セラフィムの羽

瀬楽英津子

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再起〜むせび泣くほどの幸せと怖さ

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  「だとしたらますます寺田を簡単には手放さないでしょう。だって寺田は大切な積川のシノギなんですから」

  紀伊田の言葉を思い出しながら、松岡は一人、物思いに耽っていた。

  積川良二が内藤の息子であるとしたら、これまでの積川に対する内藤の過保護とも取れる言動も頷ける。
  しかし、それを理由に亜也人を簡単には手放さないという紀伊田の意見には素直に頷けないものがあった。

  松岡にはむしろ内藤が亜也人を積川から遠ざけようとしているように感じた。

  手放すつもりが無いのなら、そもそも人に預けなくとも薬漬けにでもして逃れられなくするだけの話だった。
  ましてや、積川のためなら自分の身を差し出すことも厭わない亜也人なら、薬など使わずとも簡単に従わせることが出来る。
  それをわざわざ他人に預け、契約というまどろっこしい形を取ってまで間接的に使うのは、亜也人が松岡の所有物であった方が、積川に亜也人を近付けさせない言い訳が立つからだろう。
  以前はそこまで考えなかったが、染谷への性接待の後、亜也人を弄んだ人間を皆殺しにしようとする積川の狂行を目の当たりにして松岡はそう確信した。
  我を忘れるほどのめり込む、相手を守るためなら罪を犯すことも厭わない盲信的な恋愛は、どこの世界にいようと危険がつきまとう。特に積川のような、ヤクザ社会に身を置く、将来、組の幹部に名を連ねる人間ともなれば、人を従わせこそすれ自分自身が自分の色に溺れ我を忘れるなどあってはならない事だった。
  内藤にしてみれば、亜也人の稼ぎ出す金よりも、亜也人と関わることによって生じる積川への悪影響の方を重く見たのだろう。
  本当は今すぐにでも始末したいが、幸か不幸か、亜也人に色を売る才能があると気付き、搾り取ってからでも遅くないと先送りにしている可能性もあった。

  だとすれば、亜也人の行く末は二つに一つ。2億の違約金を内藤に突き付けて自由になるか、その前に内藤に消されるかのどちらかだ。
  トラブルにはトラブルの元を絶つのが鉄則。例え亜也人に非が無くても、内藤にとっては亜也人の存在自体が既にトラブルであり、諸悪の根源であることは間違いなかった。
  亜也人は、大事な息子をたぶらかし、息子の輝かしい未来に水を差す疫病神なのだ。
  もしも積川がまた今回のような凶行を起こしたなら、内藤は、たとえ返済が残っていようと容赦なく亜也人を始末するだろう。
  そうなる前に、亜也人を完全に取り戻す必要があった。
  2億という金額を前に途方も無いと嘆くのではなく、具体的に計画を立て、稼ぎ出さねばならない。それが亜也人を手元に置いた自分の務めでもあると思った。

  期限は二年。
  積川良二が本部の部屋住みを終えて戻ってくる前にカタをつけなければならない。

  内藤からの依頼を待っているなどと悠長なことを言っている場合では無くなった。
  もちろん、亜也人の協力も必要不可欠だ。
  可愛そうなどと言っている余裕も、もう無かった。

  
  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



  あの頃に戻れたら全てが解決するような気がした。
  良二だけが好きだった頃。
  良二といることが当たり前で、この先もずっと一緒にいると信じて疑わなかった頃。
 
  あの頃に戻れたら、良二を犯罪者にすることもなければ、あんなふうに悲しませる事も無かった。  

  しかし戻れないことは解っていた。

  ならば、あの頃のように良二を好きになりたかった。
  良二以外の男に触れられることなど考えられなかった頃のように、良二だけを好きな自分になりたかった。 
  良二だけを好きになり、松岡を嫌いになりたかった。
  
