永久(とわ)に咲くらむ

瀬楽英津子

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第二話〜青い花

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 朝露を受けた露草が、塀の脇に小さな紫の帯を作っていた。
 翌朝、明け六つの鐘が鳴って間もない頃、だんだんと白くなる空を背に、久一は蜩(ひぐらし)の鳴き盛る道を一心不乱に駆けていた。
 武家方の屋敷の建ち並ぶ中をひた走り、漆喰塗りの壁続きの門の前に立つ。
 葵は、ここ、大御目付の木俣の屋敷の座敷牢に身を置かれ、未の刻には町の獄に繋がれることになっていた。
 拘束中の罪人と対面することは固く禁じられていたが、平岩の屋敷での久一のただならぬ気配に押され、家老、平岩が温情をかける形で久一は葵との対面を許された。
 口にこそ出さないものの、久一の常軌を逸した行動に、その場に居合わせた誰もが久一の葵への想いを特別なものだと確信した。久一の様相はそれほど鬼気迫るものがあった。
 門番に案内され、大御目付の木俣と面会したのち、久一は、木俣の従者に屋敷の離れにある座敷牢へと案内された。
 牢は離れの一番奥にあり、中だけを見ればただの質素な座敷部屋だが、その入口は格子で塞がれ、明かり取りの窓をも板で潰された逃げ場の無いまさに牢獄であった。
 けれど板廊下と外を仕切る雨戸は完全には閉め切られておらず、わずかに開いた隙間から柔らかな朝の日差しが細い帯となって流れ込んでいた。
 葵は、光の帯が薄く照らす牢の真ん中で、薄水色の小袖に身を包み、膝の上に両手を揃え、背筋を正して正座していた。
 深く瞑想するように目を閉じ、従者が格子の入り口の錠前を外してもぴくりとも動かず、久一が名前を呼びかけると、一瞬身体をビクつかせ、悪い夢の途中でいきなり目を覚ましたかのようにカッと目を見開いた。

「久一! どうしてここへ……」

 それまでの落ち着いた様子から一転、葵は、大きな目を更に大きく見開き、恐ろしいものでも見るかのように唇を引き攣らせた。

「平岩様が取り計らって下さったのだ……。俺が、どうしてもお前に会いたいからと無理を言って……」

 最後に見てからまだ二日と経っていないというのに、葵は傍目にもわかるほど痩せ衰え、ただでさえ白い顔が血を抜かれたように青白く淀んでいた。
 まるで蝋細工のように色の無い顔に、ただ泣き腫らした目のふちだけが赤く染まり、その目が大粒の涙を溜めながら見上げるさまは久一のみならず従者の憐憫をも誘った。
 従者は久一を牢の中に通すと、あたかも最後の時を惜しみなく過ごせと言わんばかりに、入り口の外から錠前を下ろし、四半刻後にまた来ると言い残して奥の部屋へと引っ込んだ。それは平岩からの最後の情けであった。
 こうして久一は、座敷牢の中で葵と二人きりで向き合った。

「あおーーー」

 言い掛けたところを直ぐに葵に指先で唇を押さえられ、その先の言葉を止められた。
 葵の目は、「何も言わないでくれ」と久一に訴えかけていた。

「もういいんだ、久一。自分がどうなるかはもう解ってる。ただ、これだけは信じて欲しい。俺は、皆が噂しているようなことは断じてしていない。俺は若様を誘惑などしていない」

「そんなこと解ってる! お前はそんなことが出来る奴じゃない! 皆もちゃんと解ってる!」

 久一の言葉に、葵の、瞳が沈んでしまいそうなほどぎりぎりまで溜まった涙が、ついに瞼から溢れて頬を伝い流れた。

「久一に誤解されてなくて良かった……。ありがとう。最後に会えて本当に嬉しかった……」

「最後なんて言うな!」

 衝動的に、久一は、葵を自分の胸の中に搔き抱いていた。
 内に秘めた思いが出口を求めて騒ぎ立て、口にすまいと決めた言葉が決意を無視して勝手に喉を押し上げる。
 刻一刻と近付く別れの時が、久一の強がりや我慢を一掃した。
 久一は、葵の瞳からはらはらとこぼれる涙を指先で拭い、痩せた頬を手のひらで優しく包んだ。

