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ヤン・イルクバールは鳥籠を担ぎ

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 ここはミストル・ファトル。南の海の小さな国。美しい王宮に五人の姫君を戴く、常夏の『妖精の島』である。
 筋骨隆々にして頭髪は一本残らず剃りあげ、黒檀の様に黒く艶やかに光る肌に、厚ぼったい唇を持った王宮兵卒の大男が「輿がなければ王宮の廊下も一人で歩けない」末の姫君の輿の担い手に抜擢されたのは、今から三日前のことだった。

 ヤン・イルクバール。この南の島より遥か南の大陸から迫害を逃れて渡ってきた両親を成人前に亡くし、両親を看取ってくれた気のいい医療所の医師の元で、下働き兼助手として長い間働いていた。
 その医師も数ヶ月前に天寿を全うし、この島で言うところの『我らが始祖なる妖精の長』の元へと旅立っていったのだが、優しかったこの養い親はヤンに、王宮勤めの兵卒という、生涯勤め上げるに値する名誉ある仕事を残してくれていた。

 黄色や褐色、時には白色まで様々な肌の色の民が渾然と住まうミストル・ファトルだが、彼ほどに『漆黒の』肌を持つ者は少ない。背丈も大の大人より頭一つ分ほど高く、肩幅もまた大の大人より一人分は広い。黒い肌に良く似合う白い簡素な布のトーガをゆったりと纏い、支給された近衛兵の槍、この男が持つと子供のおもちゃに見えるその長槍を片手に、のっしのっしと廊下を歩く姿は、小さな島の小さな王宮でやたら人目を惹いた。

 突然やってきたこの巌の様な男に、王宮付き侍女や同僚達も最初は震えあがっていたが、この男は、見た目によらず実直で大らかであり、細々とした雑用も厭わず、その巨体を利用して、侍女では手の届かない王宮中の天窓やランプを隅々まで磨きあげてくれる。腹を壊したり、ミストル・ファトル名産のとても強い発泡酒を飲み過ぎて寝込んでいる同僚がいれば、近衛兵宿舎の小さな厨房にその大きな体を押し込めて、よく効く薬なども煎じてくれる。
 ヤンはいつの間にか、そういった『図体はでかいがよく気の利く男』になっていた。

 そんなある日のことだった。
 60年以上もこの王宮の兵卒や侍女達をまとめあげている侍従長に突如呼び出され、夕刻の食事もそこそこにやってきたヤンの前に、不思議な形の見慣れぬものが鎮座していた。
「これは?」
 侍従長が、白く長い髭を指先で整えながら大仰に背を反らして言う。
「ミストル・ファトル五の姫ライラ様のお輿である」
 島に自生する軽くて丈夫な木で作られていたそれは、人間一人がすっぽりと入る大きさの、鳥籠の様な形をした一人用の天蓋付きの輿だった。
「この、鳥籠のようなものがですか」
 台座には美しい彫刻が、天蓋の布には島でも珍しい金糸で刺繍が施されている。どうやら、島の統治者の輿を担ぐ、という仕事に突如抜擢されたらしい。
 何の前触れもない突然の名誉に驚くが、侍従長は背を反らしたまま言う。
「すなわち、おぬしのような男には過分な名誉である」
「勿論、心得ております。この広い肩がお役に立つでしょう」
「体を清めて準備せよ。これがおぬしの仕事じゃ。覚えておくように」
 侍従長が懐から取り出して渡して寄越した紙には、事細かに注意事項が綴られている。ヤンは首を傾げて呟いた。
「………今日のそれがしの仕事は、散歩でありますか。夜の庭で?」
「姫様は、長時間日の光に当たることが出来ぬお体でな」
 五人の姫君が治める島だが、末の姫に関してはあまり知られてはいない。身体が弱く寝込みがちで、公務にあまり携わることができない齢16歳の姫君。王宮勤めの自分でもその程度の知識しかなかった。日に当たると身体が弱ってしまうと言うが、ごく稀に極度に日差しに弱い肌や眼を持つ者がいる、という話を、養い親から教わった覚えがある。
「医療の心得があるものが付いていたほうが良いとのこと」
「かしこまりました」
「二日に一度は、姉姫達と夕餉を共に取られる。夕食の間にお運びするのもおぬしの仕事じゃ。……わしが付いてやりたいが、先日腰を痛めてのう」
 見ると、半分に折れた杖が部屋の隅に転がっている。どうやら歩いている最中に杖が折れたらしい。
「杖がご入用でしたら、それがしが用意致しますが」
「おぬしが?」
「診療所に居た時分によく村の長老方にお作り致しておりました」
 侍従長もまた、この巌の様な男が見た目によらず万事に器用だ、ということは聞いていた。
「うむ。ではそいつも頼むか……」


