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9.最後の夜に
しおりを挟む一人の天幕で、涙が止まらなかった。
切なくて、胸がつぶれそうに思えた。声を殺して泣いた。
知らない間に、こんなにも王子に恋していたなんて。
気づいた途端、シャボンの玉のように割れて消えた。きれいな幻だったのだから。
幼いわたしへ継母が言ったように、愛される価値のない醜い娘なのかもしれない。外見ではごまかせない邪悪なものを人は感じてしまう。だから、王子にも嫌われて…。
「…ダーシー」
小さく呼ぶ声が聞こえた。自分の悲しみに夢中で聞き取れずにいた。マットかもしれない。用があって、夜更けだけど、起こしに来たのか。
寝床から身を起こした。野営では夜着に着替えなどしない。ブーツをはき、マントを羽織ればもう旅立てる。
目をぬぐいながら外へ出る。思いがけず、そこに立つのは王子だった。虚をつかれてうろたえた。
何を今更。
涙まみれの顔を見られたくもない。解いた髪をまとめるふりで彼から顔を逸らす。
「話がある」
「いいんです、もう。わかっていますから」
変に真面目な人だもの。急な心変わりで、またわたしに対して罪悪感を持ったのだろう。責任感もうずくのかもしれない。
そんな詫びなど要らない。
放っておかれる方がよほどましだ。
彼はわたしの手を取り、強引にどこかへ連れて行く。
野営地の近くを流れる小川だ。水面を月光が照らしきらめいている。その明かりで顔を見られるのが嫌だった。
王子がここを選んだのは、宿直の兵から離れているからと思った。
「すまない。君に無礼な態度を取った。不快な目にあわせた。最後の夜だから言っておきたい」
「だから、もういいんです」
彼から背を向けた。
気持ちが変わるのは責められない。間違いは誰にだってある。わかっているから、せめてそのままにしてほしい。そうでないと、やっとこらえている涙がぶり返しそうで怖いのだ。
「ハクが言ったことを覚えているか?」
「...ええ」
魔女のハクは、わたしの中にドラゴンの魂の名残があるというようなことを言っていたはず。でも、王家の彼と違い、ドラゴン信仰もなく信じ切れもしない。よくわからない。
その後で彼がわたしへの態度を変えた。鮮明に覚えているのは彼の変化だ。
「ハクが言うように、僕は君に会ってすぐに、誰とも違うと気づいていた」
「目新しかったからでしょう。わたしは王子様が見慣れた王都の洗練されたレディではないから」
「そういう意味じゃない。僕の妃は君だと気づいたんだ」
「え」
「君ほど気に適うレディは会ったことがない。何もかも理想そのものだ。口ごたえがうるさいのは癪だけど、そんなところも可愛い…」
彼の気持ちが初めて届いた。もう過去のものでも、とても嬉しかった。抑えきれない涙が頬を伝う。
責任感だけではなく、彼の中に恋の感情はあった。それでいいと思った。その記憶で、わたしは自分の思いを慰めてあげられる。
「でも…」
王子は言葉を切り、ブーツの足先で小石を蹴った。
「僕は子供の頃からドラゴンを追っかけていた。自分のルーツという興味以外にも、優れた生物として、とにかく好きなんだ」
「ええ」
コレットほどの頃の彼が、ドラゴンに憧れ目を光らせている様はすぐに頭に浮かぶ。それで周囲をはらはらさせることもあっただろう。
「でも、…ハクに、僕の会いたがっていたドラゴンが君の中にいると言われて、愕然となった。じゃあ、僕が抱いている君への思いは何なんだ? ドラゴンを追っていた僕が、逆に操られて惑わされているように感じた。自分の感情に自信が持てなくなった」
それで、わたしと距離を置くようになったという。
「君が忌まわしく見えた」
はっきりとした拒絶の言葉は、覚悟を決めたわたしの心も深くえぐった。立つのが辛くなって、小石をいじる素振りでしゃがみ込んだ。
もう去ってほしかった。いつまで側にいるのだろう。
立ち去る気配のない彼に焦れて来た。
何をしているのか。捨てる側の彼が湿った態度なのが腹立たしい。めそめそしたいのはわたしの方なのに。好きなドラゴンの火で炙られればいいのに。目が覚めるだろう。
「もういいですか?」
辟易したわたしの声に、彼の
「やっぱり」
が重なった。
彼がむっとした声で言う。
「僕といるのが迷惑なのか? 実にうんざりした声だった」
「心変わりの理由を事細かに説明されれば、迷惑だしうんざりくらいします」
「心変わりなんてしていない」
え。
やっとわたしは彼を見た。見上げた彼とそこで目が合う。
「泣いているじゃないか」
彼が屈んだ。わたしが顔をそむけるより早く、彼の手が頬を挟む。
「僕が変心したと思ったのか? それは違う。誤解だ」
「だって、感情に自信が持てなくなったって…」
「考えれば当たり前なんだ。お互いにあるんだ。僕が受け継いだドラゴンの血と君の中のドラゴンの魂が、引き合うのは当然じゃないか。同じものがあるのだから」
彼には自明でも、わたしにはピンとこない。
抱しめられて、ひたいが彼の胸に当たる。そこでこらえた涙がぶり返した。さんざん押さえつけた涙が、心からあふれるようにふき出した。
「やっと君が近く感じられたのに、僕のせいでまた遠くなった。それがすごく嫌だった」
「忌まわしいなんて言わないで。ひどい」
「傷つけて、泣かせて悪かった」
彼はわたしを立たせた。涙ぐむわたしの前で、自分だけ片膝をついてひざまずく。そしてわたしの垂れた手を取った。その甲に口づける
「何も持ってなくて申し訳ない。ただ君だけに愛情を誓い奉げる。僕と結婚してほしい」
優雅な挙措だった。心にしみるような光景で、ずっと心に鮮やかに留めておきたいと願うほど。
旅を通して知ったのは、騎馬や狩りの巧みさ、隊の中心として周囲への配慮と磊落な態度。それらは有能な王子としての彼だ。けれど、こんな素敵な一面もある。
胸の奥がうずくようにときめいた。
思わずしゃがみこんだ。彼だけをひざまずかせたままではいられない。
「どうして最初からこうしてくれなかったの? だったら、わかり易いのに」
「え」
彼はちょっと目を伏せた。照れ臭かった、と言った。
「僕はレディにあれこれ言うのに向いていない。上手いことを言うのが苦手だし、嫌いだ」
常套句だった「責任を取る」は、彼の照れ臭さを隠した言い回しだったと知り、微笑ましくなった。嬉しくなる。
なのに、改めてこんな風に申し込んでくれるのは、わたしへの謝罪の気持ちからだろうか。
「必死なんだ、今は。君を失いそうで」
むっつりとした声がする。
わたしはひざをついて彼の頭に腕を回し、やんわりと抱いた。
「もう十分」
「僕を許してくれるのか?」
「王子様にすっかり口説かれたから」
「名前で呼んでくれないか」
「コレット?」
彼が顔を上げ、ちょっとわたしをにらんだ。
「…アリヴェル様」
「君に様は付けてほしくない。そのままでいい」
「…アリヴェル」
「それがいい」
彼がわたしに口づけた。ちょっと強引なそれは、深くなって長く続いた。
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