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手に残るもの
9、父の言葉を考えて
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「コージが何を思ったにせよ、家族であって、雅姫だけが責を負うことはないのでは…。そして、もう過分に彼女は受け止めたはずです」
ダグは元夫の実家での話し合いにも加わってくれたし、わたしが刺されたあの現場を目にしている。声に穏やかでも裏付けのある強さを感じた。それが嬉しい。
「ははは、ダグの十八番の『ファミリー』か。あれは雅姫に甘い。あんな兄貴が付いてくるのをあなた、どう思う?」
不意に父が沖田さんへ声をかけた。彼は一人話から外れていた。一瞬返事に詰まったのを父はちょっと面白そうに眺めた。
長年の娘の勘で、説教がそこで終わるのを知る。内省を促して、それが見えたら小言はさっさと引っ込める。元からが、長々と叱ることのない父だった。
「…そうは言っても、気持ちが掛け違うことはままある。嫌なものもしょうがない」
「刺されるほど嫌ってないよ」
雰囲気が少し砕け、ほっとしてそんな言葉が出た。
「彼女がダグを実の兄のように頼りにしているのはわかります…。実際、自分とのことを彼女がまず打ち明けたのが、彼でしたし」
沖田さんの父の問いに遅れての返事だ。「姉が頼りないからね」姉がとぼけたちゃちゃを入れる。
「たまたま、だよ。タイミングが合っただけで」
ダグは謙虚な相槌を打った。思い返せば、ダグに沖田さんとのことを告白したのは、巧みな誘導尋問にあって、のことだった。それでも、知っていてもらうのとそうでないのとでは、随分違った展開になっただろう。折々、ダグの配慮に甘えてきた節はある。
ダグが甘いのではなく、きっとわたしが甘いのだ。
「ダグってね、鼻が利くの。身内に何かあると。すぐピンとくるよね」
姉の言葉にダグは小さく笑った。そうかもしれない、と。
「大事だからね、家族は。全ての基本じゃないかな。まず、一番身近な家族に幸せがないと、何も生まれない。そんな風に考えてしまうんだ。利己的かもしれないけど」
何がいけないのだろう。
それは、自分に素直なことでもあると思う。まず自分。そして自分を囲む家族。そこに目がいかず、遠い場所ばかりを見ている人では、寂しい。
それを意識しはっきりと口にするダグを夫にした姉を、やはり恵まれた人だと思った。何も巧まずに、なのに自然と、女として絶対にほしい必要なものは手にしてしまえている…。
友人の千晶とはまた別で、わたしの憧れでもある。
こんなことをしみじみ実感するのは、家族から目を逸らすようにしてばかりいた夫とのことがあるからかもしれない。父は彼をそうさせた理由が、わたしにもあったと責めた。そうなのだろう。
「わしはダグの『ファミリー教』を買ってるんだ。己の足元を照らす、という意味でもなかなかのもんじゃないかとも思う」
誰にともなく父は婿自慢をした。出来のいいアメリカ生まれのダグが可愛いのだ。ごく普通の日本人の父と、映画から抜け出てきたようなダグとの不釣合いなでこぼこコンビは、わたしたち家族には、当たり前の姿になっている。
そんな目に見えないわたしたちの輪から外れた沖田さんは、ややぽけっとしていた。説教めいた話が続き、あきれているようだった。これがあなたが軽口に言っていた『ショーリンジ』の実態だ。
「あの、それで、お考えはどうなんでしょうか? 彼女…、雅姫…、さんとのことは」
そこで、沖田さんが話を本筋に戻した。彼にとってはそれが目的で、元夫の往時の心境や『ファミリー教』などどうでもいいはず。
父は作務衣の手を彼の前へすっと前に広げた。任せる、といった仕草に見えた。言質がほしいのか、彼はもう一度問いを重ねた。そんなところが、あやふやなことを避けたがる彼らしいな、とふと思う。
「大人同士、お好きなように」
父の言葉に彼は頭を下げた。その頭が上がらない前に、父が総司のことを持ち出した。ちなみに、子供は姉の子も居間で遊ばせている。
