忘れられた幼な妻は泣くことを止めました

帆々

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霧中

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 晩餐の事件以降、ディアーからの接触はなかった。

「フーにたっぷり絞られて懲りたのでしょうね。か弱いご婦人を卑怯な手で籠絡しようとした現行犯ですもの。紳士にあるまじき恥ずべき卑劣漢の所業ですわ」

 とミントは忌々しく言った。実際ミントとフーが駆けつけて来てくれなければ、ディアーに凌辱されていたに違いない。今思っても、アリスは恐ろしさに自分を抱きしめたくなる。今後ディアーとの関係はきっぱり断つつもりだ。

「フーなら、わたしたちは夫妻なのだから当然でしょうとでも、言って見捨てそうに思うのに」

「あら姫様、フーはディアー様が嫌いなのですよ。ミントはそう思いますわ」

「どうして? もう当主でもないし、命令も受けないでしょう?」

「そうですね……、放蕩者で金食い虫の尻拭いを何度もさせられていたのでは? 大旦那様がお元気な頃は我慢が出来ても、もうその義理もありませんわ」

 その後、アリスは馬場の帰りにディアーの姿をちらりと見ることがあった。蛇蝎のように思われ怖気が走った。すぐに避けて意識の外に追い出した。

 ロフィを間に、夫妻ではなくとも親同士としてつながる意思は完全に消えた。ディアーには男女の関係を持たない夫妻に意味がないのがわかった。そして、アリスはディアーの希望を容れることは絶対に出来ない。

 レイナは落胆するはずだ。彼女はドリトルン家に残るアリスの平安を願ってくれている。そのためにディアーと向き合うことを説いた。

 ディアーが頑ななアリスに焦れたのは理解できた。しかし彼女を踏み躙り続けた六年を、安い謝罪と強引に身体を奪うことで果たそうとする彼を理解できない。再び裏切られた気分になる。別な真摯なやり方で彼女に新たに向き合ってくれたのなら、また結果は違ったかもしれないのに。

 アリスはそう思いながらも、

(心に別な男性を住まわせておいて、身勝手はお互い様だわ)

 あり得なかった可能性を改めて消し去った。
 
 ミントは警戒を強め、フーに言って施錠を頑丈なものに取り替えさせた。信じたくはないが、懲りたはずのディアーが襲撃しないとは限らない。

 現状維持のまま時間は過ぎた。晩餐からひと月も経ち、離れの気分も少しだけ緩んだ。そこで妙な噂が舞い込む。

「ディアー様がお邸を出て行ってしまわれたそうですわ」

 メイドの話にアリスもミントも顔を見合わせた。少し前、ディアーの荷物が邸から運び出されたという。

「ご自身は夜更けにどこかに移られたそうです。子リスの跡を追っかけて行かれたのじゃないかと、皆んな噂していますわ」

 ミントはひっそり、

「小リスの元へ、というのはありそうですわ。あの人フーから大金をせしめましたでしょう。それをディアー様もご存知のはずですもの」

 と合点顔だ。確かに頷ける顛末だ。邸に残ってもフーに冷遇され自由は制限されている。気ままに育った彼が面白いはずがない。意外な話だったが、厄介の元凶が出て行ってくれたのなら、こんないいことはなかった。

 ディアーの話に続き、ロフィが五歳を迎えた。その誕生日にフーが現れた。アリスはあの晩以来で、礼も言っていないことを思い出した。

「どうもありがとう。お前のおかげよ」

「そんなことより、早くお忘れになった方がいいでしょう」

 と素っ気ない返しだ。久しぶりに会うが、痩身が更に痩せた印象だ。具合が悪いように見えた。ミントが「姫様のお礼に」と目を三角にしてにらむが、彼は知らん顔で話し始めた。

「先代様のご遺言で、ロフィ坊ちゃんは五歳以降、母屋に移るようにとのご指示があります」

 そう言い、遺言の写しをアリスの前に見せた。代理人が記した文言の中に確かにそうあるのが読み取れた。

 アリスの表情に不安を見たのか、彼女の言葉が返る前につないだ。

「あなたもご一緒に母屋にお移りになればいい。大奥様の夫人部屋をご用意しますよ」

「それは……」

 アリスは返答に困ってミントを見た。母屋に移ることには抵抗がある。ディアーがふらりと戻ってこないとは保証出来ない。

「ディアー様のことがあって、姫様は不安に思われているのよ。子リスのお金が尽きてお帰りになるかもしれないじゃない」

「それはない」

 フーは言下に否定した。ディアーは外国に移ったという。急な展開にアリスもミントも目を大きくした。

「ブルーベル嬢の元に行かれたようですが、その後お別れになったとか。詳しいことは把握していません。興味もないので。若には先代のご遺言でまとまった金額が残されました。請求があったのでお渡ししました。新天地で再起を図るのだとか……」

