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第三話〜咲かない花
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「お前は一体誰なんだ!」
蜜羽の、色白の鼻筋の通った瓜実顔が恐怖を浮かべて引き攣った。
力任せに吸った唇が充血して赤く腫れ上がる。
無理やり唇を奪ったあと、久一は、嫌がる蜜羽の腕を掴んで裏口脇の納屋へ引きずり込み怒りのままに詰め寄った。
蜜羽を傷付けるつもりは無かった。
久一はただ確かめたかった。
「どうして黙ってる! 言えよ! お前は誰だ! 何処から来た! お前の本当の名前は! 歳は! ここへ来る前は何処にいた!」
「何ですかいったい! そんなことを聞いてどうしようって言うんです!」
「いいから答えろ!」
細い手首を捻り上げ、詰め置かれた炭俵の上に押し倒して押さえ付けた。
弾みで、蜜羽が足先にひっかけた駒下駄が脱げ、足袋を履いた白い脚が、振り袖の裾を捲り上げながら久一の下でもがく。
その剥き出しになった脚を、動けないよう自分の膝で踏み付け、胸の前で結んだ帯を引っ掴んでほどいた。
「ちょっと……こんなとこで何する気です!」
「答えないなら今すぐお前をここで抱く」
「そんなめちゃくちゃな……。こんなことをして許されると思ってるんですか! だいたい、俺の過去なんか知ってどうするつもりです!」
「確かめたいんだ……」
低く呟くと、久一は、背中を左右によじって抗う蜜羽の肩をつかんで正面を向かせ、動揺に揺れる瞳を射抜くように睨んだ。
「俺が間違えるわけが無いってことを確かめたい……」
「いったい何言って……」
「俺が、あいつの顔を間違えるわけがない。この俺があいつを忘れるなんて有り得ないんだ」
柱に置かれた油皿の小さな灯りだけを頼りに、久一は、自分の陰で蜜羽を隠してしまわないよう、身体をずらし、蜜羽の顔を舐めるように見た。
「言ってくれ。お前は誰だ。言わないと本当に酷い目にあわせるぞ……」
橙色に染まる蜜羽の頬を撫で、ほっそりとした首に片手をかける。
今すぐにでも絞め殺すとでも言いたげな迫力に、蜜羽がごくりと唾を飲み込む。
しかし、そこまでだった。
久一の脅しなど物ともせず、蜜羽は、揺らめく炎に大きな瞳を赤茶色に染め、暗闇を歩く猫の目のようにギラつかせて久一を見返した。
「やれるもんならやりゃあいい。いきなりそんな訳わかんないこと言われて誰が答えられますか。それに、いくら聞かれたところで、俺には旦那が望んでるような答えは何一つ言えやしませんぜ?」
「どうしてそんなことが解る!」
売り言葉に買い言葉。深い意味など無いと知りながら、些細な言葉が久一の胸に引っ掛かった。
「どうして、って……」
「どうして俺が望んでる答えが言えないんだ。俺がどんな答えを望んでいるのか知ってるのか!」
「知りませんよ! ただの言葉のアヤでしょう。何をそんなにムキになってるんです!」
「ムキになってるのはお前の方だろう! 言っただろう? この俺が間違えるわけが無いんだ!」
「乱暴はやめて下さい!」
首を掴む手を除けようとする蜜羽の手を空いている方の手で阻み、吐く息がお互いの鼻先に流れ込みそうなほど近くに顔を近付けた。
「頼むから答えてくれ。俺はお前が好きなんだよ、葵……」
「やめ……」
鼻先に口付け、身体が逃げていかないよう両肩を押さえ付けて唇に口付けた。
「やっ……はなっ……んんっ」
抗う声が吐息と一緒に喉に流れ込む。唇を逸らそうと横を向く蜜羽の顔を追いかけて唇を奪い、歯の隙間から強引に舌をねじ込み奥深くに差し入れた。
「んんんっ……ん、いやっ……」
溶けてしまいそうなほどねっとりと絡み付く蜜羽の舌が、久一を拒絶しているというには無理があった。
「嫌じゃないだろ?」
緩んで開いた唇にたっぷりと舌を入れ、深く浅く、口の中の隅々まで丹念に舐め回す。
一旦、唇を離し、蜜羽に舌を突き出すよう言いつけると、蜜羽がためらいながらそろそろと舌を伸ばす。
やはり心底嫌がってはいない。
目の前に差し出された震える舌を吐息ごと唇で挟んで引っ張り出し、舌を絡めながらキツく吸い上げた。
「あぅっ……んっ、痛ッ……」