「好きだ……」

 言葉が、ためらいもなく溢れた。

「俺は葵が好きだ。仲良くなってから、ずっとずっと好きだった」

「久一……」

「すまない。本当は言うつもりじゃなかったんだ。でも、やっぱりどうしても言わなきゃって……だって俺は葵のことがずっとずっと……」

 好き。

 そう言い掛けた久一の言葉を再び葵の指先が塞いだ。

「言わないで。それ以上言われたら死にたくなくなる……」

「じゃあ死ぬなよ!」

「無茶なこと言わないで。もう決まったことなんだ……」

 葵の、眉尻に向かって細くなる弓形の眉が悲しそうに下を向く。葵の瞳が滲んで見えるのは葵の涙のせいばかりではなかった。久一は、自分の頬を伝う涙を拭いもせず葵の腕を掴んで身体を揺さぶった。

「嫌だ! 俺はお前が好きなんだ! せっかく言えたのに、お前が死んだら意味無いだろ!」

「意味ならあるよ……」

 涙に濡れ光る睫毛を震わせながら、葵は黒く澄んだ瞳を久一に向けた。

「意味ならある。俺も久一がずっと好きだったんだ……」

 寝耳に水の反応に固まる久一をよそに、葵は静かに呟くと、驚き顔の久一を見ながら、クスッと唇を緩めた。
 
「やっぱり気付いて無かったね。俺も……ずっとずっと久一が好きだったんだ。でも言えなかった。だから、今、こうして言えて凄く嬉しいんだ。俺は、学問を極める夢も藩の役に立つ立派な御役人になる夢も叶えられなかったけど、大好きな久一と恋仲になるっていう夢は叶えることが出来た。諦めていた夢を、最後の最後で久一が叶えてくれたんだ……。だから、俺にとっては凄く意味があるんだ……」

 久一は何も言えなかった。口を開けばたちまち嗚咽に変わってしまいそうで、溢れる言葉をことごとく喉の奥へと飲み込んだ。
 葵は、息が詰まったように張り詰める久一の頬を指先で優しく撫でながら、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で囁いた。

「だから、最後に俺のお願いを聞いて欲しい……」

「お願い……?」

 葵の、やつれてもなお美しい白い顔が、黒い前髪を揺らしながら頷いた。

「口付けをして欲しいんだ……」

「くちづ……け……」

「ああ……。もう、死んでしまっても構わないと思えるような口付けが欲しい。そしたら俺は、その口付けの中で死んで行く。怖いことなんか何も無いよ。だって、俺は、ずっとずっと久一の口付けとともにいられるのだから……」

「葵っ!!」

 久一の叫びは殆ど言葉になってはいなかった。
 発作的に、久一は、葵に抱き付き、葵の細い身体を胸の中に大切に抱えながら、覆いかぶさるように仰向けに押し倒した。
 
「好きだ。葵……」

 額にこぼれた前髪を指先ですくい、葵の顔を確かめるように、おでこから順番に指先でなぞっていく。
 三日月形の柔らかな眉、長い睫毛、黒目の勝る大きな目、小鼻の小さい鼻筋の通った鼻、静かに微笑んでいるような端の上がった唇。一つ一つを、忘れないようしっかりと瞳に焼き付け、赤い花びらを貼り付けたような唇を、指先で薄く開かせてゆっくりと顔を近づけた。

「あ……」

 唇を重ね、内側の柔らかい部分に舌の先を忍ばせ、唇を割りながら口の中へと差し入れる。
 初めての感触に戸惑い固まる葵の舌を丁寧に舐めほぐし、緊張が解けて柔らかくなったところを絡ませ合うよう促した。

「んっ……んんっ……」

 おずおずと差し出される葵の舌を唇で挟んで吸い上げ、自分の舌を巻き付けながら舐めしゃぶった。
 舌の裏側から甘い唾液が溢れ、息継ぎするたび、飲み込みきれなかった唾液が唇の端から顎を伝い流れる。
 ふと、葵の白い喉を伝う唾液を舐め取ったのがきっかけだった。
 柔らかく滑らかな葵の肌の感触に、久一の中に、葵にもっと触れたいという願望が芽生えた。
 もう二度と会えなくなる。その、逃れようの無い現実が、久一の情念を駆り立てていた。
 久一は、葵の小袖の襟を開き、顎から喉へと伝い舐めた舌を更に胸元へと下げた。
 葵は、訳が解らないという様子で身体を強張らせていたが、久一の唇が白い胸の両側に佇む薄桃色の乳首を摘むと、ふと我に返ったように身をよじった。