「あの子のこともひっくるめて引き受けてくれるそうだが…」
「はい、彼女との結婚と同時にでも、養子縁組したいと思っています」
彼の意志は、おそらくダグは知っていたろう。初耳の姉はあら、という顔をし、わたしを見て頷いた。「いいじゃない」と唇で言う。
「それはありがたい話だが、どうだろう…」
父は言葉を途切れさせ、ぽんぽんと膝を打った。父にとっては事を急き過ぎて見えるのだ。離婚が済んだばかりで、すぐ再婚話。わたしが打ち明け辛く思ったのも、それがある。
それもしょうがない。再婚のための離婚だった。沖田さんとのことがなければ、わたしは決して離婚を焦らなかった。子供のためと体よく言い訳に逃げ、ずるずる別居を続けていただろう。
「いけませんか? あの、雅姫の和解金のことがご心配でしたら、関心がありません。自分が手にできないように、彼女には法的に手を打ってもらうつもりでいます」
そうだったのか。それは知らなかった。
決然とした硬い彼の声に、姉が感嘆の声で和した。
「とってもありがたいお話じゃない、お父さん」
「その辺はどうでもよろしい」
父は姉の声をばっさりと切り捨てる。
「いくら法的に手を打とうが、あなたがその気になれば何なりと方法はあるでしょう。…しかし、そのお気遣いはありがたい。感謝します」
「では、何が問題なのですか?」
「…総司は、可哀そうな目に遭った子です。別れもなく、父親がいなくなった。小さな子にとって、親は世界だ。その片っぽが、訳もわからずいきなり消えたんです。とてつもないショックだろう…」
「ですから、自分が父親になって」
父は沖田さんの声に頷きながら応じた。
「あなたは、年齢も物腰も落ち着いているし、申し分のない人だとお見受けします。あの子の親にはまさに理想的だと思う」
「なら…」
「…ゆるゆるといきませんか。つかず離れずの距離に、頼りになるおじさんがいる。あの子にとって、それではいけませんか?」
「いや、それは…。形をまずきちんと整えて、その中で家族として生活していけば、自然に親子になっていくものじゃないですか。お言葉ですが…」
「それは、大人に都合のいい『親ごっこ』じゃないかな」
父の『親ごっこ』という言葉に沖田さんが黙り込んだ。少し唇を歪めている。気を悪くしたのかもしれない。彼の誠意をけなしたようなものだ。
黙っていられず、わたしは口を挟んだ。
「総司にはこれから父親が必要になると思う。ダグはよくしてくれるけど、やっぱり…」
「やっぱり足りないなら、もう一人のダグになればいいんだよ、あなた」
父の声に、当のダグがちょっと笑った。
「二人であの子の空いた世界を埋めてやるつもりでいたらいい。全部埋まらんかもしれんが、歪みはしないだろう」
「自分一人では、父親は無理だと?」
父は沖田さんの問いに、首を振って否定した。誰がやっても無理だろう、そう言うのだ。
「総司にだってもうわかってる。父親がよからぬことをして母親に大怪我をさせたのだと。小さい頭でちゃんと理解してる。それでも、あの子の父親のままだ」
「向こうはとっくに父親を降りたのに、ですか?」
沖田さんの声にはあきれと、わずかないらだちが感じられた。
「うん。片方が勝手に切ったつもりでももう片方は切るに切れないで、情ばかり長く付きまとう…。それほどに親子の情は強い。好悪じゃない」
彼は言葉を返さなかった。少し考えるように目を伏せている。
わたしも父の言葉に何も言い返せないでいた。それは、何らかの真実を嗅ぎ取ったからだろう。今更ながら、総司がしょい込む心の重荷を痛々しく思った。
新しい父親が現れれば、生活が新しく始まれば、幼さゆえの柔軟さがすべてを解決してしまう…。そんな風にわたしは気楽に考えていた。
浅はかだった。
父は元夫を軽んじてきたわたしの中の傲慢さを先ほどは叱った。が、このときそれはなかった。母親として軽薄だったことは否めないのに。
父の言葉は続く。
