じじまご閑話

柵木柚紀緒

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じじまご閑話

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 空が晴れ渡る初夏のことである。日差しを浴びて芝生が美しく煌めくA運動公園では大規模なイベントが行われていた。
 それはI建設会社が主催しているものであった。年に二回行われているものだ。国内では広く名の知られたI建設会社は様々な子会社を擁しており、さらに提携している企業まで加わってイベントに参加していた。それぞれブースを作って積極的に客を呼び込み公園は大いに賑わっている。
 参加しているのは自社の住宅メーカーやリフォーム部門から提携企業の食品メーカーまで幅広い。リフォーム部門のように無料相談を提供しているところもあれば食品メーカーでは『健康』をテーマに無料の健康チェックを体験させている。他の様々なブースでも無料相談・見積もりに加えてミニゲームなどを開催している。どの企業・部門も少しでも立ち寄ってもらおうと趣向を凝らしているためエンターテイメント性が高い。もちろん祭りらしく屋台も出ており、風に乗って醤油の香ばしさが食欲を刺激する。
 休日開催ということでイベントは大盛況であった。特に目立つのがターゲット層である子供連れの姿である。住宅を扱う企業として彼らをいかに取り込めるかが重要であった。少子化とはいえ家族と言う形態は毎年必ず発生するものである。それら「新しいお客様」と「末永くお付き合い」することが企業戦略の大きな柱の一つであった。
 そんなこととは露知らず、楽しそうな笑い声があちらこちらから聞こえてくる。
 イベントの成功には会場選びも一役買っていた。この公園では広大な敷地にいくつものエリアを抱えている。南側には本格的なスポーツが楽しめるようテニスコートはもちろん陸上競技場や野球場も備えている。今回イベントが開催されているのは北側のエリアだ。南北に伸びる道路で仕切られた東西の芝生広場、イベントブースが設置されているのは東側広場である。西側には本部、そしてその端に出店たちが設置されている。さらに西側広場に隣接したアスレチックエリアがある。
 つまり子供たちは親と営業マンのつまらない話を聞いているなんて退屈なことはせずに芝生で走り回るなり大きな遊具で遊び回るなりお祭りのように出店で好きなものを買い回るなりすることができた。これが非常に好評でこのI建設会社のイベントはとうとう三年目に突入である。
 晴天にも恵まれ今日も多くの人が訪れている。
 その中で、その二人組はとても目立った。西側広場を悠々と歩く彼らに人々は目を奪われる。
 まずその組み合わせである。一人は老人であった。年を重ねた証である霜の下りた髪はオールバックにしている。四角い顔には深い皺が刻まれており口は真一文字、目つきも厳しい。常に獲物を狙うかのように周囲に睨みを利かせている。そのさまは猛禽類を思わせるほどの厳しさであった。
 対してもう一人は子供である。五歳ほどの男の子である。蜂蜜色のくりくりとした目にふくふくとした頬。色素の薄い髪はまるで太陽の光を閉じこめたかのような美しさだが短く刈り上げられている。美しさに対して無造作な様子もまた幼子らしい可愛らしさがあった。
 ところがこれだけでは万人は振り向かない。さらに人々の目を引いたのは彼らの装いであった。
 着物である。二人とも着物を身にまとっていた。初夏であるから単に暑そうだ、と注目する者もいるだろう。夏祭りでもないのに和装というのは現代日本では非常に目立つ。しかし彼らはそんなことは全く構わないようであった。ただ真っ直ぐ前を見て歩く。無地の絽を着こなして二人は颯爽と歩く。
 そして二人は仲良く手をつないでいた。厳めしい顔の老人と愛らしい男の子。ひと目で祖父と孫だと分かる。皺だらけの大きな手と小さく柔らかい手がしっかりとつながれている様子は見る者を幸せにさせた。