「やっ、なにっ、久一!」

 一度ついた火はもう自分では消しようが無かった。
 久一は、起き上がろうとする葵の腕を取って優しく制し、不安に揺れる瞳に囁いた。

「葵が欲しい……」

「欲しい、って……」

「好きなんだよ葵が……。唇だけじゃ足りないほど……すごく、すごく……」

 葵は何も答えず、ただ、大きく瞬きした。

「俺も……ずっと葵を感じていたい。会えなくてなってもずっとずっと葵を側に感じていたい。……だから、葵の全てが欲しい。葵のこと忘れないように、葵の全てをこの身体に刻み付けたい……」
 
 抵抗しないのが葵の返事だった。全てを受け入れるように、葵は静かに久一に身を任せた。
 久一は、穏やかな表情を浮かべる葵に口付けし、薄水色の小袖の帯をとき、開きかけた胸元の合わせ目を大きく左右に開いた。
 薄っすらと隆起した胸、両側に佇む幼さの残る乳首、すらりと窪んだ腹部。
 外から差し込む光の帯にぼんやりと浮かび上がる葵の白い身体は、これまで久一が見たどんな葵より美しかった。
 久一は、目の前に差し出された葵の透けてなくなってしまいそうなほど白い胸に顔を埋め、まだ誰の手垢も付いていないあどけない乳首に吸いついた。
 愛撫の仕方など知る筈も無い。久一はただ葵の身体を傷付けないように、早る気持ちを押さえながら優しく丁寧に乳首を吸った。

「あっ……ひさ……んっぁ……」

 表面を丁寧に舐め、反対側も同じように舐めた後、みぞおちからお腹へと唇を滑らせるた。
 どこをどうすれば葵が気持ち良くなるのかも解らないまま、両方の乳首を、蝶の羽を摘むような繊細さでそっと摘みながら、舌の先を丸めてお腹の真ん中からお臍の窪みに舌を這わせる。
 葵の身体を一つ残らず記憶させるように、軟らかい皮膚を丹念に舐め回し、身体の中心の真新しい竿を口に含んだ。

「あぁっ! そんなとこダメっ! いっ……いやぁ……ッ!」

 大切に、大切に、葵を傷つけないよう丁寧に舐めしゃぶり、膝を立たせて、その下の後孔へと舌を伸ばす。
 噂で聞いた知識を頼りに、葵の身体をゆっくりと開き、厳かな儀式のように内側へ割り入った。
 それは、身体を重ねた、と言うにはあまりに幼く不完全なものであったが、久一と葵の心を結びつけるには充分な熱を持っていた。
 その熱は、二人の心を結びつけ、魂を結びつけた。
 行為の後、葵は、どこか艶かしさを漂わせた佇まいで身なりを整え、名残惜しさを露わにする久一を宥めるように微笑んだ。

「そんな顔しないで。俺は今すごく幸せな気分なんだ。ずいぶん早くお迎えが来てしまったけど、一足先にあの世で待ってる。久一は俺の分まで存分にこの世を楽しんで欲しい。そしていつか、どんなだったか俺に教えてくれ」

「葵……」

「そんな顔しないで。いつも見守ってるから……」

 愛おしそうに目を細めながら久一を見ると、葵は、自分の髪を結えたこより状に縒った紙紐をほどき、久一の小指に縛り付けた。

「約束……。寂しくなったらこれを見て……」

 久一は、紙紐を結んだ小指を茫然と眺めていたが、ふと、思い出したように小袖のたもとから銭入れを取り出し、くくり紐の先に付いた根付を千切って葵の手に握らせた。

「これ……」

 小さな花が二輪、絡まるように咲く彫り物が施された木製の根付だった。

「俺も……約束。寂しくなったらこれを見て俺を思い出して……」

「でも俺は……」

 言い掛け、しかし、葵はすぐに振り払うように「ううん」と首を振った。

「ありがとう。大切にする。久一に会いたくなったらこれを見て久一を思い出すよ……」

 その後、葵は城下町の獄に繋がれ、親への最期の挨拶も許されないまま三日後に処刑された。
 刑は通常、刑場で執り行われる決まりになっていたが、葵の刑の執行はある日いきなり何の沙汰もなく執行され、その刑は、斬首であったとも、竹槍で突かれたとも、刀剣の試し斬りにされたとも囁かれた。
 藩校の仲間をはじめ周りの者は皆、葵と若様の間に何があったのか事の真相を知りたがったが、久一は正直どうでも良かった。
 今更真相を知ったところで葵が生き返るわけではない。久一にとっては葵が生きているかどうかだけが重要であり、葵がこの世からいなくなってしまった以上、全てがどうでも良いことのように思えた。
 久一には、身体に刻み付けた葵の感触と、約束の紙紐が全てだった。
 久一は、ことあるごとに葵の感触を思い出し、紙紐を眺めては目頭を熱くした。