「だから、ゆるゆると、気楽に。そう行きませんか? 流れに任せて、坂を下って行くような楽な気持ちで。上るんじゃなく、いい場所へ行きつくつもりで、ふわふわ降りていく」
いつしか、あの子はきっと気づく。一番身近で当たり前に自分を見守ってくれた人への愛情が、自分を育ててくれたのだと…。
「それがまさに、『父親』じゃないですか」
「…はい……」
父は彼に総司の父になるな、などと言っているのではない。思い切った誠意を認め、ただ気負うな、と励ましているのだろう。あの子になついたダグの力を借り、徐々に家族を成していけばいい、そう言っているのだ。
話が終わったのを機に、姉が沖田さんへ夕食を誘った。「苦手な物ってあります?」と服屋で色違いのTシャツでも求めるような様子で訊く。
「あ、いや、別に…」
ほっとしたようなちょっと虚脱したような顔をしている。食事を用意した居間へ移る際、わたしは彼の肩をポンと叩いた。仕事帰りだ。疲れたのかと思った。
「大丈夫?」
彼は首を右へ振り、直さないままつぶやいた。
「すげえな、ショーリンジ」
何と答えてよいやら。わたしはちょっとふざけたように彼の背を押し、廊下へ誘った。
その後の夕食の席で、沖田さんと総司は初めて顔を合わすことになった。
彼が声をかければ愛想よく返事はするものの、いつになくわたしや従姉の花梨にべったりとしている。ふと顔をのぞけば「何だ、あの人は」と目が問いたげだ。
彼が家を出たのは、十時に近い頃だった。
通りまでタクシーを拾うのに見送りがてらつき合った。彼は寡黙で、食事やその後も父や姉にあれこれ質問されていたので、ちょっとくたびれたように見えた。
家々から明りの洩れる小路をしばらく無言で歩く。
「…ねえ」
「…なあ」
言葉がぶつかった。いつかも、この人とこんなことがあった気がした。自分の意味のない言葉を引っ込め「何?」と聞く。
「考えが甘いのか?」
「ん?」
何についてかはすぐにわかった。総司の件での父の言葉が引っかかるのだ。わたしはそうじゃない、と首を振る。
「甘いのは、わたしだよ」
「…形を整えてあの子を迎えるのがどうして『親ごっこ』かな…」
案外に厳しいその言葉を選んだ、父の思いの全てはわからない。ただ、不安定な総司の気持ちを思いやれ、という意味は汲み取れた。
それを言うと、彼はすぐに応じた。
「だから、きちんとした環境を与えて前を向かせてやるのが一番じゃないのか? これから、自分の進む方を。変化は悪ことばかりじゃないだろ。順応するのに忙しければ、忘れて余計な悩みも減る」
確信を持った声に、この人も幾度もそんな経験をし、それがステップアップとなってきたのだろう、と感じさせる。わたしもそうだ。苦いものもちょっと甘いものも、幾つかある。大人なら誰だって。
沖田さんの言うことは正しい。結果、総司にこの人はいい影響をくれるに違いない、そう思う。
でも、忘れなかかったら…。
あの子が元夫を忘れられず、子供らしい頑なな執着であの人の影を抱き続けていくのなら、嫌な目を見るのは沖田さんの方かもしれない。彼は我慢してくれる。でも、どこかできっと傷つくのだ。自分があの男にどうしても勝てないことに。
もしかすると父はそこまでを慮ったのかもしれない。優しい彼が総司の思いに振り回されないように。だから、ゆるゆると、坂を下りるように、と彼の気負いを削ぐようなことをいったのではないか…。
「俺の子になるんだから、その辺の子と比べて何の不足のないようにしたい。そう思うのが、まずいかな…」
まだぶつぶつ言っている。父との会話はまるで肩すかしで、そのままあっちのペースで話が落ち着いてしまったのが、何ともすっきりしないのがわかる。ちょっとくさった表情だ。
その彼の隣でゆっくり歩を進めながら、頬は緩んだ。きっと真心で総司がほしいのだろう。これまでに考えてくれる彼を、芯から嬉しいと思った。愛しいと思った。
「まあ、急ぎ過ぎた感はあるけどな。それにだって、意味が…」
彼の手をぎゅっと握った。この日、行き場をなくした意気込みを、ぷちっとつぶすように。
彼が言葉を切り、わたしを見た。