「じじ」
 男の子は舌っ足らずな言葉で祖父を呼ぶ。
「何だ」
 対して祖父はおよそ一般的な祖父らしからぬ、見た目通りの固く厳しい簡素な返事であった。
「きょうは何をしてあそぶ?」
 大きな瞳で祖父を見上げる。期待に輝く瞳である。
「ぼーるはもってきたか? きゃっちぼーるにちょうどいいしばふだ」
「いいや、持ってない」
「じゃあさんぽだ。広いからちょうどいい。しりとりでもしよう!」
「今日は仕事だから遊んではやれないぞ」
 祖父の一刀両断に子供はぽかんと口を開けた。
「……終わるまでまってるからだいじょうぶ」
「一人で遊べ。俺は遊んでやらんぞ」
 するとあの可愛らしい表情から一変、眉間に深いしわを寄せた。信じられない、という表情で男の子は祖父を非難がましく見つめる。
「いっしょに遊ぶといった!」
「言っていない。遊びに連れて行ってやると言ったんだ」
 目も合わせずに祖父は言う。男の子は口をヘの字に曲げた。
 この祖父――市田何某――は何を隠そうI建設会社の会長であった。今回彼はイベントの視察に訪れたのだ。
 会長職とはつまりは名誉職であり、本来ならば視察などの活動は不要だ。仕事のことは綺麗さっぱり忘れて家でのんびりと第二の人生を楽しんでいればよいのだ。旅行に行くなり趣味に打ち込むなり、今までできなかったことを思う存分楽しむべきなのだ。
 ところがである。この市田何某はそういった一般的な概念が通じない人物であった。良く言えば真面目、悪く言えば頑固者であった。これまで仕事一辺倒でやってきた男である。趣味や生き甲斐など持っていない。そんな暇があれば仕事に打ち込んできたような男である。今さら悠々閑々たる生き方に変えることにはできなかった。
 イベント用広場の中央に位置するI建設会社の本部にはお揃いのジャケットを着た社員が多くいた。このイベントには子会社や提携企業との交流という目的もあるためI建設会社もそれなりの地位の社員が参加していた。会場の楽しげな雰囲気に本部も和気藹々としている。
 ところが市田氏の姿を見つけるや否や現場は物々しい雰囲気に包まれる。会長という地位、さらに彼はただでさえ厳格な人物として知られていた。社員たちに緊張感が走るのは無理もないことであった。皆男に駆け寄り決まりきった挨拶をする。それを市田氏は不愉快そうに、孫は不思議そうに眺めていた。
 そんな中、一人の女性が彼の隣にさっと現れる。年は四十くらいだろう。落ち着いた物腰に嫌味のない笑顔。パンツスーツを美しく着こなしている。市田氏は彼女の姿を見るとわずかに――これはよほど彼と親しくなければ気がつかないのだが――笑うように目を細めた。
「会長、本日の予定はこちらになっております」
 元秘書の彼女、柊がにこやかに対応する。市田氏はろくに返事もせずにプログラムを受け取った。懐から老眼鏡を取り出し孫から手を離す。男の子はその意図に正確に気がつき抗議の声を上げた。
「きょうは遊ぶといった!」
 良く通る声だ。大人ばかりの中に子供の声はよく目立つ。
「ちゃんと連れてきてやっただろうが。勝手に遊んでこい」
 あまりに突き放した言い方であった。柔らかそうな顔をくしゃりと歪ませて男の子はいかにも傷ついたという顔をした。さらに口の端をぐっと下げて遺憾の意を表す。その顔があまりにも可愛くて可笑しくて柊は笑ってしまう。
「そんな顔をしても無駄だぞ」
 祖父は鼻の頭にも皺を寄せて孫を睨みつける。
「お前の父親はそれで甘やかすかもしれないが俺はそうはいかないぞ」
 男の子が唸る。今度は上目遣いで目を潤ませる。泣くぞ、という脅しであった。見目整った彼がやると生意気というより芸術作品のような美しさがある。しかし相手はそれが通じるような男ではなかった。
「いい加減にしろ! みっともないぞ! どこにでも行って遊んでこい!」
 雷一発目は孫に落とされた。周りにいた年若い社員たちは身を震え上がらせる。
