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それは見事なアイアンクロー
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あぁ、私の大切な宝物が壊れてしまった。
地面に叩きつけられて飛び散ってしまったモリオンとサファイアを視線で追いながら、私は己の瞳に涙の気配を感じる。
流してはいけない。そう思って、必死でこらえているけれど。
宝物を壊されたことは悲しいし悔しい。受け止められなかった自分が情けない。ただ、アレに涙を見られるわけにはいかない。
だから、今だけはこの悲しみを怒りに変えろ。泣くな。泣くことだけは許されない。
「こっちだって元々無能のお前との婚約なんかいい迷惑だったし嫌だったんだよ!」
この婚約の言い出しっぺはそちらの親でありこちらではない。迷惑なのはこちらのほうだ。
「無能のくせに! 無能のお前がなんで勇者と婚約してるんだよ! 俺がこんなにも不幸になっているのに、お前が幸せになるなんて許せない……」
勇者様との婚約はただ国王に言われたからだよ。私に決定権なんかない。そしてお前の不幸なんか知らない。そんなこと今ここで私に言われたって知ったこっちゃないわよ。と、私は脳内で文句を垂れ流す。
そしてつい、本音が零れ落ちてしまった。
「ご自分の浮気は棚上げしますのね」
という、小さな本音が小さな声で。
それを聞いたアレは、一瞬目を瞠って心底驚いたような顔をしていた。私が言葉を発すると思っていなかったのだろう。
それもそのはず、私はアレに向かって反論するなんてことをしてこなかった。私が口を開くときは最低限の業務連絡的なことと適当な相槌を打つときくらい。私はこの男の前であまり口を開かなかったのだ。だってこの男は普段から不満を口にするだけでろくに会話が成り立たなかったのだもの。口を開くのも面倒になったって仕方がないだろう。まぁ元々私自身が他人のサンドバッグに徹していたというのもあるけれども。
しかし、私が発した浮気という言葉が気に食わなかったのか、図星をつかれたのが気に障ったのか、それともそのどちらともか、とにかく私の発言は火に油を注いだようなものだったらしい。
アレは顔を真っ赤にさせて怒り狂い、叫ぶように喚き散らし始めた。
「俺は悪くない! お前が俺の婚約者になったのが悪い!」
大きな声で怒鳴られても、あのアホな親に甘やかされて育ったのだろうなぁという単なる感想しか思い浮かばない。俺は悪くない。この世の悪いことは全て俺以外の他人が悪い。この男の頭の中ではそういうことになるらしい。昔から、そういうところが嫌いだった。
「やたらと頻繁に孤児院に行ってただの汚いクソガキに媚を売っていたくせに、俺に媚びなかったお前が悪い!」
この男、なまじ顔が良かったせいでやたらと女性が寄ってきていた。それはもう媚び媚びの女がわらわらと。それが当たり前だったから、女は俺に媚びて当たり前なのだと思っていたのだろう。そういうところも、大嫌いだった。
よくよく考えたら、私は本当にこの男が大嫌いだ。
「俺を一番にしないお前が悪い! お前が、お前だけが全部悪い! 全部、全部、全部!!」
そうそう、こうやって自分の気に食わないことがあったら全部人のせいにして他人に八つ当たりするところなんか本当に本当に大嫌い。こんな奴と結婚することにならなくて、本当に良かった。
なんて思っていた次の瞬間、アレの背後にゆらりと勇者様が現れた。
夜会の会場からここまでは少し歩かなければならないし、そちらから歩いて来ていたのなら確実に視界に入っていてもおかしくなかったはずなのに、本当にどこからともなく現れた。
そしてそんな勇者様の顔面に、怒りが滲んでいる。はいその顔も尊い。
「アンタなんか一番にする価値もなかったんじゃね?」
突如背後から声をかけられて驚いたアレは「ヒュッ」と情けない音を立てて息をのんだ。
先に視界に入っていた私ですら直前まで気配を感じなかったのだから、アレは声をかけられるまで勇者様の存在に気が付いていなかったはず。そりゃあ飛び上がるほど驚いても仕方がない。
「お、おおおまおままおまえ」
仕方がないとはいえクソダサい。
「純粋な疑問なんだけどさ、アンタ、自分になんか価値があるとでも思ってんの?」
「お、おれは」