  それなのに、どうしてこうも気持ちが真逆に動くのだろう。

  頬を撫でる、松岡のどこか思い詰めたような顔を見上げながら、亜也人は目頭まで込み上げた涙を流れ落ちる寸前のところで堪えた。

  涙と同じくらい、松岡を好きだという気持ちが溢れ出た。
  嫌いになろうともがけばもがくほど、松岡への気持ちが溢れ、切り裂くような何かが喉を塞ぎ、声を詰まらせる。 
  どうしてこんなにも好きになってしまったのだろう。
  松岡を想うと、胸の内側をキリキリと引っ掻き回されているような気持ちになる。
  この先、こんな気持ちのまま松岡を思い続けるのだろうか、とふと思った。心変わりした自分自身を恨みながら、良心の呵責に苛まれながら。 
  それならそれで、少しは気が楽になるのだろうか。良二を傷付けた罪を背負って生きて行けば良二は許してくれるだろうか。許されたいのか責められたいのか、自分の気持ちが自分でも良く解らなかった。

  松岡は、亜也人の腫れ上がった頬と瞼を優しく撫でると、彫りの深い、クールな印象を与える眉骨の出た目を物憂げに曇らせ、「大事な話がある」と切り出した。

  いつもとは違う雰囲気に、亜也人は戸惑った。
  深く静かではあるものの、松岡の瞳は、奥深くに一筋の闘志を宿しているような、凛とした強さを漂わせていた。
 
  松岡がこういう顔をする時は、何かを決意した時だ。
  ベッドに横たわる亜也人に、「起きれるか?」と尋ねると、松岡は、頷く亜也人の背中を抱いて起き上がらせ、システムデスクの椅子を引っ張り出してベッドの際に置いて座った。

  深刻な話であることは、松岡の真剣な表情と硬く貼り付いた瞳にはっきりと現れていた。

  松岡は、「これからとても重大な話をする」と前置きすると、シーツの上に揃えて置いた亜也人の手を取り、指の間に指を絡めてそっと繋いだ。

  亜也人の瞳を真っ直ぐに見、松岡は、内藤の思惑と、これから起こり得るであろう事態、そして、内藤の手から逃れるための方法を、一つ一つ言葉を選びながら丁寧に説明した。 

  「お前が積川に惚れてることは解ってる。だが今は内藤から完全に逃れることだけを考えて欲しい。
  内藤から逃れて自由になって、その時にまだお前が積川の元へ行きたければ、その時は…」  

  「その時は…?」

  松岡の深く静かな、それでいて心の奥底にまで訴えかけてくるような瞳が、瞬きもせず真っ直ぐ亜也人を捉えていた。  

  「その時は、お前がどうするか決めればいい」

  未だかつてないほど真剣な松岡に、亜也人は自分でも理解出来ない身体の震えを感じていた。

    「何、言ってんの?あんた、俺を自分のものにしたかったんじゃないの?それなのに、なんでそんなこと言うの?
  あんた、俺と良二を引き離したかったんだろ?そのために俺をここへ連れてきたんだろ?」

  「そうだ。だが、状況が変わったんだ」

  「変わった、って…」

  「これからは今までとは違う。残念ながら、お前の置かれた状況は、当初の想像よりずっと厳しいんだ。だから、これから俺は、お前に凄く嫌なお願いをする。多分お前に凄く辛いことをたくさんさせると思う。だから俺はもうこれ以上自分の気持ちをお前に押し付けるわけにはいかない。だから、内藤の件が片付いたら、その後の事はお前が好きに決めればいい」

  「何だよそれ…」

  「いきなりこんな事を言われて戸惑う気持ちは解る。でも、それだけ大変な状況にあるという事なんだ。俺も一緒に耐える。だからお前も自分の未来のためだと思って耐えて欲しい。自分のために、強くなって欲しいんだ」

  「自分の…ため…」

  「本当の意味で自由になる為だ。だから、仕方ないからするんじゃなくて、自分のためにやって欲しい。それしか方法が無いんじゃなくて、そうすることがベストなんだと気持ちを切り替えて欲しい」

