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第2章 静かな死体と口うるさい相棒
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◆4
幾松は午後七時半に「帝国鋲螺商会」のシャッターを下ろした。
本業としてはいつもどおりの暇な一日だった。
しかし、講の世話人としての一日はまだ終わらない。
近所のラーメン屋でニラレバ炒め定食という、これも普段とあまり変わらない夕食をとると、また店に戻ってきた。
下ろしたシャッターの内側で、難解な哲学書の文字面を追いながら、世話人仲間である丁子屋を待った。
ただでさえ消化しづらいドイツ観念論は、まるで頭に入ってこない。
書物そのものに拒まれている。
硬いチーズをガリガリ齧っているうちに唾液ばかりが口からあふれ出してくるみたいだった。
約束の時間は日付が変わってからで、時間は腐るほどあった。
そして、いっこうに減らない。
いつ時計を見ても、やっぱり時間は腐るくらい残っていた。
睡れるものならそうしたかったが、目を閉じてみても意識は醒めたままだった。
自分で思うよりもずっと神経は昂ぶっているらしい。
机の引出しを開ける。
免許証の写真と目が合った。
その矢野は照れ笑いをこらえているようにも見えた。
死人にからかわれているような気がして苛立たしかった。
死体矢野は後頭部に小さな傷があった。
もう血はかたまっていた。
ちょっと見ただけでは長い髪に隠れてわからなかった。
傷の回りは触ってみるとだいぶ膨らんでぶよぶよしていた。
頭蓋骨が割れているような感じだった。
それが死因なのかどうか。
専門家でない幾松には判断のしようもなかった。
しかし、バックヤードで転んでできた傷ではなさそうだった。
鈍器で殴られた、というのがいちばん正解に近そうだった。
少なくとも自分で歩いてそこまでやってこられるような怪我ではない。
とすれば、誰かが「帝国鋲螺商会」の裏まで一緒に来て殴ったか、あるいは死んでいる矢野の肉体を運んできて置いていったのだ。
――どういうつもりだ?
これが猫の死体なら、たんなる嫌がらせだろう。
が、人間の死体となるとそう簡単に見つかるものではない。
用意するのも容易くはない。
「帝国鋲螺商会」にバックヤードがあること自体、知る者は限られるはずだった。
両隣の建物の使用者はもしかしたら知っているかもしれない。
何かの偶然で幾松が裏へ行く姿を見かけている可能性は十分ある。
しかし、隣近所の住人が「帝国鋲螺商会」の裏に死体を棄ててどんなメリットがあるのか。
なるべく自分の生活圏から遠くへ棄てたいと思うのではないか。
やはり、可能性が高いのは講の人間だった。
それも幾松を世話人だと知っていて、店の裏に空き地があり、そこに死体を置いておけば絶対に警察に通報などせずに秘密裏に処理するだろう、とわかっている講中でなければならない。
つまり、講を互助会に毛が生えた程度のものだと考えているような一般の講中ではないということだ。
――コケにされたもんだな。
幾松は怒りにまかせてスチール製のごみ箱を蹴とばした。
筒状のごみ箱はすぐ前の壁にぶつかって跳ね返り、紙くずをまき散らしながら通路を転がっていった。
恥ずかしくなった。
後悔した。
誰かの目があったら絶対に取らない行動だった。
幾松は側面の凹んだゴミ箱を見送りながら、息を整えた。
感情の波が消えるまで深い呼吸を繰り返す。
〈明鏡止水のこころを保て〉それは先代幾松の教えである。
幾松の知る限り、先代はつねに冷静沈着な態度を崩さなかった。
もっとも、世話人というのがそんな求道的ストイシズムを必要とするものかどうか、幾松はずっと疑っている。
ただ、そんな先代が好きだったのは嘘じゃない。
実の子を犬の仔を頒けるかのように先代の許へ送ったあの男よりもずっと本当の父親らしい。
幾松はゴミ箱を取りに行って紙くずを拾っては放り込みながら戻ってきた。
シャッターが数度叩かれた。
机の上のちゃちなデジタル時計は午前一時を表示していた。
シャッターを半分上げると、その下をくぐって丁子屋が入ってきた。
世話人になって以来の相棒である。
ウサオイの講には彼と幾松しか世話人はいない。
