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ため息と吐息の違い
2、沖田さんの野菜
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送迎のバス停に向かいながら、沖田さんに電話した。出ない。忙しいのだ。切ってすぐ着信があった。
表示は沖田さんだった。
出れば、前置きもなく軽くなじる声だ。
『スリーコールくらいで切るなよ』
忙しいと思ったのに。
わたしは野菜が届いたこと、びっくりしたこと。それから礼を言った。
「急にどうして? もしかしたいただきもの?」
『そう見えるか?』
彼はちょっと嬉しそうに笑った。あの野菜は自分が作ったのだと言う。
は?
今度は本当にびっくりした。
『バナナは別。あれは隙間にちょうどぴったりだったから』
再会した沖田さんは、大きな企業の専務で可愛い妹とあの瀟洒なマンションに住む。ゴルフをたしなみうちが売っぱらった車のうんと高いグレードの車に乗る、悠々自適に見えるシングルだ。
今は消えちゃった某グラビアアイドルのファンで、仕事のかたわら、イベントでは濃厚エロ同人誌をむさぼり読んだりしていたが、それも昔のこと。今の彼には関係がない。
ともかく、野菜を作るイメージなどどこにもない。しかもあんなピカピカの立派な品々を作るのは、相当のコツなり手間がかるのだろう。
驚きに黙ってしまう。
『びっくりしたか? 入居のときに、ベランダに温室を作ってもらったんだ。トマトやナスなんかはそこで。背の高いとうもろこしはマンションの菜園を借りて作ってる』
前に一度お邪魔したときは見えなかったが、定着した感のゴーヤーきゅうりのグリーンカーテンも取り入れているのだそう。
エロからエコへ…。
ふと、彼のきれいに焼けた腕を思い出す。ゴルフが理由だとばかり思っていたが、案外「家庭菜園焼け」なのかもしれない。
『趣味だよ、ちょっとした実益を兼ねた。自前のあれを食うようになって、いろはも花粉症がかるくなったようなことを言ってるし…』
「へえ、すごいね。あのね、トマトは高くてめったに買ってないから、実は助かった」
『味はいいと思う。元気出せ、な?』
「ありがとう」
礼を言えば、もうバス停に着く。シーソーのみが遊具の小さな公園の前だ。既にママたちが四、五人集まっていた。夜勤上がりか男性の姿もあった。久しぶりの光景に違和感がわく。以前はほぼ毎日、総司を迎えに当たり前にあの中に混じっていたのに。
前の通りを向こうから子供を乗せた園のバスがやって来る。
言葉が尽きたわずかな間の後で、沖田さんの声が続いた。
『シャチョーはあれから何か言ってこないか?』
それでパートであった今日の経緯をはしょりながら伝えてみた。笑い話のつもりだった。
「百万だって、月のお手当。でも逢瀬の部屋は訳ありの事故物件がいいんだって。世を忍ぶみたいなのが好みなんだって、あははは。隣りには連敗のボクサーが…」
『馬鹿かお前は』
低い怒声がこちらの話を遮り、耳朶を殴ったかに思えた。
え。
『へらへら笑いやがって』
「何で怒るの?」
『お前な、金で自由になる安い女だって、足元を見られてるのがわからないのか? だから馬鹿だって言ってるんだ』
ああ…。
確かに、社長の申し出はわたしがバススタッフをしていたことを踏まえてのものだろう。「不特定多数の安い客に~」とか言っていたし。
気持ちのいい話ではなかった。だから即座に断っている。
「でも、月に百万は安くないんじゃない?」
『それがどれほど続くと思う? 半年、一年、二年、せいぜい三年…。その後どうする? そんな生活の後でまともにやっていけるか? …ちょっとは真面目に考えろ。絶対食いつくなよ。うまいことを言われてもほだされるなよ』
この人はわたしをどれほど危なっかしい女だと思っているんだろう。『紳士のための~』で働いていたことが、よほど心証を落としたみたいだ。
「断ったってば。パートも辞めたし…」
心配されているのは伝わるし、決して嫌な気分ではないが…。
なぜそこまで気にかけてくれるのだろう。
「ははは、昔の知り合いが身を落とすのって、気持ちがよくないもんね」