  流されるのではなく、自分を助けるために自分で選んだのだと思って欲しい。だから恥ずべきことは無いのだ、と、嫌悪感も罪悪感も抱く必要は無いのだ、と松岡は言った。

  そして、おもむろに立ち上がると、自分が座っていた椅子を退け、床の上に正座した。

  「ちょっとあんた何やってんだよ!」

  驚き慌てる亜也人をよそに、松岡は、床の上に正座をすると、前に手を突き、背中を丸めて床に頭を付けた。

  「頼む。何も言わずに俺の言う通りにしてくれ。この通りだ」

  「やだやだ!やめてくれよ!土下座とかマジふざけんな。お願いだから顔上げてくれよ」

  松岡の肩が震えているのが解った。まさか、泣いているのだろうか、と思い息を飲む。
  その、まさか、だった。
  途端に、泣き出したくなるような胸の騒めきに襲われ、亜也人は慌ててベッドから転がり降りた。

  「ちょっと、頼むよ。あんたバカかよ。なんで泣いてんだよ」

  松岡の正面に膝を付き、腕を掴んで頭を上げさせる。
  松岡はしかし、頑なに頭を床に付けた。

  「本当にすまない。何もしてやれなくて」

  驚きと戸惑いが混じり合い、切ないような息苦しさに襲われる。
  抱き締めたい衝動に駆られ、亜也人は、目の前で身体を折り曲げて咽び泣く松岡の背中を包み込むように抱き締めた。

  「もう、頼むから、こういうのやめてくれよ。松岡さんは何も悪くないじゃん。
  俺、本当に大丈夫だから。それに、もし俺が危ない目に遭いそうになっても、松岡さんがちゃんと助けてくれるんだろ?」

  震える肩が、頷くように大きく震えた。

  「ならいいじゃん。俺、ちっとも不安じゃないよ。あと…さっき、俺が良二に惚れてるって言ってたけど、それは半分当たりで半分外れだよ。俺はまだ松岡さんのこと何も知らないけど、それでも今、俺が知ってる松岡さんの事はちゃんと好きだよ。良二の事は嫌いにはなれないし、多分忘れられないし…。でも、俺は松岡さんの事だってちゃんと想ってるし、松岡さんの事が好…」

  瞬間、松岡の背中が起き上がり、力強い腕が亜也人の身体をしっかりと抱き締め懐に引き寄せた。
  声を上げる間もなく胸の中に抱きすくめられ、亜也人はギュッと身体を縮めた。

  「松岡…さん?」

  松岡の息がうなじをじんわりと湿らせる。甘い疼きに身体を反らせると、更に引き寄せられて肩越しに首にキスをされる。
  痛いくらいに激しいキスだ。
  キツく吸われた部分が、松岡が唇を離したそばから赤い跡をつけて行く。  
  首の付け根からだんだん上がっていって耳たぶを噛み、耳の内側のカーブを舌先でなぞって息を吐きかける。松岡の切なく喘ぐような囁きが亜也人の耳に湿った息と一緒に流れ込んできた。

  「亜也人…好きだ…」

  亜也人は、「俺も…」と呟いた。  

  同時に、松岡が耳元から顔を上げ、密着した身体を一旦離して亜也人を真正面から見つめた。
  鼻息が掛かるほどの距離で見つめ合い、唇を小さく開いて唇を重ね、口を開いたまま、お互いの唇を吸っては離す、を繰り返した。

