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アップルパイと秘密の花園
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星蓮は、カフェの常連である太陽とのやり取りに、少しずつ慣れてきていた。
最初はただの隣人のうざい男と思っていたものが、毎日のように顔を出す彼と過ごす時間が、次第に無くてはならないものになっていった。
太陽の事を深く知るチャンスこそ無かったが、カフェで彼と会話を交わすことで、太陽の人となりは分かっていった。
「おっ、アップルパイ、作ってるのか? そういえばいつも味見なんかしていなかったな」
いつものように太陽がカウンター越しに声をかけてきた。味覚がわからないとわかって以来、カフェに他のお客様がいないと、太陽は普通にその話を振ってきた。不思議なもので秘密を共有する相手がいるってことが、こんなにも幸せだとは知らなかった。
「これは頭に味があるんです」
「不思議な言い回しだが、つまりは覚えているって事か?」
「100回作ったら毎回同じ味になりますよ」
「それはすごいな」
「お前のアップルパイって、やっぱりいいな。毎回食べてるけど、飽きないんだよな」
その言葉に、星蓮は少し照れくさそうに笑った。
「ありがとう、でも毎回同じレシピだから、そんなに特別な訳じゃないですよ」
謙遜してみせる星蓮の顔はまんざらでもなかった。
「いや、違う。君のアップルパイには、特別な何かがあるんだよ。食べるたびに、どこか懐かしい感じがする」
太陽はしばらく黙ってから、ふとそう言った。
「懐かしい?」
星蓮は目を見開き、手を止めて太陽を見つめた。
「ああ。俺がガキの頃よく母親に連れられて行っていた喫茶店があるんだ」
「喫茶店ですか」
「今はもうとっくに無くなっているんだけど、きれいな女の人が一人で切り盛りしていて、奥には小さな子供が苺のクッションに背中を預けながら、本を読んでいたよ。そこのアップルパイが過去最高に美味しくてな。君のアップルパイが2番目な訳ではないぞ。同じ味なんだから1番だ」
星蓮の眉がピクンと動き、そのまま喉元が上下に嚥下した。
「どんな本……ですか」
「本か? そこ気になるか」
「どんな本!」
「イライラするな。小公女セーラって知ってるか」
「フランシス・ホジソン・バーネットですね」
「ん?」
「作者ですよ」
星蓮はゆっくりと答え、お替りいりますかと席を立った。
「ああ、いただこう。そうなのか、秘密の花園って店名でな、だからその本もあったんだが、その女の子が持っていたのはいつも小公女ってやつだった」
「女の子?」
「ああ、見るか?」
「なんか持っているんですか」
「ああ、あるぞ。俺には懐いていたからな」
太陽は分厚い手帳から、きれいな女の人と、かわいい子供を抱いた若かりし頃の自分の写真を見せてくれた。
星蓮はその写真を見て目頭が熱くなった。
「俺は中学から寄宿舎に入っていたから、この子が小さな頃しか知らないんだが、何年かたって亡くなった母親の墓前に手向けようとそのお店に行ったんだ。そうしたら、閉店の張り紙がされていた。マダムが亡くなってお店を閉めたと、近所の人に聞かされた時には、胸が張り裂けそうに痛かったよ」
星蓮は何も言わなかった。
太陽が心の中で抱えている痛みや孤独、そして過去の記憶が、少しだけ見えてきたような気がした。
「ねぇ、その写真いつもそうやって持っているの?」
「ああ。未来の花嫁だったからな」
「は、意味が分からないよ」
「久しぶりにすごい速さで突っ込むな」
「だって太陽さん……」
「過去のことだ。あの頃は自分のセクシャリティはまだわかっていなかったし、お婿になってって言われていたんだ。かわいいだろう」
「探しているんですか」
「まさか。俺はゲイだしな。女は抱けん。お店が無くなってしょげていた所で君と出会って、こうしてここに入り浸っているよ」