腰を伸ばすと丁子屋は幾松より拳ひとつ分だけ背が高かった。
ひげの剃り跡が青い。
肩を回してやる気を見せた。
だが、どこかチグハグな感じがする。
デスクワーク向きの人材だった。
丁子屋は胸に松本機工と刺繍の入った鼠色の作業服を着ていた。
松本機工というのは幾松もよく知っている講中だった。
いつの間にこんなものを手に入れたのだろう、と幾松はすこし羨ましかった。
不思議なことに作業服姿でも丁子屋はやはり大学の先生のように見えた。
彼の本業が大学講師だと知っているというバイアスをはずしても、やはり丁子屋は大学講師に見えるだろう。
――長く伸ばしたモミアゲがいけないんじゃないか。
幾松はそんなことを思って笑った。
いまどき、モミアゲが長いのはルパン三世とゴルゴ13と丁子屋くらいのものだ。
萬蔵さんにはもう話はついている、と挨拶も抜きで丁子屋は言った。
「ああ、コイツです、コイツです」
丁子屋は免許証の写真とパソコンの画面に大写しになった写真を見比べて言った。
パソコンのほうは、どこかのレストランで八人の男女が集まって写っていた。
その中央で大口を開けて笑っている男が、いまはもう笑うことのできなくなった矢野のように見える。
昼間のうちに、矢野哲夫という名前と免許証の住所から調べておいたものだ。
矢野本人がSNSを使っていなかったのは意外だった。
名前で検索すれば簡単にヒットするだろうと高をくくっていた。
最近では猫も杓子も自分の情報をウェブで発信している。
それは講中でも同じだ。
ただ、講中のなかにも考えなしがいて、講中であることをほのめかすような内容をアップしている場合がある。
それをいち早く見つけて削除させるのも、幾松たち最近の世話人の仕事だった。
先代が聞いたら頭の上に「?」を浮かべたまま固まってしまう話にちがいない。
しかし、“矢野哲夫”にほとんど何も引っかかってこなかった。
それは幾松が拍子抜けするほどだった。
一時間以上かけてようやく何枚かそれらしい画像を見つけられただけだ。
丁子屋も認めた男の写真は、渋谷にあるデータ入力会社で働くOLのブログに載っているものだった。
前の年の職場の忘年会だとキャプションがついていた。
会場のレストランは渋谷のイタリア料理屋だという。
パソコンの写真と免許証の人物が同一なら、あの死体はデータ入力会社の社長である矢野哲夫のものということになる。
「お宅のほうへ一度お邪魔しないといけませんね」
丁子屋は幾松のひと回り近く年上だが、いつもこんな喋り方なのだった。
「明日、行こうよ」
死体が持っていたキーホルダーには三本の鍵がついていた。
車のキーと、電子キーと、普通の鍵。
普通のはおそらく自宅の鍵だろう。
「午後なら空いていますよ」
「いいよ、合わせる」
丁子屋はビジネス手帳を取り出して翌日のスケジュールをメモした。
その姿はやはり講の世話人らしくはなかった。
萬蔵との約束は午前三時だというので、もうしばらくは店にいなければならなかった。
折り畳みの椅子を出して丁子屋に渡した。
それは壊れていて、うまくバランスを取らないと尻が滑り落ちる羽目になる。
数え切れないほど「帝国鋲螺商会」に来ている丁子屋は慣れたもので、蝶番をギィギィ言わせながらうまく座っていた。
幾松はお湯を沸かしてまたインスタントコーヒーをいれた。
丁子屋は酒だとか紅茶だとかこういう嗜好品にはうるさい。
砂糖とクリーミングパウダーをたっぷり入れたインスタントコーヒー、というのは彼にとってはほとんど嫌がらせのようなものだ。
そうと知っていて、幾松はカップに砂糖を放り込む。
結局、丁子屋は嫌な顔をしても飲むだろう。
フィールドワークへ行ったらその部族で出される食べ物を文句言わずに食べるのは当然のことです、という理由で自らに苦行を強いるのだ。
幾松はそんな丁子屋を見るのが面白い。
「ここに来るたび思うんだが、キミは山椒魚のようなやつですね」
「はあ?」
「井伏鱒二の『山椒魚』だよ。キミだって一度くらいは読んだことがあるでしょう」
丁子屋はカップに口をつけて、眉をひそめた。
「ぼおっとしているうちにアタマが成長して穴から出られなくなってしまうオオサンショウウオですよ」
丁子屋の言ったことは、わかるような、わからないような喩えだった。