「地位だって、別にそんなでもないよね? アンタのこと大して知らないけど、セリーヌより上? 王族より上? っつーか王宮に出入りもしてないんだから爵位もそれほど高くないだろ? 魔術師団にもいないから魔力も平凡と見た!」
「……な、な」
「あ! まさかその顔面に価値があると思ってる!? 他よりちょーっと顔がいい程度で!?」
ビビって受け答えもまともに出来なくなっているアレに向けて、勇者様がそっと手を伸ばす。
そして、その手がアレの顔面をがっしりと掴んだ。
「でも残念。顔面なんかこうすれば、簡単に歪ませることが出来るんだよ」
……それはそれは見事なアイアンクローだった。アレの顔面からミシミシと音がしたような気がする。
「はぁ、はあぁ」
アレの口からなんとも情けない声が漏れ出ている。
そんな散々な状況のアレに、勇者様が小さな声で「なあ」と問いかける。
普段の声から数段トーンが下がっていて、背筋がゾクっと冷たくなるような声で。
「アホみたいに怒鳴り散らしてるけどさ、あの人が誰だか分かってる?」
「お、俺の、元婚約者……」
アイアンクローの隙間から蚊の鳴くような声がした。
次の瞬間、気のせいではなく、アレの顔面からミシっと音がする。勇者様が力を込めているらしい。痛そう。
ちなみに勇者様の表情は明らかなガチギレ。ガチギレしている顔面もマジで天才過ぎて無理。好き。
「残念不正解! セリーヌは俺の婚約者でした!」
そう言って、勇者様はアレの脛に一発蹴りを入れ、そのまま放り投げた。
「いぎゃああぁぁ!」
痛そう。
しかしそれだけでは終わらない。勇者様はしゃがみ込み、もんどりうって苦しんでいるアレの胸倉をぐっと掴む。
「俺さぁ、こないだ魔王討伐してきたんだわ」
「ぅ……あぁ……」
「でさ、非力なアンタなんか一瞬で消せるんだよ。だから次にアンタの顔見たら、問答無用で消し炭にしちゃうかもなぁ」
「ひゃ、あ、あひゃあぁぁぁ」
アレは情けない叫び声を残したまま、物凄い勢いで這いずりながらこの場から去っていった。かさかさと、ゴキブリのようだった。
「遅くなってごめんセリーヌさん、大丈夫でしたか?」
こちらに駆け寄ってきた勇者様は、私の両手を取って握りしめてくれる。
私もその手を、強く強く握り返す。
「かみかざり……」
「うん?」
一度強く握った手をそっと離し、私はその場にしゃがみ込んで壊れてしまった宝物を拾い集めた。
地面に叩きつけられて飛び散ってしまったモリオンとサファイアを視線で追いながら、私は己の瞳に涙の気配を感じる。
流してはいけない。そう思って、必死でこらえているけれど。
宝物を壊されたことは悲しいし悔しい。受け止められなかった自分が情けない。ただ、アレに涙を見られるわけにはいかない。
だから、今だけはこの悲しみを怒りに変えろ。泣くな。泣くことだけは許されない。
「こっちだって元々無能のお前との婚約なんかいい迷惑だったし嫌だったんだよ!」
この婚約の言い出しっぺはそちらの親でありこちらではない。迷惑なのはこちらのほうだ。
「無能のくせに! 無能のお前がなんで勇者と婚約してるんだよ! 俺がこんなにも不幸になっているのに、お前が幸せになるなんて許せない……」
勇者様との婚約はただ国王に言われたからだよ。私に決定権なんかない。そしてお前の不幸なんか知らない。そんなこと今ここで私に言われたって知ったこっちゃないわよ。と、私は脳内で文句を垂れ流す。
そしてつい、本音が零れ落ちてしまった。
「ご自分の浮気は棚上げしますのね」
という、小さな本音が小さな声で。
それを聞いたアレは、一瞬目を瞠って心底驚いたような顔をしていた。私が言葉を発すると思っていなかったのだろう。
それもそのはず、私はアレに向かって反論するなんてことをしてこなかった。私が口を開くときは最低限の業務連絡的なことと適当な相槌を打つときくらい。私はこの男の前であまり口を開かなかったのだ。だってこの男は普段から不満を口にするだけでろくに会話が成り立たなかったのだもの。口を開くのも面倒になったって仕方がないだろう。まぁ元々私自身が他人のサンドバッグに徹していたというのもあるけれども。
しかし、私が発した浮気という言葉が気に食わなかったのか、図星をつかれたのが気に障ったのか、それともそのどちらともか、とにかく私の発言は火に油を注いだようなものだったらしい。
アレは顔を真っ赤にさせて怒り狂い、叫ぶように喚き散らし始めた。