 『厳つい・黒い・顔が怖い』の三拍子揃った自分の様な人相の男に担ぎ上げられるのはさぞかし恐ろしいだろう。ヤンは宮殿の中庭にのっそりと立ち寄り、花を数本失敬した。そして、鳥籠のような形をした輿の席に飾り付ける。 
 診療所で生活していた頃、患者達の寝台の脇に花を飾っていたことをふと思い出した。村の皆は元気だろうか。自分が島の統治者の輿を担ぐことになったと知ったらきっと仰天することだろう。
 そんなことをつらつら考えながら、日の傾いた薄暗い沐浴場で少し海水の混じった井戸水を浴びる。用意されていた新しいトーガと、儀礼用のターバンを頭に巻きつけながら、ふと、赤と青が交じり合う夕刻過ぎの空を見上げると、暮れかけてもなお色鮮やかな南国特有の夕焼け色の中に、ぽつんと白く細い月が浮かんでいた。
 ライラ、という名は『夜』を意味するらしい。
 太陽ではなく月の光しか知らぬ姫君を、夜の闇のように真っ黒な肌の自分が、肩の上に戴くことになるのは、まことに不思議な巡り合わせだ。不調法な自分に勤まるだろうか。

 平伏して待機する自分の目に、ぎょっとするほど細く白い足首がちらりと見える。ふと、先程見上げた細い三日月を思い出した。
「この花は?」
「輿担ぎの者が摘んできてくれたのでしょう」
「素敵ね」
 三日月に声があったらこんな感じだろうか、細くそして美しい声が聞こえる。どうやら、お気に召して頂けたらしい。
「あなたがわたくしを運んでくださるの?」
「はい」
「名前を、聞いてもよろしいかしら」
 少し大人びた口調は、精一杯威厳を保とうとしているのだろう。まだ年端もゆかぬ末の姫君といえども、国の統治者の一人である。
「それがし、ヤンと申します。ヤン・イルクバール。この度畏れ多くも『輿担ぎ』を仰せつかった者です。輿にお乗りの間、何かお加減に差し障りなどあれば、いつでもそれがしに仰せ付けください」
「あなたに?」
「それがし、医術の心得がございます」
 小さな姫君が目を丸くする。丸い瞳が、紅玉のように紅い。紅い目などというものをはじめて見たが、姫君もまた自分の風貌に少々驚いているらしい。しかし、瞠目した瞳が、嬉しそうに緩む。
「…………医術の?これで、散歩なのに医師と輿担ぎの者達に囲まれずに済むのですね」
 真っ白く輝く髪と、この国の果実にも似た鮮やかな赤い瞳。文字通り『陶器のような』白い肌。色の白い同僚はいたが、こんなにも人並外れて白い肌は見たこともない。
「左様でございます姫様。相応しい人間を島中探して参りました」
 侍従長が答える。謎の抜擢はそういうことか、と得心がいった。相応しいと認められることに、悪い気はしない。
「少々、その、見た目は変わっておりますが……」
「信頼のおける人なのですね」
 自分の顔を見るなり泣き出す子供も多いというのに、この姫君はそうでもないらしい。それだけでも何となく心の臓が暖かくなった気がする。
「花を、ありがとう。とても良い香り。この花は、どこから?」
「中庭であります」
「いつもの場所ですね。そこに連れて行って貰いましょう」
 