「その子、知っていますよ」
「は、今何と言った」
「会いたいですか」
「会ったところで向こうは覚えてはおらんだろ」
「そりゃあ、そうでしょうけど」
「それに俺だってきっと分からんよ」
「そうでしたね」
「そう……でした?」
「あらら、言葉に引っかかっちゃいましたか」
「仕事柄、反応してしまうんだ」
星蓮は、バックヤードから何やら写真を持ち出してくると、看板の横でにっこり笑っている少し男らしくなった写真を見せた。
太陽は二枚の写真を見比べると、星蓮に視線を移した。
「ボーイッシュな写真だが、顔は面影あるな。これ、なんで君が持っているんだ」
「僕だからですよ」
衝撃的な事実だった。
「ごめん、この子が君?」
「はい」
「じゃあこのマダムは」
「母さんです」
「君、女の子だったの」
目の前の本で頭をはたかれた。
「痛いだろ、暴力反対」
「自業自得でしょ」
「だって」
「男ですよ」
太陽はもう一度見比べた。
「だってこれ」
確かに太陽の持っている写真は、フリフリのスカートも穿いていて、どこからどう見ても美少女物語の主人公だった。
「今を基準に考えませんか。記憶に囚われ過ぎですよ」
そういうと、自分の写真はさっさとしまう。
「このアップルパイは」
「あなたの言葉を借りて言えば、マダムの味です」
「同じ味だ」
「や、だからそう言っています」
「他も覚えているのあるのか」
「とたんに厚かましいですけど、まあ、ありますよ」
「つまり、俺の青春の味は君のお母上の味で、俺は君の未来の花婿だった」
「後者はちょっといったん置いときましょう。ケーキ、他も作れますよ。ただ」
「ただ」
「味を完璧に覚えている訳じゃないので、店では出せませんが家でなら」
「招待してくれるのか」
「できればあなたの家がいいですが」
「ミートパイは?」
「レーズンパンプキンパイも、キャラメルジンジャータルトも、勿論ミートパイも出来ますよ」
「それは良い」
太陽は時折目頭をハンカチで拭きながら、窓の外に目をやった。
その後、太陽はしばらく黙ってカウンターの向こうで本を読んでいた。星蓮は心の中で何か言葉にしようとしたが、何も出てなど来ない。
ただ、太陽の存在が何となく、いつもよりも大きく感じられた。
数日後、太陽はいつものようにカフェにやって来て同じ様にアップルパイと珈琲を頼む。
しかしその日はいつもと少し違っていた。いつもなら、にこやかに笑っている太陽が、今日は少し浮かない顔をしているのが気になった。
「どうしたの。太陽さん」
「寂しいんだ」
「なにが」
太陽は顔を上げて、少しだけ苦笑いを浮かべた。
「実は、急にちょっと仕事が忙しくなってな。取材とか、大事な用事がこれでもかと入ってる」
「取材? 仕事してたんだ」
「プータローだと思っていたのか」
「無職」
「そんなバカな」
「どこに取材に行くの」
「イギリスだ」
「海外旅行?」
「仕事だよ、アップルパイの食べられない距離なんだぞ」
太陽は少し目を伏せた。
「それも、しばらく戻れないかもしれない」
「仕方がないですね」
自分で発したその言葉に、星蓮の胸がチクリと痛んだ。
仕事の関係とはいえ、なんでこんなにも突然なのだろう。
「しばらく帰れないって、どれくらいの間?」
と星蓮は問いかけた。
「うーん、少なくとも一ヶ月位かな。取材が終わったら戻るけど、それまではちょっと落ち着かないかもしれない」
太陽は少し遠くを見るような表情をしていた。
「いつ行くの」
「明後日だ」
「急だね」
「浮気するなよ」
「なんなら付き合っていませんけど」
「いじわる言うな。今日は沢山食べていいか」
「若くないんだから太りますよ。今日だけですからね」
「うん、ありがとう」
太陽はそう言って、にっこりと笑った。
その微笑みに、星蓮は少し安堵しつつも、心の中で不安が募るのを感じていた。