  「抱きたい…」

  もはや返事をするまでも無かった。亜也人は松岡に抱き竦められたままベッドに落とされ、慌ただしく着衣を脱がされた。

  「ごめんな、俺、もうこんなになっちまって…」
  
  亜也人を丸裸にしてベッドに横たえると、松岡は、下着を下ろして下腹部を露出させ、亜也人の手を取って、張ち切れんばかりに逞しくそそり勃った男根に押し付けた。

  「嘘。キスだけでこんなになったの?」

  「キスだけじゃねぇ。お前の顔とか声とか…ああもう、そんな事どうでも良い!」

  「あっ、待って!」

  早急に覆いかぶさろうとする松岡を胸板に手をついて止めると、亜也人は、松岡を自分の隣に寝そべらせ、上体を起こして松岡の男根に顔を近付けた。

  「あ、バカ、やめろ…」

  「なんで? 松岡さんいつも俺にしてくれるじゃん。だから今日は俺が…」

    赤黒く反り返る陰茎の根元を握り、はみ出た部分に唇を這わせながらカリ首まで舐め上げた後、亀頭をすっぽりと口に含んだ。
  熱く張り詰めた亀頭が口の中でビクンと跳ねる。
  歯を立てないよう顔を上下に動かしながら舌を使って飲み込むように喉の奥へ押し流す。口をすぼめてずずっと音を立てて吸い上げ、一旦口を離して、舌全体で、テラテラと光った陰茎を下から上へ丁寧に舐め上げた。

  「お前…これ、マジでやばい…」

  「ひもち…いい? ひ…つもひてもらうように…ングッ…ひてるつもりなん…らけど…」

  「あ、バカ。咥えたまま喋るな…」

  頬ばりきれないほどいきり勃った男根が亜也人の口の中で更に硬く大きくなって行く。頬肉が熱を帯び、先端から溢れる先走りが喉の奥を伝い流れた。

  「ダメだ。お前、ちょっと後ろ向け…」

  え? と顔を上げたところを腰を掴んで身体の向きを変えられ、松岡の顔にお尻を向ける形で四つん這いに股がされた。

  「ちょっ…これヤダ、恥ずか…あんっ…」

  息をつく暇もなく、お尻の肉を左右に広げられうっすらと覗いた肉壁を舌の先でつつかれ、舐められる。松岡の舌の熱さと湿った吐息に後孔がヒクヒクと喘ぐ。そこに冷たいローションがたっぷりと垂らされ、松岡の節くれだった指が内側に擦り付けるようにズブズブと押し入ってきた。

  「んぁッ!あ…やぁッ!」

  あっという間に根元まで入れ込むと、今度は指を回転させながらゆっくりと引き抜く。指先が後孔の入り口付近を通るたび、亜也人が泣き声にも似た悲鳴を上げる。 
  亜也人の反応を楽しむかのように、松岡は指の抜き差しを執拗に繰り返し、指を増やして亜也人の感じるスポットを指先でねじるように撫でつけた。
  亜也人の、松岡の男根を舐める口は完全に動きを止め、お尻に湧き上がる身悶えるような快楽にただ喘いだ。

  「も…やだ…イキそ…あっ、あぁ…」

  「イケばいいさ」

  「やだやだっ!そしたらまたあんな…あっ、やぁぁッ!」

  自分の意思とは関係なく強引にイカされ、亜也人が悲鳴を上げながら欲望をほとばしらせる。
  強烈な快感に四つん這いになった身体を崩してヘタリ込むと、後ろから腕を回されて身体を前向きに返され、松岡の膝の上に乗せられた。

  「尻を浮かせろ…」

  これ以上ないほど肥大した男根が、亜也人の前に差し出されている。あまりの存在感に尻込みしていると、腰を掴まれ軽く持ち上げられ、後孔に固く起立した亀頭を押し当てられた。

  「ちょっ…嘘でしょ、今イッたばっかなのに…ヒッ…」

  今度は、持ち上げたお尻を松岡がゆっくりと自分の下腹部に引き寄せる。
  あ、あ、あ、あ、という喘ぎとともに、松岡の男根が双丘を割り裂きながら亜也人の身体に飲み込まれて行く。
  まだ痙攣の収まらない身体が松岡の熱に敏感に反応し、亜也人を再び快楽のうねりへと誘った。

  「すげ…。入ってくとこ丸見え…」

  「やぁっ…動かないでぇッ!」 

  切ない疼きがお腹の奥から頭の先に抜け、触れられてもいないのに乳首の先がジンと疼いて硬くなった。
 
  「ああ、すっげぇ吸い付く…」

  「あ、あ、あ、やっ、あんっ、だめ、そんな激しくし…な…あっ」

  根元まで埋め込まれた状態で、腰を上下左右に小刻みに激しく揺さぶられる。振動が、ギチギチに広げられた肉壁を伝って奥に流れる。
  身体が悶え、何かに抱きつきたい衝動に駆られて松岡の胸にうつ伏せに倒れ込むと、松岡の腕が伸びてきて亜也人を自分の胸に引き寄せ、抱き締めた。