いずれにしろ褒められているのでないことはたしかだった。
「さて」
丁子屋は飲みかけのカップをレジスターの脇に置いて、手を擦り合わせた。
「それでは矢野哲夫氏本人とご対面といたしましょうか」
幾松は机を小上がりの方へ引きずった。
だいたい一メートルくらい移動させると、床の引き出しで隠れていたところに取っ手のような金具が出てきた。
その金具に指をかけて引き上げると一メートル四方の床が蓋のように開き、床下に空間が現れた。
深さも人の腰くらいまではある。
床下収納というには容量が大きすぎる。
隠し倉としてこの建物を建てたときからある、と先代は言っていた。
そして、金属の箱や布の包みが置かれているなかに、男の死体が横たえられていた。
矢野は死後硬直で、何かに抱きついているかのように手脚を奇妙なかたちに曲げていた。
「出血はないようですね」
丁子屋はポケットから出した携帯電話のライトで死体を照らしてホッとしたように言った。
それは荷物が濡れているよりは乾いているほうが面倒が少なかろうという事務的な言葉のようだった。
「頭を殴られたみたいだ。後頭部に傷があって、その辺がブニョブニョしている」
「喉に絞められたアザもないし、それが死因でしょうか。毒を服まされたとかどうだろう? とはいえ、そうだとしても、わたしたちにはわからない。それとも、調べたい? そういうことのできる医者ならウチの講中じゃないがアテはありますよ」
幾松は少し考えてから首を振った。
やはり死体のことを知る人間は最低限にとどめておきたい。
「じゃあ、袋を取ってきますよ。まさかこのまま剥き出しで車に乗せるわけにもいかないですからね」
丁子屋は、よっこらしょ、と椅子から立った。
「コーヒー」と幾松は言った。
「なに?」
「死体に触る前にコーヒー飲んじゃってよ。あとだと冷めちゃうし」
「ああ……」
丁子屋は本当に嫌な顔をした。
死体を始末するよりも、幾松のいれたインスタントコーヒーを飲み干すことのほうが、彼には苦行らしかった。
幾松は床下に降りて死体の腋の下に手を入れて持ち上げた。
丁子屋がその肘のあたりを掴んで床へ引き上げる。
幾松は脚のほうへ回って押し上げた。
死後硬直のせいか矢野の死体は扱いやすかった。
床に広げた青いビニールシートの上に置くと、余った部分で包み、ガムテープでグルグル巻きにした。
そうやって梱包してしまうと、そのカタマリは人ではなくて、たんに役に立たない廃棄物に変わってしまった。
ふたりで前後を抱えて外へ運び出すと、店の前に駐車しておいた車の荷台に乗せた。
車はボルボのエステート・コンセプトだった。
「誰から借りたの?」
「梅吉さん」
幾松も知っている講中だった。
銀座で画廊を営む三代目である。
丁子屋が昼間のうちに話をつけて一晩借りてきた。
明日の朝には自宅のガレージまで戻しておく約束だという。
もちろん、梅吉は今晩自分の車で運ばれる荷物が人間の死体だとは知らない。
今後も知ることはないだろう。
講中が世話人の頼みを断ることは〈御法度〉だった。
理由を訊くことも許されない。
だから、講中のなかには世話人を講の特権を利用するだけの傲慢なやつだと嫌う者もいる。
しかし、講の掟は世話人を動きやすくするためばかりではなかった。
無関係な講中を守るためでもあった。
知らないことは知らないままのほうが安全なのだ。
ふたりは積み込みが終わると店のなかを元の状態に戻して手を洗った。
幾松がもう一杯コーヒー飲んでいくかと聞くと、丁子屋はひとこと「いらん」と吐き捨てた。
どうやら本気で怒ったようだった。
「じゃあ、行こうか」
幾松は店の入口で傍らの棚に数個転がしてあるナットからひとつ手に取った。
掌に乗せて重さをたしかめると、素早く腕を振った。
ナットは店の奥の柱についたスイッチへまっすぐに飛んで、天井の照明を切った。
「ナイスピッチ」と丁子屋が言った。
これは毎日普通にやっていることで、褒められるようなことではなかった。
入口に置いてあるナットは、言ってみればリモコンの代わりだった。
蛍光灯のスイッチがどこにあるかはわかっている。
目を閉じていても当てられる。
来たときに明かりをつけ、帰りには消す――幾松にすれば当たり前の日常にすぎない。
