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第二話「戸口に現れたもの: 坂口文子の場合」
Ⅸ
しおりを挟む耳の奥で何かが崩れる音がした。
文子の周りを覆っていたものが音を立てて崩れ落ちていた。
有機的な繭は砕け、黒い粉塵がゆっくりと舞い上がった。
黒い鎧の男が背を向け、崩れた壁の向こうへ歩き出そうとしていた。
「……待って!」
文子の声が震えた。
男の足が止まる。仮面に覆われた顔がゆっくりと振り返った。
文子は息を整え、言葉を絞り出す。
「あれは……どうなったの? 真琴は……彼女はどこにいるの?」
低い声が返ってきた。
「奴は元の世界へ送還された。次ここに来られるとしても…早くて600年後だろう」
夜風が一瞬だけ止まったように感じた。
「体は消滅し、器の魂は……とうに向こうの世界に旅立っている」
文子の胸に重いものが落ちた。
口が勝手に動き、ぽつりと声が漏れる。
「…助けてくれてありがとう。でも、結局……彼女を助けることはできなかった」
言いながら、胸の奥に刺さったままの棘がずきりと痛んだ。
「救えなかった……私も助かってよかったのかさえ、わからない」
足元に砕けたガラスが散らばり、街の灯りが反射して小さな光を返す。
その光が涙に滲み、視界が歪んだ。
黒い鎧の男が近づいた。無言のまま、分厚い手が文子の額にそっと触れた。
瞬間、世界が反転した。
***
視界いっぱいに広がったのは、夜の草原だった。
都会の光ではない。
星々が頭上を埋め尽くし、青白い月明かりが丘の稜線をなぞっている。
草原は風にそよぎ、夜露を含んだ葉が月光を受けて静かに揺れた。
空気は澄み、冷たさの中に甘い土の匂いが混ざっている。
ここは現実ではない…そう直感できるほど、すべてが美しかった。
その丘の上に、一人の女性が立っていた。
真琴だった。
白いワンピースの裾が風に揺れ、髪が月明かりを受けて淡く光る。
彼女は空を見上げていた。
その横顔には恐怖も絶望もなく、ただ穏やかさと満ち足りた幸福の色があった。
文子は声を出そうとしたが、喉が震えただけで音にならなかった。
足が勝手に前へ出る。彼女の肩に触れたくて、声をかけたくて。
だが真琴は振り向かなかった。
代わりに、星空の下で微笑んだ。
その笑みには言葉がなかったが、確かに伝わってきた。
私は大丈夫。
胸の奥に直接響く声のようだった。
文子の目が熱くなる。呼吸が浅くなり、視界の星が滲んだ。
手を伸ばしたが、指先は彼女に届かない。
まるで遠い記憶をなぞるように、真琴の姿は夜風の中で淡く揺れていた。
次の瞬間、景色が音もなくひび割れ、現実が戻ってきた。
目の前に立つ黒い鎧の男が、淡々と告げる。
「彼女は大丈夫だ」
その声には冷たさも優しさもなく、ただ事実だけがあった。
だが文子にはそれで十分だった。
胸の奥が一気に熱くなり、堰を切ったように涙が溢れた。
子どものように、嗚咽をこらえず泣いた。
頬を伝う涙は熱く、重く、心に積もったものを一緒に押し流していった。
あの夜、捜査官の前で流した涙とは違った。
あのときの涙は恐怖と不安の中で零れた冷たい雫だった。
だが今は違う。
胸の奥を長い間塞いでいた氷が解け、温かい水になって流れ出していくようだった。
文子はただ泣いた。
自分でも理由がわからないまま、肩を震わせ、声を詰まらせ、涙が落ちる音を聞いていた。
黒い鎧の男は何も言わなかった。
彼の存在が夢か現実かさえ定かではない。
だがその沈黙が、文子にとっては言葉よりも深い意味を持っていた。
夜風が部屋を抜け、カーテンが静かに揺れた。
都市の灯りが遠くで瞬き、砕けたガラスに反射して小さな星のように光る。
文子の涙は止まらなかった。
だがその涙は、もう恐怖や絶望の色をしていなかった。
ただ静かに、温かく流れ続けた。
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