 男の子は泣き出すかと思いきや甘えた表情を一変させる。大きな瞳で子供らしく攻めていたのがあからさまに大人びた不機嫌さになる。唇をとがらせて顎をくいと上げる。そして踵を返した。憤懣遣る方ないといった様子でがに股で歩いていってしまう。
「ねえ、山本くん」
 柊は隣にいた社員に声を掛ける。先ほどの怒号に震え上がった青年の一人だ。
「お孫さんについて行ってあげて。見てるだけでいいから」
「え、俺でいいんですか?」
 思わず飛び出した気弱な発言に秘書は笑う。ところが祖父であり会長である男がぎろりと青年を見た。彼はまた震え上がった。慌てて男の子を追って駆け出す。



 公園には魅力的な屋台が数多く出ていた。
「どこに行きたい?」
 山本は自分の彼女に尋ねるよりもよっぽど気を遣っていた。
 しかし男の子は無言を貫く。
「あっちに遊具もあるよ。ほらお友達もいっぱいいる」
「……いいかげんなことを言うな」
 男の子はぎろりと彼を睨みつける。
「わたしのともだちはあの中にはひとりもいないぞ」
「それは、ほら、ものの例えというか……ごめん」
 男の子は芝生を眺めながら歩き続ける。顔は不機嫌そのものだ。拗ねているのではない。祖父の対応に問題があると言っているのだ。大人顔負けの苛つき具合だった。
 あの祖父の血を色濃く継いでいるらしい、と青年はため息をついた。すると男の子はぎろりと山本を睨む。
「そんなにつまらないのならじじの所へもどったらどうだ!」
 先ほど泣きっ面で祖父に甘えようとしていた子供はどこへやら。今にも噛みつかんばかりの獰猛な顔つきであった。
「まったくふゆかいだ!」
 祖父の物言いを真似ているのだろうか。恐ろしいものである。このような話し方が身につく家とは一体どのような家庭環境なのだろうか。
 そのときである。男の子が立ち止まった。どうしたの、と声を掛けるより先に彼は走り出してしまった。



 彼女は目の前のものを一心に見つめながら歩いていた。
「危ないから、前を見て歩きなさい」
 少し前を歩く父親は目の端で彼女を見て形ばかりの忠告をするだけであった。彼には娘に構っている余裕がなかった。腕の中では幼い下の娘が寝息を立てているのである。何が気にくわないのか随分とぐずっていたのがやっと眠ったのである。彼はたったこれだけのことで子育てというものにほとほと困り果ててしまったのだ。もしこの子が目を覚まして再び泣き出すようなことがあればどうしようもない。そうなる前に母親に引き渡さなければならない。彼は焦っていた。
 ところが父親の言葉は彼女には届かない。だってソフトクリームである! 彼女はこれを食べたことがなかった。
 彼女は食が細いため間食の類は母親に厳しく制限されていた。ただでさえ食事を食べないのである。おやつなど許していては余計ご飯を食べなくなってしまう。母親は食事に関しては強いこだわりを持っていた。各参考書を揃えてそれの通りに育児を行っていた。三食きっちりバランスのとれた食事こそ至高である。母親はそういった育児をしていた。
 ところが育児に関しててんで無関心なこの父親は、ソフトクリームでも与えておけば大人しくしているだろうという安易な考えでこれを与えた。何せ妹がぐずぐずと不機嫌だったのである。これ以上厄介ごとが増えてはたまらないと彼は早々に彼女の機嫌を取ることにしたのだ。彼女がぼんやりと眺めていたのがたまたまソフトクリームの屋台であったから与えただけである。まさか初めての食べ物だとは知る由もなかった。
 誤解の無いように記しておくが、彼女は決して騒がしい手の掛かる子供ではなかった。したがって姉の方がぐずり出すというのは全く以て彼の杞憂である。
 引っ込み思案で声の小さい女の子である。良く言えばおっとりとして優しい、悪く言えばぼんやりとした優柔不断な子供であった。まだ三歳であるがそういった性質は如実に現れていた。母親が余裕のなさからわずかなわがまま――彼女にとっての立派な自己主張の場――を一切許さないため父親にひどい誤解を与えた。曰く、この子はいつも怒られている、相当手の掛かる子供なのだろう、といったところである。