自嘲でもなくそんなことをつぶやいた。かつてのクラスメートなどが災難に遭ったと聞けば、しばし心は暗くなるもの。
「千晶があんなに出世しちゃったから、余計光と影みたいな感じだね」
沖田さんはそこで黙った。
忙しいのかもしれない。何しろ彼は専務だ。電話を切ろうと「じゃあ」と言いかけた、そのときだ。『雅姫』と彼が呼んだ。
「ごめんね。野菜のお礼だけ言いたかっただけ。もう切るね」
『ちょっと待て』
「何?」
『放っておけないんだ』
耳が拾った言葉の意味は瞬時に取れた。昔のように、わたしは彼に手のかかる「担当の女の子」であるのだろう。
なのに言葉はもっと重く、もっと深いものに響いた。
まさか。
わたしの心のどこか乾いて冷えた場所がそう求めるから? 身勝手にうぬぼれていたいと…。
幾らでもアレンジや融通の利いたあの頃とは違う。家庭もあり子供もいる。手の中の自由は限られている。
ほてった頬の熱さをごまかすように、軽い声を出す。
「十三年も放っておいて?」
『は? 忘れてた訳じゃないぞ。お前こそ、年賀状ひとつ寄越さない…』
「ははは、これで主婦は忙しいの」
そこでわたしはぷちんと電話を切った。
演者の都合で下げた舞台の幕のように、通話が終わる。誰かが、わたしの描く物語のエンディングを「幕が下りたみたいに~」と評してくれたことがあった。当の沖田さんだったかもしれない。いろはちゃんの方だったかもしれない。
それはわたしの性格の一端なのではないか。大事な場面またはポイントのような局面で、恥ずかしさや面倒、もやもやしたわからない衝動で逃げ出したくなることがある。
そんな心境がふと顔を出すのかも。
今もそうではないか。また自分勝手に幕を下げてしまったのではないだろうか…。
バスが着いた。ドアが開き、スッテプから園児らが降りてくる。ママたちに短い挨拶をして別れ、商店街へ向かう。クリーニング店へ行くつもりだ。
「パパは?」
「今日からママなの」
「ふうん」
「ママ、もうパート行かないの。どう思う? 総司は」
「いいと思う」
小さな手がわたしの手を引く。目を流した総司の笑顔に出会うと、いつも安心感がある。そしてひどく可愛いと思った。
欲しくて、でも長く授かれなくて、手の届く範囲で手を尽くした。同人で貯めた貯金をその頃ほとんど費やしてしまった…。それでも結果が出ない。夫が音を上げ、不妊治療を辞めたこともある。原因はわたしの側にあった。
あの頃抱えていた葛藤や迷い、切なさ…、胸にいっぱいあったはず。その重さの分、過ぎた今は軽く淡い記憶の一ページになってしまっている。
総司に触れる折々、ときに過ぎた感情がよみがえる気がする。指先に感じる総司の温もりや柔らかさに過去をわずかに思う。そんな感傷は心地よい感触と混じり合い、心を満たしてくれた。
総司はわたしと夫の半分づつを享受している。なのに、より多く自分に属していると思ってしまう。産んだ側の強みと居直りだろうか。
面差しが自分に似ていると再確認したとき、夫に対するもやもやした鬱憤を感じるとき、それは強い。母は強しというが、わたしの場合子供への独占欲へもつながっているらしい。
「アイス食べたい」
店ののぼりを見て総司が指差した。間延びした声を出す。甘やかしたい気分になり、「いいよ」と易く答えた。
「クリーニング、出してからね」
今がどうであれ、総司という命の存在はかけがえがない。
用事を済ませ、約束をアイスを買ってあげた。何となくつき合いたくて自分の分も買う。少し戻って、園のバス停の公園に落ち着いた。
家までほどなくなのに。どうしてだろう、すぐに帰りたくなかった。焦がれるほど望んだ総司の半分をくれた人がいるのに。
総司の話に相槌を打ちながら、笑いながら。それが途切れた狭間で、わたしは耳に別の声を聞いていた。
繰り返し、繰り返し。
『放っておけないんだ』。
その声が止むまで。
せめて、家に帰りたくないと思った。
表示は沖田さんだった。
出れば、前置きもなく軽くなじる声だ。
『スリーコールくらいで切るなよ』
忙しいと思ったのに。
わたしは野菜が届いたこと、びっくりしたこと。それから礼を言った。
「急にどうして? もしかしたいただきもの?」
『そう見えるか?』
彼はちょっと嬉しそうに笑った。あの野菜は自分が作ったのだと言う。
は?