太陽がいない間、このカフェの空気はどう変わるのだろうか。
太陽の存在が、こんなにも、自分にとって大きなものである事に気づかされるには、足る時間だった。
その後、太陽がいなくなったカフェの空気は、予想以上に静かで落ち着かないものだった。
いつもカウンター越しに聞こえていた、太陽の軽い笑い声がなくなると、何かが欠けてしまったような気がした。
カフェの静寂が、まるでどこかひび割れたように感じられる。
窓の外に広がる風景はいつも通りだったのに、太陽がいないだけで、どこか薄暗く感じてしまう。
「あいつ、元気かな?」と、ふと思った。
彼が戻ってくる日を待ちながら、ひとりで過ごす時間が少しずつ長く辛く感じていく。
最初は気づかなかったが、どれほど自分にとって大きなものであったかを、いなくなって初めて実感するのだ。
朝の準備を終え、いつものように店内を整えていると、突如としてカフェのドアんの開く音が響いた。
思わず顔を上げると、そこには見慣れない男が立っていた。
どこか冷たい印象を持ったその男に、星蓮は反射的に眉をひそめた。
「いらっしゃいませ、お好きなお席へどうぞ」
星蓮は無理に微笑む事なく、淡々と声をかける。
「朝倉の友人や」とその男は言った。表情からは、少し疲れた様子が見て取れる。
「彼は取材中でイギリスに行っているって聞いてますけど、何があったんですか?」
星蓮は無意識に聞いてしまった。自分でも驚くほど心配している自分に気づく。
そして少しもその気持ちを隠す事なく、矢継ぎ早に質問していた。
男は少し黙り込むと、ようやく口を開いた。
「とりあえず、なんもあらへんねん。アイツに何かあったわけちゃうし、ホンマに忙しいだけや。俺はただの代理やで」
「関西の方ですか」
「見てわからんか? これぞバリバリの浪速っ子や!」
「それを言いにわざわざこんなところまでいらしたんですか」
「せやねん、実は朝倉な、ここの仕事終わってからさらに取材が入ってしもてん。連絡する暇ないさかい、代わりに行け言われて、でここまで来たっちゅう訳や」
と、男は説明した。朝倉が帰ってこない理由は、それが仕事だということだった。星蓮は納得しつつも、どこか心の中で不安を抱えていた。
「あいつのことやし、帰ってきた瞬間また来るやろ、絶対来る! そうやこんわけない! だからそないな顔すんなや」
男は言い、にっこりと笑った。
星蓮はその笑顔に答えようとしたが、何かが引っかかる。朝倉が戻ることは確かだとしても、今はその空白が辛くて考えたくなかった。
「ほら、これあいつからや。イギリス一緒に行っとったしな、あいつの実家にも一緒に行ったし、まぁ、伝書鳩っちゅうこっちゃ」
「今、太陽さんは」
「日本におるで」
そういうと、カウンターに手紙を残して男はカフェを後にした。
カウンターに置かれたままの手紙。少し癖字の朝倉の直筆で、星蓮へと書いてある。気づくと心臓がすごい勢いでまくし立てているのを感じた。椅子に腰掛け、手紙を手に取ると、少し震える指先で封を開けた。
【星蓮へ】
手紙なんて書くつもりはなかったんだけど、君がどうしているのか、やはりどうしても気になって、筆を執らずにいられなかった。会いたい。1か月位で戻るって言ったのに、結局、3か月も経ってしまった。本当にすまないと思ってる。
俺も、ちょっと色々と整理しないといけない事があって、今は祖父母の実家に帰ってきている。故郷の空気は、何だか昔に戻ったようで、落ち着くけれど、逆に色々と思い出してしまうんだ。お前がいないのは寂しいなあ。
それにしても、君はどうしてるんだ? なんだか心配になってきた。まさか、またアップルパイばかり食べていないだろうな? 作りすぎてないか、ご飯をしっかり食べてるかも心配だよ。カフェの空気も、濁っていないか。窓開けているか。毎日きちんと寝られているか。泣いてやしないかと心配になってしまうよ。俺がいないと、やっぱり物足りないだろう?