店が真っ暗になったのを確認して扉を閉め、シャッターを下ろした。
幾松は午後七時半に「帝国鋲螺商会」のシャッターを下ろした。
本業としてはいつもどおりの暇な一日だった。
しかし、講の世話人としての一日はまだ終わらない。
近所のラーメン屋でニラレバ炒め定食という、これも普段とあまり変わらない夕食をとると、また店に戻ってきた。
下ろしたシャッターの内側で、難解な哲学書の文字面を追いながら、世話人仲間である丁子屋を待った。
ただでさえ消化しづらいドイツ観念論は、まるで頭に入ってこない。
書物そのものに拒まれている。
硬いチーズをガリガリ齧っているうちに唾液ばかりが口からあふれ出してくるみたいだった。
約束の時間は日付が変わってからで、時間は腐るほどあった。
そして、いっこうに減らない。
いつ時計を見ても、やっぱり時間は腐るくらい残っていた。
睡れるものならそうしたかったが、目を閉じてみても意識は醒めたままだった。
自分で思うよりもずっと神経は昂ぶっているらしい。
机の引出しを開ける。
免許証の写真と目が合った。
その矢野は照れ笑いをこらえているようにも見えた。
死人にからかわれているような気がして苛立たしかった。
死体矢野は後頭部に小さな傷があった。
もう血はかたまっていた。
ちょっと見ただけでは長い髪に隠れてわからなかった。
傷の回りは触ってみるとだいぶ膨らんでぶよぶよしていた。
頭蓋骨が割れているような感じだった。
それが死因なのかどうか。
専門家でない幾松には判断のしようもなかった。
しかし、バックヤードで転んでできた傷ではなさそうだった。
鈍器で殴られた、というのがいちばん正解に近そうだった。
少なくとも自分で歩いてそこまでやってこられるような怪我ではない。
とすれば、誰かが「帝国鋲螺商会」の裏まで一緒に来て殴ったか、あるいは死んでいる矢野の肉体を運んできて置いていったのだ。
――どういうつもりだ?
これが猫の死体なら、たんなる嫌がらせだろう。
が、人間の死体となるとそう簡単に見つかるものではない。
用意するのも容易くはない。
「帝国鋲螺商会」にバックヤードがあること自体、知る者は限られるはずだった。
両隣の建物の使用者はもしかしたら知っているかもしれない。
何かの偶然で幾松が裏へ行く姿を見かけている可能性は十分ある。
しかし、隣近所の住人が「帝国鋲螺商会」の裏に死体を棄ててどんなメリットがあるのか。
なるべく自分の生活圏から遠くへ棄てたいと思うのではないか。
やはり、可能性が高いのは講の人間だった。
それも幾松を世話人だと知っていて、店の裏に空き地があり、そこに死体を置いておけば絶対に警察に通報などせずに秘密裏に処理するだろう、とわかっている講中でなければならない。
つまり、講を互助会に毛が生えた程度のものだと考えているような一般の講中ではないということだ。
――コケにされたもんだな。
幾松は怒りにまかせてスチール製のごみ箱を蹴とばした。
筒状のごみ箱はすぐ前の壁にぶつかって跳ね返り、紙くずをまき散らしながら通路を転がっていった。
恥ずかしくなった。
後悔した。
誰かの目があったら絶対に取らない行動だった。
幾松は側面の凹んだゴミ箱を見送りながら、息を整えた。
感情の波が消えるまで深い呼吸を繰り返す。
〈明鏡止水のこころを保て〉それは先代幾松の教えである。
幾松の知る限り、先代はつねに冷静沈着な態度を崩さなかった。
もっとも、世話人というのがそんな求道的ストイシズムを必要とするものかどうか、幾松はずっと疑っている。
ただ、そんな先代が好きだったのは嘘じゃない。
実の子を犬の仔を頒けるかのように先代の許へ送ったあの男よりもずっと本当の父親らしい。
幾松はゴミ箱を取りに行って紙くずを拾っては放り込みながら戻ってきた。
シャッターが数度叩かれた。
机の上のちゃちなデジタル時計は午前一時を表示していた。
シャッターを半分上げると、その下をくぐって丁子屋が入ってきた。
世話人になって以来の相棒である。
ウサオイの講には彼と幾松しか世話人はいない。
腰を伸ばすと丁子屋は幾松より拳ひとつ分だけ背が高かった。
ひげの剃り跡が青い。
肩を回してやる気を見せた。
だが、どこかチグハグな感じがする。
デスクワーク向きの人材だった。
