鍵の海で踊る兎

裏耕記

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第三章 夏の記憶

34th Mov. 焼肉としゃぶしゃぶ

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「野田君! これは右と左のバランスが大事だよ!」
「うん、そうかもしれないね」

「絶対そうだよ! 右ばかり意識がいくと左が固くなるし、左ばかり注意していると右が手に負えなくなっちゃう。これは一歩引いて両方に満遍なく意識を向ける必要があるね!」

 彼女が熱弁している話。これはピアノの話ではない。
 今、彼女の前の長テーブルには、しゃぶしゃぶ用の鍋と焼き肉用のグリルが並んでいる。
 先ほどの彼女の説明で言うと、右側にある焼肉グリルで肉を焼くのは良いが、それにかまけていると、左のしゃぶしゃぶ用の肉が煮え過ぎて固くなるという意味らしい。

 とりあえず、誕生日らしいムードは皆無だけど、彼女はとても喜んでいることは間違いないだろう。

 この前、誕生日を祝いたいと約束した日に、僕は焼肉かしゃぶしゃぶの食べ放題の店を考えていると伝えた。しかし、いつの間にか、彼女の中では焼肉としゃぶしゃぶの食べ放題の店に変換されており、急遽彼女の要望に合う店に変更したという経緯である。

 それでも、ここまでテンションが上がっている彼女を見ると両方食べられる店にして良かったなと思う。

 彼女はピアニストらしく、器用に両手にトングを持ち、焼くと煮るを並行して行っている。さながら浜辺で砂を口に運ぶカニのようだ。あれは、食べる時どうするのだろうと思わぬでもないが、楽しそうにしている彼女に水を差すのも申し訳ないので、経過を見守っている。

 彼女が食べ始めたら、自分の分も含めて調理すれば良いだろう。今日の主役は彼女なんだし。

「野田君! 大変です! 手が足りません!」

 これは一大事とばかりに報告してくる伏見さん。
 いつの間にか、鍋にも網にも肉がどっさり。彼女の器用な両手をもってしても、すでに捌ききれない状況になってしまっていた。

「とりあえず、取り皿によそっておこうか」

 決して獲物を横取りするわけではないよと伝えてから、調理用のトングを掴む。
 頃合いを迎えた肉たちを用意されていた取り皿によそっていく。

「ごめんね~。野田君と一緒に食べられた方が良いかと思って、たくさん入れすぎちゃった」

 彼女は肉で埋め尽くされた皿を前に申し訳なさそうにしている。
 今日の主役は伏見さんだし、本来は僕が焼いたりすべきだったのだ。
 ただ、嬉しそうにお肉を焼き始めた彼女から、トングを取り上げるわけにもいかず、やりたいようにやらせていた。

 しかし、彼女は僕の分も一緒に焼いてくれていたらしい。大喰らいだから、まとめて肉を準備しているのかと思っていた。申し訳ない気分になる。
 これだったら、最初から手伝っておけば良かったかな。

「最初から僕も手伝えば良かったね。ごめん」
「ううん! 野田君がお祝いしてくれるのが嬉しくて、張り切っちゃったのは私だから」

「喜んでもらえて何よりだよ。冷めないうちに食べちゃおうか。この後は僕が調理するから、食べるのに集中していて良いよ」
「ありがとう! じゃあお言葉に甘えて。……残り時間は45分。ライスは大盛り。お茶もある。デザートテーブルの位置は確認済み。……では、いただきます」

 まるでアスリートのように研ぎ澄まされた集中力を発揮する伏見さん。こういう伏見さんを見るのは、五月の発表会以来だ。彼女にとっては、それくらい重要なことなんだろう。……本当にそれで良いのか?と思わぬでもないけど。


 そこからの肉捌きは熾烈を極めた。
 当然にして、お皿が空いてから焼くのでは、時間をロスしてしまう。
 お皿が空きそうなくらいに肉が焼きあがるのがベストだ。

 すぐ焼きあがるタンは、序盤に使い切ってしまい、カルビやロースといった厚めの肉が残ってしまっていた。僕は苦し紛れに、しゃぶしゃぶの比率を高め、時短を図る。
 彼女のスピードに追い付くには、それしかなかった。

 中盤になると、彼女のペースも落ち着きだし、僕も肉捌きに慣れてきた。
 それにより、僕の食べる時間くらいは捻出できたので、一緒に食事を楽しめたと思おう。

「いや~、しゃぶしゃぶと焼き肉の両方を好きなだけ食べられるなんて贅沢ですな! あとはもう一度豚か牛か。タンに戻るか、カルビでいくか……。どっちが良いかな?」
「僕は結構お腹いっぱいだから、伏見さんの好きなので良いよ」

 終盤には肉の皿も枯渇してきて、伏見さんは最後の楽しみに何を追加するか悩みだした。ここにきても、しゃぶしゃぶと焼き肉の両方を追加するつもりの彼女に感心してしまう。

 うんうんと悩んでいたが、最後はタンに戻ることにしたらしい。僕は焼き網の交換とタンを頼んだ。

「じゃあ、今のうちにデザートを物色して来ようよ!」
「デザート……。入るの?」

「もちろん! その分のペース配分ができなくては、食べ放題を満喫できませんから!」
「そうなんだ……。じゃあ、行こうか」

 カットフルーツに色とりどりの小さなケーキ。
 彼女の目を捉えて離さない。やはり、彼女はお皿は両手に持ち、それらにきれいに並べていく。すでにその量は、ホールのケーキのようだった。

 僕は既にお腹がいっぱいだったので、わらび餅の小皿を取って席に戻った。

 その後は、最後の焼肉を食べ終え、しっかりと時間内いっぱいまでデザートを堪能した。本来、食べ放題の店というのは、元を取れるものじゃないらしい。しかし、あまり食べていない僕を含めても元が取れたんじゃないかって思う。

 最後までやり遂げた彼女は満足気。
 心なしか、ゆったりした足取りでお店を出た。

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