君が毎日忙しくしているのは知っているけど、あんまり無理していないか? もう少し自分のことも大事にしてくれよ。
それから、俺が戻ったら、またあのパイを食べさせてくれるか。君の作るアップルパイが、こんなにも俺にとって大切なものだって、実は今更気づいたんだ。
しばらく会えないのは寂しいけど、必ず君のもとに帰るから。気をつけて過ごしていてくれ。戻ったら、また一緒に過ごす時間が待っているから、それを楽しみにしておいで。
無理せず、元気でね。
朝倉
手紙を読み終えた後、星蓮は静かにため息をついた。太陽からの手紙を受け取るなんて、全く予想していなかった。1か月と言っていたのに、もう3か月も経ってしまったことに、少し驚きとともに、寂しさが込み上げてきた。
「寂しがっていないかい」その一文に、星蓮は胸を締め付けられるような気がした。まさか太陽が、自分の事をこんなにも心配してくれているとは思ってもいなかった。
「アップルパイ作りすぎてないか」その部分を読んだとき、思わず顔が赤くなるのを感じた。太陽の心配が、なんだか愛おしくて、でも照れくさい。確かに、最近アップルパイばかり作っていた。しかも大量に。食べきれなくて自分用の冷凍庫に入っている。見つかったら怒られてしまうな。太陽がいない間、何かと手を動かしていないと、気が済まない気分だったのかもしれない。大好きなアップルパイを作ったら帰ってくるような気がしたのかもしれない。
そのまま、手紙を読み返しながら、星蓮はぼんやりとカフェの窓の外を見つめた。太陽が言った通り、カフェは確かに少し寂しくなっている。普段はあんなに賑やかだったカウンターが、今はただ静かに広がっている。太陽がいないとこうも空虚なものなのかと、改めて実感した。
「さっさと帰って来いよ! ばか」その言葉が心の中で何度も繰り返される。まだしばらくは一人で過ごさなければならないのかもしれない。でも、太陽が戻る日を心待ちにしながら、その時間を耐えていこうと思った。
手紙の中で言っていた「無理せず、元気でいてくれ」という言葉が、星蓮の心にじんわりと温かく染み渡る。太陽が帰ってくるまで、自分も少しだけ無理せずに過ごそうと思った。
最初はただの隣人のうざい男と思っていたものが、毎日のように顔を出す彼と過ごす時間が、次第に無くてはならないものになっていった。
太陽の事を深く知るチャンスこそ無かったが、カフェで彼と会話を交わすことで、太陽の人となりは分かっていった。
「おっ、アップルパイ、作ってるのか? そういえばいつも味見なんかしていなかったな」
いつものように太陽がカウンター越しに声をかけてきた。味覚がわからないとわかって以来、カフェに他のお客様がいないと、太陽は普通にその話を振ってきた。不思議なもので秘密を共有する相手がいるってことが、こんなにも幸せだとは知らなかった。
「これは頭に味があるんです」
「不思議な言い回しだが、つまりは覚えているって事か?」
「100回作ったら毎回同じ味になりますよ」
「それはすごいな」
「お前のアップルパイって、やっぱりいいな。毎回食べてるけど、飽きないんだよな」
その言葉に、星蓮は少し照れくさそうに笑った。
「ありがとう、でも毎回同じレシピだから、そんなに特別な訳じゃないですよ」
謙遜してみせる星蓮の顔はまんざらでもなかった。
「いや、違う。君のアップルパイには、特別な何かがあるんだよ。食べるたびに、どこか懐かしい感じがする」
太陽はしばらく黙ってから、ふとそう言った。
「懐かしい?」
星蓮は目を見開き、手を止めて太陽を見つめた。
「ああ。俺がガキの頃よく母親に連れられて行っていた喫茶店があるんだ」
「喫茶店ですか」
「今はもうとっくに無くなっているんだけど、きれいな女の人が一人で切り盛りしていて、奥には小さな子供が苺のクッションに背中を預けながら、本を読んでいたよ。そこのアップルパイが過去最高に美味しくてな。君のアップルパイが2番目な訳ではないぞ。同じ味なんだから1番だ」
