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第3部 欺いた青春篇

 第4章 反逆の時【5】

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「……神坂さん、最後に訊くわよ。あなたは育ての親に、今なら家を出たくないと抵抗できるかしら?それとも未だ、無抵抗のまま言いなりになるのかしら?」

 天地は問う、神坂さんに。

 鬼気迫るかのように、究極の選択を迫るかのように。

 神坂さんは迷っている。今までに無かった苦悶の表情。

 人は変われと言われて、すぐに変われなどしない。人間の根底を覆すには、多大なる時間を使い、ゆっくりと変えていくしかない。

 しかし天地はそれを、今すぐに、この時にやれと言っているのだ。そんな選択肢を迫られて、まず困惑しない人間はいないだろう。

 しかし今じゃないとならないのは、確かなのだ。

 今だったらまだ、家に戻ることが出来る。今だったらまだ、抗うことが出来る。

 今だったらまだ、親子の縁を切らずに済む。

 一度失敗した天地だからこそ、察知出来た感覚。待つことの、時間をかけるということへの不毛。

 母親が亡くなった後、父親がまるで何かに憑りつかれたかのように、狂ってしまったかのように働きだし、次第に疎遠になっていった天地。

 しかしその時天地は待った。父親が自分の元へと帰って来ることを待ったのだ。

 しかしその我慢は実を結ぶことなく、水の流れが時間を掛けて岸辺を侵食していくように、天地と父親との距離は近づくどころか、どんどんと遠くなっていってしまった。

 天地にとって、今の神坂さんの状況は、自分の二の舞を見ているかのような、そんな光景だったのだ。

 だから、決して妥協しない、優しくなど、親切になどしない。

 自分と同じ悲劇を、友人に味わってなど欲しくないから。

「あ……あたしは……」

 震え、次第に神坂さんの目元には涙が溜まっていく。

 それほどまでに彼女は多分、自分を追いつめているのだろう。過去の自分と、葛藤しているのだろう。

 時に最悪の結末、破滅の未来から逃れるためには、今にまとわりついている過去と決別しなければならない。

 従順だった過去の自分を、妥協だらけだった過去の自分を清算しなければならない。

 その自らの心の中で行われる革命戦争は勢いを増し、心中だけに留まらず、感情として現れ、やがてそれは体表に震えや涙になって形となり、そして……。

「あたしは……戻りたいっ!自分の……ひっぐ……家に戻りたいっっ!!」

 言葉となって、自分の意思を決定づけた。

「そう、それが今のあなたの考えということでいいのね?」

「うぐっ……はい……」

「……よくやったわ、よく、自分を変えてくれたわ」

 すると天地は、神坂さんの前でしゃがみ込み、そして優しく、温かく、彼女の頭を撫でてあげていた。

 あんな天地の優しく、穏やかな顔を見たのは俺も初めてだったかもしれない。

 聖母のような、全てを丸く包み込み、許してくれるような、そんな温かみすら、見ている俺には感じたのだ。

 いつもは澄ました顔ばかりしている天地だが……こんな顔をすることができたのか。

「さて……じゃあ、そのために打破しなければならない問題が二つばかりあるわね」

 しばらく神坂さんの頭を撫でた天地は、手を離すと同時に、いつもの何食わぬ表情へと戻り、これからの行動、神坂さんを救う手立てについて話し始めた。

「まず一つが、神坂さん自身が両親に、自分の気持ちを伝えること……それはもう大丈夫よね?」

「……はい!」

 さっきまでの絶望の色はその表情から消え、そこには希望を掴もうとする光があった。

 いつもの、天使のような表情が神坂さんに戻ったのだ。

「そしてもう一つが……鷺崎をこの街から完全に追い出すこと。やつがいなくなれば、神坂さんの父親の心配の種は、ひとまず尽きる」

 そう、神坂さんの家庭の不和の発端であり、元凶である鷺崎反流。

 この男を駆逐しない限り、神坂さん自身、そして父親もあるいは母親も、その周囲をいつまでも嗅ぎ回られることになってしまう。

 その嗅ぎ回られるプレッシャーが、時に疑心を生み、それが崩壊へと繋がっていく。実際、神坂さんの父親はその疑心で、神坂さんをしばらく家から遠ざけるということをしてのけたのだから。

「それに……わたし自身、あの男にはこの街から早々に消え去って欲しいから……」

 私怨といってしまえば、そうなのだろう。天地にとっても、鷺崎という男がこの街に残るのは避けたいというような感じだった。 

 そこにどれほどの憎悪があるのか、コイツの過去を知らない俺には分からないが、しかしひしひしと言葉から感じるものはある。理性的に嫌っているのではなく、天地は鷺崎を生理的に嫌っているのだ。 

 これほどまでに嫌われる鷺崎との過去とは一体……しかし今の俺には、知る由も無かった。

「鷺崎についてはそうね……わたしと、それから岡崎君、あなたも着いて来てくれるかしら?」

「ああ、俺は一向に構わない」

「そう、じゃあ決まりね。それじゃあ神坂さんは、今すぐ家に戻りなさい。時が経つにつれて、あなたの方の修復は困難になってしまうから」

「分かりました……その、天地さん本当にありがとうございます!」

 神坂さんはその小さな頭を天地に下げた。

「ふふっ……でも、礼を言われるのは全てが片付いてからよ、さあ行きなさい」

「……はい!」

 天地に言われ、神坂さんは返事をすると、早々にリビングを出て行き、目で確認はしなかったが、玄関から家の扉を開閉する音が聞こえたので、天地の家を出たのは耳で確かめることができた。 

「……岡崎君、わたしから絶対に離れないでね」

「えっ……!」

 神坂さんがこの場から居なくなってから、天地は俺に呟いた。

「鷺崎と対峙するとは言ったものの、やはりわたしもあの男と接触するのは……怖いの。あいつはわたしの弱みも握っている……だから」

「……分かった、離れない」

「ありがとう……」

 一体それがどのような弱みなのか、そもそも天地と鷺崎の間にはどのような関係が成り立っているのか、ここまで臭わされたら誰だって気になるものだ。

 しかし訊いたところで答えてはくれないだろうし、それは多分禁忌の記憶。人には語れないような、黒い歴史。

 そんな人の傷口を開くような、言ってしまえば弱みを詮索するような真似は、俺にはできない。ましてや天地相手に、大切に思っている人間相手にできるはずもない。

 引くところは引く。良好な関係とはなにも、互いのことを何でも知っているから成り立つものではないと、俺は思っているからな。

「しかし天地、鷺崎と接触するにしても、俺達はあいつの動向を掴めていない。お前はあいつがどこに向かうのか、当てはあるのか?」

「ええ……一つだけあるわ。あの男が、一つの仕事を終えたら必ず向かう場所。総仕上げのために向かう場所があるわ」

「総仕上げのために向かう場所か……」

「その習慣が今でも続いていたら……だけど。確率は五分五分ね」

「そうか……まあ、五分あれば十分だな」

「五分なのに十分だなんて、確率を水増ししないでちょうだい」

「いや……そういう意味で言ったんじゃないんだけどなぁ……」

 神坂さんにはあれだけ穏やかな表情をしてみせたというのに、俺には荒く手厳しい対応してくるよな本当に。

 容赦がない。

「それじゃあ行くわよ岡崎君、元凶を、大魔王を倒しに」

「ああ……」

 あのだらしない男が征服した世界なんざ、どうせたかがしれているのだろうが、しかしそんな世界でも救ってやるのが勇者ってもんだ。

 やってやろうじゃねえか……今こそ勇者が、大魔王に反旗を翻す時。

 起死回生の、反逆の時だ!
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