  「なんだこれ。なんでこんな吸い付くんだよ。お前ン中は…」

  「しらな…い…ンぁっ」

  突き上げられるたびに、松岡のお腹に密着したペニスが擦れて甘美な疼きが巻き起こる。亜也人が離れようと身をよじっても松岡はしっかりと抱いて離さず、激しく腰を突き入れ亜也人の身体を揺すり上げる。後ろを突かれる刺激と挟まれ擦られる刺激で亜也人のペニスが硬く強張り卑猥な蜜を滴らせた。
  
  「奥がうねってる…」

  「も…だめ…それ以上したら、あああ、あ、イキそう…あ、イクッ…」

  身体をビクンと跳ね上げながら、亜也人は二度目の射精を迎えた。
  射精を伴わない絶頂を含めたら、既に片手は超えている。
  しかし松岡は本能を剥き出しに、呼吸も治っていない亜也人をベッドの上に仰向けに返し、正常位の体勢で奥深くに腰を埋めた。

  「あっ、やぁっ、も、や、だめ…」

  腰を斜め上に突き上げながら、イッたばかりの敏感なペニスの先端を手のひらで激しく擦り上げる。下唇を噛んで耐える亜也人に構いもせず、松岡は、一向に勢いの衰えない男根を亜也人の後孔に根元までずっぷりと嵌め込み、お腹の奥の更に奥まで突き上げ、揺さぶった。
  
  「奥はやだっ…変になるっ…」

  想像を超えた快楽に、亜也人の身体が勝手にイヤイヤと首を振る。松岡はそれすらも聞き入れず、亜也人のペニスを握り締めて腰を振り動かした。

  「お願い、も、やめ、あ、ダメっ、そこ、やだって…」

  一度覚えた快楽に、心より身体が先に反応する。攻める手を緩めない松岡に、亜也人はもう切なく喘ぐしかなかった。

  「あ、あ、あ、やだっ、おかしくなる。漏れちゃう…あっ、漏れる…やぁっ、も、出ちゃう…」

  「我慢しなくていいから、出しちまえ」

  「やぁ…あ、あ、あ、あ、そな、激しくしちゃ…あんっ、や、で、出ちゃう、あ、出る!」  

  殆ど無意識に、亜也人は松岡の腕を掴んでいた。
  
  同時に、身体の奥から猛烈な快感が込み上げ、身体がビクビクと波を打つ。朦朧とした意識の中で自分の身体から何度も飛沫が上がり、松岡の胸板ではじけ散るのが見えた。

  「亜也人…やべぇ…可愛い…俺の亜也人…」
  
  松岡の囁く声が湿った吐息と共に耳のすぐ横に貼り付いた。
  亜也人は、振り向き、松岡にキスをねだった。
  咽び泣きたいほどの幸せと、それと同じだけの怖さが胸の底に湧き上がる。
  松岡を無くしたくないと思った。
  良二といた頃は、一人になることが怖かった。
  しかし今は、松岡を無くすことが怖かった。
  一人になることよりも松岡を無くすことが怖かった。

  「離れたくない…」

  松岡もまた、熱を帯びた唇を狂おしいまでに激しく亜也人に押し付け、舌を絡ませた。

  「離さないよ。俺がいつも側にいる。二人で乗り越えよう」

  まるで、雛に餌を与える親鳥のように、松岡のキスは、亜也人に自分の愛情を余すことなく伝えるかのように、亜也人の舌先に優しく、柔らかく絡みついた。

  



  一年後。

  年の瀬も押し迫る小雪混じりの深夜。
  都内某所の高級ホテルの最上階のスペシャルスイートに向かうエレベーターの中で、松岡は、なかなか進まない階数表示を睨みつけていた。