星蓮の眉がピクンと動き、そのまま喉元が上下に嚥下した。
「どんな本……ですか」
「本か? そこ気になるか」
「どんな本!」
「イライラするな。小公女セーラって知ってるか」
「フランシス・ホジソン・バーネットですね」
「ん?」
「作者ですよ」
星蓮はゆっくりと答え、お替りいりますかと席を立った。
「ああ、いただこう。そうなのか、秘密の花園って店名でな、だからその本もあったんだが、その女の子が持っていたのはいつも小公女ってやつだった」
「女の子?」
「ああ、見るか?」
「なんか持っているんですか」
「ああ、あるぞ。俺には懐いていたからな」
太陽は分厚い手帳から、きれいな女の人と、かわいい子供を抱いた若かりし頃の自分の写真を見せてくれた。
星蓮はその写真を見て目頭が熱くなった。
「俺は中学から寄宿舎に入っていたから、この子が小さな頃しか知らないんだが、何年かたって亡くなった母親の墓前に手向けようとそのお店に行ったんだ。そうしたら、閉店の張り紙がされていた。マダムが亡くなってお店を閉めたと、近所の人に聞かされた時には、胸が張り裂けそうに痛かったよ」
星蓮は何も言わなかった。
太陽が心の中で抱えている痛みや孤独、そして過去の記憶が、少しだけ見えてきたような気がした。
「ねぇ、その写真いつもそうやって持っているの?」
「ああ。未来の花嫁だったからな」
「は、意味が分からないよ」
「久しぶりにすごい速さで突っ込むな」
「だって太陽さん……」
「過去のことだ。あの頃は自分のセクシャリティはまだわかっていなかったし、お婿になってって言われていたんだ。かわいいだろう」
「探しているんですか」
「まさか。俺はゲイだしな。女は抱けん。お店が無くなってしょげていた所で君と出会って、こうしてここに入り浸っているよ」
「その子、知っていますよ」
「は、今何と言った」
「会いたいですか」
「会ったところで向こうは覚えてはおらんだろ」
「そりゃあ、そうでしょうけど」
「それに俺だってきっと分からんよ」
「そうでしたね」
「そう……でした?」
「あらら、言葉に引っかかっちゃいましたか」
「仕事柄、反応してしまうんだ」
星蓮は、バックヤードから何やら写真を持ち出してくると、看板の横でにっこり笑っている少し男らしくなった写真を見せた。
太陽は二枚の写真を見比べると、星蓮に視線を移した。
「ボーイッシュな写真だが、顔は面影あるな。これ、なんで君が持っているんだ」
「僕だからですよ」
衝撃的な事実だった。
「ごめん、この子が君?」
「はい」
「じゃあこのマダムは」
「母さんです」
「君、女の子だったの」
目の前の本で頭をはたかれた。
「痛いだろ、暴力反対」
「自業自得でしょ」
「だって」
「男ですよ」
太陽はもう一度見比べた。
「だってこれ」
確かに太陽の持っている写真は、フリフリのスカートも穿いていて、どこからどう見ても美少女物語の主人公だった。
「今を基準に考えませんか。記憶に囚われ過ぎですよ」
そういうと、自分の写真はさっさとしまう。
「このアップルパイは」
「あなたの言葉を借りて言えば、マダムの味です」
「同じ味だ」
「や、だからそう言っています」
「他も覚えているのあるのか」
「とたんに厚かましいですけど、まあ、ありますよ」
「つまり、俺の青春の味は君のお母上の味で、俺は君の未来の花婿だった」
「後者はちょっといったん置いときましょう。ケーキ、他も作れますよ。ただ」
「ただ」
「味を完璧に覚えている訳じゃないので、店では出せませんが家でなら」
「招待してくれるのか」
「できればあなたの家がいいですが」
「ミートパイは?」
「レーズンパンプキンパイも、キャラメルジンジャータルトも、勿論ミートパイも出来ますよ」
「それは良い」
太陽は時折目頭をハンカチで拭きながら、窓の外に目をやった。
その後、太陽はしばらく黙ってカウンターの向こうで本を読んでいた。星蓮は心の中で何か言葉にしようとしたが、何も出てなど来ない。