 父親は育児どころか対人関係においても他者に対して無関心だと思われる。その証拠に小さい彼女を置いてどんどん進んでいく。
「早く来なさい」
 言葉を掛けるだけでその歩みをゆるめることはなかった。これには理由があった。彼の妻であり彼女たちの母親が待っているのだ。待ち合わせ時間が迫っている。少しでも遅れれば小言をくらうことは間違いない。さらに幼い妹もいつ目覚めるか分からない。父親は焦っていた。時限爆弾を二つも抱えているような心境であった。だから彼女にあまり構うことなく先を急ぐのだ。
 彼女は生返事を返すばかりであった。だってソフトクリームである! 憧れの白い造形美。これを見つめることが三年間の彼女の人生にとって何よりも大事なことであった。
 まだ食べてはいけない。立って食べることは行儀が悪い。まして歩きながら食べるなんて下品の極みである。彼女はそのように教わっていた。
 だから頼りない足付きで、瞳はソフトクリームに釘付けになりながら一生懸命父親について歩く。広い芝生を歩くだけだが彼女にとっては一苦労だ。人もそれなりにいる。父親を見失わないように、そしてソフトクリームをこぼさないように必死に歩く。
 よちよち。ぽてぽて。そんな足取りの彼女。
 父親の姿はすでに見えなくなっていた。人々の中に紛れてしまった。それでも彼女は進むしかない。歩くこととアイスクリームをこぼさないこと。この二つで頭が一杯なのだ。父とはぐれたことを気にする余裕はなかった。
 芝生に足を取られないように気をつけていたのに。がくん、と足が何かに浚われてしまった。身体の自由がきかない。突然世界が回るようであった。彼女はどたっ、と転んでしまった。
 何が起きたのか分からない。痛みはなかった。ただ理解が追いつかない。一生懸命歩いていただけだ。彼女はぽかんと目の前の光景を見つめる。
 手にはしっかりとコーンが握られている。食べればさくさくと美味しい部分だ。ところがソフトクリームにおける最も美しい部分はどうか。あるべき場所にいないのだ。緑色の中に白い骸をさらしているではないか。
「あーあ、カワイソ」
「きったねぇな」
 頭上から降ってくる声は彼女には聞こえない。だって彼女にはまだ悪意を知らないのだ。
 すれ違いざまに見知らぬ男がわざと足を引っかけて自分を転ばせたなど、夢にも思わないのだ。
 彼女は眼前に広がる惨事に気を取られていた。折角買ってもらったのに。初めてのソフトクリーム。一口も食べられなかった。怒られてしまう。それが怖くて悲しくて彼女は立ち上がりもせずに泣き出した。
 相変わらず上から笑い声が降ってくる。周囲の批判めいた視線を受けても止まない。それは嫌な空気をまといながら遠ざかっていく。
 彼女と彼らから人々は距離を取っていく。ソフトクリームをこぼして情けなく泣く女の子を眉を顰めて見る者もいる。彼女の味方はどこにもいないようであった。
 ところがである。どこからともなく怒濤のごとき足音が彼女等の元に迫った来たのであった。



 あっ、と山本も思ったのだ。頼りない足取りで歩いていた女の子――どうやらソフトクリームを持っているようだった――が突然転んでしまったのだ。山本は見てしまった。すれ違うように歩いていた二人組の男、その片方が足を引っかけたのだ。彼女の小さな足を軽々と掬うように足で払ったのだ。女の子は転んでしまった。持っていたソフトクリームも芝生の上にぶちまけてしまった。男たちはそれを見下ろして笑っている。とても気分の悪い場面であった。周りの人々もそれを目にするものの、あまりに一瞬の出来事であったためか男たちを糾弾する者はいなかった。人々も歩くに任せて彼女のそばを通り過ぎていく。近くに親が居るのだろう、という気持ちもあるのだろう。誰も彼女を助け起こそうとはしなかった。
