ため息とあきらめ、自分につく嘘〜モヤモヤは幸せのサイン?!〜

帆々

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セカンド

7、励ましの電話が嬉しくて

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 どこからかけているのだろう。人声がしない。そんなことをちょっと考えながら、「うん」と答えた。

 何の用かと問う前に、『本、さっき見た』と声が返る。

 見た?

 何の何を?

 返事がないのをどうとったのか、小さな笑い声がする。

『今日、イベントで売ってただろ? ひらひらのスカートはいて』

 は?

 絶句した。何で沖田さんが、今更わたしの同人誌なんか読んでるの?!

 仕事か彼の趣味かで判断が迷う。専務も彼にイベントに出張る仕事は考えにくそうだ。かといって趣味というのも腑に落ちない。

 何せ、モノはBLだ。今は消えちゃった某グラビアアイドルが好み、のような健全なことを当時は言っていたはず。

 しかし、時は人をいかようにも変え得るもの…。

 そこで『ひらひらの~』のフレーズが引っかかってくる。問い返すまでもなく、アンさんからユニフォームとして渡された『PINK ⚪︎OUSE』のスカートのことだ。

「見たの?」

『いや、俺は行ってない。視察に行った者に聞いたんだ。本もそいつから買った』

 忙しく、お客の風体をチェックしていた訳ではないが、出版社風な人物は目につかなかった。今は、昔の沖田さんたちのようないかにもなスーツ姿で会場に現れることはないのかもしれない。

『電話してて、いいのか?』

「ほんのちょっと前、いろはちゃんと話してたところ」

『ふうん』

「読んだの?」

『読んだ。読みやす…』

「八万円」

 思わず、彼の声を遮って声が出た。そこから続くはずの寸評なりを黙って聞いていられなかった。恥ずかしさで電話を当てた耳が熱かった。

『何で八万もするんだよ。払ったぞ、定価は』

「時価なの」

『何が時価だよ』

 耳に大き過ぎない笑い声が長く伝わる。『払えっていうなら、払うけど…』。

『面白かった。登場人物もとっつき易い有名人だし、物語に惹きつける起伏も理屈もある。難は、そう短いことだな。急に突き放すように幕が下りたって感じだ。説明不足もある。あと、お前にはわかったことでも読み手が知らないこともある。それを当然としてさぼるな』

 簡単に言ってくれるが、限られた時間で三十八ページの読み切りを描くのは、楽な作業ではなかった。粗もミスもあろうとは思う。わたしは特に筆が速いのではないし…。

 言い返す代わりに、心の中でぶつぶつと愚痴っていると、

『これで食うんだろ? だったら人の意見は聞け。耳に痛くても』

 もう十分耳に痛いことを言う。

「聞いてる」

『今回のやつでBLは続けて出せるな?』

「うん、また描くつもり。そんな感想ももらってるし…。いろはちゃんもそう言ってくれた」

『あんまり時間を置くな。次、すぐ描け。いいな?』

 言われなくともネタは練れてる。ただ、それをネームに起こして作品に仕上げるには、また時間がかかる。

 不意に「気持ちわる」とこぼした夫のつぶやきがよみがえった。原稿をダイニングに広げていれば、また彼が目にしてそんな言葉をもらすかもしれない…。

 もやもやとした気分が込み上げ、沖田さんへの返事が遅れた。

『描くと決めたら、千晶は早かったぞ』

 その声は、おもむろにわたしの頬を打ったようなものだった。

 彼女とは違う。

 千晶には漫画に専心できる時間があり、アシスタントや最新の機器もそろえているはず。その上、類まれな豊かな才能とこれまでの大き過ぎる実績を持つ。

 抑えながらも声に怒気が混じるのがわかった。

「一緒にしないで。何でもそろってて、何でも持ってるあの子と簡単に比べて言わないでよ」

 言い切った後で八つ当たりな感情が、このとき沖田さんに対して弾けたのが妙に照れ臭い。

「馬鹿」

 と場違いに言い足してしまう。

 何が馬鹿なのか。きっと自分の馬鹿さ加減が恥ずかしかったのだろう。今の環境の一つ一つを選んできたのは、誰でもない自分なのに。

 詫びるのも決まりが悪く、身勝手に黙り込んだ。

 ほどなく耳に当たり前の声音で届く。

『昔から、俺はお前の絵が好きだった』

 え。

 そのセリフに全く虚をつかれた。

 ちょっとだけ笑みが出た。お世辞だろうと思った。気を悪くしたわたしをなだめるような、そんな程度の。

『プロ意識に欠けてて面倒くさがりで、気づけばよそ見しているような…。そんなお前が描くものの方が、俺はずっと好きだった』

『気づかなかったか?』と何でもないようにつないだ。

 十三年も昔、かつて沖田さんは『ガーベラ』を担当する編集者だったが、その視線と興味は千晶へ注がれていたはずだ。実力も努力も他を寄せ付けない、何よりプロ志向の強い彼女にこそスカウトとしての注意が向いているのだとわたしは信じてきた…。

「…千晶は?」

 そう問うわたしの声は、疑いにわずかな拗ねが混じる。

『『ガーベラ』として売れないのなら、千明を推そうと決めたのは三枝さんだ。スター性があるって。俺はあの人の子飼いだから従うさ』

 返事のしようもなく「ふうん」と返した。

 千晶ほどにプロを目指すことにのめり込めなかった当時の自分を思い出す。漫画だけに日々を費やすことに飽きたのもあるだろう。プロとして描いていく不安も自身の揺らぎもあった。