丁子屋は胸に松本機工と刺繍の入った鼠色の作業服を着ていた。
松本機工というのは幾松もよく知っている講中だった。
いつの間にこんなものを手に入れたのだろう、と幾松はすこし羨ましかった。
不思議なことに作業服姿でも丁子屋はやはり大学の先生のように見えた。
彼の本業が大学講師だと知っているというバイアスをはずしても、やはり丁子屋は大学講師に見えるだろう。
――長く伸ばしたモミアゲがいけないんじゃないか。
幾松はそんなことを思って笑った。
いまどき、モミアゲが長いのはルパン三世とゴルゴ13と丁子屋くらいのものだ。
萬蔵さんにはもう話はついている、と挨拶も抜きで丁子屋は言った。
「ああ、コイツです、コイツです」
丁子屋は免許証の写真とパソコンの画面に大写しになった写真を見比べて言った。
パソコンのほうは、どこかのレストランで八人の男女が集まって写っていた。
その中央で大口を開けて笑っている男が、いまはもう笑うことのできなくなった矢野のように見える。
昼間のうちに、矢野哲夫という名前と免許証の住所から調べておいたものだ。
矢野本人がSNSを使っていなかったのは意外だった。
名前で検索すれば簡単にヒットするだろうと高をくくっていた。
最近では猫も杓子も自分の情報をウェブで発信している。
それは講中でも同じだ。
ただ、講中のなかにも考えなしがいて、講中であることをほのめかすような内容をアップしている場合がある。
それをいち早く見つけて削除させるのも、幾松たち最近の世話人の仕事だった。
先代が聞いたら頭の上に「?」を浮かべたまま固まってしまう話にちがいない。
しかし、“矢野哲夫”にほとんど何も引っかかってこなかった。
それは幾松が拍子抜けするほどだった。
一時間以上かけてようやく何枚かそれらしい画像を見つけられただけだ。
丁子屋も認めた男の写真は、渋谷にあるデータ入力会社で働くOLのブログに載っているものだった。
前の年の職場の忘年会だとキャプションがついていた。
会場のレストランは渋谷のイタリア料理屋だという。
パソコンの写真と免許証の人物が同一なら、あの死体はデータ入力会社の社長である矢野哲夫のものということになる。
「お宅のほうへ一度お邪魔しないといけませんね」
丁子屋は幾松のひと回り近く年上だが、いつもこんな喋り方なのだった。
「明日、行こうよ」
死体が持っていたキーホルダーには三本の鍵がついていた。
車のキーと、電子キーと、普通の鍵。
普通のはおそらく自宅の鍵だろう。
「午後なら空いていますよ」
「いいよ、合わせる」
丁子屋はビジネス手帳を取り出して翌日のスケジュールをメモした。
その姿はやはり講の世話人らしくはなかった。
萬蔵との約束は午前三時だというので、もうしばらくは店にいなければならなかった。
折り畳みの椅子を出して丁子屋に渡した。
それは壊れていて、うまくバランスを取らないと尻が滑り落ちる羽目になる。
数え切れないほど「帝国鋲螺商会」に来ている丁子屋は慣れたもので、蝶番をギィギィ言わせながらうまく座っていた。
幾松はお湯を沸かしてまたインスタントコーヒーをいれた。
丁子屋は酒だとか紅茶だとかこういう嗜好品にはうるさい。
砂糖とクリーミングパウダーをたっぷり入れたインスタントコーヒー、というのは彼にとってはほとんど嫌がらせのようなものだ。
そうと知っていて、幾松はカップに砂糖を放り込む。
結局、丁子屋は嫌な顔をしても飲むだろう。
フィールドワークへ行ったらその部族で出される食べ物を文句言わずに食べるのは当然のことです、という理由で自らに苦行を強いるのだ。
幾松はそんな丁子屋を見るのが面白い。
「ここに来るたび思うんだが、キミは山椒魚のようなやつですね」
「はあ?」
「井伏鱒二の『山椒魚』だよ。キミだって一度くらいは読んだことがあるでしょう」
丁子屋はカップに口をつけて、眉をひそめた。
「ぼおっとしているうちにアタマが成長して穴から出られなくなってしまうオオサンショウウオですよ」
丁子屋の言ったことは、わかるような、わからないような喩えだった。
いずれにしろ褒められているのでないことはたしかだった。
「さて」
丁子屋は飲みかけのカップをレジスターの脇に置いて、手を擦り合わせた。
