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ビジョンの中でもがく
8、千晶のやり方
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「千晶も、仕事がちょっと落ち着いたようなこと聞いたから、てっきり…」
沖田さんは三枝さんがここにいると思ってやって来たという。「どっちの電話もつながらないしな」と片頬をふくらませる。
「急ぎの用なの?」
相手は大手出版社の副社長だ。緊急な仕事の要件なのだろう。つい訊いたまで。大した答えは期待しなかった。社外秘かもしれないし、わたしに理解が及ばないかもしれない…。
「うん…、奥さんが、緊急入院することになって。俺のところに連絡が来た」
「え?」
「ああ、副社長の奥さんだよ。一度、ガンになってる人なんだ。退院後も大事にして、調子も悪くなさそうだったのにな…」
沖田さんは立ち上がり、キッチンの冷蔵庫から勝手に缶飲料を取った。ためらいのない仕草から、ここで遠慮なくふるまってきたのが想像できた。
開けて、一口飲んだ。
「奥さんにはお宅に行けば、食わせてもらったり、着せてもらったり。若い頃、しょっちゅう世話になった」
彼は既に故人となっている大物政治家の名を挙げた。夫人はその人の娘になるのだという。
「…ふうん」
そうだ。三枝さんに奥さんがいるのは当たり前のことだ。そういう男性と千晶がずっと恋愛関係にあったことの意外さが、今もわたしの中で、途切れず尾を引いている。
沖田さんはわたしの頭をぽんと手を置いた。
「ふうん、としか言えないよな、雅姫には」
「びっくりしちゃって…。奥さんのこと、大丈夫?」
「身の回りのことは、お手伝いさんがしてるだろうし。知らせるべきだと思って、急いだけど…、三枝さんが病院に向かっても、もう面会もできないかもしれないしな、深夜だし」
「そう」
頷くような相槌を打ったが、知るべきだと思った。家族の入院だ。何をしていても、早く知る必要があるように思う。
しかし、どこにいるかもわからず、電話もつながらないのであれば、連絡の取りようもない。待つよりないのは、沖田さんのせいではない。
彼が、手の缶をテーブルに置いた。面倒を、ちょっと置くような仕草に見えた。それを見て、ほんの話題を変えるつもりで訊いてみる。
「千晶と三枝さんのきっかけって、何だろう?」
「千晶が積極的だったな…」
へえ。
驚きはしたが、納得もいく。
千晶の側に常識を超える思いがあって、深い仲に進展したというのは想像し易い。当時、もう四十歳を出て落ち着いた三枝さんが、若い子にほいほい自分からアタック…というのは、難しかっただろう。
「沖田さん自分の担当の新人が、上司にお熱だったなんて、やり辛かっただろうね。ははは…」
軽く、そんなことを言ってみる。彼からは「あ~あ、やってられっかよ」くらいが返ってくることを期待していた。
だが、彼からの返しは、苦笑のような皮肉めいたものだった。
ん?
冗談も億劫なのか。疲れているのかと彼を見た。ちょうど彼もわたしを見ていて、そこで目が合う。
その目が笑っていないことに、やや違和感があった。
「売り出してもらうためだよ。千晶が、三枝さんに自分から接近したのは」
え。
彼の言葉を、その意味通りに理解するのにはしばらく時間がかかった。
冗談にしては毒が効き過ぎているし、また面白味もない。沖田さんは言葉そのままの意図で、口にしたのだ…。
「自分で言ったんだ、千晶が。「売れるものなら、何でも買ってもらう」って。俺が全部知った後になるけどな」
「まさか…」
それでも信じがたく、そんな声が出る。
彼女が、他に抜きん出てヒットを飛ばし活躍してこられたのは、その卓越した技術とセンス、そしてそれらを生かす、大きな努力だ。そして、何よりも描くことへの熱意が底にあったはずだ。
沖田さんの声が降る。
「何でもきっかけが要る。セミプロみたいなお前らは注目もされていたが、似たようなのは、他にもいた。その中から頭一つ抜けるには、何でもいい、糸口が必要だと千晶は知ってたんだな。焦ってもいたんだろう」
目の前で不意に風船が割れたような衝撃だった。しかも、それは割れるはずのない大きな風船だ。