「ねえ、総司がほしいの?」
「何だよ、急に」
「ねえ」
「そうじゃなかったら、こんなぐだぐた言ってねえよ」
「あはは、愚痴ってる自覚はあるんだ」
「うるせえな。…切り替えの早さははやぶさ並みなんだけどな」
「久しぶりに聞いた、その鳥」
「東北新幹線」
返しにへへと笑った。去年乗ったのだといった。「子供、好きなんじゃないか、あれ。男の子なら、きっと面白いと思う」
「わたしが先じゃないの?」
「え?」
「わたしはほしくないの?」
「あ…、それは、まあ、お前が先だな、確かに」
「なら、いいじゃない。お父さんは、そっちは勝手にしろって、認めてくれたんだし」
「うん、まあ…、そうだけど」
「いいよ、それで」
わたしは、もう一度ゆっくり繰り返した。いいよ、それで。
父が彼に言った言葉が耳に残っていた。
『…流れに任せて、坂を下って行くような楽な気持ちで』
『上るんじゃなく、いい場所へ行きつくつもりで、ふわふわ降りていく…』
元夫との生活はあれこれあったが、その終盤はきつい坂に向かうようなしんどさがあった。その坂の上に何か嬉しいことがあるとぼんやり言い聞かせ、息を切らし頑張っていた。形は違えど、元夫も同じだったのではないか。
だが、先に何があっただろう。
わたしには見えなかった。わからなかった。
頑張ることは無駄でも無意味でもない。でも、心の望みへと導いてくれない頑張りもある、そう思うのだ。
だから、彼とはゆっくりと願う場所へ『ふわふわ降りて』行きたい。
胸の中で思いは念じるようにじんと響いた。
「そうだな、お前が先だな」
沖田さんの声が肩に降った。通じたようで単純に嬉しい。彼は融通の利かない人ではない。でも、今は我を引っ込めただけかもしれない。それでも、嬉しい。
「…ねえ」
自販機の並んだ廃業したタバコ屋の影で彼の腕を引いた。ビニールのひさしが破れかけたその陰で口づけを求める。すぐ抱きしめられる。
彼の指が耳をやんわり包む。髪が絡んでくすぐったい。瞳を閉じ唇を重ねながら、どうしてだろう、手をつないでいるイメージが頭に浮かぶ。
わずかに離れて、また唇が触れ合う。
わたしは今、嬉しいを抱えて彼と坂を下っている。
ダグは元夫の実家での話し合いにも加わってくれたし、わたしが刺されたあの現場を目にしている。声に穏やかでも裏付けのある強さを感じた。それが嬉しい。
「ははは、ダグの十八番の『ファミリー』か。あれは雅姫に甘い。あんな兄貴が付いてくるのをあなた、どう思う?」
不意に父が沖田さんへ声をかけた。彼は一人話から外れていた。一瞬返事に詰まったのを父はちょっと面白そうに眺めた。
長年の娘の勘で、説教がそこで終わるのを知る。内省を促して、それが見えたら小言はさっさと引っ込める。元からが、長々と叱ることのない父だった。
「…そうは言っても、気持ちが掛け違うことはままある。嫌なものもしょうがない」
「刺されるほど嫌ってないよ」
雰囲気が少し砕け、ほっとしてそんな言葉が出た。
「彼女がダグを実の兄のように頼りにしているのはわかります…。実際、自分とのことを彼女がまず打ち明けたのが、彼でしたし」
沖田さんの父の問いに遅れての返事だ。「姉が頼りないからね」姉がとぼけたちゃちゃを入れる。
「たまたま、だよ。タイミングが合っただけで」
ダグは謙虚な相槌を打った。思い返せば、ダグに沖田さんとのことを告白したのは、巧みな誘導尋問にあって、のことだった。それでも、知っていてもらうのとそうでないのとでは、随分違った展開になっただろう。折々、ダグの配慮に甘えてきた節はある。
ダグが甘いのではなく、きっとわたしが甘いのだ。
「ダグってね、鼻が利くの。身内に何かあると。すぐピンとくるよね」
姉の言葉にダグは小さく笑った。そうかもしれない、と。
「大事だからね、家族は。全ての基本じゃないかな。まず、一番身近な家族に幸せがないと、何も生まれない。そんな風に考えてしまうんだ。利己的かもしれないけど」
何がいけないのだろう。