途端に、蜜羽がビクッと肩を竦めて久一の着物の袂(たもと)にしがみ付いた。
苦しそうな喘ぎ声がだんだん色っぽい鼻声に変わって行く。
反抗的な態度を取りながらも、蜜羽の身体が久一の愛撫を受け入れていることは誤魔化しようがなかった。
久一は、蜜羽の顎を伝う唾液を舌の先で舐め取ると、そのままツーっと喉を舐め下がり、振袖の前合わせを開きながら、鎖骨の窪み、胸元へと舌を這わせた。
「あっ……だめぇっ……」
声を上げたのは、胸の突起に唇が触れたせいだった。
納屋の中という人目を憚かる状況が性的興奮を煽るのか、蜜羽は、久一との口付けだけで乳首を硬く尖らせ、自らねだるように久一の前に胸を迫り出す。久一が膨らんだ乳輪ごとすっぽりと口に含むと、小さな粒となった乳首が更に硬く締まり、卑猥な性感帯となって久一の舌の上を転がった。
その感触が、あの時の葵の感触と重なった。
葵は、蜜羽のように、自分から愛撫をねだることも肢体を悩ましくくねらせたことも無かった。
けれどあの日。葵と過ごした最後の朝。蜩(ひぐらし)の鳴く座敷牢で、雨戸の隙間からわずかに差し込む朝日に浮かび上がる葵を抱いた時、葵は、今の蜜羽と同じように乳首を硬く尖らせ、久一がそれを口に含むと小さな粒を更に硬く縮ませビクビクと身体を震わせた。
妖艶さも淫靡さも男を手玉にとる手練手管も持っていない、本質的に蜜羽とは真逆の位置にありながら、それでも触れた時の肌の熱さや滑らかさは、今この手や舌に触れる蜜羽の感触に限りなく近かった。
これが、全て気のせいだというのだろうか。
人の記憶は当てにならない。葵の姿を寸分違わず覚えているわけではない。だから知らない間に葵の姿を蜜羽にすり替えてしまった。
けれど、久一の身体中の感覚がそれを真っ向から否定していた。
なぜなら、自分が葵を間違えるわけが無いからだ。
そして久一は結論を出した。
「これは葵だ……」
有り得ない戯言だと笑われようが、久一は、そう思うことでしか気持ちを抑えられなかった。
「お前は葵なんだろう?」
耳元で囁き、蜜羽の肉付きの薄いお腹に手を滑らせ、下腹部に指先を伸ばす。
探さなくとも、既に芯を持ち始めた蜜羽のしっとりと汗ばんだ竿が、久一の指先をピンと弾き返す。指を開いて手の中に握り込むと、蜜羽が、久一の着物の袂(たもと)をギュッと握り直し、言葉にならない声を上げた。
「やぁっ……なにす……」
手の中に収まる感覚も、手のひらに寄り添う感触も、全てがあの時と同じ質感で久一を包み、久一の意識を混同させる。
久一は今、暗闇の納屋で蜜羽に触れながら、同時に、あの夏の座敷牢で葵に触れていた。
「答えてくれ。お前は葵なんだろ? そうだって言ってくれよ……」
「いきなり何言ってんですか! 俺はそんな奴知らな……あぁっ、やめっ…あっ…ぁ……」
「葵……」
指先に力を入れ、手の中で強張りを増す竿を激しく扱き上げた。
「あっ! 嫌っ!」
腰をよじる蜜羽を、竿をギュッと握って大人しくさせ、潤み始めた先端に親指を当てしつこく撫で回した。
久一の手の中で、形良く起立した竿が熱を帯びて行く。暗闇だからこそ、肌の匂いや質感、触れた時の熱の変化や些細な反応がより確かに手のひらに伝わる。その全てが、今、自分の下で喘いでいるのは葵だと伝えていた。
「葵……葵……」
確信を求めるように、蜜羽の胸元にむしゃぶりついていた唇を皮膚伝いに下腹部まで伝い下ろした。
何をされるか察した蜜羽がゾクゾクとお腹を波立たせる。
手の中の竿はようやく男根と呼ぶに相応しいほどの硬さに反り返り、久一の指先にいやらしい蜜を滴らせていた。
「こっ、こんなところで駄目だ! あぁっ、だめっ……だめ……んぁあ」
ジタバタと抵抗する蜜羽に構いもせず、握りしめた手からはみ出た先の部分を口に含み、周りを伝う蜜を丁寧に舐め上げた。
先端の溝を舌でつつくと、蜜羽が、ヒッ、という声にならない叫びを上げる。構わず、小さな穴に唇をぴったりとつけて溢れる蜜を吸い出すと、蜜羽が、もうどうにも堪らないとばかり身体を硬らせ、股間に貼り付く久一の後頭部を掴んだ。
「あぁぁっ! いやっ! だめっ! だめだったら!」
「いい加減素直に認めろよ……」
「認めるも何も、俺は本当にそんな奴は……あぁぁっ、いやっ……あんっ」
「しっ。声を出すと店のもんに気付かれる……」
