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アランは、そっと祈った
しおりを挟むふと、あの日のことを思い出していた。
「俺は何を間違えたんだろう」
紅緋殿に連れていかれるあの女の背中を見ながら、ケヴィンさんが呟いた。
俺としては、イリスさんを追い出したことがすべての間違いだと思うのだが、ケヴィンさんはそれ以外にも何かを間違えたと思っているのだろうか。
「婚約者が連れていかれたのに、案外取り乱したりしないんですね」
「……どうだろう。頭の中は、真っ白だよ」
混乱はしているんだろうな。一応。
「俺が言うのもなんですが、全然表情に出ないんですね」
呆然としているからだろうけれど、ケヴィンさんは真顔のままで遠くを見つめている。
「自分でも分からないよ」
整った顔の男が表情もなく遠くを見つめていると、不気味な人形みたいになるんだな、なんてくだらないことを考えていると、ふいにケヴィンさんの口が開いた。
「……エーヴァが居なくなったってことは、イリスを呼び戻せたりするんじゃないだろうか」
俺は彼のその言葉を聞いた瞬間、頭に血が上った。
そして、咄嗟に怒鳴っていた。
「ふざけたことを言わないでください!」
と。
イリスさんを追い出したのは他でもないお前だろう。
金を渡したとはいえ、なんの後ろ盾もない彼女を捨てるように追い出しやがって。
イリスさんが驚くほどの行動力の持ち主だったから、なんか、なんとかなってるけど。
……あの人なんで今なんとかなってるんだろう……?
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
「イリスさんはあなたのために動く人形ではないんですよ」
「……分かってる。ごめん」
「俺に謝られましても」
謝るならイリスさんに、だろう。
「イリスは、いつも俺を助けてくれていたのに」
「今頃気付かれても。イリスさんなら今は幸せにやってますよ。おそらく、どんなに頼み倒そうと絶対にここには戻ってきてくれません」
「そうか……」
ケヴィンさんはそう呟いた後、小さくため息を零していた。
それから数日が経ったのだが、彼は未だに抜け殻のようになったままだった。
一応仕事はしているけれど、いまいち生気が感じられない。
社員たちからは婚約者が連れていかれたんだから仕方ないと思われているらしいが、実際はそうじゃない。
この男は婚約者のことよりも、イリスさんのことを考えているのだから。
「イリスは今、何をしているんだろう」
「俺からは教えられません」
まさかとは思うが、ここにイリスさんが戻ってこないのなら自分がイリスさんのところに転がり込もうとでも思っているのだろうか?
「……イリスがここと同じような店を開いて、ここを潰してくれれば」
「甘ったれたこと言わないでください」
転がり込むよりも最低なことを考えていやがった。
「いつまでイリスさんがなんでもやってくれると思ってるんですか? イリスさんを追い出したのはあなたなんですよ?」
俺がそう言うと、ケヴィンさんは驚いたように目を瞠り、そのまま頭を抱えた。
「貴族、という響きに目が眩んだ罰が当たったんだなぁ」
「でしょうね」
「全部を失ってやっと気が付いたよ。俺はイリスなしでは何も出来なかったんだ、って」
今更気付いたってなぁ。
「イリスは考えてるだけで、作っているのは俺なんだからって、いつの間にか勘違いしてた」
残念な頭だなぁ。
「どんなに考えたってイリスさんはもう二度とここに戻ってくることはないし、おそらくあなたとは二度と会わないつもりだと思うので、イリスさんのことを考えるのはやめて、とりあえずこの店の将来のことでも考えておいてください」
正直、ケヴィンさんの口から「イリス」という言葉が出てくるのも我慢ならないくらいなので。
「二度と、会えないのか」
今更ショック受けてんじゃねぇよ自分で捨てたくせによぉ!
