忘れられた幼な妻は泣くことを止めました

帆々

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嵐の中で

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 夜道を走り続け、時間の感覚が麻痺していた。急ぐため、馬車は揺れた。目的の場所に着く頃にはアリスは気分が悪くなってた。

 ある館で馬車を降りた。玄関には灯りを持った人物が彼女を出迎えた。この館の主人らしい。慇懃な態度で彼女を中へ招き入れる。付き従うシェリーシュが説明した。

「公爵邸に縁ある館です。ご容体が悪く、王都に入ることを断念し急遽こちらで療養していただくことになりました」

「そう」

 アリス自身もここまでの往路を長く感じた。病気のロエルであれば更に身体に障る。シェリーシュは留守の間のロエルの容体を館の主人に尋ねた。

「君の出立の後で眠られた。医師の薬が効いているように思う」

 一階の客間が病室に当てられていた。病人を運び入れるのに都合もよく、また部屋の格が一番上等だからだった。その閉じたドアを前にアリスの鼓動は激しくなる。

「失礼します」

 シェリーシュが声をかけるがもちろん返事はない。灯りを絞った室内は香草の匂いがした。枕に頭を埋めるようにしてロエルは眠っていた。乱れた金髪、アリスの知るより落ち窪んだ眼窩が目についた。

「新しい医師の薬は合うようで、少しばかり持ち直されました。今すぐお命の危険はないかと……」

 彼女に椅子を勧める。その傍で、ロエルの発病についてのこれまでを教えてくれた。ベッドから程近い場所で、アリスは深く寝入っている彼を見つめた。

「ある晩、お一人で雨の中どこかへ行かれて、濡れそぼってお戻りでした。珍しく考え込まれているようで、強いて供はしませんでした。その後も野営が続きます。思うに、体調が優れないのに無理をなさっていたのだと……。そして、高熱で倒れられました」

 すぐに野営を切り上げ、宿で療養に入る。

「しかし、あの辺りは医師がおりません。呪いをするとかいう老婆ぐらいで……」

 すぐに回復するかと思えたが高熱は続き、体力も消耗していくようだった。何とか伝手を頼って医師を探す。往診を頼み診察してもらうがはかばかしくない。

「小康に見えた頃、帰郷をお勧めしました。山の中ではろくな治療もできませんから。しかし、若様は帰ろうとなさらないのです。調査を途中で切り上げるのは嫌だとおっしゃる。回復を待ってまた仕切り直せばよいと申し上げても、一切お聞き入れにならないのです。あんな頑固な方ではなかったのに。ほとほと困りました」

 邸から随従しているのはシェリーシュのみで、彼にロエルの身がかかっている。病状も回復も見えない中、その困難ぶりがうかがえた。
 
「どうして? お仕事が中途半端なのは残念だけれども……」

 アリスにしても、意固地なロエルの思いが読めない。

「調査結果には納期があります。それを違えたくないのではないかと……。ご自分の健康には代え難いのに……」

 しかし、ロエルの病状は悪化していく。意識を失うようなこともあった。さすがにシェリーシュも恐ろしくなった。日をいたずらに送れない。主人の意思を問わずに帰郷を敢行した。……そして、今に至る。
 
 彼女はベッドの縁に進んだ。膝を折って表情をうかがう。きれいな鼻梁が痩せた面差しをより際立たせる。彼女は快活で行動的な彼しか知らない。今との落差が痛々しく切ない。
 
 今より小さなロフィがよく熱を出し、こうやって看病したのを思い出す。清潔なハンカチを取り出し、水差しの水を含ませた。乾いた彼の唇にあてがう。ふと瞼が痙攣するように動いた。瞳が開くかとどきりとしたがそれはなく、軽く首を振る仕草を見せただけだった。

「どうなさいますか? もう朝までお目覚めにならないかもしれません。そろそろよろしければ、お送りいたしますが……」

 アリスは迷うまでもなく首を振った。寝顔をわずかに眺めただけ。こんなまま別れてしまいたくなかった。

「よろしいのですか?」

「ミントが上手くやってくれると思うわ。すごく有能な侍女だから」

 シェリーシュはそこで小さく笑った。威勢よく自分に噛みついてきた侍女のミントを思い出したのだ。

「では、わたしは外におります。近くにおりますから、ご用の際は何なりとお呼び付け下さい」

 ロエルを診た医師は解熱の兆候にも「病の峠は超えた」とは口にしなかった。楽観はしていないのだ。その病床の彼が不意に手紙を届けることを命じた。両親ではなく、ある女性という。ならあの「十六番街」の婦人か、とシェリーシュは合点したがそうではなかった。

 乱れた文字を綴る主人の側に控えながら、シェリーシュはロエルが死を覚悟したのではと恐れた。その最後に思う女性に会うことを望んだのではないか、と。渡された便箋の文字が目に入った。「あきらめがつく」とあった。

(あきらめとは何だ、お若い盛りではないか)

 衰える身体がそんな弱気を呼び込むのだと、ひどく悲しかった。どうであれ、主人が執心するその婦人を連れて来なくてはならない。駆り立てられる思いで命じられた場所へ向かった。夜間の長駆を押して辿り着いたのが、アリスのいる離れだった。

「本当にこちらでお間違いはありませんね? 十六番街ではないのですね?」

 出立前に相手をしつこく確認する従僕に、ロエルはこの時ばかりは咳き込んだ後で笑った。「違う。そうじゃない」と。

 目当てのアリスは清楚でしとやかで、シェリーシュの目にも「これぞ貴婦人」という別格の雰囲気を感じる。主人が思いをかけた人なのだ。側仕えの侍女はとんでもなく手厳しかったが。

 ともかく、席を外したのはそんな二人に遠慮したからだ。これが、特効薬になればと切に念じながら。
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