「いったい誰のせいで……んぁっ」
蜜羽が自分の腕を噛んで快感に耐える姿が、納屋を照らす小さな灯りにぼんやりと浮かび上がる。
声を殺して喘ぐ蜜羽とはうらはらに、久一は、わざと卑猥な音を立てて竿の先端を吸い、ふいに唇を離すと、今度は根元まですっぽりと口の中に納め、激しく頭を上下させた。
「いやっ! やだやだっ……離して! だめっ! いやだっ……っぁあぁっ…ん!」
既にじゅうぶん射精感を高められたところへ追い討ちを掛けるように吸い上げられ、蜜羽が、嫌、嫌、と首を振りながら身体を震わせる。
気をやるのももはや時間の問題だった。離れて欲しいと懇願する蜜羽をよそに、久一は、最後の仕上げとばかり蜜羽の男根を搾り上げ、蜜羽は久一の口の中に欲望を吐き出した。
久一は、それを舌の先に絡め取ると、自分の手のひらに吐き出し、指先ですくって後孔に擦り付けた。
「んぁッ、やっ、だめっ! 本当に、もうこれ以上はやめてったら!」
「やめないさ。ずっとずっと想ってたんだ、葵……」
「だから俺は葵じゃない! 俺はそんなやつ知らない!」
「嘘をつくな……」
後孔に添えた指を少しづつ根元までねじ込み、肉壁にこすり付けながらゆっくりと回し広げる。
広がった孔にさらに指を足し、中を掻き混ぜるように動かした後、蜜羽が泣いてよがり狂う場所を重点的に突いた。
「あああぅっ、そこだめっ……ううぅ、んんっ」
押し殺すことの出来ない喘ぎ声が、蜜羽の唇の隙間から漏れる。
三本まで増やした指を後孔からずるりと抜き、指先に残る愛液を猛々しく反り勃つ男根に擦り付け、先の部分を後孔の入り口に押し当てた。
「葵……」
「いやっ! だめっ! 入れちゃだめっ!」
両脚を強引に開き、腰を掴んでお尻を持ち上げながら体重をかけて中へ押し込む。肉壁を割り裂くように更に奥へとねじ込むと、蜜羽が両脚を宙に広げながら背中を弓なりに仰け反らせた。
「あっ、あああああっ、いいいっ……あっ……」
蜜羽の悶え泣く声を聞きながら、久一は、挿入してさらに硬さを増した男根を根元まで埋め込み、蜜羽の肉壁が自分の男根に馴染むのを待ってからおもむろに腰を動かした。
「あぁぁっ、あぁっ、も……やぁ……いッ……」
最初は小刻みに、次第にゆっくり大きく腰を動かし、だんだん速度を速めて行く。
意識を持っていかれそうな恍惚の中で、久一は、葵の声を聞いていた。
『俺じゃない』『こんなのは俺じゃない』
それは確かに葵の声だった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
通された大広間は、この世のものとは思えない美しさだった。
壁一面に描かれた荘厳な松と優雅な鶴。襖から天井まで伸びる色鮮やかな障壁画に、随所に散りばめられた高価な装飾金具。
まさに、豪華絢爛。権威の象徴。
しかし、その目も眩むような様相とはうらはらに、漂う雰囲気は殺気にも似た緊張感を孕んでいた。
「蜜羽、と申します。歳は十五。学問に秀でており、学ぶ機会を与えてくだされば洋学も難なく習得する逸材にございます。見ての通り、見目麗しい容姿なれば、こたびの亜米利加との交渉にもお役立ていただけるのではないかとこうして連れて参った次第にございます」
「ふむ。蜜羽とやら、面をあげい」
言われ、蜜羽は、平伏した顔を恐る恐る持ち上げた。
上質な着物の胸元が見える辺りまで顔を上げ、目が合わないよう視線を下げてさらに顔に上げる。
少しの沈黙の後、想像よりも若く親しみやすい声が蜜羽の頭上をゆるやかに流れた。
「確かに、男とは思えぬ美しさだ。これなら先方も必ずや気に入ろうぞ。美しい男を求めておると聞いた時はどうしたものかと途方に暮れたが、よもや、そちの領内にこれほどの逸材がおろうとは思わなんだ。誠に大義であった。後で褒美を遣わすぞ」
「有難き幸せにございます」
夢にまで見た御公儀様との対面は、目も合わさず、言葉も交わさないまま終わった。
いや、目が合い、言葉を交わせたとしても蜜羽の心は晴れなかった。
自分は売られたのだ。人ではなく、モノのように。
ほどなくして、蜜羽は、付き人と称する男の元へと預けられ、そこで色を売るためのありとあらゆる性技を仕込まれた。
男の仕打ちは、肉体的にも精神的にも苦痛を強いられる羞恥に耐えないものであったが、こうする以外に生きていく道は無く、断れば親兄弟が露頭に迷うことになると言われれば逆らうことは出来なかった。