 輿が置かれた台座の下に身を屈め、ゆっくりと肩の上に担ぎあげる。輿というのは通常二人で担ぐものだが、びっくりするほど軽い。輿を含めても片手で担げてしまう。奉公先で毎日担いでいた薪木の束よりも軽い気すらした。
「…………いつもより、高いのですね」
「怖くはありませんか」
「大丈夫です」
 揺らさぬよう、そろりと足を進める。
 美しく、涼しさを優先した王宮の奥部。等間隔で吊るされるランプの光が、廊下を彩る色鮮やかな壁画やタピスリーといった、様々な染料の採れるミストル・ファトルの象徴でもある品々を照らす。
 ヤンにとっては、今まで、昼間しか来たことのない場所だった。夜の灯りに照らされたこの廊下は、こんなにも美しい場所だったのか、と思わず瞠目していると、
「廊下のランプ、こんなにも綺麗だったなんて」
 輿の中から呟きが漏れ聴こえてくる。
「………ランプ?」
「………前の輿からは、天井がよく見えなかったのです。ランプのガラスが、水晶みたい。とても綺麗な模様だったのですね。鳥と、花が、刻まれていて」
 美しい廊下の美しい壁画やタピスリーは日常のものであっても、この姫君にとって、天井を近くで見つめるのは、初めての経験だったらしい。美しい文様がガラスに彫り込まれたランプを磨くのは、背の高い自分の仕事だった。思わず嬉しくなり、ヤンは口走ってしまう。
「おそれいります。いつも、それがしが磨いております」
 リストには『決してみだりに話しかけてはならない』とあったのに、こうも早く不手際をしでかすとは。そもそもが口数の多くない自分らしくもないことだ。しかし、
「喋ってくれる方が、来てくれるなんて」
 当の姫君は妙に嬉しそうな声を上げる。
「………姫様を疲れさせてはならぬ、と厳命されておりました。何卒、ご容赦を」
 ヤンが小声で囁くと、姫君も慌ててトーンを落とす。
「その、そうね、けれど、今日はとても調子がいいのです。もう少し、話を聞かせてくれますか」
「宜しいので?」
「わたくし、姉姫様や侍従長達以外と言葉を交わしたことが……あまり、ないのです」
 輿の上から小さな溜息が聞こえる。輿を肩に乗せたまま、庭へ降りる階段脇で足を止めてヤンは言った。
「ご命令とあらば、と申したいところですが、それがしは生憎不調法なもので、花の名前ひとつ知らぬときております。明日にでも庭師に尋ねておきましょう」
 庭への入口の横に植えられた木の、艷やかな緑色の大きな葉の間に潜む小さな白色の花が、ゆらめくランプの光を浴びて、白い肌の姫君に挨拶を投げかけるように揺れる。
「この木にも……花が咲くのですね。あなたみたいに背が高くないと、見えない」
 前に使われていた、数人で運ぶ貴人用の輿は、肩から吊り下げる形だった。
「背が高いって、羨ましい」
「足元の花を見落とすこともあります」
「遠くのものもよく見えそうですね。海に行ったことはありますか」
「何度かございます」
「島の外へは?」
「いいえ。両親の生まれは、この島の外でありますが」
「わたくし、この王宮からも出たことがないのです。島の外、海の向こう、一体どんなところなのかしら」
 巌のような大男だった寡黙な父と、優しく陽気だった母の両手首には、両者とも、かつて鎖で繋がれていた痕が残っていた。