「それでは矢野哲夫氏本人とご対面といたしましょうか」
幾松は机を小上がりの方へ引きずった。
だいたい一メートルくらい移動させると、床の引き出しで隠れていたところに取っ手のような金具が出てきた。
その金具に指をかけて引き上げると一メートル四方の床が蓋のように開き、床下に空間が現れた。
深さも人の腰くらいまではある。
床下収納というには容量が大きすぎる。
隠し倉としてこの建物を建てたときからある、と先代は言っていた。
そして、金属の箱や布の包みが置かれているなかに、男の死体が横たえられていた。
矢野は死後硬直で、何かに抱きついているかのように手脚を奇妙なかたちに曲げていた。
「出血はないようですね」
丁子屋はポケットから出した携帯電話のライトで死体を照らしてホッとしたように言った。
それは荷物が濡れているよりは乾いているほうが面倒が少なかろうという事務的な言葉のようだった。
「頭を殴られたみたいだ。後頭部に傷があって、その辺がブニョブニョしている」
「喉に絞められたアザもないし、それが死因でしょうか。毒を服まされたとかどうだろう? とはいえ、そうだとしても、わたしたちにはわからない。それとも、調べたい? そういうことのできる医者ならウチの講中じゃないがアテはありますよ」
幾松は少し考えてから首を振った。
やはり死体のことを知る人間は最低限にとどめておきたい。
「じゃあ、袋を取ってきますよ。まさかこのまま剥き出しで車に乗せるわけにもいかないですからね」
丁子屋は、よっこらしょ、と椅子から立った。
「コーヒー」と幾松は言った。
「なに?」
「死体に触る前にコーヒー飲んじゃってよ。あとだと冷めちゃうし」
「ああ……」
丁子屋は本当に嫌な顔をした。
死体を始末するよりも、幾松のいれたインスタントコーヒーを飲み干すことのほうが、彼には苦行らしかった。
幾松は床下に降りて死体の腋の下に手を入れて持ち上げた。
丁子屋がその肘のあたりを掴んで床へ引き上げる。
幾松は脚のほうへ回って押し上げた。
死後硬直のせいか矢野の死体は扱いやすかった。
床に広げた青いビニールシートの上に置くと、余った部分で包み、ガムテープでグルグル巻きにした。
そうやって梱包してしまうと、そのカタマリは人ではなくて、たんに役に立たない廃棄物に変わってしまった。
ふたりで前後を抱えて外へ運び出すと、店の前に駐車しておいた車の荷台に乗せた。
車はボルボのエステート・コンセプトだった。
「誰から借りたの?」
「梅吉さん」
幾松も知っている講中だった。
銀座で画廊を営む三代目である。
丁子屋が昼間のうちに話をつけて一晩借りてきた。
明日の朝には自宅のガレージまで戻しておく約束だという。
もちろん、梅吉は今晩自分の車で運ばれる荷物が人間の死体だとは知らない。
今後も知ることはないだろう。
講中が世話人の頼みを断ることは〈御法度〉だった。
理由を訊くことも許されない。
だから、講中のなかには世話人を講の特権を利用するだけの傲慢なやつだと嫌う者もいる。
しかし、講の掟は世話人を動きやすくするためばかりではなかった。
無関係な講中を守るためでもあった。
知らないことは知らないままのほうが安全なのだ。
ふたりは積み込みが終わると店のなかを元の状態に戻して手を洗った。
幾松がもう一杯コーヒー飲んでいくかと聞くと、丁子屋はひとこと「いらん」と吐き捨てた。
どうやら本気で怒ったようだった。
「じゃあ、行こうか」
幾松は店の入口で傍らの棚に数個転がしてあるナットからひとつ手に取った。
掌に乗せて重さをたしかめると、素早く腕を振った。
ナットは店の奥の柱についたスイッチへまっすぐに飛んで、天井の照明を切った。
「ナイスピッチ」と丁子屋が言った。
これは毎日普通にやっていることで、褒められるようなことではなかった。
入口に置いてあるナットは、言ってみればリモコンの代わりだった。
蛍光灯のスイッチがどこにあるかはわかっている。
目を閉じていても当てられる。
来たときに明かりをつけ、帰りには消す――幾松にすれば当たり前の日常にすぎない。
店が真っ暗になったのを確認して扉を閉め、シャッターを下ろした。
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