でも…、
成功への足掛かりとして、千晶が無茶なきっかけを求めたとして、それを受け入れた三枝さんにだって、少なくない責任があるはずだ。
わたしがそれを言えば、沖田さんはすぐに頷いた。
「あいつも無謀だったけど、三枝さんが悪い。どうあれ拒絶できなかったんだからな。ただ…、あの頃にはもう、あの人の家庭は壊れてたんだ。弁護するんじゃないが、多分それも千晶は承知の上だった」
最初、ほんの遊びだった三枝さんが、じき彼女との関係にどっぷりとはまり込んでいったのだという…。
相槌が打てなかった。
咀嚼できないものを口に含んだようだった。喉に飲み込み辛く、かといって吐き出すこともできない。自然、わたしは唇を噛んでそれに耐えた。
大型新人としていきなり与えられた連載に、幾つもの人気誌を飾るカラーグラビア…。三枝さんからの強い協力を背景に、千晶は異例ともいう高待遇を得て、スタートは好調だった。
彼女の華々しい活躍を誌面で知り「さすが、千晶」と感嘆し、ため息をついたことを思い出す…。
社内では三枝さんの強引な千晶推しに、反発もあったという。それでも無理が通ったのは「大物政治家令嬢」を妻に持つ一目も二目も置かれた人物だった、という事情がある。
「結果、千晶の売りも、三枝さんの推しも、実を結んだ訳だ。何といっても、あいつの実力に負うところが大きいだろう。それまでの経緯はどうあれ…」
おそらく、三枝さんの今ある地位も 千晶とタッグを組んでの大いなる成功が導いたものでもあるのだろう。
耳に新しいことばかり。頭が振られたようにややぼんやりとする。
ただ、沖田さんの口調には彼女らを責める色合いは、不思議と感じられなかった。既に過去の話でもある。また、その三枝さんに「引き立てられ」た自身の現在の立場も、二人の関係に派生したものであると、承知しているようだった。
なぜ、今更わたしに話すのだろう。彼にとっても、決して面白い告白でもないはずだ。
わたしが千晶に抱く、憧れや尊敬、羨ましさ…、そういったものが、彼の目には、過剰にきらきらと思い出に彩られて、煩わしいのかもしれない…。
何の言葉を返していいのか。グラスに残ったワインを口に運んだ。迷った挙句、出した声は、
「何で話すの?」
「すまん」
ううん、と首を振る。怒ってなどいない、という意味と、謝る必要などない、という意味で。
「お前には、知っておいてほしかっただけだ」
どうして? と問う前に、「俺も、片棒を担いだようなもんだから」と、答えが来る。
当の二人にも始まりから今に至るまで、二人にしかわからない屈託はきっとあるはず。それを、傍からあれだこれだと推測することに、多分価値などない。
沖田さんはまた、彼なりのやましさを心に持つのだろう。世話になったという、奥さんのことを思えば、悩ましくそれはうずくのかもしれない。
誰もかれも、悪い。
それぞれの量の後味の悪さを持ち合って、捨てられず、もしかしたらそれぞれの重さで胸を痛めている…。
そんなことを、ぼんやりと思ってみる。
何となく、膝にだらりと置いた彼の手を取った。大きな爪のその指に触れる。こんな照れ臭い仕草を許すのは、ほのぼの残るワインの酔いのせいだろうか。
ふと指先が絡まり、その羞恥を紛らすように、わたしは小さくから笑いした。
「沖田さんには、あれこれ、弱み握られてるな」
「弱み?」
「覚えてない? バススタッフ。『紳士のための妄想くらぶ』」
「ああ、あの『チ○コ』か?」
「変な覚え方しないでよ。それに、パート先の社長のこともあるし…」
「ああ、シャチョーな」
「おかしな発音するよね、前から」
「お前んちは、ショーリンジ」
うるせーよ。
「それから、同人でBL描いてる…」
「バリエーションが豊富だな、お前は。ははは…」
「…ねえ、何がいいの? わたしの」
わたしの問いにちょっとした間ができた。それをからかおうと何か言いかけると、彼の声が、
「全部」
答えに頬がぽっと熱を持つのがわかる。それを悟られたくなくて、壁の時計を見る振りをした。
まだ離れない、手と手がある。
せりふの気恥ずかしさが、後で上るのか、彼の咳ばらいがした。それがちょっと笑える。
「遅いな、千晶…」
それに、うんとのみ応えた。