 ただ一人、男の子は勇猛果敢に猪突猛進に烈火のごとき怒りに駆られて走り出した。
「なんてことするんだ!」
 山本は止めるどころか追いかけることすらできなかった。彼は善良で少々気の弱い青年である。触らぬ神に祟りなし、いかにも不良じみた人間には近づかないのである。彼は少しばかり楽観的に考えていた。あんな卑劣なことをする連中である。面と向かって文句を言われてはすぐに逃げていくのではないかと考えたのだ。
 男の子が食ってかかった男たちは若かった。格好からして大学生だろうか。あの目、あの顔つき、男の子の糾弾をものともしない。弱き者を踏みにじって生きてきた人間の顔である。それができる程度には頭も良く力も強いのだろう。
 山本だってそう言った人間に対して激しい嫌悪を覚える。だがそれ以上に身がすくむのだ。自分では適わないと知っているから、見て見ぬ振りして災厄が去るのを待つしかない。泣き寝入りするしかないのだ。
「足をひっかけただろう! あやまれ!」
 男の子は大きな声で怒りを全面に出す。すると男たちがにやにやと笑って近づいてきた。山本は男の子を抱き上げて今すぐこの場を去るべきであった。だができない。あの男たちの前に飛び出していくことなどいくじのない彼にはできなかった。男の子だけ持って逃げてもあの女の子はどうするのだ。置いていくことなどできない。山本は良心の呵責と恐怖心から全く動くことができなかった。何事もなく立ち去ってくれ、彼はそう祈るしかなかった。
「何? どうしたの?」
 わざとらしいからかうような声で男は近づく。男の子は油断せず強く睨みつけたままだ。
「あやまれと言っているんだ! わざと足をひっかけただろう!」
「別にそんなことしてないけど?」
「その子が勝手に転んだだけじゃん。なんで俺たちのせいにするの?」
 へらへらとした態度に男の子はさらに憤慨する。
「ひっかけるところを見ていたぞ!」
「見間違いでしょ」
「証拠あんの?」
 証拠、と言われて初めて男の子はひるむ。それにいち早く気づいた男は獲物を捕らえたかのように笑みを深くする。
「ないでしょ。ほら、そっちこそ謝れよ。人を疑っちゃいけませんって習わなかった? 変なこといってごめんなさいって」
 二人はにやにやと笑っている。男の子は負けじと一生懸命、自分が何を見て彼らの何が悪いのかを説く。しかし二人は上から高圧的に次から次へと男の子を責めていく。周囲の刺すような視線は両者に向けられていた。男の子にはなんと口が悪い子供だと、二人組には大人げないと言っていた。
 すると突然男の子の顔が変わった。あんなに声を張り上げていたのが急に静かになった。激しい怒りの表情から無表情に近い顔へ。山本は息を飲んだ。
「そうか」
 あれは侮蔑の表情だ。
「かおだけじゃなくて中身のできもわるいんだな。これだけ言ってもわからないんだから」
 男たちの表情も変わった。
「……何言ってんのか分かってんのか」
「まあまあ、ガキの言うことだから」
 もう一人が諫めるがその目には苛つきが現れていた。山本は肝が冷えた。この男の子が何も言わずにこちらに戻ってきてくれることを祈るばかりである。
「かんたんに言ってやろうか。ばかって言ったんだ」
 山本の祈りは案の定無駄に終わった。男は激しい威嚇の声を上げた。男の子に殴りかかろうと腕を大きく振りかぶる。子供はそれより早い。男の腕を素早く避けると倒れた女の子をさっと抱き上げる。そして山本の方へ駆け出した。
 まさか自分の方に向かってくるとは思っておらず彼は戸惑う。同時に感動を覚えた。この自分を頼ってこんなに一生懸命走ってきてくれたのだ。その光景に山本は肝が据わった。ならばそれに応えてやらねば、何があってもこの子たちは守らなければ、と彼は眩しいばかりの決意を胸に二人を抱きあげんと身を屈めたそのときである。
「何をしている! はしれ!」
 男の子はわき目もふらず彼の横を通り過ぎていった。風のような早さだ。山本は決意や格好良さを捨てて瞬時に逃げる体制になる。すぐ後ろからあの二人組が追いかけてきているのだ。