ただ、太陽の存在が何となく、いつもよりも大きく感じられた。
数日後、太陽はいつものようにカフェにやって来て同じ様にアップルパイと珈琲を頼む。
しかしその日はいつもと少し違っていた。いつもなら、にこやかに笑っている太陽が、今日は少し浮かない顔をしているのが気になった。
「どうしたの。太陽さん」
「寂しいんだ」
「なにが」
太陽は顔を上げて、少しだけ苦笑いを浮かべた。
「実は、急にちょっと仕事が忙しくなってな。取材とか、大事な用事がこれでもかと入ってる」
「取材? 仕事してたんだ」
「プータローだと思っていたのか」
「無職」
「そんなバカな」
「どこに取材に行くの」
「イギリスだ」
「海外旅行?」
「仕事だよ、アップルパイの食べられない距離なんだぞ」
太陽は少し目を伏せた。
「それも、しばらく戻れないかもしれない」
「仕方がないですね」
自分で発したその言葉に、星蓮の胸がチクリと痛んだ。
仕事の関係とはいえ、なんでこんなにも突然なのだろう。
「しばらく帰れないって、どれくらいの間?」
と星蓮は問いかけた。
「うーん、少なくとも一ヶ月位かな。取材が終わったら戻るけど、それまではちょっと落ち着かないかもしれない」
太陽は少し遠くを見るような表情をしていた。
「いつ行くの」
「明後日だ」
「急だね」
「浮気するなよ」
「なんなら付き合っていませんけど」
「いじわる言うな。今日は沢山食べていいか」
「若くないんだから太りますよ。今日だけですからね」
「うん、ありがとう」
太陽はそう言って、にっこりと笑った。
その微笑みに、星蓮は少し安堵しつつも、心の中で不安が募るのを感じていた。
太陽がいない間、このカフェの空気はどう変わるのだろうか。
太陽の存在が、こんなにも、自分にとって大きなものである事に気づかされるには、足る時間だった。
その後、太陽がいなくなったカフェの空気は、予想以上に静かで落ち着かないものだった。
いつもカウンター越しに聞こえていた、太陽の軽い笑い声がなくなると、何かが欠けてしまったような気がした。
カフェの静寂が、まるでどこかひび割れたように感じられる。
窓の外に広がる風景はいつも通りだったのに、太陽がいないだけで、どこか薄暗く感じてしまう。
「あいつ、元気かな?」と、ふと思った。
彼が戻ってくる日を待ちながら、ひとりで過ごす時間が少しずつ長く辛く感じていく。
最初は気づかなかったが、どれほど自分にとって大きなものであったかを、いなくなって初めて実感するのだ。
朝の準備を終え、いつものように店内を整えていると、突如としてカフェのドアんの開く音が響いた。
思わず顔を上げると、そこには見慣れない男が立っていた。
どこか冷たい印象を持ったその男に、星蓮は反射的に眉をひそめた。
「いらっしゃいませ、お好きなお席へどうぞ」
星蓮は無理に微笑む事なく、淡々と声をかける。
「朝倉の友人や」とその男は言った。表情からは、少し疲れた様子が見て取れる。
「彼は取材中でイギリスに行っているって聞いてますけど、何があったんですか?」
星蓮は無意識に聞いてしまった。自分でも驚くほど心配している自分に気づく。
そして少しもその気持ちを隠す事なく、矢継ぎ早に質問していた。
男は少し黙り込むと、ようやく口を開いた。
「とりあえず、なんもあらへんねん。アイツに何かあったわけちゃうし、ホンマに忙しいだけや。俺はただの代理やで」
「関西の方ですか」
「見てわからんか? これぞバリバリの浪速っ子や!」
「それを言いにわざわざこんなところまでいらしたんですか」
「せやねん、実は朝倉な、ここの仕事終わってからさらに取材が入ってしもてん。連絡する暇ないさかい、代わりに行け言われて、でここまで来たっちゅう訳や」
と、男は説明した。朝倉が帰ってこない理由は、それが仕事だということだった。星蓮は納得しつつも、どこか心の中で不安を抱えていた。