「…………担いで行くには少々、遠い場所にございます」
 ゆらゆらと庭の篝火に照らされながら、二人はゆっくりと中庭へ降りていく。
「わたくし、この島のことも、姉様達に任せきり。まだこの庭の花の名前も知らないのに、遠くばかり夢見てしまうのは、おかしなことね………」
 そうひとりごちてから、少し遠慮がちに、姫君が問うた。
「…………この島は、好き?」
 ヤンが思わず微笑む。
「はい。それがしは、この島に感謝しております。このような穏やかで、自由な島で、それがしを産んでくれた両親にも」
「……自由って、羨ましいものね。島の皆が持ってるのに、私だけ持ってない気がしてしまうの。この肌だから、しょうがないのだけれど………」
 輿から再び手を伸ばし、庭に咲き乱れる鮮やかな色の花に手を伸ばす。白く細い手だけが、ヤンの視界の隅を泳ぐ。丸で、色鮮やかな珊瑚の海に潜む、白く小さな魚のようだ。
「………姉様達みたいに、もっと素敵な色の肌に生まれたかった。艶やかな飴色の」
 立場も事情も丸で大きく異なっているが、そう呟く姫君の気持は少しばかり理解できるような気がする。自分もまた、幾度もそんなことを考えていた幼い日のことをふと思い出した。
「自由って、何なのかしら」
 ヤンが足を止めて、しばらく黙考した後に、ゆっくりと答える。
「…………生まれた場所が違っていたら、それがしの両腕には今頃、枷が嵌められていたことでしょう。島の外の民の目には、枷も鎖もなく町を歩く黒い肌の男は、どうやら奇異にも恐怖にも映るようで………」
 奴婢として遥か遠い国で辛苦を重ねた若き日の父と母は、自由への憧れだけを胸に、丸太を数本繋げただけの粗末な船で海を渡り、広い海原を飢えながら漂った末、この妖精の島に奇跡的に辿り着いた。
 いつだったか、島の外からやってきた商人が、枷も鎖も付けずに診療所で働くヤンを見て腰を抜かさんばかりに驚いていたことをふと思い出す。同時に、姫君には聞かせられないような汚い罵り言葉を数多浴びたことも。
「………こうして、つつがなく輿を担うことができるのは、この両腕が自由である証。ゆえに自由というものは、今ここにあります」
「今、ここに?」
「それがしの肩の上に」
 庭の松明がゆらゆらと、黒い肌と、白い肌を照らす。篝火の中で薪が小さく弾ける音と、風が庭の花々を揺らす音が、波と砂浜のように混じり合う。再び足をゆるやかに進め、中庭の噴水の前までやってくる。
「でも、私、姉様達みたいに、何かが出来たりしないわ。自由に、太陽の元で歩くことも、出来ないのに」
 静かに膝を折って、輿の高さを下げ、ヤンは静かに言葉を探す。丸で、普段は使われてない鍵のかかった未知の部屋に、何か大事なものを探しに入っていく気分だ。
「…………それがしは月が好きです。黒い空でも、自由に形を変えて輝いておられる」
 ライラ姫が、噴水の水盆に映る月に、静かに手を伸ばす。
「月にとって、夜こそが、最も自由な時間なのでしょう」
 水盆の上で船の様にたゆたう細い月に、白い指が触れる。
「…………月って、いつも、空にある決められた道しか歩けないって思っていたわ。私と一緒ね。昼間はずっと眠ってて、夜も、決められた場所にしか行けないなんて。だから、あまり、好きじゃなかったの」