「そう……」

「まあ、いいかもね。ここにいてもいいことなんかなさそうだし。まだお若いし好男子なんだから、いい出会いもおありかも。賭博で全部すって泣き帰って来ないといいけれど」

「ともかく、一度母屋においで下さい。出入りの者を呼びますから、お好みをお伝えになるといいでしょう」

 話に応じると、フーは戻っていった。

「あの人、元気なさそうでしたわね。顔色も悪いし」

「そうね。疲れた感じがしたわ」

 快活な印象はないが、痩せたことでより生気が乏しく感じられる。邸の一切を取り仕切る上ディアーの件の決着までに消耗したのだろう。

「悩みの種が消えて後は楽になるでしょうよ」

「……ねえ、あちらに移らなくてはならないかしら」

 アリスには母屋に入り女主人然と暮らすことに抵抗があった。ディアーはいなくてもそれはそのまま彼の妻の姿だ。離れであればその意識を薄く保っていられるのに。

「母上がお側におられないと、ロフィ坊っちゃまが寂しく思われますわ。こんな離れに未練がおありなのでございますか?」

 アリスはゆらりと首を振る。形だけでもディアーの妻と見られることに抵抗感がある。それはロエルへの遠慮だった。彼女の為に大切なものを切り捨てていいと言う彼に比べ、彼女は逆に人妻らしさを備えていってしまう。

 理解を得られない感情だろう。

「外国に行かれたのであれば、ディアー様も簡単にはお戻りになれませんわ」

「……そうね」

 嫁いで六年目にして初めてアリスは母屋に住むことを許された。割り切れない思いでそれを諦めた過去がふと顔を出す。時を経て叶う今、ほろ苦さの他何もない。


 
 
 抵抗感を引きずったまま、アリスは母屋に居を移した。違和感はあったものの、慣れてしまえば徐々に薄れていく。

 フーは内装の変更を許可してくれたが、アリスはほぼ手を入れさせなかった。鏡の割れた鏡台だけは気味が悪く、別のものに変更させた。ロフィの部屋も近く行き来し易い。ただ食堂はどうしても使う気がせず、義父がサロンにしていた部屋を使うことにした。二人きりの食事で大テーブルは必要がない。

 ここまでの成り行きをレイナには手紙で知らせた。

『……よかったわ。本当によかったこと。あなたが本来あるべき場所に収まったのね。
 ディアー様とはご縁が切れても、ドリトルン家で不自由なく暮らせるのなら、あなたにとっていい形に決着がついたのよ……』

 事の展開を喜ぶ返事がすぐに届いた。心配と世話をかけてばかりのはとこに何か報いたい。彼女とギアー氏を邸に招待しようと思った。ロフィもぜひ紹介したい。

 ミントも同意ですぐにその計画を話し合う。しかしそれは頓挫する。招待の話を知ったフーがにべもなく跳ねつけた。

「ご親族よ。派手な社交をするのでもなし、たったお二人をお招きしてお食事するだけではないの。何が問題よ。ディアー様も子リスもお客を呼んでいたじゃない」

 ミントが抗議したが、フーは取り合わない。

「ご招待は先代様のご親族のみ、とご遺言に残されています。ご招待なさりたければ、先代様の妹様がご存命とか……。先代様とは仲が悪く邸に呼ばれることはありませんでしたがね」

 陰気な様子で遺言を持ち出し、認めることはなかった。

 お客を呼べない遺言にミントは腹も立てて文句しきりだが、アリスはすぐに「ドリトルン家らしい」と諦めた。

「高家も似たようなものだったじゃない。同系の親族のみでつながって、社交もせずに。そっくりよ。ご遺言のことはレイナにも伝えて、お招きできないことをお詫びするわ。しょうがないもの」

 アリスの態度はのんびりとしたものだ。ミントも引っ込まざるを得ない。

 そんな経緯をシェリーシュにぼやいた。アリスとロフィが母屋に越し、離れは閉じられていた。格好の相引き場所で、ちょくちょく二人はここで会っていた。鍵もミントの手元に残ったままだった。

 外から明かりがもれないように小さな蝋燭をテーブルに灯しただけだ。その前で寄り添いながらあれこれと話をする。

「妙な遺言だが財産を守る為かもな。邸の内情を知られなければつけ入られにくい。ドリトルン家は金貸しで敵が多いんだろ」

「ふうん。それにしたって、ご家族同然のレイナ様もお招き出来ないのよ。信じられないわ。なのに姫様は納得していらっしゃるし。欲のない方で損をなさってばかり」

 彼女を宥めるようにシェリーシュは手を握った。忠義者で姫様一途が過ぎて危ういところが、彼にはちょっと気がかりだった。それに、二人で会っていて仕える主人の話続きでは面白くもない。

 彼が気を引き、恋人らしい雰囲気に浸った。
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