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第三章
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「……あなたがいなくなったって聞いて、探してたの」
僕に背を向けたまま、マリアさんは言った。破かれて緩んだ服から、白い肩が見えていた。彼女の背中には、きっと青い痣ができているだろう。せめて、骨などが折れていなければ良いけれど。
「ごめんなさい」
僕は謝った。言葉で伝える以外の方法を持ち合わせていない。
「でも、見つかってよかった。ずっと病室にいたら息も詰まっちゃうよね。せっかくだし、何か食べていって。今日は休業だ。楽しちゃお」
なんて、マリアさんは壁に取り付けてある棒に下げてあった幅広の布――たぶん、外出の際に日よけのために頭や肩に掛けるのだろう――を取って体に巻きながら、明るく言う。けれど、僕の方は向かない。
「ごめんなさい。嫌な思いをさせてしまった」
僕はさっきよりも力を込めて謝った。
「私の心配なんてしなくていいよ。久々で驚いたけど、慣れてるから」
そんな慣れなんて、ろくなものじゃない。マリアさんは顔だけこちらに向けて、笑ってみせた。
「えっと……、なんだかごめんね、そっぽ向いちゃって。服、破けてるから恥ずかしくてさ。……馬鹿みたいだよね。ちょっとだけ、待っててくれる? 着替えてくるから」
そう言って、マリアさんは上の階に行った。僕は遠ざかる足音を聞き届けて、〈星の砂〉に入るための扉を開けて、店内の適当な椅子に座った。そうして、じっとしていた。鈍い痛みが、腹部と胸元にずっとある。気になって軽く長衣の前を広げて見たら、やはり酷い色をしていた。
やがて階段を下りてくる足音がして、半分開けておいた扉からマリアさんが姿を見せる。普段、仕事をしているときに着ているような素っ気ない服ではなくて、薄紅の長衣に着替えて、髪も下ろしてあった。そのまま厨房に入っていって、調理器を火にかける。
「今朝から食べてないでしょう? 仕込みだけは済ませてあるし、すぐできるからね」
「手伝います」
「大丈夫。大したことをするわけじゃないから。大人しくしてなさい」
席を立とうとした僕を、マリアさんは笑って止めた。確かに、僕に手伝えることなんて無いだろう。何もせずにいるのが気まずくて言ってはみたが、大人しくしていた方がマリアさんは楽に違いない。僕は黙って椅子に座り直した。
魚の切り身を焼いて、香辛料を振る手際の良さを、遠目に眺める。この人だって体を痛めているはずなのに、そんな様子なんて全く見せやしない。口調だっていつもとなんら変わらない。これほどの強さを、どうやって身につけたのだろうか。
やがて香ってきた匂いへ反応を示した自分の体に、僕はいささか驚く。乾いていた口の中が、潤っているのだ。料理の匂いを好ましく感じ、体が自然とそれを欲する。一体何年ぶりだろうか。
「できた。お待たせしました」
マリアさんは、いつも店で出しているような料理と、水を持ってきてくれた。卓にそれらを置いて、もう一人分同じものを取って戻ってくる。少し遅い昼食を挟んで、僕らは向かい合った。
「食べ切れるだけでいいからね。無理はしないで」
マリアさんは帝国の食器を慣れた手付きで使って、食べ始めた。僕は、なんだか神に祈る気になれなかった。神は僕の存在を許さないのだろうか。なら、どうしてこの世界に、こんな形の僕を送り込んだのか。僕が失敗作ならば、全能のあなたはどこにいらっしゃるのですか。
……所詮、下等な悪魔の戯言だ。そんなものに惑わされるな。そうは思うけれど、どうしても、今は祈れない。
僕はマリアさんへの感謝だけを言葉にして、冷えた水を口に含んでから料理に手を付けた。
柑橘の香りが鼻に抜ける感覚がした。追うように広がるわずかな辛味と、白身魚の新鮮な脂の風味。この人の料理を、初めて味わえたのだと思う。嗅覚も味覚も働いている今ならば、この店が賑わう理由がよく分かる。
帝国の食器使いにも幾分か慣れてきたから、僕は難なく料理を口に運べたし、『美味』という感覚を途切れさせないことに半ば必死になった。
僕の食事はこれまでずっとのろまだったから、腹を空かせた若者らしく食べる様子に、マリアさんは少し驚いているようだった。自分がそんなふうに食事をしていることに気づいたのは、彼女の表情がふと視界に入ったときだったけれど。
「お腹、大丈夫?」
マリアさんが訊いてきた。鳩尾を殴られた直後でよく食べられるものだとは自分でも思ったけれど、痛みだとか吐き気だとか、そんなものは気にならなかった。血混じりの胃液を吐いたのに、数年ぶりに湧いた食欲には抗えなかった。
僕は気持ちを落ち着かせるために、少し水を飲んだ。
「本当は、ずっと分からなかったんです。何を口に入れても、まるで道端の石ころみたいに、苦くて変な臭いがしていたから」
正直なことを伝えてみた。マリアさんは一瞬、また驚いた顔をしたけれど、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「そっか。それでも食べてくれてたんだね。ありがとう」
「ようやく分かるんです。美味しいって」
「嬉しい?」
そう問われたから、僕は頷いた。そしてまた魚を口に運び入れる。
「よかった」
マリアさんは言って、食事を再開した。僕の様子を眺めて楽しそうにしているので、僕は段々気恥ずかしくなってきた。
僕は早々と食事を終えてしまった。食器を机の端に寄せて、一息つく。
マリアさんの皿にはまだ料理が半分くらい残っている。たぶん、僕が気を使わないようにと自分の分も用意したのだろう。実際のところ、食欲はないのかもしれない。結局、マリアさんは食べきることなく、ナイフを置いた。