 その頃身体に切実な悩みが兆した。やむを得ず現実に向き合い出したと思っていた。もしかしてあれは逃げだったのだろうか。どうだろう…。

『やる気が見えなかった』というわたしにすら、沖田さんは幾つか読み切りの話を持ってきてくれたし、描かせてくれた。

 その長くない後で漫画を辞めることを決断した。その理由が結婚だと告げたとき、この人はあっさりわたしを解放してくれたのを思い出す。甘えもし世話になり、骨を折らせたはずなのに。

「お前が人妻? 笑わせんなよ」と。はなむけの言葉は人をコケにしたようなものだったっけ…。

 いつの間にか過去をたどっていた。ややぼんやりとした耳に『ガーベラ』という音が届いた。

「え?」

『まったく、相変わらずだな。人の話を聞け。腹でも下してんのか?』

「聞いている。それに下してない」

 そっちこそ相変わらずじゃないか。

 彼は、まだ同人で『ガーベラ』のネームバリューはでかい、と言った。『雅姫の名前があるだけで、本はそこそこ売れる』と。

『でも、いつまでも名前の威力も効かない。わかるだろ? だからコンスタントに、少々無理をしても描いた方がいい。有卦に入ってるジャンルだしな。
 BLを描く雅姫のイメージをできるだけ早く浸透させるんだ。
 昔のファンでBLに抵抗がなければついてくるだろうし、新規の客にも「何か知らないけど、過去の超大手が描いたBL』という付加価値が付く。他より断然有利なはずだ』

 さすが少女漫画担当の元編集者。言葉に説得力も重みも感じる。いちいちもっともなそれらに、知らずさっきまでの妙な意地も忘れて、「うん」と相槌を打っていた。

『幸い、お前の絵はBLに向くな。誌面に映える』

 え。

 彼の言葉にぷっと吹き出した。ちょうど同じようなセリフを妹のいろはちゃんからもらっている。彼女は『BL映えがする』だったはず。

 それを告げると、苦笑が返る。

『あいつは現役の読み手だ。狙うターゲット層だろうし』

「すごく色々教えてもらって助かってる。もう、昔と全然勝手が違うし…」

『まだ遅くない』

 その声は不思議と耳に奥で響いた。短い音がふんわりとわたしの中でこだまする。

『まだ間に合う。だから、描け』

 嬉しいのだろうか。消えない響きは涙を呼んでくる。

「…うん」

 頷くだけの簡単な返事だ。涙の色はしないはず、淡いはず。

 だから『泣いてるのか?』と探るように問われたとき、驚きの後で羞恥が胸をかすめた。

『おい?』

 しつこいな。

『雅姫?』

 うるさいな。

 焦れても照れても、涙はなかなか引いてくれない。

 多分、彼のくれた『まだ遅くない』という言葉が、わたしを感激させたのだろう。嬉しかった。返す言葉に詰まるほど。誰も言ってくれないことだからこそ、身にしみた。

 心の芯にまで。

 そして、単純な喜びだけでは測れない、心のどこかを逆に触れるようなやるせない思いも感じている。それが涙を引かせない。

「沖田さんが変な励ましを言うから、びっくりしたの」

『びっくりして泣くのかよ、お前』

「泣くの』

『…何かあったら電話してこいよ。力になれるかもしれない』

「何かって?」

『「アタシのチンコ忘れないで><」なんて送ってくるやつに用があるくらいなら、俺にしろ』

「あははは、あれ、忘れてないの?」

『忘れられるか。おい、本当に何でもいいから言ってこい、な?』

「…うん、ありがとう」

 返事には辛うじてお礼を添えられた。優しさがまた涙を誘う。喉の奥の熱い気配に、わたしは手早く電話を切った。「じゃあ」と。

 そっけないそれを、切った後で悔やんだ。慌てていたとはいえ、礼儀知らずだった。

 耳からケイタイを離し、思いがけず長く戸外にいたことを知る。

 玄関に向かうときふと芝生を振り返った。片付けた掃除のおもちゃを見るつもりだった。

 そのとき目の端に人影が映った。視線をたどる。そこには隣家の壁があり、すぐ上の窓に人のシルエットが見えた。姿で安田さんの奥さんだとわかる。

 灯りがもれて目が合ったのがわかった。途端、カーテンを引かれその向こうに彼女の姿は消えた。さっきから見られていたのだろうか。

 少し気まずい出来事だが、じきそこから思いが離れた。見られていたなどわたしの自意識過剰で、案外あちらは目が合ったつもりもないのかもしれない。

 家に入りながら指先で涙の跡を拭う。

 リビングの夫がわたしの仕草に怪訝そうだ。知らんふりで、

「お風呂に入るね」

 と逃げた。

 話したくなかった。一人になりたかった。

 湿った浴室のぬるくなった湯に肌を浸し、ほっとしている自分がいる。気持ちが緩んだのと同時に、また涙が目ににじむ。両手で顔を押さえた。

 涙をそのままに、耳にあの声をよみがえらせてみる。

『まだ遅くない』。

 嬉しかった。

 そして、

 わたしは同じ声が切なかった。
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