「おい、まだ解除できないのか!」

「ちょっと待って下さいよ。最新式のロックシステムなんすからそんな簡単には開きませんて」

  紀伊田のどこか他人事のような口ぶりに、松岡がピンマイクを摘んだまま舌打ちをする。
  
  亜也人と連絡が取れなくなって小一時間。最後に話した場所から移動したとして、部屋に入ってから、もう30分以上経っていることになる。

  これまでの経験上、30分が勝負の分かれ目で、それを超えると救出率は格段に下がる。特に今回のようなスピード重視の単純任務は時間の経過が命取りになることもあり、松岡の心中は穏やかでは無かった。

「くそッ!つべこべ言ってねぇでさっさと解除しやがれ!!」

  松岡の喚き散らす声に重なるように、紀伊田の呆れ混じりの長い溜め息がフリーハンドのイヤホンから漏れ流れた。

「もう。そんなに心配しなくても亜也ちゃんなら大丈夫ですよ。きっと今頃、相手を骨抜きにしてますって」

  「それが問題なんだ」

  「あらら、ひょっとしてまたヤキモチですか? これはビジネスだって言ったの松岡さんでしょ?少しは亜也ちゃんを見習ったらどうなんです」

  「あいつは割り切りすぎなんだ…」

  ふと、亜也人の、長い睫毛に縁取られた二重瞼の勝気な瞳が松岡の脳裏に浮かんだ。

  去年のちょうど今頃、違約金2億の返済計画を話して聞かせた時は、この世の終わりとばかりメソメソしていたくせに、それからさほど経たぬうちに、亜也人はすっかりビジネスと割り切るようになった。
  お陰で松岡はタバコの量が増えた。

  確かに、強くなれ、と言った。自分を助ける為なのだから、嫌悪感も罪悪感も感じる必要は無い、と言った。

  しかし、まさかここまで逞しくなるとは思っていなかった。
  紀伊田の言う通り、もはや亜也人は自分の身体を差し出すことを完全に仕事と割り切り、さほどダメージは受けていないのかも知れない。
  むしろ松岡の方がもろに受けていて、だからこそ、一分一秒でも早く仕事を終わらせるよう綿密に計画を立て、亜也人が最悪の事態に陥らないよう配慮している。
  それでも計画通りに進むのは約三分の二、残りの三分の一は何かしらのアクシデントに見舞われる。高額の報酬を得るだけに、ターゲットも一筋縄ではいかないのが現状だった。
  
  「聞いてます?松岡さん。もう少しで開きますから、エレベーターおりたらそのまま行って下さい。あと、くれぐれもブチ切れないで下さいよ。松岡さんがキレたら、亜也ちゃんが頑張った意味が無…」 

  小煩い紀伊田との通話を切って、再び階数ボタンを睨みつける。
  程なくしてエレベーターが最上階に到着すると、扉が開いた隙間から素早く外へ出て、最初に見えたドアの前に立った。紀伊田が遠隔操作でロック解除したドアは、ノブに手を掛けるだけでスムーズに開く。

  「間に合ってくれ」

  心の中で叫びながら主寝室に踏み込むと、写真で見るよりずっと人相の悪い、ターゲットの、品の無い卑猥な笑い顔と目が合った。

  「ほぉら、やっぱり来やがった…」

  間に合わなかった。

  男は、松岡が入ってくるのを待ち構えていたかのように、わざと見える位置で、亜也人を後ろから抱きかかえ見せつけるように腰を突き上げていた。
  抜き差しする様子がよく解るよう、亜也人にお尻を突き出させて結合部を露わにし、ゆっくりじわじわとイチモツを出し入れする。
   男が腰を突き上げるたび、亜也人の白い身体が芯の抜けた凧のようにふにゃふにゃと宙に揺れた。

