終決戦のさなか、魔王の武力に圧倒されたガローは、両手に持った剣だけでなく、その右目と左の腕までもを敵の攻撃によって失ってしまう。
「出来損ないの身でありながら、よくやったものと誉めてやろう」
 勝ち誇る魔王が、剣士めがけて宣言する。
「だがこの世の刃をもってしては、我が肉体を裂くことなど永遠にできぬ!」
 嗚呼大笑するベールゼバブ。
 そう。
 魔界で生まれた彼の身体は、この世界で作られたいかなる武器を用いても、決して傷付けられない特殊な存在であったのだ。
 文字どおり刀折れ矢尽き、抵抗の手段さえ失ったガロー。
 振り上げられた魔王の剣が、その頭上めがけて落下する。
 その刹那、空間を跳躍してきたカオルゥが、瀕死の剣士を横から一気にかっさらった。
「この男を殺していいのは、あたしだけ。あたしだけなんだよッ!」
 当初プロットとまったく同じ台詞を放ち、再度の跳躍を試みるカオルゥ。
 その目論見は成功し、ガローと彼女は窮地を脱する。
 戦場から遠く離れた見知らぬ土地で、剣士は彼女に礼を言った。
「助かった、カオルゥ。おまえのおかげだ」
 だがその時、恩人である魔戦将姫の背中には、寸前に魔王の投げた邪悪な剣が深々と突き刺さっていたのだった。
 致命傷。
 たとえ魔族の身であっても死を免れないほどの深手。
 美貌の魔族は、力なくガローの身体に寄り掛かる。
「カオルゥ!」
 手負いの剣士は驚愕し、何度も何度も彼女の名前を呼び叫んだ。
「悔しいな。悔しい」
 そんなガローに、弱弱しい声でカオルゥが告げる。
「あたしの尊厳を汚した男に……殺したいほど憎んでたはずの男に看取られながら死んでくなんて……無様だ。無様すぎる。ガロー……おまえは最後まで、本当に残酷な男なんだな……」
 剣士の胸の中で息絶えるカオルゥ。
 隻腕の身ではその亡骸を抱きしめることも叶わず、ガローはただ……ただただ天を仰ぎ絶叫することしかできなかった──…
 これこそが、俺の書き直していた新しいエンディングだった。
 記憶に残ってないことからして、間違いなく「あの夜」以降に手掛けたものだ。
 読み直していて思った。
 酷い出来だな。
 少なくとも、読者に見せるそれじゃない。
 乾いた笑みがこぼれ出た。
 ハッピーエンド至上主義者を自認していたこの俺が、こんなどうしようもない終末を描こうとするなんて、ホント、自分のことながら呆れ果てちまって笑うしかない。
 しかもこのプロットは、正式に岡部のオヤジ編集部あてに発送されちまったあとのようだ。
 メールの履歴に、それらしい痕跡がはっきりと残されていた。
 畜生、と自嘲しながら俺は呟く。
 クリエイターとしての俺も、どうやらここまでみたいだな。
 こんなどうしようもない物語の〆方をするようじゃ、プロの創作家としては失格以前の問題外だ。
 ほかの作家にも読んでくれる読者にも、こんなのは失礼極まる下衆の所業だ。
 携帯が着信音を鳴り響かせたのは、ちょうどそんなおりでの出来事だった。
 電子メールのそれじゃない。電話の受信の呼び出し音だ。
 こんな時間に誰だ? 薫子か?
 好奇心に駆られた俺は、スマホの画面に目を向ける。
 未登録の電話番号だった。
 普通なら絶対に取らないであろう鉄板のケース。
 でも俺は、引き寄せられるようにその電話を受けた。
 「もしもし」と相手に向かって第一声を放つ。
 スマホの向こうから、落ち着いた女性の声が不躾に届いた。
「久しいね少年、アタシが誰だかわかるかい?」
 それは、レディースパブ「シーガル」のオーナー、虎島千春さんのものであった。
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