「俺は悪くない! お前が俺の婚約者になったのが悪い!」
大きな声で怒鳴られても、あのアホな親に甘やかされて育ったのだろうなぁという単なる感想しか思い浮かばない。俺は悪くない。この世の悪いことは全て俺以外の他人が悪い。この男の頭の中ではそういうことになるらしい。昔から、そういうところが嫌いだった。
「やたらと頻繁に孤児院に行ってただの汚いクソガキに媚を売っていたくせに、俺に媚びなかったお前が悪い!」
この男、なまじ顔が良かったせいでやたらと女性が寄ってきていた。それはもう媚び媚びの女がわらわらと。それが当たり前だったから、女は俺に媚びて当たり前なのだと思っていたのだろう。そういうところも、大嫌いだった。
よくよく考えたら、私は本当にこの男が大嫌いだ。
「俺を一番にしないお前が悪い! お前が、お前だけが全部悪い! 全部、全部、全部!!」
そうそう、こうやって自分の気に食わないことがあったら全部人のせいにして他人に八つ当たりするところなんか本当に本当に大嫌い。こんな奴と結婚することにならなくて、本当に良かった。
なんて思っていた次の瞬間、アレの背後にゆらりと勇者様が現れた。
夜会の会場からここまでは少し歩かなければならないし、そちらから歩いて来ていたのなら確実に視界に入っていてもおかしくなかったはずなのに、本当にどこからともなく現れた。
そしてそんな勇者様の顔面に、怒りが滲んでいる。はいその顔も尊い。
「アンタなんか一番にする価値もなかったんじゃね?」
突如背後から声をかけられて驚いたアレは「ヒュッ」と情けない音を立てて息をのんだ。
先に視界に入っていた私ですら直前まで気配を感じなかったのだから、アレは声をかけられるまで勇者様の存在に気が付いていなかったはず。そりゃあ飛び上がるほど驚いても仕方がない。
「お、おおおまおままおまえ」
仕方がないとはいえクソダサい。
「純粋な疑問なんだけどさ、アンタ、自分になんか価値があるとでも思ってんの?」
「お、おれは」
「地位だって、別にそんなでもないよね? アンタのこと大して知らないけど、セリーヌより上? 王族より上? っつーか王宮に出入りもしてないんだから爵位もそれほど高くないだろ? 魔術師団にもいないから魔力も平凡と見た!」
「……な、な」
「あ! まさかその顔面に価値があると思ってる!? 他よりちょーっと顔がいい程度で!?」
ビビって受け答えもまともに出来なくなっているアレに向けて、勇者様がそっと手を伸ばす。
そして、その手がアレの顔面をがっしりと掴んだ。
「でも残念。顔面なんかこうすれば、簡単に歪ませることが出来るんだよ」
……それはそれは見事なアイアンクローだった。アレの顔面からミシミシと音がしたような気がする。
「はぁ、はあぁ」
アレの口からなんとも情けない声が漏れ出ている。
そんな散々な状況のアレに、勇者様が小さな声で「なあ」と問いかける。
普段の声から数段トーンが下がっていて、背筋がゾクっと冷たくなるような声で。
「アホみたいに怒鳴り散らしてるけどさ、あの人が誰だか分かってる?」
「お、俺の、元婚約者……」
アイアンクローの隙間から蚊の鳴くような声がした。
次の瞬間、気のせいではなく、アレの顔面からミシっと音がする。勇者様が力を込めているらしい。痛そう。
ちなみに勇者様の表情は明らかなガチギレ。ガチギレしている顔面もマジで天才過ぎて無理。好き。
「残念不正解! セリーヌは俺の婚約者でした!」
そう言って、勇者様はアレの脛に一発蹴りを入れ、そのまま放り投げた。
「いぎゃああぁぁ!」
痛そう。
しかしそれだけでは終わらない。勇者様はしゃがみ込み、もんどりうって苦しんでいるアレの胸倉をぐっと掴む。
「俺さぁ、こないだ魔王討伐してきたんだわ」
「ぅ……あぁ……」
「でさ、非力なアンタなんか一瞬で消せるんだよ。だから次にアンタの顔見たら、問答無用で消し炭にしちゃうかもなぁ」
「ひゃ、あ、あひゃあぁぁぁ」
アレは情けない叫び声を残したまま、物凄い勢いで這いずりながらこの場から去っていった。かさかさと、ゴキブリのようだった。
「遅くなってごめんセリーヌさん、大丈夫でしたか?」
こちらに駆け寄ってきた勇者様は、私の両手を取って握りしめてくれる。
私もその手を、強く強く握り返す。
「かみかざり……」
「うん?」
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