 あれから七年。
 十五歳だった久一は二十二歳になり、葵は十五歳の姿で止まったまま時だけが過ぎ、ひと月ほど前、七回忌の法要を終えた。
 当時町中を賑わせた葵と若様の噂話もいつの間にか断ち消え、皆が少しづつ確実に葵の存在を過去へと葬り去っていた。
 久一も、当時の、止むことない悲しみと喪失感と絶望の泥沼からは徐々に抜け出し、葵から貰った紙紐を見ても涙がこぼれることは無くなっていた。
 その紙紐も、縒った部分が大きくたわみ、今にも千切れそうなほど擦り減っていた。久一はそれを小さな布袋に入れて首にぶら下げ肌身離さず身に付けていた。
 記憶や感情が薄れて行く中、目に見える形のあるこの紙紐だけが葵の痕跡を確かに残す唯一の証となっていた。
  その証も、月日の経過とともに袋の中で擦り切れ、特に夏場の暑い時期は、汗が袋に染みて紙紐を濡らし痛みに拍車をかけた。
 身に付けるのも限界かも知れない。
 蜜羽の噂を聞いたのは、久一がそう思い始めた頃だった。
 剣術の手習いの帰りに立ち寄った町の按摩(あんま)屋で、久一は、江戸から戻った武官が、吉原にほど近い陰間茶屋に、葵に瓜二つな陰間がいると話しているのを偶然耳にした。
 陰間は名を蜜羽といい、二年前、桔梗屋の張り見世に初めて姿を現すなりたちまち人気となり、当時傾きかけていた桔梗屋をわずか一年で花街一の大看板に押し上げてしまったという。見たところ二十歳前後と陰間にしてはとうが立っているが、その美貌は、吉原きっての呼出し花魁、藤尾太夫にも引け劣らぬと評判で、ひとたび身体を重ねたが最後、身包み剥がされ骨の髄までしゃぶられるという噂まであった。
 しかし、姿形が似ていようと所詮は赤の他人。
 久一は、葵がもうこの世の何処にもいないことをある意味一番理解している。どれほど生き写しであろうと、それが葵でないことを誰より知っているのは久一だ。
 久一にとって、葵は、死んでしまった葵以外他にはいない。葵の代わりなど何処にも居るはずがなく、身代わりを求めたこともなかった。
 それなのに桔梗屋を訪ねたのは、年月とともに薄れゆく葵の面差しへの恋しさと、自分と同じように歳を重ねた葵の姿をひとめ見てみたいという些細な出来心からだった。
 その出来心が、久一の胸をめちゃめちゃに掻き乱していた。

「いい加減にして下さいな。いきなり訪ねてきて一緒に出掛けようだなんて、自分が何をおっしゃってるのか解ってるんですかい?」

 嫌がる蜜羽を無理やり抱いてから十日ばかり経った頃、久一は、桔梗屋の裏口で、着流し姿の蜜羽に詰め寄られていた。 
 何の気なしに訪れた仲見世で蜜羽を見かけ、ふらふらと後をつけてきてしまった。裏口をくぐったところを呼び止めたものの、その先の言葉が続かない。取り敢えずどこかへ連れ出そうと外へ誘うと、蜜羽は、意志の強そうな二重瞼のはっきりとした目で咎めるように久一を見上げた。

「無茶もたいがいにして下さいな。俺を誰だと思ってるんです。まがりなりにも、この桔梗屋を背負って立つ看板陰間の蜜羽ですよ? 馴染み客でもあるまいし、揚げ代も貰えないのに、どうして旦那に付き合わなきゃならないんです!」
 