 イベントは盛況であった。入場者数は年々増えている。各企業の収益も例年通り増加が見込まれるだろう。イベント本部は各ブースからの問い合わせ対応などそれなりに忙しくしていたが、特に大きなトラブルは報告されていない。
 市田会長はそこそこ忙しかった。孫と別れてすぐに来客が相次ぐ。彼が来ているということで企業・ブースの責任者が挨拶にやってくるのだ。
「やあ、市田さん! お久しぶりです」
「今回はご招待いただきありがとうございます。こちら、今回の責任者として初めて連れてきたんですが是非ご紹介したくて――」
 その中に彼と親しい人間など二、三人だ。さらに彼らは男の性格を知っているので言いたいことを言うとさっさと帰って行く。ところが親しくない人間ほど長く居座る。男の機嫌取りなど無駄なことを知らないのだ。彼らはありきたりなことしか言わないだから男は段々と苛ついてくる。それに怯えて彼らはさらに市田会長に話しかけるという悪循環。その辺りを察知した元秘書は来客を上手くあしらう。
 市田会長は来客からみつからないように本部の端に移動する。社員たちが慌てるのをよそに勝手に椅子を取り出して座り深いため息をつく。芝生の上にパイプ椅子だ。見上げれば青空、正面には幸せそうな家族が歩いている。
 彼は無心でそれを眺めていた。いつの間にか柊がやって来てお茶を用意する。
「じじ!」
 可愛い可愛い孫の声、のはずが彼は正直なところ嫌な予感しかしなかった。奴がこうやって元気良く祖父を呼ぶときは大抵ろくなことが起こらない。
 そちらに顔を向けると驚きの光景が広がっていた。先頭を走るのは孫である。着物で全力疾走である。その腕の中にあるものはなんだろうか。最初はぬいぐるみかと思った。孫の身体と変わらない大きさのもの、よくよく見れば小さな女の子が抱き抱えられていた。その後ろからへろへろになりながら追ってくるのは山本だ。さらに後方から男が二人ただならぬ様子で走ってくる。隣で秘書が「あらまぁ」と言っているのが腹立たしかった。
 孫はまるでそこがゴールであるかのように祖父の元に飛び込むように倒れ込んだ。山本もそれにならって彼の隣で立ち止まるものだから男は激しい怒りに駆られた。
「これは一体どういうことだ!」
 孫は息をするのに一生懸命で答えられるはずもない。
「何をしていたんだお前は!」
 申し訳ありません、と山本は切れる息の合間に応える。
「何のためについて行ったんだお前は!」
「じじ、こいつはなんののやくにも立たなかったぞ」
「お前は何をしてきたんだ馬鹿たれ」
 孫はまだ落ち着かない息で声を張り上げる。
「あいつらが悪い! 悪いことをしていたんだ!」
 大きな瞳で一心に祖父を見つめる。祖父はそこで何かあったのだと理解した。獰猛な肉食獣のような顔で祖父は若者たちに向かっていく。彼らは老人の怒鳴り声にひるんでいたものの、再びあの嫌らしい顔つきで応じる。
「何の用だ」
 体格的には市田会長の方が立派だ。着物をぱりっと着こなし風格がある。男たちは一歩も引かない。二人組であること、そして若さから彼らはこの男をやはり見下しているのだ。
「なんだじゃないっすよ。その子が俺たちに失礼なことを言ったものでね。あんまりだったんで追いかけてしまったんですよ」
「何がしつれいか!」
 孫は女の子を抱きしめたまま叫ぶ。女の子は訳が分からないと言った様子で硬直している。
 男たちはやはりにやにやと笑いながら物知り顔で口を開く。
「その女の子がね、俺の隣で転んじゃって。ソフトクリームぶちまけちゃったんですよ」
「それをそっちの子が『お前が転ばせたんだろう』って言いがかりつけてきて」
「そう見えたのかもしれないけど、全然謝りもしないから。お宅の教育どうなってるんですかね」
 二人は自己の正当性を主張する。理路整然とした話し方だ。
「なにを言っている! わたしは見たぞ! このこのあしを引っかけたんだ! やまもとも見ただろう!」