 この姫君を心の中で月に喩えていたのは不敬だったのだろうか。ライラ姫が輿から伸ばしている白い指先から、水が滴り落ちる。

「本当は、もっと自由だったのね」


 自分がもしも画家だったら、今この一瞬を描いていただろう。否、描いただろうか。いかなる美を知り尽くした者であっても、誰にも見せず、筆にも乗せず、己だけの絵皿の中に永遠に秘してしまう一瞬が、実はあるのではないか。
 絵筆を握ったこともなければ、輿の中の姫君が今どのような表情をしているのかも見えていないはずなのに、何故に自分はそのようなことを考えているのだろう。
 思わず何度も何度も瞬きをしていると、唐突に、ぱちん、と音がする。少し濡れた掌で、姫君が慌てて自分の頬を叩いた音らしい。丸で、止まっていた時間が動き出す合図のようだ。
「ああ、私、変ね。本当は、こんなに喋ることに慣れていないの」
 我に返って突然落ち着かなくなったのか、姫君がごそごそと座る位置を替える。輿がほんの僅かに揺れた。
「それがしも同様にてございます」
 自分もまた、何故か喋りすぎてしまった。不快な思いをさせてはいないだろうか。
「変なことばかり、喋ってるみたいで恥ずかしいわ。こんなにおしゃべりしたって知れたら、私達、怒られてしまうかしら。けれど………」
 ヤンは小さく息を吐く。そして判断した。これは不快ではない沈黙であり、喋ることに不慣れな姫君が、喋っていいのかを迷っているのだ、と。
「…………僭越ながら、姫様、ここは、夜の風に語りかけてみてはいかがでしょうか。真っ黒で身体が大きく不調法な兵卒ではなく、風に」
 頭に巻いているターバンが、姫君の足元に近い場所で、海からの潮混じりの風に微かな音をたてて舞う。
「風ならば、いくらでも、話を聞いてくれることでしょう」
 ライラ姫が笑う。
「そうね、風、すごくいいわ。夜の風って、何色なのかしら。あなたみたいに、静かで美しい、黒い色なのかしら」
 自分の持つ何かに関して「美しい」などという形容詞を使われたことがなかった男が、驚きのあまり、返事を返しそびれてしまう。
 再び、長い、長い沈黙。しかしそれは、自分の周りに咲く花々もまた、静かに姫君の言葉を待っているようだ。

「……夜の間も、花や月は輝いているのに……私、明るい太陽と、暖かい風に憧れてばかりいたわ。夜が、夜の風がこんなにも素敵だって、もっと早く知っていたら、きっと、寂しくはなかったのに…………」

 堰き止め続けた細い川から水が溢れるように、喋ることに慣れていない姫君が心の中に溜め込め続けていた言葉が、頭の上から、少しづつ滴り落ちてくる。

「………けれど、昼間、窓の外から聞こえてくる声が羨ましくて泣くことも、日除けの黒いカーテンを閉める度に、心に鍵をかけている気持ちになることも、炎が揺れるランプを見るたびに、本物の太陽の光が羨ましくなることも……きっと、これからはなくなる、そんな気がするわ………」

 肩の上に担いでいる姫君の顔を直接見ることは出来ないが、自分が今この瞬間に乗せているのは、姫君、ではなくひとりの少女、それどころか、既にどうしようもない孤独を知り、自由への憧れに身を焦がしていた、一人の女そのものなのではないだろうか。
 それはびっくりするほど不敬極まりない考えだ。
 しかし、この高貴な身分の少女の心の堰が、何かへの憧れに震える振動が、確かに、肩越しに伝わってくる気さえする。

「…………だから、ねえ、ヤン・イルクバール、もっと、もっと喋ってくださる?  私、色んなことを知りたいわ。この島のことも、夜のことも、それに、あなたのことも」

 黒檀の様な男の、黒檀のような眼が、珍しく揺れた。
 何故自分の肌がこんなにも黒いのか、父や母に問うた幼い日を思い出す。

『誇りなさい。お前の心の中にある自由への炎が、お前の肌を黒くしたのだから』

 この姫君もまた、その心に、既に自由への炎を持っている。
 肌の色こそ自分とは真逆で、あたかも陶器のように白いが、陶器というのもまた、炎の中から生まれるものだ。昼間の不躾な太陽が、決して壮健ではない細い身体をむやみに傷めつけることがあっても、このライラ姫は、胸の中に、決して消えない炎を常に抱えているらしい。
 羨望や嫉妬、孤独、希望の混じった、生々しく、初々しい自由の炎を。

 そして、ヤン・イルクバールは自由の仔である。

 誰よりも自由に、明るい日の元で生きるべく世に生まれ落ちた、夜の様に黒く、いかなる日差しにも焼けない肌を持つ男が、静かに頷いた。
「それでは、僭越ながら………少しづつ、お話致しましょう」
 努めよう。勤めるのではなく。昼間の日の元で磨いたランプに火を灯すのは、夜という時間なのだから。