 美人画から抜け出したような端正な顔を憎々しげに歪め、男にしてはやや高い、透き通った笛の音のような声を尖らせて蜜羽は捲し立てた。
 しかし久一は、蜜羽の怒りも訴えも、何一つ頭に入ってはいなかった。
 久一の前に蜜羽はいなかった。
 久一は葵を見ていた。
 葵は、久一の目の前で、長く伸ばした黒髪を頭の高い位置で纏め、縦縞模様の着流し姿で、戸口にもたれ、腕組みしながら斜めに構えて久一を見上げている。艶やかな前髪が頬骨にこぼれ落ち、紅を挿していない生々しい唇が愚図るようにへの字に曲がる。美しい、けれども、女のようではない凛とした男の佇まいだ。今、久一の目の前にいるのは、男のために着飾り媚を売る蜜羽ではなく、自分の意見をしっかりと持ち、誰に対しても物怖じせず向かっていく在りし日の葵の姿だった。
 久一は、自分を睨みつけて離さない力強い目と、挑むように瞬く長い睫毛を呆然と眺めた。

「ちょいと旦那! 俺の話、聞いてるんですかい?」

 久一は、胸の内側から湧き起こる鳥肌が立つような感覚に身体を震わせていた。

「俺は……俺はただお前と話を……」

「話? 俺は別に旦那と話すことなんて何もありませんがね」

「そうじゃなくて……。そうだ、白玉……小豆の乗った白玉を出す店を知ってる。一緒に行かないか。お前、白玉、好きだっただろ?」

 葵が、「え?」と言ったままポカンと口を開ける。
 その隙に、久一は、腕組みした手を引っ張り表へと走り出した。
 無意識に握った手を持ち変えて手を繋ぎ直すと、久一の手の中で、細い指がもぞもぞと動いて同じように繋ぎ返す。
 まるで、繋がれ方を知っているような自然な動きだった。
 しっかりと繋がれた手に意識を向けながら、久一は、瞼の奥に佇む葵に思いを馳せた。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



「ほどほどにしとかないと今に痛い目に遭うぞ……」

 江戸城にほど近い水野家上屋敷、武官たちの寝所として充てがわれた長屋の一室で、久一は、同部屋の及川に諌められていた。

 江戸に滞在してふた月。尊王攘夷派の動きは過激の一途を辿り、江戸城周辺はにわかに殺気立っていた。中でも薩摩との確執は日増しに強くなり、薩摩領、島津邸上屋敷の動きに不穏な動きはないか厳重に注意せよとのお達しが内密に発せられ、久一たち武官も緊張の只中で動向を見守っていた。
 しかし一方で、慣れない土地での暮らしにもようやく慣れ、武官たちにも娯楽を楽しむ余裕が出てきた。
 それが凶と出て、花街に足を伸ばす武官も増える中、久一が蜜羽と連れ立って歩いていたという噂は、瞬く間に屋敷の細部にまで知れ渡った。
 久一としては、妓楼が開店する前、お昼時のほんの半刻ばかしの間、普段着姿の蜜羽と一緒に蕎麦を食べたり白玉を食べたりしただけだったが、男姿とはいえ蜜羽の容姿は素顔でも充分人見を引き、その飾らない姿がかえって久一との関係を親密めいたものに見せていた。
 あの蜜羽が一介の藩士に入れあげている。
 噂は尾鰭を付けて面白おかしく広まり、蜜羽の一番の贔屓筋である貿易商の近衛庄右衛門(おうみしょうえもん)の耳にも入った。
 色恋ごとに痴情のもつれは付き物だが、男同士の場合、同性ならではの心の結び付きや面子が複雑に絡み合い、男女のそれとは違う激しさを見せる。
 情勢の乱れよりも、及川は、久一の身を案じているようだった。

「お前の気持ちも解るが、あいつはやめた方が良い。庄右衛門は言わずと知れた幕府御用達の豪商だ。そんな奴に睨まれたとなればお前もただでは済まされまい。それに、あの蜜羽は、亜米利加さんの男妾だったなんていう話もあるくらいだ。亜米利加が絡んでるってことは、幕府とも繋がりがあるやもしれん。こんな時にそんな曰く付きの陰間と繋がりを持ってもいい事など一つも無い。それに……」

 途中まで言って、及川は、言いにくそうに語気を弱めた。

「それに……。あいつは葵じゃない……」

 及川の言葉が冷たい氷となって久一の胸の底に落ちた。
 言われなくても解っている。しかし、身体が言うことを聞かなかった。
 頭では解っていながらも、葵にあまりにも似すぎた蜜羽に、久一の中の、頭で考える意識とは別の部分の感覚が狂おしく蜜羽を求めていた。
 いや。正確には葵を求めていた。
 蜜羽ではなく、蜜羽の中にある葵の面差しや雰囲気を久一は求めていた。

「姿形がいくら似ていようと、あいつは葵じゃない。お前のしてることは蜜羽をもてあそんでいるのと同じだ。庄右衛門だけでも厄介だというのに、蜜羽まで怒らせたらどうするつもりだ」