そうしながら、わたしは少し前に惹かれて覚えた、ある詩を胸にめぐらせているのだ。
三千世界の烏を殺し、
ぬしと朝寝がしてみたい
何度も、何度も。
沖田さんは三枝さんがここにいると思ってやって来たという。「どっちの電話もつながらないしな」と片頬をふくらませる。
「急ぎの用なの?」
相手は大手出版社の副社長だ。緊急な仕事の要件なのだろう。つい訊いたまで。大した答えは期待しなかった。社外秘かもしれないし、わたしに理解が及ばないかもしれない…。
「うん…、奥さんが、緊急入院することになって。俺のところに連絡が来た」
「え?」
「ああ、副社長の奥さんだよ。一度、ガンになってる人なんだ。退院後も大事にして、調子も悪くなさそうだったのにな…」
沖田さんは立ち上がり、キッチンの冷蔵庫から勝手に缶飲料を取った。ためらいのない仕草から、ここで遠慮なくふるまってきたのが想像できた。
開けて、一口飲んだ。
「奥さんにはお宅に行けば、食わせてもらったり、着せてもらったり。若い頃、しょっちゅう世話になった」
彼は既に故人となっている大物政治家の名を挙げた。夫人はその人の娘になるのだという。
「…ふうん」
そうだ。三枝さんに奥さんがいるのは当たり前のことだ。そういう男性と千晶がずっと恋愛関係にあったことの意外さが、今もわたしの中で、途切れず尾を引いている。
沖田さんはわたしの頭をぽんと手を置いた。
「ふうん、としか言えないよな、雅姫には」
「びっくりしちゃって…。奥さんのこと、大丈夫?」
「身の回りのことは、お手伝いさんがしてるだろうし。知らせるべきだと思って、急いだけど…、三枝さんが病院に向かっても、もう面会もできないかもしれないしな、深夜だし」
「そう」
頷くような相槌を打ったが、知るべきだと思った。家族の入院だ。何をしていても、早く知る必要があるように思う。
しかし、どこにいるかもわからず、電話もつながらないのであれば、連絡の取りようもない。待つよりないのは、沖田さんのせいではない。
彼が、手の缶をテーブルに置いた。面倒を、ちょっと置くような仕草に見えた。それを見て、ほんの話題を変えるつもりで訊いてみる。
「千晶と三枝さんのきっかけって、何だろう?」
「千晶が積極的だったな…」
へえ。
驚きはしたが、納得もいく。
千晶の側に常識を超える思いがあって、深い仲に進展したというのは想像し易い。当時、もう四十歳を出て落ち着いた三枝さんが、若い子にほいほい自分からアタック…というのは、難しかっただろう。
「沖田さん自分の担当の新人が、上司にお熱だったなんて、やり辛かっただろうね。ははは…」
軽く、そんなことを言ってみる。彼からは「あ~あ、やってられっかよ」くらいが返ってくることを期待していた。
だが、彼からの返しは、苦笑のような皮肉めいたものだった。
ん?
冗談も億劫なのか。疲れているのかと彼を見た。ちょうど彼もわたしを見ていて、そこで目が合う。
その目が笑っていないことに、やや違和感があった。
「売り出してもらうためだよ。千晶が、三枝さんに自分から接近したのは」
え。
彼の言葉を、その意味通りに理解するのにはしばらく時間がかかった。
冗談にしては毒が効き過ぎているし、また面白味もない。沖田さんは言葉そのままの意図で、口にしたのだ…。
「自分で言ったんだ、千晶が。「売れるものなら、何でも買ってもらう」って。俺が全部知った後になるけどな」
「まさか…」
それでも信じがたく、そんな声が出る。
彼女が、他に抜きん出てヒットを飛ばし活躍してこられたのは、その卓越した技術とセンス、そしてそれらを生かす、大きな努力だ。そして、何よりも描くことへの熱意が底にあったはずだ。
沖田さんの声が降る。
「何でもきっかけが要る。セミプロみたいなお前らは注目もされていたが、似たようなのは、他にもいた。その中から頭一つ抜けるには、何でもいい、糸口が必要だと千晶は知ってたんだな。焦ってもいたんだろう」
目の前で不意に風船が割れたような衝撃だった。しかも、それは割れるはずのない大きな風船だ。
でも…、
成功への足掛かりとして、千晶が無茶なきっかけを求めたとして、それを受け入れた三枝さんにだって、少なくない責任があるはずだ。
わたしがそれを言えば、沖田さんはすぐに頷いた。