 侍従長の控えている部屋に、輿を担いだヤンは定刻通りに戻る。
「わたくしのこの色が、こんなにも、素敵なものに思えたのは、はじめてです。ありがとう。ヤン・イルクバール。ヤン、と呼んでもいいかしら」
「もちろんであります、姫様」
「名前を付けて、呼んでくださる?」
 話している間は互いを見つめることが出来ない、輿担ぎの男と、輿からゆっくり降りてきた姫君の視線がゆるやかに交差する。
「…………ライラ様。畏れ多くも、佳き時間でありました」
 そして、付け加えた。
「明日からは廊下のランプを磨き上げるのに更なる精が出ることでしょう」
 あまり表情豊かではない巌のような男の口元に、ほんの微かに秘密めいた微笑みが浮かぶ。
「その心がけ、とても喜ばしいことです。良く励むように」
 その秘密めいた微笑みの意図を察し、『姫君』の顔でライラ姫が厳かに言った。


「…………ねえ侍従長」
 いつになく血色の良い頬に、きらきらと潤むように輝く瞳で、この姫君が聞いた。
「今日こちらに来られたあの方は、もちろん、明日も来てくれるのですか?」
 「姫様、お顔が真っ赤ですが、散歩でご無理なさって熱でも出されたのですかな。まったく、輿担ぎの者を明日からは別の者に変えねば………」
「いいえなりません!」
 いつになく素早く、そして強い調子で姫君は侍従長を遮った。
「は、はあ」
 目を丸くする侍従長に、姫君は更に問いかける。
「姉姫様達の誰でもいいけれど、あの、傘など持ってないか、確認してくださらない?」
「傘?」
「海の向こうの遠い東の国では、雨季でもないのに傘を差すそうよ。紙で出来た傘を」
 丸くした目を、今度は白黒させながら、侍従長は返事を返す。
「はあ、聞いたことがありますが……日傘でしたら、姉君のアーリーン様でしたらお持ちでしょうが……」
「お借りしてきてくださる? それと、これが一番、その、大事なことだけど……」
 姫君があたかも、国家機密を囁くように重大な顔つきになって、彼女が生まれた時からずっと侍従長だったこの老人を招き寄せる。そして、耳元に真っ赤な唇を寄せると、こう聞いた。
「……あの方は、奥様などいらっしゃるのかしら?」
「あ、あの方と申しますと……まさか、あの」
「あの、素敵な方です。輿担ぎのヤンです。ヤン・イルクバール」
 何故それを突然聞くのか真意を測りかね、老侍従長はもう一度、紅潮した頬に夢見るような瞳、そして一輪の花を愛おしそうに指先で撫でる姫君の顔を、不敬も忘れて穴があくほど眺める。そして、
「い、い、いやいやあの、その、まさか、ちょっとお待ちになってくだされ姫様」
 頭の天辺から出たような奇妙な声を出して、その場で思わず膝からくず折れた。心の臓に病などあったら今この場で驚愕のあまりひっくり返って『我らが始祖なる妖精の長』の元へお呼ばれされていたかもしれない。
「あの男は、その、黒くて」
「わたくしの肌だって白いですわ」
 侍従長が言葉に詰まる。そんな侍従長の皺の刻まれた顔に、そっと人差し指を近づけて、ライラ姫は囁いた。

「内緒よ」

 この姫君はこんなにも、表情豊かなお方だっただろうか。地面に膝をついたまま、侍従長は思わず自分の長い髭を撫でる。ふと、90年以上の天寿を全うし、先に『妖精の長の元』へ召された妻の顔が頭を過ぎっていく。
 若かりし頃は島中の男達が皆振り返る程に美しく、老いてなお元気で、島で一番口うるさく、そして誰よりも長生きな年上女房だった我が妻は、その美と健康の秘密について、何と言っていただろうか。

