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霧中
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しおりを挟む馬場での件以降、ディアーがアリスやロフィを母屋に招待することが増えていた。それにより、離れにも彼の存在が感じられるようになった。
アリスは嫌悪感から拒絶をしたが、ミントはそこに嫌な思惑を感じていた。この日もお茶の招待を断った後だ。
「ディアー様、姫様とご夫妻らしくあろうと本気でお考えなのではありませんか?」
「まさか」
不快さが顔に現れている。すぐに手元の刺繍に目を戻した。
「ですが、ちょっとしつこうございますもの」
「お暇なのではない?」
「暇になられて、急に姫様方を思い出すなど妙ではありませんか。仮に、仮にでございますよ。姫様と内実もご夫妻になれば、あの方にはいいことづくめですもの。子リスの空きを正妻の姫様で埋められますし、当主代理の姫様を通してお金を融通し放題ですわ。ロフィ坊っちゃまは実子でいらしゃるし、完璧なご家族が出来上がります」
「……わたしは今だって、フーの許しがないとお金を自由に出来ないじゃない」
「姫様とロフィ坊っちゃまのご意見が一致すれば(実際はディアー様と姫様ですわね)、フーなど追い出すことは可能ではございませんか。だって、あの人は使用人に過ぎないのですもの」
ミントの指摘にアリスは黙り込んだ。確かにディアーの彼女への絡み方は異常に思えた。自分の中で反芻することで侍女の説く危機が徐々に意識され出した。
「姫様はぐんとおきれいになられましたもの。艶やかにおなりにです。前に子リスも申しておりましわ。雰囲気が変わられたと。あの人がいなくなって、ようやくディアー様もそれに気づかれたのですわ」
自身の変化など気づかない。悩むことも多く肌艶が悪いようにさえ思うのに。ミントは自分に甘いから、と褒められた嬉しさもわずかだ。
戸締りなど厳重にするとミントは請け負った。他に対策などない。
ある時、レイナの邸へ向かうアリスをディアーが咎めた。馬車に乗るところで、空いた扉を彼がばたりと閉じた。
「君の親族に僕はまだ紹介がない。親交を深めていきたいのに、君がそれを阻んでいるのか?」
普通の夫妻であればレイナに夫を紹介し、親しく交流を持っておかしくない間柄だった。出来ないできたのは、彼女を妻として扱わず裏切り続けてきたディアーに完全な非がある。それを棚に上げた一方的であまりに身勝手な意見だった
子を捨て乱れた女性関係に耽った彼を親族に紹介するなど論外だった。この先、その意思もない。レイナにしても親しくなろうなど思ってはくれまい。
さすがにそれらを直接彼にぶつけるにはためらいがある。真実であるが彼は侮辱と取るに違いない。
「折悪く、女性だけの集まりなのです」
「構わない。僕は婦人向けのお喋りが上手いんだ。場を盛り上げるのが得意でね。社交術に君はきっと誇りに思うよ」
厚顔な返しにアリスは言葉を失った。困って控えたミントに目を向けた。それを受け前に進み出た。済ました声で、
「非常に困窮されているご親族のご相談と援助のためのお集まりですので」
と言う。もちろんでまかせだ。ディアーには高家は全て貧乏の認識が固く、顔をしかめた。援助をたかられてはたまらないと、肩をすくめて邸に戻って行った。
「大変失礼な口実でございました。申し訳ありません」
「いいの、ありがとう。助かったわ。貧しさも悪くないわね」
今回はかわせたが、今後アリスの行動に高確率でディアーが口を挟んでくるのでは、と気が滅入った。毎回こうではやり切れない。
レイナの邸での昼食会にはギアー氏の母や妹が招かれていた。女性が多く和やかな会になった。もし断り切れず、ディアーを伴っていたらどうなっていただろう。常識的で好人物のギアー氏とその家族とは、彼は生き方が違う。自慢の社交術で取り繕ったとして、どこまで通用するのか疑わしい。
「どうかして? 元気がないようだけれど」
食事の後でレイナがアリスに囁いた。彼女は懐妊中で少し腹部が目立ち始めた頃だ。暖かな義家族に労られ、満ちた幸せなオーラに包まれている。
そんなレイナを前に、アリスは重苦しい事情を話すのをためらった。誤魔化しつつ微笑む。夫と客人たちは庭に出ていた。
「遠慮はなしよ。あなたが一人で抱え込んでいると思う方が辛いの。聞くだけでも聞かせて。お願いよ」
引き出し上手なレイナには隠し通せない。多分に甘えのせいだと自覚する。誰がどう出来る問題ではないが、共有してもらえることは心を軽くする。
ここのところのディアーの出方を打ち明けると、レイナは驚いた顔を見せた。首を振りながらの言葉はなじる口調だった。
「あなたから聞いてはいたけれど、身勝手な方ね。愛人の方と別れたから、あなたの存在に気づいたのでしょうね」
「ここへも連れて行けと迫られて……、ミントが何とかあしらってくれたのだけれども」
「ご招待客によるけれど、いらして下さって構わないのよ。夫にも伝えておくから。親族の交際としておかしくはないし。あなたが良ければね」
「ギアー様がお困りになるわ。レイナにだって恥ずかしい思いをさせるに決まっているもの。嫌よ」
首を振って言いながら、一番の理由はそれではないと気づいていた。ディアーと夫妻らしく並ぶことに強い抵抗感がある。ロフィへの態度の他に今は別な訳が加わった。
(ロエルでないと嫌)
押さえつけてきた感情が簡単に溢れそうになる。そこにひやりとしながら、それを自然で楽だとも思う。
彼は王宮で彼女の隣に立ち、夫然と子どもたちの演舞に拍手を送っていた。あのひと時うっとりと再び彼へ恋をしたのを覚えている。
(もし彼が夫であったのなら……)
儚い夢は現実にあっけなく破れてしまうのだけれども。後には現実と切なさだけが鮮やかだった。
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