 彼の叫び声は空しいばかりのように思われた。大人と子供の話では一体どちらを信じるだろうか。
 しかしただ一人の男はそうではなかった。男はどこまでも自分に正直であった。
「お前は何を見たんだ」
 身を屈めて正面から男の子と目を合わせる。祖父の低い声に孫は大いに勇気づけられたようだった。
 男の子は自分の見たことを全て話した。甲高いわめくような声ではない。自信に満ちた朗々とした声であった。祖父は一度も口を挟まずにその話を聞いていた。
「つまり」
 厳めしい顔の男は頷いた。
「そこの男が子供の足をひっかけたのを見たお前は馬鹿だの何だの言ったところ、向こうが怒ったので逃げてきたと」
「そうだ!」
 孫は悪びれる様子もなく元気良く応える。彼もまた素直な子供であった。自分のやったことは何一つ間違っていないのだから当然である。自信満々、輝く瞳で祖父を見つめる。彼はため息をついて立ち上がった。
「俺の孫の口が悪いことは確かだ。このままではお前たちも気が済まないだろう」
 男たちは顔をさらににやけさせた。
「警察を呼ぶか」
 この瞬間彼らの表情が凍る。男は冷ややかな目を向ける。
「幸い人出も多い。見ていた者もいるだろう。白黒はっきりさせるべきだ」
「そ、そこまでしなくてもいいですよ」
「……何を勘違いしている」
 男は冷たく地獄の底を這うような声であった。
「お前たちが何もしていなければ孫を叱るだけですむ。だが」
 男は二人を鋭く睨みつけた。
「孫の言ったことが真実であった場合、お前たちが実に卑劣な許し難い行為をしたということだ。然るべき対応をさせてもらうぞ」
「そんな大げさな……」
「何が大げさか!」
 男はとうとう吠えた。二人組は縮み上がった。
「子供を泣かせて楽しむような輩に大げさも何もないだろう!」
 男はじりじりと二人組に近づく。彼らは動くどころか息もできないようであった。
「俺の目の黒い内は勝手なまねはさせないぞ」
 その場は緊張感に包まれた。
「今度こんなしょうもないことしてみろ! ただじゃすまさんぞ!」
 男の怒鳴り声が響く。二人組は「すみませんでしたっ」と叫んで一目散に駆けていった。



「こっちにおいで」
 柊が身を屈めて声を掛ける。男の子の腕の中にいた女の子は恐る恐る彼女に近づく。そしてその腕に包まれると強ばった顔が歪んでいく。そして彼女は火がついたように泣き出した。今までの分を取り戻すかのようにわんわん泣く。
 祖父はそれに不快感を示すような顔をしたが、何も言わずに孫へと向き直った。
 そして鉄拳。孫の頭にクリティカルヒットである。骨と骨がぶつかり合う音だ。周りの大人たちが思わず顔をしかめるほど痛そうな音であった。
「なにをするんだ!」
 さすがの腕白坊主も目に涙を浮かべている。
「自分で勝てない喧嘩は買うな!」
 祖父の怒号に男の子は果敢に反撃する。
「わたしのじじなのだからいいだろう!」
 彼の主張はこうだ。彼は自分の祖父である。つまり家族だ。他人ではないのだ。自分の戦力として数えてもよいのではないか。5歳児の理路整然とした主張である。
「そんなわけあるか!」
 祖父の怒鳴り声は衰えない。
「子供のくせに余計なことをするな!」
 彼はくるりと振り返ると今度はそばに控えていた柊に対して怒鳴り始めた。
「こいつらをさっさと連れて行け!」
 彼女は「はあい」と暢気な返事をした。すぐそばにいた女性に何やら耳打ちすると山本にもさっと近づいた。
「あなたもいらっしゃい」
 山本は言われるがまま彼女について行った。
 柊は腕に女の子、左手は男の子と手をつないでいる。この生意気な子供はさすがに脳天直撃の拳骨が相当堪えたようだ。目から涙をぼろぼろと流しながら鼻をぐずぐずさせて黙って歩いている。
「だ、大丈夫……?」
「うるさい」
 口の強さは先ほどと変わらないようだが如何せん勢いがない。
 秘書が向かったのはソフトクリームの屋台であった。
