虚声断ちのルグダン

深海 紘

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第二話「戸口に現れたもの: 坂口文子の場合」

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 耳の奥で何かが崩れる音がした。

 文子の周りを覆っていたものが音を立てて崩れ落ちていた。
 有機的な繭は砕け、黒い粉塵がゆっくりと舞い上がった。

 黒い鎧の男が背を向け、崩れた壁の向こうへ歩き出そうとしていた。


「……待って!」


 文子の声が震えた。

 男の足が止まる。仮面に覆われた顔がゆっくりと振り返った。

 文子は息を整え、言葉を絞り出す。


「あれは……どうなったの? 真琴は……彼女はどこにいるの?」


 低い声が返ってきた。


「奴は元の世界へ送還された。次ここに来られるとしても…早くて600年後だろう」


 夜風が一瞬だけ止まったように感じた。


「体は消滅し、器の魂は……とうに向こうの世界に旅立っている」


 文子の胸に重いものが落ちた。
 口が勝手に動き、ぽつりと声が漏れる。


「…助けてくれてありがとう。でも、結局……彼女を助けることはできなかった」


 言いながら、胸の奥に刺さったままの棘がずきりと痛んだ。


「救えなかった……私も助かってよかったのかさえ、わからない」


 足元に砕けたガラスが散らばり、街の灯りが反射して小さな光を返す。
 その光が涙に滲み、視界が歪んだ。

 黒い鎧の男が近づいた。無言のまま、分厚い手が文子の額にそっと触れた。

 瞬間、世界が反転した。



 ***



 視界いっぱいに広がったのは、夜の草原だった。

 都会の光ではない。
 星々が頭上を埋め尽くし、青白い月明かりが丘の稜線をなぞっている。
 草原は風にそよぎ、夜露を含んだ葉が月光を受けて静かに揺れた。

 空気は澄み、冷たさの中に甘い土の匂いが混ざっている。
 ここは現実ではない…そう直感できるほど、すべてが美しかった。


 その丘の上に、一人の女性が立っていた。



 真琴だった。



 白いワンピースの裾が風に揺れ、髪が月明かりを受けて淡く光る。
 彼女は空を見上げていた。

 その横顔には恐怖も絶望もなく、ただ穏やかさと満ち足りた幸福の色があった。

 文子は声を出そうとしたが、喉が震えただけで音にならなかった。
 足が勝手に前へ出る。彼女の肩に触れたくて、声をかけたくて。


 だが真琴は振り向かなかった。


 代わりに、星空の下で微笑んだ。
 その笑みには言葉がなかったが、確かに伝わってきた。


 私は大丈夫。


 胸の奥に直接響く声のようだった。

 文子の目が熱くなる。呼吸が浅くなり、視界の星が滲んだ。
 手を伸ばしたが、指先は彼女に届かない。
 まるで遠い記憶をなぞるように、真琴の姿は夜風の中で淡く揺れていた。


 次の瞬間、景色が音もなくひび割れ、現実が戻ってきた。

 目の前に立つ黒い鎧の男が、淡々と告げる。


「彼女は大丈夫だ」


 その声には冷たさも優しさもなく、ただ事実だけがあった。
 だが文子にはそれで十分だった。

 胸の奥が一気に熱くなり、堰を切ったように涙が溢れた。

 子どものように、嗚咽をこらえず泣いた。
 頬を伝う涙は熱く、重く、心に積もったものを一緒に押し流していった。


 あの夜、捜査官の前で流した涙とは違った。


 あのときの涙は恐怖と不安の中で零れた冷たい雫だった。
 だが今は違う。

 胸の奥を長い間塞いでいた氷が解け、温かい水になって流れ出していくようだった。

 文子はただ泣いた。
 自分でも理由がわからないまま、肩を震わせ、声を詰まらせ、涙が落ちる音を聞いていた。


 黒い鎧の男は何も言わなかった。


 彼の存在が夢か現実かさえ定かではない。
 だがその沈黙が、文子にとっては言葉よりも深い意味を持っていた。

 夜風が部屋を抜け、カーテンが静かに揺れた。

 都市の灯りが遠くで瞬き、砕けたガラスに反射して小さな星のように光る。

 文子の涙は止まらなかった。
 だがその涙は、もう恐怖や絶望の色をしていなかった。


 ただ静かに、温かく流れ続けた。
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