「あいつも無謀だったけど、三枝さんが悪い。どうあれ拒絶できなかったんだからな。ただ…、あの頃にはもう、あの人の家庭は壊れてたんだ。弁護するんじゃないが、多分それも千晶は承知の上だった」
最初、ほんの遊びだった三枝さんが、じき彼女との関係にどっぷりとはまり込んでいったのだという…。
相槌が打てなかった。
咀嚼できないものを口に含んだようだった。喉に飲み込み辛く、かといって吐き出すこともできない。自然、わたしは唇を噛んでそれに耐えた。
大型新人としていきなり与えられた連載に、幾つもの人気誌を飾るカラーグラビア…。三枝さんからの強い協力を背景に、千晶は異例ともいう高待遇を得て、スタートは好調だった。
彼女の華々しい活躍を誌面で知り「さすが、千晶」と感嘆し、ため息をついたことを思い出す…。
社内では三枝さんの強引な千晶推しに、反発もあったという。それでも無理が通ったのは「大物政治家令嬢」を妻に持つ一目も二目も置かれた人物だった、という事情がある。
「結果、千晶の売りも、三枝さんの推しも、実を結んだ訳だ。何といっても、あいつの実力に負うところが大きいだろう。それまでの経緯はどうあれ…」
おそらく、三枝さんの今ある地位も 千晶とタッグを組んでの大いなる成功が導いたものでもあるのだろう。
耳に新しいことばかり。頭が振られたようにややぼんやりとする。
ただ、沖田さんの口調には彼女らを責める色合いは、不思議と感じられなかった。既に過去の話でもある。また、その三枝さんに「引き立てられ」た自身の現在の立場も、二人の関係に派生したものであると、承知しているようだった。
なぜ、今更わたしに話すのだろう。彼にとっても、決して面白い告白でもないはずだ。
わたしが千晶に抱く、憧れや尊敬、羨ましさ…、そういったものが、彼の目には、過剰にきらきらと思い出に彩られて、煩わしいのかもしれない…。
何の言葉を返していいのか。グラスに残ったワインを口に運んだ。迷った挙句、出した声は、
「何で話すの?」
「すまん」
ううん、と首を振る。怒ってなどいない、という意味と、謝る必要などない、という意味で。
「お前には、知っておいてほしかっただけだ」
どうして? と問う前に、「俺も、片棒を担いだようなもんだから」と、答えが来る。
当の二人にも始まりから今に至るまで、二人にしかわからない屈託はきっとあるはず。それを、傍からあれだこれだと推測することに、多分価値などない。
沖田さんはまた、彼なりのやましさを心に持つのだろう。世話になったという、奥さんのことを思えば、悩ましくそれはうずくのかもしれない。
誰もかれも、悪い。
それぞれの量の後味の悪さを持ち合って、捨てられず、もしかしたらそれぞれの重さで胸を痛めている…。
そんなことを、ぼんやりと思ってみる。
何となく、膝にだらりと置いた彼の手を取った。大きな爪のその指に触れる。こんな照れ臭い仕草を許すのは、ほのぼの残るワインの酔いのせいだろうか。
ふと指先が絡まり、その羞恥を紛らすように、わたしは小さくから笑いした。
「沖田さんには、あれこれ、弱み握られてるな」
「弱み?」
「覚えてない? バススタッフ。『紳士のための妄想くらぶ』」
「ああ、あの『チ○コ』か?」
「変な覚え方しないでよ。それに、パート先の社長のこともあるし…」
「ああ、シャチョーな」
「おかしな発音するよね、前から」
「お前んちは、ショーリンジ」
うるせーよ。
「それから、同人でBL描いてる…」
「バリエーションが豊富だな、お前は。ははは…」
「…ねえ、何がいいの? わたしの」
わたしの問いにちょっとした間ができた。それをからかおうと何か言いかけると、彼の声が、
「全部」
答えに頬がぽっと熱を持つのがわかる。それを悟られたくなくて、壁の時計を見る振りをした。
まだ離れない、手と手がある。
せりふの気恥ずかしさが、後で上るのか、彼の咳ばらいがした。それがちょっと笑える。
「遅いな、千晶…」
それに、うんとのみ応えた。
そうしながら、わたしは少し前に惹かれて覚えた、ある詩を胸にめぐらせているのだ。
三千世界の烏を殺し、
ぬしと朝寝がしてみたい
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