「何がいい?」
 彼女の優しい声に女の子はようやく顔を上げた。顔がぱっと輝く。女の子はバニラを、男の子はチョコレートのソフトクリームを所望した。
 この屋台の近くには仮設事務所がある。柊は躊躇うことなくそこに入った。
 中にいた女性は彼女の姿を見るなりぱっと顔を輝かせた。どうやら旧知の仲らしい。
「可愛いわね、その子たち。迷子?」
「女の子の方はね」
「男の子は違うの?」
「こちらはなんと! 会長のお孫さんよ!」
 会長、というワードが出ると彼女の顔はひきつる。
「なんで連れて来ちゃうの!」
 悲鳴に近い叫びだ。山本は彼女の気持ちがよく分かる。しかし柊は笑みを絶やさない。
「会長は来ないから大丈夫よ。女の子の親御さんが見つかったら本部から連絡が来るから、よろしくね」
 彼女は事務所の奥からパイプ椅子を見つけるとそれを山本に並べさせた。彼らはようやく一息つくことができた。
「美味しい?」
「……うん」
 男の子はまだふくれっ面だったが、一心不乱にソフトクリームを食べる姿は年相応の子供らしく可愛らしかった。女の子はその姿を見てようやく食べ始めた。どこから手を着けたらいいのか分からないような、とてもぎこちない食べ方だ。口の周りはすぐに白くなってしまう。その都度秘書が甲斐甲斐しく拭いてやった。


 女の子の親はすぐに見つかった。両親と妹がやってくると彼女はようやくほっとした様子を見せたのが市田氏にとっては印象的であった。それまではまるで人形のように大人しかったのである。
 そのときも女の子を巡って孫が一悶着起こし怒鳴りつけたが、後は大人しく本部の隅で遊んでいる。
「……外に行ったらどうだ」
「……いい」
 まだふてくされているのか祖父に背を向けてただただ芝生を毟っている。孫の隣に立っている山本がどうしたものかと目をきょろきょろさせているのも気にくわなかった。隣で柊がにこにこと笑っているのも気にくわない。
「何だ。言いたいことがあるなら言え」
「お孫さんには気を遣われるんだなあ、と思って」
 男は何も言い返すことができずにただ眉間にしわを寄せる。妻にも同じことを言われていた。孫相手に気を遣っている訳がないと、彼は何もかもが気にくわなかった。
 市田会長がしばらく本部を離れて戻ってくると禿げた芝生があるだけで孫の姿はない。山本はと言えば飲み物を片手に辺りを見回している。孫の為に買ってきたのだろう。
「あら?」
 柊の声に彼は思わずそちらを向いた。あの腕白坊主がまたしても何かしでかしたのかと思ったのだ。
 ところが、目に飛び込んできたのはぐっすりと眠る孫の姿であった。椅子に腰掛けたままで頭はずり落ちて肩で頬をつぶしている。口はぱっかりと開いて間抜け面だ。
「あんなに走ったんですもの。疲れちゃったんですね」
 彼女は何か掛けるものを探すと言ったが彼はそれを止めた。
「もう帰るからいらん」
「あら、もうお帰りになるんですか?」
「俺がいたら仕事にならんだろ」
「よくお分かりで」
 彼はぎろりと元秘書を睨む。しかし彼女は慣れたものでにこやかに笑っている。
「またいらしてくださいね。皆の気合いが入りますわ」
「そうさせてもらおう。モヤシみたいな奴ばかりだからな」
 彼は山本を睨みつける。青年は相変わらず「すみませんっ」と縮み上がるので見ていて鬱陶しい。
 祖父は孫を眺める。あんなやんちゃ坊主だが寝ていると人形のように可愛らしい。
「ほら帰るぞ」
 一応声を掛けるが反応はない。彼は男の子の脇に手を入れて慎重に持ち上げる。五歳児の中では大きい方だとこの子の母親が言っていた。米袋のように持ちにくく重い。首が後ろに倒れないように気をつけて彼は孫を抱き上げる。
「邪魔したな」
 顔は依然として厳めしいままである。しかしその腕には安心しきって眠っている孫を抱え、彼は広場を後にした。


終わり

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