 久一の心を見透かすように、及川は、久一を咎めるように見た。
 久一は息が止まったように身体を硬らせた。
 どう返答して良いのか解らない。ただ、胸の奥から嫌な熱さがぞわぞわと這い上がり、脳裏に浮かぶ、蜜羽なのか葵なのか解らない端正な顔をぼんやりと眺めた。

「似すぎているのだ……。本当に……信じられないくらい似すぎているのだ……」

 弱音、と言えば弱音だった。どうしようもない思いに胸を締め付けられ、久一は、痛みを堪えるような苦しげな声を吐いた。

「あいつが葵で無いことは解ってる。だが、おかしいのだ。姿形だけじゃない。声も、表情も、歩き方も葵そのものだ。どうしてこんなに似ているのだ。こんなに似た人間が本当にいると思うか?」

「それはお前が勝手にそう思っているだけだ。考えてもみろ。もう七年だ。人の記憶なんて当てにならない。お前だって、葵のことをはっきり覚えてるわけじゃないだろう?」

「それは……」

「お前は、知らない間に葵の姿を蜜羽にすり替えたのだ。お前が思い出してるのは葵じゃない、蜜羽だ。いい加減、目を覚ませ!」

 思いもよらない動揺が久一を襲った。

「違う!」

 自分が葵を間違える筈が無い。
 あんなにも恋しく、片時も忘れず想い続けた葵を他の誰かと間違えることなどある筈がない。
 では、蜜羽は何なのだ。
 蜜羽が葵でないことは解っている。しかし蜜羽を知れば知るほど、久一の中で、蜜羽が葵になって行く。
 蜜羽であって蜜羽でない。当然、葵でもない。
 しかし、自分の中の何かが葵を見ている。
 このどうしようもない矛盾をどう言い表せば良いのか、久一は自分自身、良く解らなかった。
 頭の整理もつかないまま、久一は、及川を突き飛ばして外へ飛び出した。
 逃げるように走りながら、違う違うと何度も自分に言い聞かせた。


 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 黒くて長い睫毛が、久一を見て大きく瞬く。
 艶やかな花柄の大振袖に、島田髷。黒塗りの駒下駄をカラコロと鳴らしながら近付くと、蜜羽は、薄化粧を施した顔を傘の下からひょいと出し、入り口に立つ久一を呆れたように見上げた。

「こんな夜更けにどうしたんです。蕎麦屋も団子屋も、もうとっくに店じまいしてますけど?」

 ぞんざいな言い方ではあるものの、おともの金剛を先に部屋に帰らせるあたり、久一の訪問を心底嫌がっているわけではないことが伺える。
 蜜羽の行動に垣間見えるその些細な好意が、久一を余計に悩ませていた。

「お前こそ、そんな綺麗ななりをしてどうしたんだ」

「これが普通ですよ。綺麗に着飾って御贔屓すじに会いに行く。色を売る者として、与えられた務めを果たしているだけです」

 潤んだ瞳、粘りのある視線、うっすらと上気する頬や島田髷から落ちる後れ毛が、つい今しがたまで男と情を交わしていた余韻を赤裸々に物語っている。
 込み上げたのは嫉妬だった。
 頭が理解した途端、久一は激しい嫉妬に襲われた。
 葵を汚されていると感じ、蜜羽に怒りの矛先を向けたその行為が、いつの間にか嫉妬に代わり、相手の男に矛先を向けている。
 けれど、何に対しての嫉妬かと聞かれたら久一には答えようがなかった。
 蜜羽を奪われたことに対する嫉妬なのか、葵を奪われたことに対する嫉妬なのか、目の前にいるのは蜜羽であって葵ではない。
 葵は着飾りもしなければ男に媚を売ったりもしない。しかし葵は、今、目の前で久一を見上げている蜜羽と同じように、一歩も引かないと言わんばかりの勝気な瞳を久一に向け、蜜羽と同じように、男にしてはやや高い、空気に通る澄んだ声で久一に訴えるのだった。
 葵であって顔でない。蜜羽であって蜜羽ではない。

「お前は誰なんだ……」

 無意識に、久一は、細い腕を掴み上げ、自分を見つめる大きな瞳に訴えていた。

「言え! お前は誰なんだ!」

 紅を挿した唇が「え?」と開いたまま固まる。
 答えを急くように、久一は開いたままの唇を激しく奪った。
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