それは、自分に素直なことでもあると思う。まず自分。そして自分を囲む家族。そこに目がいかず、遠い場所ばかりを見ている人では、寂しい。
それを意識しはっきりと口にするダグを夫にした姉を、やはり恵まれた人だと思った。何も巧まずに、なのに自然と、女として絶対にほしい必要なものは手にしてしまえている…。
友人の千晶とはまた別で、わたしの憧れでもある。
こんなことをしみじみ実感するのは、家族から目を逸らすようにしてばかりいた夫とのことがあるからかもしれない。父は彼をそうさせた理由が、わたしにもあったと責めた。そうなのだろう。
「わしはダグの『ファミリー教』を買ってるんだ。己の足元を照らす、という意味でもなかなかのもんじゃないかとも思う」
誰にともなく父は婿自慢をした。出来のいいアメリカ生まれのダグが可愛いのだ。ごく普通の日本人の父と、映画から抜け出てきたようなダグとの不釣合いなでこぼこコンビは、わたしたち家族には、当たり前の姿になっている。
そんな目に見えないわたしたちの輪から外れた沖田さんは、ややぽけっとしていた。説教めいた話が続き、あきれているようだった。これがあなたが軽口に言っていた『ショーリンジ』の実態だ。
「あの、それで、お考えはどうなんでしょうか? 彼女…、雅姫…、さんとのことは」
そこで、沖田さんが話を本筋に戻した。彼にとってはそれが目的で、元夫の往時の心境や『ファミリー教』などどうでもいいはず。
父は作務衣の手を彼の前へすっと前に広げた。任せる、といった仕草に見えた。言質がほしいのか、彼はもう一度問いを重ねた。そんなところが、あやふやなことを避けたがる彼らしいな、とふと思う。
「大人同士、お好きなように」
父の言葉に彼は頭を下げた。その頭が上がらない前に、父が総司のことを持ち出した。ちなみに、子供は姉の子も居間で遊ばせている。
「あの子のこともひっくるめて引き受けてくれるそうだが…」
「はい、彼女との結婚と同時にでも、養子縁組したいと思っています」
彼の意志は、おそらくダグは知っていたろう。初耳の姉はあら、という顔をし、わたしを見て頷いた。「いいじゃない」と唇で言う。
「それはありがたい話だが、どうだろう…」
父は言葉を途切れさせ、ぽんぽんと膝を打った。父にとっては事を急き過ぎて見えるのだ。離婚が済んだばかりで、すぐ再婚話。わたしが打ち明け辛く思ったのも、それがある。
それもしょうがない。再婚のための離婚だった。沖田さんとのことがなければ、わたしは決して離婚を焦らなかった。子供のためと体よく言い訳に逃げ、ずるずる別居を続けていただろう。
「いけませんか? あの、雅姫の和解金のことがご心配でしたら、関心がありません。自分が手にできないように、彼女には法的に手を打ってもらうつもりでいます」
そうだったのか。それは知らなかった。
決然とした硬い彼の声に、姉が感嘆の声で和した。
「とってもありがたいお話じゃない、お父さん」
「その辺はどうでもよろしい」
父は姉の声をばっさりと切り捨てる。
「いくら法的に手を打とうが、あなたがその気になれば何なりと方法はあるでしょう。…しかし、そのお気遣いはありがたい。感謝します」
「では、何が問題なのですか?」
「…総司は、可哀そうな目に遭った子です。別れもなく、父親がいなくなった。小さな子にとって、親は世界だ。その片っぽが、訳もわからずいきなり消えたんです。とてつもないショックだろう…」
「ですから、自分が父親になって」
父は沖田さんの声に頷きながら応じた。
「あなたは、年齢も物腰も落ち着いているし、申し分のない人だとお見受けします。あの子の親にはまさに理想的だと思う」
「なら…」
「…ゆるゆるといきませんか。つかず離れずの距離に、頼りになるおじさんがいる。あの子にとって、それではいけませんか?」
「いや、それは…。形をまずきちんと整えて、その中で家族として生活していけば、自然に親子になっていくものじゃないですか。お言葉ですが…」
「それは、大人に都合のいい『親ごっこ』じゃないかな」
