鍵の海で踊る兎

裏耕記

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第五章 進み直した冬

49th Mov. 今までとこれから

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 既に部屋の一部となっている電子ピアノの鍵盤を押す。
 だけど、いつもの綺麗な音は出ず、カタンカタンという音しか出ない。

 電源の入っていない電子ピアノはピアノでもなくて、その鍵盤は鍵盤の役割を果たせていない。

 まるで今の僕みたい。
 ピアノは弾けるけどピアニストというには程遠くて、鍵盤は押せるけど人の心を動かせるほどの腕前じゃない。

 僕は何者でもなくて、何者にもなれなさそう。
 今も、これからも。

 ※

 気持ちというものは、本人にもどうにもならない。自分の中で結論を出したと思い込んでも、質の悪い風邪のようにぶり返すらしい。

 彼女のようになりたくて。
 彼女の側に立ちたくて。

 そんな不純な気持ちで始めたピアノ。
 習い始めてからは、その気持ちが少し変化したけれど、それでも根っこの部分は変わらない。

 ある意味では強くなった気がする。彼女を知れば知るほど。
 そして彼女と時間を過ごせば過ごすほどに。

 だけどその理由を伝える気にはなれない。
 今はまだ隣にすら立てていないから。

 それが一番の理解者である彼女にすら説明できない理由。そして、この葛藤は誰にも伝えられず、僕の胸の中で燻っている。

 僕の気持ちを理解してくれる大切な人には、理由が伝えられなくて。
 理由を話せる友人は、僕の境遇とは別の立ち位置にいる。

 結局は僕自身が消化するしかないのだけれども、未だにそれが出来ていない。
 だから苦しい。

 本当はショパンを弾きたい。
 彼女が好きなショパン。あの演奏と同じショパンの曲を弾いて、君の心を震わせたい。

 僕が君の演奏で心が震えたように。
 君と同じ世界の端っこに辿り着けたと伝えたい。

 演奏で伝えたいけど、僕に出来ない。だから僕はブルグミュラーを選ぶしかない。
 そう分かっているはずなのに。

 分かってる。分かってるよ。失敗するのは怖いけど、ショパンを弾いて彼女の心を震わせたいんだ。良いじゃないか、それくらい夢を見たって。

 自分への弁明と抗弁。

 ピアノを始めるまでの人生では、自分に期待することなんて無かった。ほどほどに頑張って、良くも悪くも目立たないようにする日々。それを急に変えたって戸惑うのは当然だろう。僕自身、成功しているイメージが湧かないんだから。

 不相応な望みを抱いたからいけないのか、頑張らない人生を過ごしてきたことがいけないのか。どっちも正しい気がして、そうでないはずと思いたい気持ちがある。

 明るい未来を想像できず、後悔している自分のイメージばかりが頭をよぎる。
 どんな選択をしても上手くいく気がしなくて、どんな選択も選べない。

 選ぶ道の正解が見えず、選択しなければならない不安。
 進む道のゴールに、いつ辿り着けるのかという不安。
 決めてしまったら戻れないかもしれないという不安。

 不安の種を探せばキリがない。

 こういう時、みんなはどういう風に乗り越えているんだろうか。

 中野は、上手くいくか分からないと理解しながら、神田さんをデートに誘った。
 断られたら気まずかっただろうに。ダメだったとしても、今まで通りの仲良しグループの雰囲気を壊さないと心に決めて勇気を出したそうだ。

 本当に勇気がある奴だよな、中野って。思い返せば、紬や神田さんと仲良くなったのも、中野が勇気を出して行動してくれたからだった。充実した高校生活は、すべて中野の勇気のお陰だった。

 あいつの勇気の十分の一でも僕にあったら、ここまで不安にならずに済むかもしれないのに。

 ――――いや、違う。

 夏休み前に誘ってデートの日になるまで、あからさまに態度に出るほど緊張していた。話し方はぎこちなかったし、笑顔も引き攣っていたように思う。

 中野は、不安でもちゃんと決めて行動しただけなんだ。
 初デートまでの一週間ほどは心底不安だったに違いない。それでも周りに気を遣わせないように、いつも通りの対応を心掛けていたんだろう。自分だってきついはずなのに、周りのことを気にすることが出来る中野は大人だ。


 紬だってそうだ。幼稚園の頃から頑張ってきたピアノ。
 プロになりたくて頑張っていたけど、自分に才能が無いことを突き付けられて。
 それでも諦めずに頑張ったけど、音大付属高校の受験にも失敗してしまった。

 だからといって、周囲に当たり散らしたり、同情を買うようなことはせず、自分で受け止めていた。ふと思い出して、気分が落ち込むことがあっただろうに。それでも、明るい笑顔を振りまき、周りにいる人に元気を与えていたんだ。

 失敗したって立ち上がって歩いた。歩き続けた。
 それがあの発表会につながって、ピアノの先生という道につながった。
 彼女が歩み続けたからこそ見つけられた道だ。

 当初望んだ道じゃないかもしれないけど、今の彼女は幸せそうにしている。
 きっと、挫けず歩み続けた彼女へのご褒美なんだろう。そう思ってしまう。


 僕はどうだ?
 中野みたいに決める勇気も無くて、紬みたいに歩み続ける根気も無い。

 ――――違う。そうじゃない。そうじゃないだろ。

 そんな風に自分に無いものを探している暇なんて無いじゃないか。
 僕にはピアノに向き合える時間は少ないんだから。

 ピアノの表現力を高めたいなら、寝る間も惜しんでピアノを弾かなきゃ。
 悩むなら手を動かせ! 不安なら練習しろ! 

 やるだけやって失敗したらそれで良いじゃないか。
 紬や中野たちは失敗しても変わらずに接してくれるよ。

 だったら何を怖がる必要がある? 格好悪い自分なんて、昔っからなんだし。
 何より、失敗して格好悪くても笑う人はいない。

 大丈夫。絶対大丈夫。
 だったらやることは一つ。
 ガンガン弾き込んで、自分なりの演奏をする。

 何を弾くかじゃない。どう弾くか。
 とにかくそれだけを考えてやってみよう。


 そう決めたら、今まで悩んでいたことが砂粒のように小さく感じられて、ピアノに向かい合うことが楽しくなっていた。

 ※

 それからというもの、ピアノに没頭する生活は日々を加速させた。
 過ぎ去る時間。高まる完成度。
 楽譜通りの演奏を超えた先が見えた気がする。

 そう思える頃には、僕は高校二年生になっていて、発表会が目前となっていた。
 去年、僕の人生を変えた発表会の季節が、またやってきていた。
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