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第3部 欺いた青春篇

第3章 夏の特別合宿【4】

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「岡崎君、意味が分からないわ」

 本当に唐突に言われたので、俺は動かしていたシャープペンシルの動きを、思わずストップさせてしまった。

 天地家リビングにて、本日より始まった夏の課題を消化するための合宿。

 なので俺と天地は、小さな卓袱台ちゃぶだいを挟むようにして座り、早速その合宿の根幹である課題に取り組んでいたのであったが……。

「な……なんだよ急に……意味が分からないって」

「合宿はまだ始まったばかりだというのに、さっきから、ただでさえ粗悪な働きしかできない岡崎君が、課題の進むペースが疎かになってるのはどういうことかしら?」

「粗悪って……これでも全力でやってるんだぜ?」

 といっても、先程まであまり人としては関わりたくない分類に入るだろうオッサンと長話をしていたもので、その話し疲れというか、聞き疲れで、俺の体力は著しく消耗していた。

 だからイマイチ、ペンが乗らない。作家でもないのに、ペンが上手く乗らないのだ、課題に。

「そうやってペンが乗らない、構想が思いつかないとかいって逃げてる人間は、一生作品なんて書けやしないのよ。だから岡崎君も、そんな言い訳をしてる内は課題なんて終わりもしないわよ」

「ぐぬぬ……」

 言い返せない、ただの言い訳にしかなってないというのは、つまるところ、俺が一番分かっていたからだ。

 明日やろう明日やろうで、本当に出来るやつなんていないわけだ。

 やるならその時、その瞬間に始めなければ、それはもう後の祭りなのだから。

「でもよぉ……なんで初っ端から俺の苦手な数学から始めようとするんだよ……出鼻を挫かれちまうんだよなぁ」

 そう、最初に天地が選んだ課題は数学だった。よりにもよって、どの教科の中で、俺が最も苦手とする数学だったのだ。

 公式とかを覚えれば一発で解けるとか言われているこの数字の羅列だが、俺からするとその公式を覚えるのが困難であり、実数やら複素数やら……挙句の果てに文章問題なんて、あれは数学じゃなく、国語の問題じゃないか!

 こんなのだったら、もっと俺の興味の持てる、歴史の偉人の名前やらを頭の中で暗記する方がよっぽどマシだ。

「数学を最初に持ってきたのは、あなたが苦手だということを知っていたから、最初にしたのよ岡崎君」

 そう言いながら天地はペンを走らせる。ちなみに俺の十ページほど先の問題を解いているようだった。

「もし苦手な教科を最後なんかに持って行ったら、それこそ岡崎君が早々に白旗を挙げて、『課題なんて終わらなかったや!』なんて開き直りをしないとも限らないからね」

「うっ……」

 なんとなく、俺もそんな気がする。図星。

「だから岡崎君の得意な社会科は最後にとっているわ。勿論スケジュールを勝手には変更させないわよ。ここはわたしの王国だから、ルールを決めるのはわたしだから」

「圧倒的暴君じゃねえか……」

「逆らったら、三十万スコヴィルの辛味があなたを襲うわよ」

「ハバネロだろそれはっ!」

 ユカタン半島を主な産地とする、ナス目ナス科トウガラシ属の植物である。

 ちょっと前までは、トウガラシの帝王であると日本で言われていたものだが、実はもっと辛いものは存在し、いま世界で最も辛いトウガラシはキャロライナ・リーパーというものらしい。

 まあ、ちょっとした雑学である。

「このまま岡崎君が数学の問題を解かなければ、わたしはそのキャロライナ・リーパーを今日の岡崎君の夕飯に投入することになるわね」

「えっ!持ってるのか世界一辛いトウガラシを!」

「嘘よ、さすがにそんな後処理に困るようなものは持ち合わせていないわ」

「そうか」

「ハバネロならあるけどね」

「そっちはあるのかよっ!」

 今日の夕飯、オレンジ色のパプリカのようなものが入っていたら、それは要注意だな。

 いや……ただ俺が、真面目に課題に取り組めばいいだけの話なんだけど。

「それで岡崎君、あなたは何でそんなに疲れた顔をしているのかしら?」

 天地は俺の方には一切目もくれず、課題にペンを走らせながら問う。

 数学の問題を解きながら話せるとは、器用なもんだなコイツは。

「いや……まあ……なんというか」

 週刊誌記者のオッサンと話していて疲れた、なんて言っても、天地には意味が分からないだろうし、はてさて、ここは何と答えるのが正解なのだろうか。

「もしかして、遠足前の子供のように、合宿のことが楽しみでウキウキワクワク、心が弾んでまともに寝れなかったとか?」

「うう~ん……」

「それとも不整脈で眠れなかったとか?」

「それはもはや、患ってるだろ」

「恋の病気を?」

「………………」

 赤面した…………俺が。

 返す返す言葉も無いほどに、俺には必殺のワードだった。

 そして言った当の本人は恥じることも無く、いつもの澄まし顔で課題に取り組んでいる。

 お前のその強心臓なところ、本当に見習いたいよ……マジで。

「それで岡崎君、本当のところはどうなの?もしかして本当に病気なら、今すぐ家に帰ってもいいけれど」

「おっ、優しいじゃん」

「うつされでもしたら、折角の夏休みの数日を棒に振るうことになりかねないからね」

「さいですか……」

 もうちょっとさぁ……看病してくれるとかさ、そんな気の利いたような、恋人がやりそうな会話ってのがあるだろうに……いや、ことコイツにおいて、そんなことを期待した俺が悪かったか。

 反省。

「別に病にかかってるとか、そんなんじゃなくて、単純に疲れてるだけだよ。その……弟と家に出る時に、ちょっと口論になってさ」

「ふうん、そうなの。所謂、兄弟喧嘩ってやつね」

「まあ、そうだな」

 確かにそれが原因でここまで疲れたわけじゃないが、しかし弟と口論になりかけたっていうのは事実だし、そういうことにしておこう。

「そう、兄弟喧嘩ねぇ……わたしには兄弟なんていないから、それがどのようなキッカケで、どんな風に起こるかなんて、多分一生理解できないのでしょうね」

「別に理解するようなもんじゃない。本当に些細な、後から考えればどうでもよかったことでいがみ合うのがしょっちゅうさ」

「ふうん、そんなものなのね」

「そっ、そんなもの」

「でも、どうでもいい事で互いに怒りをぶつけ合えるのって、それって心を許した者同士でしかできないことだから、やっぱりわたしからしたら羨ましいわ」

 そういえば、天地は感情というもの、特に怒りというものに、何か特別な思いのようなものを持っていたのだった。

 最近は以前のように固執しなくなってきていたのだが、やはり未だに思うところはあるのだろう。

 たった三ヶ月で、こいつの孤独の四年間の埋め合わせをするというのは、いくらなんでも難しい。それだけ天地が抱いている闇は深いということだ。
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