父の『親ごっこ』という言葉に沖田さんが黙り込んだ。少し唇を歪めている。気を悪くしたのかもしれない。彼の誠意をけなしたようなものだ。
黙っていられず、わたしは口を挟んだ。
「総司にはこれから父親が必要になると思う。ダグはよくしてくれるけど、やっぱり…」
「やっぱり足りないなら、もう一人のダグになればいいんだよ、あなた」
父の声に、当のダグがちょっと笑った。
「二人であの子の空いた世界を埋めてやるつもりでいたらいい。全部埋まらんかもしれんが、歪みはしないだろう」
「自分一人では、父親は無理だと?」
父は沖田さんの問いに、首を振って否定した。誰がやっても無理だろう、そう言うのだ。
「総司にだってもうわかってる。父親がよからぬことをして母親に大怪我をさせたのだと。小さい頭でちゃんと理解してる。それでも、あの子の父親のままだ」
「向こうはとっくに父親を降りたのに、ですか?」
沖田さんの声にはあきれと、わずかないらだちが感じられた。
「うん。片方が勝手に切ったつもりでももう片方は切るに切れないで、情ばかり長く付きまとう…。それほどに親子の情は強い。好悪じゃない」
彼は言葉を返さなかった。少し考えるように目を伏せている。
わたしも父の言葉に何も言い返せないでいた。それは、何らかの真実を嗅ぎ取ったからだろう。今更ながら、総司がしょい込む心の重荷を痛々しく思った。
新しい父親が現れれば、生活が新しく始まれば、幼さゆえの柔軟さがすべてを解決してしまう…。そんな風にわたしは気楽に考えていた。
浅はかだった。
父は元夫を軽んじてきたわたしの中の傲慢さを先ほどは叱った。が、このときそれはなかった。母親として軽薄だったことは否めないのに。
父の言葉は続く。
「だから、ゆるゆると、気楽に。そう行きませんか? 流れに任せて、坂を下って行くような楽な気持ちで。上るんじゃなく、いい場所へ行きつくつもりで、ふわふわ降りていく」
いつしか、あの子はきっと気づく。一番身近で当たり前に自分を見守ってくれた人への愛情が、自分を育ててくれたのだと…。
「それがまさに、『父親』じゃないですか」
「…はい……」
父は彼に総司の父になるな、などと言っているのではない。思い切った誠意を認め、ただ気負うな、と励ましているのだろう。あの子になついたダグの力を借り、徐々に家族を成していけばいい、そう言っているのだ。
話が終わったのを機に、姉が沖田さんへ夕食を誘った。「苦手な物ってあります?」と服屋で色違いのTシャツでも求めるような様子で訊く。
「あ、いや、別に…」
ほっとしたようなちょっと虚脱したような顔をしている。食事を用意した居間へ移る際、わたしは彼の肩をポンと叩いた。仕事帰りだ。疲れたのかと思った。
「大丈夫?」
彼は首を右へ振り、直さないままつぶやいた。
「すげえな、ショーリンジ」
何と答えてよいやら。わたしはちょっとふざけたように彼の背を押し、廊下へ誘った。
その後の夕食の席で、沖田さんと総司は初めて顔を合わすことになった。
彼が声をかければ愛想よく返事はするものの、いつになくわたしや従姉の花梨にべったりとしている。ふと顔をのぞけば「何だ、あの人は」と目が問いたげだ。
彼が家を出たのは、十時に近い頃だった。
通りまでタクシーを拾うのに見送りがてらつき合った。彼は寡黙で、食事やその後も父や姉にあれこれ質問されていたので、ちょっとくたびれたように見えた。
家々から明りの洩れる小路をしばらく無言で歩く。
「…ねえ」
「…なあ」
言葉がぶつかった。いつかも、この人とこんなことがあった気がした。自分の意味のない言葉を引っ込め「何?」と聞く。
「考えが甘いのか?」
「ん?」
何についてかはすぐにわかった。総司の件での父の言葉が引っかかるのだ。わたしはそうじゃない、と首を振る。
「甘いのは、わたしだよ」
「…形を整えてあの子を迎えるのがどうして『親ごっこ』かな…」
案外に厳しいその言葉を選んだ、父の思いの全てはわからない。ただ、不安定な総司の気持ちを思いやれ、という意味は汲み取れた。
それを言うと、彼はすぐに応じた。