僕に背を向けたまま、マリアさんは言った。破かれて緩んだ服から、白い肩が見えていた。彼女の背中には、きっと青い痣ができているだろう。せめて、骨などが折れていなければ良いけれど。
「ごめんなさい」
僕は謝った。言葉で伝える以外の方法を持ち合わせていない。
「でも、見つかってよかった。ずっと病室にいたら息も詰まっちゃうよね。せっかくだし、何か食べていって。今日は休業だ。楽しちゃお」
なんて、マリアさんは壁に取り付けてある棒に下げてあった幅広の布――たぶん、外出の際に日よけのために頭や肩に掛けるのだろう――を取って体に巻きながら、明るく言う。けれど、僕の方は向かない。
「ごめんなさい。嫌な思いをさせてしまった」
僕はさっきよりも力を込めて謝った。
「私の心配なんてしなくていいよ。久々で驚いたけど、慣れてるから」
そんな慣れなんて、ろくなものじゃない。マリアさんは顔だけこちらに向けて、笑ってみせた。
「えっと……、なんだかごめんね、そっぽ向いちゃって。服、破けてるから恥ずかしくてさ。……馬鹿みたいだよね。ちょっとだけ、待っててくれる? 着替えてくるから」
そう言って、マリアさんは上の階に行った。僕は遠ざかる足音を聞き届けて、〈星の砂〉に入るための扉を開けて、店内の適当な椅子に座った。そうして、じっとしていた。鈍い痛みが、腹部と胸元にずっとある。気になって軽く長衣の前を広げて見たら、やはり酷い色をしていた。
やがて階段を下りてくる足音がして、半分開けておいた扉からマリアさんが姿を見せる。普段、仕事をしているときに着ているような素っ気ない服ではなくて、薄紅の長衣に着替えて、髪も下ろしてあった。そのまま厨房に入っていって、調理器を火にかける。
「今朝から食べてないでしょう? 仕込みだけは済ませてあるし、すぐできるからね」
「手伝います」
「大丈夫。大したことをするわけじゃないから。大人しくしてなさい」
席を立とうとした僕を、マリアさんは笑って止めた。確かに、僕に手伝えることなんて無いだろう。何もせずにいるのが気まずくて言ってはみたが、大人しくしていた方がマリアさんは楽に違いない。僕は黙って椅子に座り直した。
魚の切り身を焼いて、香辛料を振る手際の良さを、遠目に眺める。この人だって体を痛めているはずなのに、そんな様子なんて全く見せやしない。口調だっていつもとなんら変わらない。これほどの強さを、どうやって身につけたのだろうか。
やがて香ってきた匂いへ反応を示した自分の体に、僕はいささか驚く。乾いていた口の中が、潤っているのだ。料理の匂いを好ましく感じ、体が自然とそれを欲する。一体何年ぶりだろうか。
「できた。お待たせしました」
マリアさんは、いつも店で出しているような料理と、水を持ってきてくれた。卓にそれらを置いて、もう一人分同じものを取って戻ってくる。少し遅い昼食を挟んで、僕らは向かい合った。
「食べ切れるだけでいいからね。無理はしないで」
マリアさんは帝国の食器を慣れた手付きで使って、食べ始めた。僕は、なんだか神に祈る気になれなかった。神は僕の存在を許さないのだろうか。なら、どうしてこの世界に、こんな形の僕を送り込んだのか。僕が失敗作ならば、全能のあなたはどこにいらっしゃるのですか。
……所詮、下等な悪魔の戯言だ。そんなものに惑わされるな。そうは思うけれど、どうしても、今は祈れない。
僕はマリアさんへの感謝だけを言葉にして、冷えた水を口に含んでから料理に手を付けた。
柑橘の香りが鼻に抜ける感覚がした。追うように広がるわずかな辛味と、白身魚の新鮮な脂の風味。この人の料理を、初めて味わえたのだと思う。嗅覚も味覚も働いている今ならば、この店が賑わう理由がよく分かる。
帝国の食器使いにも幾分か慣れてきたから、僕は難なく料理を口に運べたし、『美味』という感覚を途切れさせないことに半ば必死になった。
僕の食事はこれまでずっとのろまだったから、腹を空かせた若者らしく食べる様子に、マリアさんは少し驚いているようだった。自分がそんなふうに食事をしていることに気づいたのは、彼女の表情がふと視界に入ったときだったけれど。
「お腹、大丈夫?」
マリアさんが訊いてきた。鳩尾を殴られた直後でよく食べられるものだとは自分でも思ったけれど、痛みだとか吐き気だとか、そんなものは気にならなかった。血混じりの胃液を吐いたのに、数年ぶりに湧いた食欲には抗えなかった。
僕は気持ちを落ち着かせるために、少し水を飲んだ。
「本当は、ずっと分からなかったんです。何を口に入れても、まるで道端の石ころみたいに、苦くて変な臭いがしていたから」
正直なことを伝えてみた。マリアさんは一瞬、また驚いた顔をしたけれど、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「そっか。それでも食べてくれてたんだね。ありがとう」
「ようやく分かるんです。美味しいって」
「嬉しい?」
そう問われたから、僕は頷いた。そしてまた魚を口に運び入れる。
「よかった」
マリアさんは言って、食事を再開した。僕の様子を眺めて楽しそうにしているので、僕は段々気恥ずかしくなってきた。
僕は早々と食事を終えてしまった。食器を机の端に寄せて、一息つく。
マリアさんの皿にはまだ料理が半分くらい残っている。たぶん、僕が気を使わないようにと自分の分も用意したのだろう。実際のところ、食欲はないのかもしれない。結局、マリアさんは食べきることなく、ナイフを置いた。
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