  「こんなカワイコちゃんが俺に気があるなんておかしな話だと思ったんだよ。残念ながら眠剤は飲んでねーよ。ところでお前、一体、どこの手のもんだ」

  瞬間、目の奥が、ギィィン、と痺れ出した。

  「あっ、吉祥、ダメっ!」

  身体がカァッと熱くなり、そのくせ意識は急速に澄み渡って行く。頭の中に男と亜也人の位置情報が、ザッ、と展開し、たちまち最短ルートがスローモーションで浮かび上がった。
  ここまで来たら誰にも止められない。
  松岡は、自分でも無意識のうちに頭に描かれたルートを通って男の懐に入り込み、一寸の無駄もなく、男のこめかみにアイスピックを突き立てていた。

  ひぃぃぃぃ、と、男の、裏返った悲鳴が響く。

  同時に、亜也人の手が松岡の頬を打った。

  「やめて! 殺したら、金、貰えなくなるよ!」  

  言われ、松岡はようやく我に返った。

  「金を貯めるためにやってるんだろ?あんたがこんなんじゃダメじゃんか!」

  18歳の若造に横っ面を叩かれ、諭されるとは、〝東の殺し屋〟が聞いて呆れる。しかし、一旦仕留めるモードに入った松岡を止められるのは亜也人以外にはいなかった。
  仕方なく、松岡は、アイスピックを下ろし、代わりに男の顔面を力一杯殴った。

  ターゲットを生け捕りにし、丸裸のままクライアントに引き渡すと、松岡は亜也人を支えながら部屋を出、迎えに来た紀伊田の車に乗り込んだ。

  「ねぇ紀伊田さん聞いてよ。この人また仕事ぶち壊そうとしたんだよ? 自分が遅れてきたくせにブチ切れちゃって、俺が自分の身を削ってこんなに頑張ってるのに、俺の苦労なんか全然解ってくんないんだから」

  「解ってるよ」

  「どうだか」

  乗車早々騒ぎ立てる亜也人を、紀伊田がミラー越しに「まぁ、まぁ」と宥める。

  「それだけ亜也ちゃんのことが心配なんだよ。男はもともと嫉妬深い生き物なんだから、拗ねないだけまだマシだと思わなきゃ…」

  言い終わるが早いか、松岡が、余計な事を言うな、と運転席のシートを後ろから蹴り上げ、紀伊田が、うわっ、と声を上げる。

  紀伊田の頓狂な声に亜也人がクスッと口元を緩める。
  黒目がちの澄んだ瞳がゆるやかに笑み、ほんのり色付いた頬が丸く柔らかく盛り上がる。

  無邪気な笑顔だ。

  内藤からの依頼はもちろん、一般市民から各界著名人、大物政治家まで、報酬が良ければ何でも引き受ける松岡の元で、文字通り、自分の身を削って文句も言わずに働く、この、18歳の暮らしとしては異常すぎる日常の中でも亜也人はこんなにも純粋に無邪気に笑う。
  神聖さをも感じさせる微笑みに、松岡は我を忘れて見入った。

  気配に気付いたのか、亜也人が、  「なに?」と松岡を振り返る。殆ど無意識に、松岡は、亜也人の後頭部に手を回し、優しく包んで引き寄せていた。

  「ちょっ、紀伊田さんが見てるだろ…」

  戸惑う言葉とはうらはらに、亜也人が、上目遣いの甘えた目で松岡を見上げ、視線だけをゆっくり唇に落とす。
    キスを待っている仕草だ。
  長い睫毛を震わせながら松岡の唇を見詰め、乾いた唇を舌の先でペロリと舐める。 
  官能的な仕草に、松岡の視線が自然と亜也人の唇に落ちる。

  「見てたっていい…」

  「このエロおやじ…」

  唇が近付きそっと触れ合う、しかしその寸前で、様子を察した紀伊田が突然アクセルを踏み込み、後部座席が大きくバウンドした。

  「紀伊田、テメェ!」

  松岡の罵声をよそに、紀伊田がどこ吹く風とばかり涼しい顔でフンと笑う。
  紀伊田の胸の内を晒すように、車は軽快なリズムで高速を駆け抜けた。 

 
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