俺はずっと、理不尽に追い出されたイリスさんのことを可哀想な人だと思っていた。
けれど、それは違うと今確信した。
可哀想なのは、ケヴィンさんただ一人だった。
「……ケヴィンさんってイリスさんのこと好きだったんですか?」
俺がそう問いかけると、ケヴィンさんはきょとんとしたまましばらく固まっていた。
「……というか、あの婚約者のことは好きだったんですよね?」
「エーヴァのことは……」
今度はしかめっ面のまま固まった。
え、もしかして、好きじゃなかったのか?
いやいやまさか。
「好き、だったはずなんだけど」
この人、頭大丈夫か?
怖いんだが?
本当に洗脳かなんかされてたのか?
あの女がヤバいのか?
……怖いんだが?
いや、元々得体の知れない女だったし、やはりヤバい奴だったんだと言われれば納得はするけれど。
「好きだったのか……?」
自問自答が始まってしまった。
「好きだったんだろうな。ただ、やっぱり貴族という響きを含めたうえで好きだったのかもしれない」
最低だよこの男。
「じゃあ、先日ここに来たミカエラ様についてはどう思いました?」
話せば話すほどごみクズ野郎に見えてきてしまうので、話題を変えよう。
「どう?」
ケヴィンさんは訝しげな顔で俺を見ている。
「なんとも思わなかったんですか?」
「まぁ、緊張していたからなんとも」
なるほど。確かに王族相手に対応しなければならなかったのだから緊張もしただろう。
あの女が妙に怯えていたし、今の煮え切らない態度からして実はめちゃくちゃ惚れっぽい人なのかと思ったのだが、そうでもないのか?
「アランは、イリスが好きなのかな?」
「はい?」
今まで俺が問いかける一方だったのだが、突然ケヴィンさんからの問いが飛んできた。
「いや、アランが怒鳴るところなんて初めて見たし、そんなに怒るってことはイリスのことが好きなのかと思って」
確かに怒鳴りはしたけれども。
「好きですよ。まぁ恋愛的な好きではないですけど。イリスさんは俺の憧れの人であり大切な人なので」
イリスさんは、俺にとっての恩人なのだ。
「憧れで、大切……」
「はい。彼女は恩人です。村一番の嫌われ者だった俺を、補佐として側に置いてくれましたから」
そうぽつりと零すと、ケヴィンさんはまたしてもきょとんとした顔でこちらを見ている。
「俺、ここに来る前は村で一番の嫌われ者だったんです。見ての通り表情があまり変わらないから、愛想がないだとか常に怒ってるみたいで怖いだとか言われて。両親が病気で死んだ時は俺が殺したんだと噂が立ったくらいで」
「ええ……」
両親を失った俺は着の身着のままあの村を出て、漂流するようにこの店に辿り着いた。
辿り着いたというより、この店の近くで行き倒れていたのだ。
それを、近所の人が拾ってくれて、仕事がないならルーチェに行ってみたらいいと言われてここに漂着した。
「イリスさんは俺のことを愛想笑いもしないし感情の起伏も激しくないから、という理由で補佐にしてくれて」
「あぁ、イリスは昔からへらへらへこへこする奴が嫌いだったから」
「らしいですね」
否定され続けていたことを無条件で受け入れてくれたことが、当時の俺にとってはとんでもなく喜ばしいことだったのだ。
さらに、彼女の補佐として側で仕事をしてみて分かったが、彼女はとても聡明で仕事ができる人だった。
だから俺は、いつの間にか彼女を崇拝するようになっていた。
いつか自分も彼女のように出来る人間になりたい、と。
「アランは、イリスのところで働きたいと思ってる?」
「出来ることならイリスさんの側で働きたいですけど」
「俺に遠慮してるなら」
「遠慮ではありません。あなたと共にではありますがイリスさんが作り上げたこの店が無残に潰れていく様は見たくないので、俺はまだしばらくここに居ます」
「……そうか。ありがとう」
「お礼を言っている暇があるならしっかりしてください」
いつまで抜け殻でいるつもりなんですか、と俺はケヴィンさんに檄を飛ばしたのだった。
その翌日、ケヴィンさん宛てに手紙が届いた。
元婚約者の家からの手紙だった。
ケヴィンさんはそれに目を通してから、その手紙を俺に寄越してきた。
「読む?」
「読んでいいんですか?」
そう尋ねたら、ケヴィンさんが軽く頷いたので遠慮なく読ませてもらうことにした。
すると、そこには娘はきっと取り戻すから、戻ってくるまで婚約したままで居てほしいといった内容だった。
「実のところ、俺が貴族という響きに目が眩んでいたように、彼女の両親もこの店が稼ぎ出す金に目が眩んでいたんだ」
と、ケヴィンさんは自嘲気味に笑う。
なんでも、あの女の家は貴族ではあるものの没落目前の貧乏貴族だったらしい。
ケヴィンさんは爵位、あの女の実家は金を求めていた。
だからあの女のこと好きだったのかと聞いた時に本当に好きだったのかと自問自答を始めたのか、この人は。
この話を聞いてから改めて尋ねる勇気はないが……本当に好きだったのか?
