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第一章 発端 2
③
しおりを挟むしかし実際の凌雲閣界隈は、若い娘がひとりでぶらつく場所ではなかった。
ここらは〝十二階の女〟と呼ばれる、所謂売春婦たちで有名な私娼窟と化していたのだ。
そんな場所を恐れ気もなく闊歩する男装の少女を、女たちは奇異な目で無遠慮に眺め回す。
「あら、さっきは気付かなかったけど、なんだか変なところね。それにしてもこの人たちは昼間っから、こんないかがわしい恰好でなにをしているのかしら」
そこは良家の子女である、このような商売の女のことには疎いのだった。
薫子も逆に彼女らを、不躾に見ながら歩いている。
「お嬢ちゃん、ここはあんたが来るとこじゃないよ。さっさと立ち去りな、痛い目に遭う前にね」
中の女のひとりが、薫子に声を掛けた。
こんな場末には不似合いな肌が透き通るように白い、スラリとした肢体の綺麗な顔立ちの女だった。
長い前髪が幾筋か額に垂れているさまは、ドキリとするほどの色気があった。
年の頃は二十二、三歳辺りだろう。
木製の椅子に足を組んで坐り、細身のシガレットを煙たそうに燻らせぶっきらぼうに言う。
ノーブルな彫りの深さは、日本人離れしていた。
突然声を掛けられ薫子はピクリと反応し、立ち止まりその女を見詰める。
「なに見てんだよ、さっさとお行き。邪魔だよ」
少し灰色がかった切れ長の瞳を細め、邪険に手を振る。
見た目から察するに、白系ロシア人の血が混ざっているのかも知れない。
「へへへっ、お嬢ちゃん、なにをしてるのかな。暇ならお兄さんたちが遊んでやろうか、楽しいことを教えてあげるよ」
数人の与太者が薫子に近寄って、下卑た笑いを浮かべそう言った。
「サブ、素人の娘さんにちょっかい出すんじゃないよ。この一角はあたいの縄張りなんだ、勝手はさせないよ」
女が与太者どもを鋭い目で睨む。
「麻利亜、余計な口出しすんじゃねえ。商売にゃ手を出さねえが、こりゃあお前には関係ないことだ、引っ込んでろ。それに近いうちにここもすべて雷神組が仕切ることになる、そんときゃお前ぇは親分の情婦になってるだろうがな」
サブと呼ばれた兄貴株の男が、凶悪そうに嗤う。
「そうはいかないよ、どうあってもと言うんなら痛い目に遭うことになるから覚悟おし」
「痛い目? へへ、遭ってみたいねえ」
男達が一斉に懐に呑んでいたヤッパ(短刀)を抜いた。
「ねえ兄貴、俺は前からこいつを抱いてみたくてしょうがなかったんですよ。ちょっと味見するくらいいいですよね、さっきからあそこがムズムズしちまってんですよ」
中のひとりが股間を押さえて、涎を垂らしている。
「馬鹿野郎、麻利亜は親分が狙ってらっしゃるんだ。手出ししたら、あそこをちょん切られちまうぞ」
そんな下卑た男達の会話を聞いた麻利亜は、心底うんざりとした様子で美しい顔を曇らせる。
「拓磨、あんたの出番だよ。食い扶持分くらいは働いておくれ」
建物の中に向かって声を掛ける。
入口の壁には達筆な筆文字で書かれた『帝都魔境倶楽部(興信・探偵万請負處)』という白木の看板が掛かっている。
「なんだい雷神組の兄さんたち、穏やかじゃないねえ」
中から声がして、ひとりの男が現れた。
その人影を見た瞬間、薫子が声を上げた。
「あっ、あんた昨日の書生さん」
その声の向こうに姿を見せたのは、この後も薫子と深い関係を築くことになる〝藤堂拓磨〟だった。
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