「かしこまりました。姫様」

 髭を撫でていた手を止めて、老侍従長が大きく息を吐き出し、首を振り振り片目を閉じて言った。

「…………この侍従長、もはや男の抜け殻のような歳ではありますが、女の秘密を守る力は残っております」

 そんな侍従長の皺だらけの頬に嬉しそうにキスをして、ライラ姫は微笑む。
 はにかみ屋でおとなしい姫君がこうして信頼の情を示してくれるのは何年ぶりだろうか。あの男は一体如何なる魔法を使ったのだろう。後でゆっくり仔細問いたださねばならない。

「ですが姫様、今宵はお休みになられる時刻ですぞ」
「そうね。太陽が昇るのが、こんなに楽しみになる日がくるなんて」
 朝になると萎れてしまう夜行性の花のような姫君の口から、この様な言葉が出たのは初めてである。
「まことに、喜ばしいことですな」
 喜びと不安の入り交じる表情を押し隠して、侍従長は言う。そして、ふと、部屋の入口脇に立てかけてある、明日には新調予定の杖に視線を投げた。

 あの巌のような男はおそらくは実直な男だ。今あせることはあるまい。

 何よりもこの姫君が日々壮健であらせられることこそが、侍従長たる自分の使命である。そして、良き良人たるもの、亡き妻のアドバイスにも真摯に耳を傾ける必要がある。
 いつになく軽やかな足取りで寝台へ向かうライラ姫の背中を見つめて、侍従長は胸に手を当てると、再び、大きく息を吐いた。


 宿舎に帰ると、夜も遅いというのに、同僚や隣の宿舎にいるはずの侍女達がわらわらと駆け寄ってきた。誰かが夕食を用意してくれていたらしく、いつもよりちょっぴり豪勢な皿が並んでいる。
「お前が大事な仕事に抜擢されたお祝いだよ」
「厨房から食材をおすそ分けしてもらったのよ」
 飴色や黄色、茶色、そして白っぽい肌の同僚もいるが、あの姫君の「白い肌」とは何かが異なっていた。
 混じりけのない純粋なあの白い色。色鮮やかなこの島では唯一無二の色なのかもしれない。
「それで、姫様はどんなお方だった?」
「はい。姫様は、羽のように軽くて、月のように白い、小さい姫様でありました」
 同僚にも敬語を欠かさないヤンが、真顔で答える。
「何か、喋ったのか?」
「噂では口を聞くこともできないとか」
「恐ろしい真っ赤に燃える目をしているとか……」
 ミストル・ファトルを治めている五人の姫君の中で、公の場に出たことがなく、城の中でも自室からあまり出られない、出たとしても輿の中にいる末の姫君は、島の住民や王宮関係者の間でも色々な噂になっていたらしい。
 姉姫達や日の光に憧れる歳若い姫君。見たこともない色の白く輝く髪や、赤く美しい瞳。そして、明日は庭師に会って中庭の木や花の種類を聞いてこねばならないこと、それらを、ぽつりぽつりとヤンは同僚達に語っていく。
「お前さんにしては、よく喋るなあ」
「素敵なお姫様なのね」
 一番『素敵な』ところは口に出してもいないのに、いつの間にやら皆にも伝わってしまったらしい。ヤンが微かに笑い、言った。
「心優しく、佳いお方です。それに、それがしの顔を見ても怖がりませんでしたな」
 同僚達が愉快に笑う。その陽気なさざめきと共に、いつの間にやら持ち込まれた発泡酒や魚の乾物が飛び交い出す。どうやらこれは朝まで続きそうだ。また朝一番でいつもの二日酔いに効く薬を煎じる必要が出てくるだろう。

 全く、なんと慌ただしく、そして佳い日々だろう。

 おおらかで陽気なミストル・ファトル。愛すべき島と民。花は香り、月は美しい。昼は太陽の光が降り注ぎ、夜は穏やかな風が吹く。こうして過ごす日々はなんと楽しく、美しいものなのか。この何の変哲のない平和な、それでいて色鮮やかで賑やかな日々に、今までになかった『白い色』が加わった途端、この世が更に彩りを増して見えてくる。
 開けっ放しの宿舎の窓から、ヤンは、随分と地平線近くへ降りてきた月に視線を投げる。姫君も今頃は静かにお休みになられている頃合いだろうか。
 真っ白な指先から滴りおちた一粒の煌きを思い出し、ヤンは賑やかな部屋の中で静かに目を閉じた。