今度は本当にびっくりした。
『バナナは別。あれは隙間にちょうどぴったりだったから』
再会した沖田さんは、大きな企業の専務で可愛い妹とあの瀟洒なマンションに住む。ゴルフをたしなみうちが売っぱらった車のうんと高いグレードの車に乗る、悠々自適に見えるシングルだ。
今は消えちゃった某グラビアアイドルのファンで、仕事のかたわら、イベントでは濃厚エロ同人誌をむさぼり読んだりしていたが、それも昔のこと。今の彼には関係がない。
ともかく、野菜を作るイメージなどどこにもない。しかもあんなピカピカの立派な品々を作るのは、相当のコツなり手間がかるのだろう。
驚きに黙ってしまう。
『びっくりしたか? 入居のときに、ベランダに温室を作ってもらったんだ。トマトやナスなんかはそこで。背の高いとうもろこしはマンションの菜園を借りて作ってる』
前に一度お邪魔したときは見えなかったが、定着した感のゴーヤーきゅうりのグリーンカーテンも取り入れているのだそう。
エロからエコへ…。
ふと、彼のきれいに焼けた腕を思い出す。ゴルフが理由だとばかり思っていたが、案外「家庭菜園焼け」なのかもしれない。
『趣味だよ、ちょっとした実益を兼ねた。自前のあれを食うようになって、いろはも花粉症がかるくなったようなことを言ってるし…』
「へえ、すごいね。あのね、トマトは高くてめったに買ってないから、実は助かった」
『味はいいと思う。元気出せ、な?』
「ありがとう」
礼を言えば、もうバス停に着く。シーソーのみが遊具の小さな公園の前だ。既にママたちが四、五人集まっていた。夜勤上がりか男性の姿もあった。久しぶりの光景に違和感がわく。以前はほぼ毎日、総司を迎えに当たり前にあの中に混じっていたのに。
前の通りを向こうから子供を乗せた園のバスがやって来る。
言葉が尽きたわずかな間の後で、沖田さんの声が続いた。
『シャチョーはあれから何か言ってこないか?』
それでパートであった今日の経緯をはしょりながら伝えてみた。笑い話のつもりだった。
「百万だって、月のお手当。でも逢瀬の部屋は訳ありの事故物件がいいんだって。世を忍ぶみたいなのが好みなんだって、あははは。隣りには連敗のボクサーが…」
『馬鹿かお前は』
低い怒声がこちらの話を遮り、耳朶を殴ったかに思えた。
え。
『へらへら笑いやがって』
「何で怒るの?」
『お前な、金で自由になる安い女だって、足元を見られてるのがわからないのか? だから馬鹿だって言ってるんだ』
ああ…。
確かに、社長の申し出はわたしがバススタッフをしていたことを踏まえてのものだろう。「不特定多数の安い客に~」とか言っていたし。
気持ちのいい話ではなかった。だから即座に断っている。
「でも、月に百万は安くないんじゃない?」
『それがどれほど続くと思う? 半年、一年、二年、せいぜい三年…。その後どうする? そんな生活の後でまともにやっていけるか? …ちょっとは真面目に考えろ。絶対食いつくなよ。うまいことを言われてもほだされるなよ』
この人はわたしをどれほど危なっかしい女だと思っているんだろう。『紳士のための~』で働いていたことが、よほど心証を落としたみたいだ。
「断ったってば。パートも辞めたし…」
心配されているのは伝わるし、決して嫌な気分ではないが…。
なぜそこまで気にかけてくれるのだろう。
「ははは、昔の知り合いが身を落とすのって、気持ちがよくないもんね」
自嘲でもなくそんなことをつぶやいた。かつてのクラスメートなどが災難に遭ったと聞けば、しばし心は暗くなるもの。
「千晶があんなに出世しちゃったから、余計光と影みたいな感じだね」
沖田さんはそこで黙った。
忙しいのかもしれない。何しろ彼は専務だ。電話を切ろうと「じゃあ」と言いかけた、そのときだ。『雅姫』と彼が呼んだ。