あの女が必死でケヴィンさんにしがみ付こうとしていたのも金のためだったのかもしれないと思うと背筋も凍る思いだ。
「……なんと返事を書くんですか、これ」
「うーん……そもそも戻ってこられるのかな」
「王宮に連れていかれましたしね」
「王宮っていうか、竜の谷だよね。竜の谷送りになって戻ってこられた人は今のところ一人もいないはずだし」
あっさりと言ってのけた。
やはりあの女が離れたことでケヴィンさんは正気に戻れたのかもしれない。
その日、仕事を終えた俺はいつものようにイリスさんの店へと急ぐ。
あの店には、俺の憧れであるイリスさんと、もう一人の憧れであるステファンさんも居る。
あと、俺に懐いてくれている猫までもいる。天国か。
「こんばんは」
「あぁアラン! 面白い話の続報は!?」
せめてもの救いは、自分を捨てた相手であるケヴィンさんの話を、イリスさんが面白がっているところだよなぁ。
「最近やっとケヴィンさんが抜け殻から回復し始めたところなので続報という続報は……あぁ」
そういえば、と言いながらあの女の実家から手紙が届いたことを報告した。
もちろんあの女の実家が没落目前の貧乏貴族だということも。
その話を聞いたイリスさんは、ケヴィンさんに軽く同情しているようだった。
「もうすぐ夕飯の準備出来るし、アランはちょっと待ってて! サリーが抱っこしてほしそうにしてるからソファで膝にでものせてあげて」
イリスさんはそう言って、ステファンさんを伴ってキッチンへと入っていった。
ちらりとサリーのほうを見ると、サリーも俺のほうを見ていた。
「来るか」
「ニャー」
本当に来た。
そして本当に膝に乗ってきた。
「イリスさんは、お前の気持ちが読めるのか……?」
「ニャーン」
返事した。
イリスさんが猫の気持ちを読めるのではなくサリーが天才なのか?
「……イリスさんは俺の憧れなんだ」
「ニャーン」
「ステファンさんも憧れでな」
「ニャーン」
全部返事するな?
天才だな?
「俺の憧れである二人がこのままくっ付けばいいのにな」
「ニャーーーーン」
この返事は、同意の返事だな?
準備してもらった夕飯を食べながら、俺はイリスさんに声をかけた。
「イリスさん、もしかしてサリーは天才ですか?」
「ん?」
「俺の言葉にしっかりと返事をするんです」
俺のその言葉を聞いたイリスさんは、あはは、と思い切り笑った。
「猫ってね、賢いんだよ。そして猫を飼う人間は皆、うちの猫は天才だって言い出すの。アランも親バカ飼い主の仲間入りだね」
ちらりとステファンさんのほうを見れば、彼も納得したように頷いていた。
あぁ、これからも、ここに居る人たちがこんな風に穏やかに過ごせますように。
俺は、そう祈らずにはいられなかった。
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