お隣さんにほだされて

赤井ちひろ

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ビターチョコと午前11時の光

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 煙がようやく収まり、店内の空気も落ち着きを取り戻した。男が窓の外を見つめて、深く息を吐く。僕はシンクの前でタオルを手に取り、濡れた手を拭いながら、今一度その人の顔を見た。
「ごめんなさい」
「心配させてくれるなよ」
 普段はどこか飄々とした掴みどころのない表情の彼が、今日は少し狼狽気味に見える。
「アップルパイだぞ。焦げるまで放っておくなよ」
 その言葉に、僕は少しムッとして、僕よりパイかよと言葉を返しそうになる。けれど、彼が煙を吸っていない事に気が付き内心ほっとしていた自分がいた。この感情は何というのだろう。淡いグレーともピンクともとれるそに名前が付けられず、黙って黙々と仕事に戻った。僕は人間の感情の機微がわからない。恋や愛はもとより普通というものがそもそも理解できない。つまり第三者との距離の取り方がめっぽう苦手なのだ。

 その時、テレビから流れる例の声がまた、僕の耳孔に響く。
「しつこいなぁ。こんな甘ったるいコマーシャル、どうでもいいのに…」
 彼が僕の言葉に反応して、顔をあげ、目を細め、口の端が少しだけ歪んだ。
「さっきから偉く反応するな。そんなに気になるのか」
 一瞬その言葉が何を意味するのか分からず、ぼんやりと彼を見返すと、ほんの少しの期待を含んだ目で覗き込んできた。
「買ってきてやろうか」
「頼んでません」
「お願いしますと顔に書いてあるぞ」
「か、書いてない!」
 しどろもどろになりながら答えると、金烏はますます興味を持った様に、明らかな意図をもって歩み寄ってきた。
「ほんとうに? 俺が買ってきてやるよ、あのチョコ」
「そんなになんども言わなくても……買いたいなら勝手にどうぞ」
「ではそうしよう」
 僕はちらりと彼を見上げた。その目の奥に、わずかな期待が見え隠れしているのが、どうしても気になって仕方がない。考え過ぎだと分かっている。僕なんかにそんなつもりじゃないのは知っている。
「おまえ、その顔、反則だろう」
「顔? 何がですか」
「いや、何でもいないさ」
 男はすぐにその場を離れ、再び自分の席に戻ったが、その後も何度か視線をこちらに送る事をやめなかった。まるで探りを入れるように。そして、僕は彼の視線を避けるように、手元のカップを洗い続けた。
 その時、文庫本を広げながら、男が何とはなしに口を開いた。
「そういえば、お前、名前は何と言うんだ」
 その言葉に驚いて、手を止めて彼を見た。
 目を合わせるのも少し変に思ったけれど、どうしても気になって顔をあげてしまった。
 目が合った。しまったと思ってももう後の祭りだ。
「名前……?」
「そう、お前の名前」
「内緒です」
 男は僕をじっと見ている。最近隣に引っ越してきた彼は、ファーストアタックから少し変わっていた。あんた名前は? から始まり、僕がだんまりを決め込んでいると勝手にハンドルネームを置き去りに、出ていった。こんなふうに距離を詰めるタイプではないと思っていただけに何とも以外だ。
 正直、他人のことはどうでもいいって類の人間だと勝手に認識していた。――――そんな彼が他人の名前?
「で?」
「何が……」
「名前だよ」
 顔が赤くなる。男は微かに目を細め、顔を上げた。
「人に聞くならお先にどうぞ」
「聞こえなかったよ」
「いや、言っていませんから」
「それはそれは言われた気になったさ」
「はぁ、あなたは?」
「教えないよ」
「人に聞いておいて?」
「別に俺に興味なんか無いだろう」
「それはそうですけど……じゃあ勝手に太陽さんって呼びますよ」
 大きな目がびっくりするようにさらに大きく見開いた。
「ちょっと待て、なんで太陽なんだ」
「金烏って太陽の事ですから。違います?」
「そうなのか」
「そうですよ。太陽のことは金烏、ちなみに月は玉兎です」
「ものしりだな」
「それに太陽は今頃が一番きれいな光を放つと思っているんです。だから午前11時ごろはあの奥のテーブルに座って優雅にコーヒーを飲んでいるんですけど、最近はあなたがいつもそこにいて、邪魔だったらないです」
 彼は文庫本に視線を戻した。その姿を見て、僕はわずかに安堵の息を吐く。今まで、まるで何でもないかの様な顔をしていた彼が、急に名前を知りたがった事に僕は驚いていた。そしてこの僕が他人の名前を知りたがっている事に、さらに驚いた。
「太陽さん、さっきのチョコ……買ってきてくれますか」
 その言葉を拾う様に男が顔を上げ、わずかばかり口角を上げ、言った。
「買ってきてやるよ。そのうちな」
 その言葉に、僕は小さく笑う。
 午前十一時の光の中で、少しずつ変わっていく二人の距離が、確かなものになっていくことを、僕はまだ知らなかった。
「……あの」
 思い切って、何か別の話題を出そうと口を開いた時、太陽が突然本から顔を上げ、僕をじっと見つめた。
「なんだ?」
 その視線にドキッとし、息を呑む。少し無防備なその目が僕を捕えたような気がして、心臓がわずかに強く打つのを感じた。
「いや、別に。なんでもないです」
 僕が慌てて視線を逸らすと、男はやや不満そうに顔をしかめた。
「なんだい。思っていることは言わないと」
「だって…」
「だって?」
「いや、あんたの事、まだよく分かってないから」
 宝石のようにきらきらひかる大きな目が揺れている。
「お前普段はもっとはっきり物を言うタイプだと思った、意外とヘタレだな」
「言い方だよ」
「ただ?」
「やっぱり、なんでもない、ほんとに」
 僕がまた頬を赤らめてシンクに向かって手を動かし続けていると、太陽がくすりと笑いながら本を閉じた。
「お前も気になるんだろ? 俺の名前」
「え?」
「名前だよ。太陽の本名を知りたくなってるんだろ?」
 僕は驚いて顔を上げると、太陽は何気なく言葉を続けた。
「しかし俺は、名前だけじゃ物足りないタイプだからな。名前を聞いたらもっと知りたくなる。お前の好きな食べ物、好きな色、好きな本、好きなタイプ。そうしたらお前が困る」
「意味不明」
 くすくすと笑う声が響いた。
「お前も、ちょっとは俺の事を知りたくなったか」
「太陽さん、人の意見聞いてる?」
「勿論聞いてない」
「聞いてるじゃないか」
「君が聞きたくなったら話してやるよ」
 彼はどうしてそんなことを言うんだろう。僕が知りたくない訳はないのに。そしてそんなことを口に出来る訳がないのに。
 いつの間にか無意識に僕はカウンターを出ていた。男のいるテーブルまで行くと袖をくぃっと引っ張った。
「なんだ。かわいいな」
「気にならない訳じゃないんだけど」
「だから、おまえが本当に知りたいと思ったら、教えてやるよ」
 太陽は立ち上がり、しばらく考えるように視線を上に向けた。その仕草に、何か深い意味が込められている気がして、僕は思わず息を呑んだ。
「そんなに引っ張ることですか」
「覚悟がな、いるんだ」
「はい?」
「覚悟だよ」
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