「ごめんね。野菜のお礼だけ言いたかっただけ。もう切るね」
『ちょっと待て』
「何?」
『放っておけないんだ』
耳が拾った言葉の意味は瞬時に取れた。昔のように、わたしは彼に手のかかる「担当の女の子」であるのだろう。
なのに言葉はもっと重く、もっと深いものに響いた。
まさか。
わたしの心のどこか乾いて冷えた場所がそう求めるから? 身勝手にうぬぼれていたいと…。
幾らでもアレンジや融通の利いたあの頃とは違う。家庭もあり子供もいる。手の中の自由は限られている。
ほてった頬の熱さをごまかすように、軽い声を出す。
「十三年も放っておいて?」
『は? 忘れてた訳じゃないぞ。お前こそ、年賀状ひとつ寄越さない…』
「ははは、これで主婦は忙しいの」
そこでわたしはぷちんと電話を切った。
演者の都合で下げた舞台の幕のように、通話が終わる。誰かが、わたしの描く物語のエンディングを「幕が下りたみたいに~」と評してくれたことがあった。当の沖田さんだったかもしれない。いろはちゃんの方だったかもしれない。
それはわたしの性格の一端なのではないか。大事な場面またはポイントのような局面で、恥ずかしさや面倒、もやもやしたわからない衝動で逃げ出したくなることがある。
そんな心境がふと顔を出すのかも。
今もそうではないか。また自分勝手に幕を下げてしまったのではないだろうか…。
バスが着いた。ドアが開き、スッテプから園児らが降りてくる。ママたちに短い挨拶をして別れ、商店街へ向かう。クリーニング店へ行くつもりだ。
「パパは?」
「今日からママなの」
「ふうん」
「ママ、もうパート行かないの。どう思う? 総司は」
「いいと思う」
小さな手がわたしの手を引く。目を流した総司の笑顔に出会うと、いつも安心感がある。そしてひどく可愛いと思った。
欲しくて、でも長く授かれなくて、手の届く範囲で手を尽くした。同人で貯めた貯金をその頃ほとんど費やしてしまった…。それでも結果が出ない。夫が音を上げ、不妊治療を辞めたこともある。原因はわたしの側にあった。
あの頃抱えていた葛藤や迷い、切なさ…、胸にいっぱいあったはず。その重さの分、過ぎた今は軽く淡い記憶の一ページになってしまっている。
総司に触れる折々、ときに過ぎた感情がよみがえる気がする。指先に感じる総司の温もりや柔らかさに過去をわずかに思う。そんな感傷は心地よい感触と混じり合い、心を満たしてくれた。
総司はわたしと夫の半分づつを享受している。なのに、より多く自分に属していると思ってしまう。産んだ側の強みと居直りだろうか。
面差しが自分に似ていると再確認したとき、夫に対するもやもやした鬱憤を感じるとき、それは強い。母は強しというが、わたしの場合子供への独占欲へもつながっているらしい。
「アイス食べたい」
店ののぼりを見て総司が指差した。間延びした声を出す。甘やかしたい気分になり、「いいよ」と易く答えた。
「クリーニング、出してからね」
今がどうであれ、総司という命の存在はかけがえがない。
用事を済ませ、約束をアイスを買ってあげた。何となくつき合いたくて自分の分も買う。少し戻って、園のバス停の公園に落ち着いた。
家までほどなくなのに。どうしてだろう、すぐに帰りたくなかった。焦がれるほど望んだ総司の半分をくれた人がいるのに。
総司の話に相槌を打ちながら、笑いながら。それが途切れた狭間で、わたしは耳に別の声を聞いていた。
繰り返し、繰り返し。
『放っておけないんだ』。
その声が止むまで。
せめて、家に帰りたくないと思った。
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