「あいつのことやし、帰ってきた瞬間また来るやろ、絶対来る! そうやこんわけない! だからそないな顔すんなや」
男は言い、にっこりと笑った。
星蓮はその笑顔に答えようとしたが、何かが引っかかる。朝倉が戻ることは確かだとしても、今はその空白が辛くて考えたくなかった。
「ほら、これあいつからや。イギリス一緒に行っとったしな、あいつの実家にも一緒に行ったし、まぁ、伝書鳩っちゅうこっちゃ」
「今、太陽さんは」
「日本におるで」
そういうと、カウンターに手紙を残して男はカフェを後にした。
カウンターに置かれたままの手紙。少し癖字の朝倉の直筆で、星蓮へと書いてある。気づくと心臓がすごい勢いでまくし立てているのを感じた。椅子に腰掛け、手紙を手に取ると、少し震える指先で封を開けた。
【星蓮へ】
手紙なんて書くつもりはなかったんだけど、君がどうしているのか、やはりどうしても気になって、筆を執らずにいられなかった。会いたい。1か月位で戻るって言ったのに、結局、3か月も経ってしまった。本当にすまないと思ってる。
俺も、ちょっと色々と整理しないといけない事があって、今は祖父母の実家に帰ってきている。故郷の空気は、何だか昔に戻ったようで、落ち着くけれど、逆に色々と思い出してしまうんだ。お前がいないのは寂しいなあ。
それにしても、君はどうしてるんだ? なんだか心配になってきた。まさか、またアップルパイばかり食べていないだろうな? 作りすぎてないか、ご飯をしっかり食べてるかも心配だよ。カフェの空気も、濁っていないか。窓開けているか。毎日きちんと寝られているか。泣いてやしないかと心配になってしまうよ。俺がいないと、やっぱり物足りないだろう?
君が毎日忙しくしているのは知っているけど、あんまり無理していないか? もう少し自分のことも大事にしてくれよ。
それから、俺が戻ったら、またあのパイを食べさせてくれるか。君の作るアップルパイが、こんなにも俺にとって大切なものだって、実は今更気づいたんだ。
しばらく会えないのは寂しいけど、必ず君のもとに帰るから。気をつけて過ごしていてくれ。戻ったら、また一緒に過ごす時間が待っているから、それを楽しみにしておいで。
無理せず、元気でね。
朝倉
手紙を読み終えた後、星蓮は静かにため息をついた。太陽からの手紙を受け取るなんて、全く予想していなかった。1か月と言っていたのに、もう3か月も経ってしまったことに、少し驚きとともに、寂しさが込み上げてきた。
「寂しがっていないかい」その一文に、星蓮は胸を締め付けられるような気がした。まさか太陽が、自分の事をこんなにも心配してくれているとは思ってもいなかった。
「アップルパイ作りすぎてないか」その部分を読んだとき、思わず顔が赤くなるのを感じた。太陽の心配が、なんだか愛おしくて、でも照れくさい。確かに、最近アップルパイばかり作っていた。しかも大量に。食べきれなくて自分用の冷凍庫に入っている。見つかったら怒られてしまうな。太陽がいない間、何かと手を動かしていないと、気が済まない気分だったのかもしれない。大好きなアップルパイを作ったら帰ってくるような気がしたのかもしれない。
そのまま、手紙を読み返しながら、星蓮はぼんやりとカフェの窓の外を見つめた。太陽が言った通り、カフェは確かに少し寂しくなっている。普段はあんなに賑やかだったカウンターが、今はただ静かに広がっている。太陽がいないとこうも空虚なものなのかと、改めて実感した。
「さっさと帰って来いよ! ばか」その言葉が心の中で何度も繰り返される。まだしばらくは一人で過ごさなければならないのかもしれない。でも、太陽が戻る日を心待ちにしながら、その時間を耐えていこうと思った。
手紙の中で言っていた「無理せず、元気でいてくれ」という言葉が、星蓮の心にじんわりと温かく染み渡る。太陽が帰ってくるまで、自分も少しだけ無理せずに過ごそうと思った。
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