 そして翌日、
「よいか姫様は婚儀も済ませておらぬ身じゃ。指一本でも触れてみよ、わしがこの杖が折れるまでその背中を叩きのめしてくれるぞ」
 握り心地が良く、長さも軽さも申し分ない、良い香りの木から切り出されて丁寧に削りこまれた杖を手に、背中を反らせながら侍従長が厳しい顔で言う。ヤンが巨体を揺らして微かに微笑んだ。
「おそれいります」
 彼の胸元には既に、庭師から預かった中庭の花や木々の名前を記した紙束が収まっていた。早速役立ってくれることだろう。自分同様、突如として姫君の目に止まる名誉に浴した例のランプも、昼間の間に念入りに磨いておいた。
 そこに、侍女や従者達が廊下を駆けてくる。
「こらお前達、仕事はどうした」
 侍従長が目を剥くが、彼らはそれを意に介す様子もなく、それぞれ、手にしていた袋をヤンの胸に押し付けた。
「港の市で買ったんだ。可愛い人形だろう?」
「こちらは旅行記です。いつか行きたいと思ってたんだけど、姫様に……」
「うちのおじいちゃんが島の外に行った時に作った押し花の栞なんだけど、姫様、喜んでくださるかしら……」
 各自それぞれの袋の中に、それぞれ細々とした雑貨やら本やらが詰め込まれている。思わず笑いを零しながら、この大男が問いかけた。
「侍従長殿。姫様にこれをお渡ししてもよろしいですかな」
「………こっそりとな」

 そして日没後、輿の中にこっそり詰め込まれた数々の珍しい小物を、嬉しそうに一つ一つ手にとりながら、喜びで少し潤んだ目を輝かせつつ、ライラ姫は輿の脇に静かに控えるヤンに言った。
「皆様に、よしなに伝えてくださる?」
「かしこまりました」
「お礼をしたいわ。ああ、姉様達みたいに、好きなときに外に出られたらいいのに」
 そして、少し寂しそうに微笑む。
「………今夜は寝台で、傘を差して寝るの。そうすればきっと、傘を差して外を歩く夢を見られるわ。小さな子供みたいね。おかしいけれど」
「いいえ。夢を見ることを止められる人などおりますまい」
 ふと、自分の夢とはなんだろうか、と考える。
「…………ライラ様、明日は、傘を差して輿に乗られてはいかがですかな」
「いいの?」
「良い夢が見られることでしょう」
「素敵ね!私の夢の中に、あなたの輿に乗っていけるなんて」
 ヤンが目を丸くする。そして、笑いを零す。
「………夢の中のそれがしに、それがしから、何卒宜しく伝えてくださりますよう。きちんと励むようにと」
 夢の中の自分達はもしかすると、明るい中庭を二人で散策しているのかもしれない。少しばかり羨ましくもある。
 か細く、白い、『我が姫』。唯一無二の赤い瞳には、炎が宿っている。蜉蝣のような見た目、夢見がちで心優しい立ち振る舞いからは推し量れない、自由闊達で情熱的な炎。
 しかしそれは、ここにいる自分以外はまだ知らぬことだ。そう、この姫君の本当の美しさは、もう少しだけ、夜の庭を共に歩く名誉に浴した自分のみが知る特権でありますように、と、身の程をわきまえない『夢のような』考えが、ほんの僅か一瞬、頭の片隅をちらりとよぎっていく。
「さあ、中庭に連れて行って」
 どんな日差しにも焼けないはずの漆黒の肌が、少し焼ける様な音がする。自分にしか聞こえない音だ。この、少しばかりの痛みと同時に感じる、得も言われぬ心地よさには、なんという名前があるのだろうか。
「かしこまりました。今宵は雲もなく、月がよく輝いております」
 ヤン・イルクバール、謹厳実直な輿担ぎの男は、その答えを自分の胸の中にのみ、そっと留めておくことにした。
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