「だから、きちんとした環境を与えて前を向かせてやるのが一番じゃないのか? これから、自分の進む方を。変化は悪ことばかりじゃないだろ。順応するのに忙しければ、忘れて余計な悩みも減る」
確信を持った声に、この人も幾度もそんな経験をし、それがステップアップとなってきたのだろう、と感じさせる。わたしもそうだ。苦いものもちょっと甘いものも、幾つかある。大人なら誰だって。
沖田さんの言うことは正しい。結果、総司にこの人はいい影響をくれるに違いない、そう思う。
でも、忘れなかかったら…。
あの子が元夫を忘れられず、子供らしい頑なな執着であの人の影を抱き続けていくのなら、嫌な目を見るのは沖田さんの方かもしれない。彼は我慢してくれる。でも、どこかできっと傷つくのだ。自分があの男にどうしても勝てないことに。
もしかすると父はそこまでを慮ったのかもしれない。優しい彼が総司の思いに振り回されないように。だから、ゆるゆると、坂を下りるように、と彼の気負いを削ぐようなことをいったのではないか…。
「俺の子になるんだから、その辺の子と比べて何の不足のないようにしたい。そう思うのが、まずいかな…」
まだぶつぶつ言っている。父との会話はまるで肩すかしで、そのままあっちのペースで話が落ち着いてしまったのが、何ともすっきりしないのがわかる。ちょっとくさった表情だ。
その彼の隣でゆっくり歩を進めながら、頬は緩んだ。きっと真心で総司がほしいのだろう。これまでに考えてくれる彼を、芯から嬉しいと思った。愛しいと思った。
「まあ、急ぎ過ぎた感はあるけどな。それにだって、意味が…」
彼の手をぎゅっと握った。この日、行き場をなくした意気込みを、ぷちっとつぶすように。
彼が言葉を切り、わたしを見た。
「ねえ、総司がほしいの?」
「何だよ、急に」
「ねえ」
「そうじゃなかったら、こんなぐだぐた言ってねえよ」
「あはは、愚痴ってる自覚はあるんだ」
「うるせえな。…切り替えの早さははやぶさ並みなんだけどな」
「久しぶりに聞いた、その鳥」
「東北新幹線」
返しにへへと笑った。去年乗ったのだといった。「子供、好きなんじゃないか、あれ。男の子なら、きっと面白いと思う」
「わたしが先じゃないの?」
「え?」
「わたしはほしくないの?」
「あ…、それは、まあ、お前が先だな、確かに」
「なら、いいじゃない。お父さんは、そっちは勝手にしろって、認めてくれたんだし」
「うん、まあ…、そうだけど」
「いいよ、それで」
わたしは、もう一度ゆっくり繰り返した。いいよ、それで。
父が彼に言った言葉が耳に残っていた。
『…流れに任せて、坂を下って行くような楽な気持ちで』
『上るんじゃなく、いい場所へ行きつくつもりで、ふわふわ降りていく…』
元夫との生活はあれこれあったが、その終盤はきつい坂に向かうようなしんどさがあった。その坂の上に何か嬉しいことがあるとぼんやり言い聞かせ、息を切らし頑張っていた。形は違えど、元夫も同じだったのではないか。
だが、先に何があっただろう。
わたしには見えなかった。わからなかった。
頑張ることは無駄でも無意味でもない。でも、心の望みへと導いてくれない頑張りもある、そう思うのだ。
だから、彼とはゆっくりと願う場所へ『ふわふわ降りて』行きたい。
胸の中で思いは念じるようにじんと響いた。
「そうだな、お前が先だな」
沖田さんの声が肩に降った。通じたようで単純に嬉しい。彼は融通の利かない人ではない。でも、今は我を引っ込めただけかもしれない。それでも、嬉しい。
「…ねえ」
自販機の並んだ廃業したタバコ屋の影で彼の腕を引いた。ビニールのひさしが破れかけたその陰で口づけを求める。すぐ抱きしめられる。
彼の指が耳をやんわり包む。髪が絡んでくすぐったい。瞳を閉じ唇を重ねながら、どうしてだろう、手をつないでいるイメージが頭に浮かぶ。
わずかに離れて、また唇が触れ合う。
わたしは今、嬉しいを抱えて彼と坂を下っている。
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