唯一の救いは、男が邪な気持ちの無い職人気質な男だったことで、蜜羽は、仕込みの最中以外は辱めを受けることはなく、むしろ、優しく丁寧に扱われた。
男は蜜羽に性技を教えるだけでなく、蜜羽の身の回りの世話や洋学の手ほどきなどもした。
生きながらにして地獄へ落とされた蜜羽にとって、男から教わる洋学だけが唯一の拠り所だった。
そんな生活がひと月ほど続いたある日、突然、御公儀の紋付きの籠が屋敷の前に付けられ、蜜羽は、付き人の男とともに、とある寺へと連れられた。
待っていたのは、飴色の髪と灰色の瞳、白い顔に髪と同じ飴色の髭を蓄えた大柄な男だった。
男は蜜羽が初めて見る異国人だった。
男の顔を見るなり、蜜羽は、自分が招かれざる客であることを瞬時に感じ取った。男は明らかに蜜羽を歓迎していなかった。
それでも夜になれば蜜羽を寝所へ招き入れ、付き人がしたのと同じように蜜羽を辱め、蜜羽にあらゆる性技を強要した。
未通では無いというものの、男のイチモツは自分と同じ人間とは思えないほど大きく、付き人が渡した通和散というぬめり薬をもってしても腹を引き裂かれるような痛みを蜜羽に与えた。
凶悪な責め具と化したイチモツに繰り返し後ろを貫かれ、蜜羽は一晩のうちに何度も気を失った。
積極的に男を喜ばせるわけでも、気の利いた言葉を囁くわけでも無い、ただされるがままに責められ悶え喘ぐ蜜羽であったが、むしろそれが初々しいと、男は毎晩のように蜜羽を抱いた。
それでも歓迎されていない空気は相変わらず蜜羽の周りをピリピリと漂い、蜜羽をなんとも言えない居心地の悪い気分にさせた。
付き人は、男は蜜羽を歓迎していないわけではなく、母国への帰国を望む男を、ありとあらゆる方法で引き止めようとする幕府のやり方を歓迎していないのだと言ったが、だからといって蜜羽の置かれた状況が変わるわけでも無く、蜜羽は心を殺して男の相手をした。
男の欲求は凄まじく、男が蜜羽に飽きるよりも、蜜羽の身体が壊れて使い物にならなくなる方が早いのではというところまで来ていたが、幸いなことに、男はそれから一年も経たないうちに母国へと帰って行った。
表向きには病気療養になっていたが、それが仮病であることは蜜羽が一番良く知っている。
嘘も突き通せば誠になるのだということを、蜜羽は改めて思い知らされた。
男が去ると、次は、貿易商の近衛庄右衛門(おうみしょうえもん)の屋敷へと連れられた。
庄右衛門は言わずと知れた豪商で、当時、長崎で幅を利かせていた英吉利(イギリス)の武器商人に対抗して、亜米利加から武器を輸入するべく奔走していた。
洋学を学び、英語を理解するようになっていた蜜羽は、庄右衛門の商談に通訳として同行するなど重要な役割を任されていたが、見目の麗しさから色を売る宿命からは逃れられず、商売の道具として、当然のように取引相手の寝所へ向かわされた。
庄右衛門自身に男色嗜好は無かったが、相手の男たちが蜜羽との情交を天にも昇る気持ちであったと噂しているのを聞き付け、興味本位で蜜羽を抱いて以来、すっかり病み付きになってしまったようだった。
こうして蜜羽は、庄右衛門の元で取り引き相手と庄右衛門に繰り返し抱かれた。
そんな生活が四年ほど続き、十六だった蜜羽は二十歳になり、自分はこのまま庄右衛門の囲われ者として生きていくのだと思い始めた頃だった。
突然、前触れもなく幕府の使いが庄右衛門の元を訪れ、蜜羽は、花街にある寂れた妓楼へと送られた。
時はまさに動乱のさなか。長州征伐に失敗した幕府に追い討ちをかけるように、公武合体派だった薩摩が反幕府に方針転換したとの噂がまことしやかに囁かれていた頃だった。
蜜羽は、寂れた妓楼で、薩摩藩士の動向を探れとの命を受けた。つまりは密偵である。
薩摩藩士は男色を好む傾向が強いと聞き付けた幕府が、それに目を付け、蜜羽を陰間専門の妓楼に売ったのだった。大きな妓楼では敷居が高いからと、わざと寂れた桔梗屋を選んだのが功を奏し、蜜羽は、張り見世に出るなり薩摩藩士の目に止まり、多くの藩士と閨(ねや)を共にし情報を引き出した。
誤算だったのは、蜜羽の人気が予想以上に高まってしまったことと、役目を終えたはずの庄右衛門が、蜜羽恋しさに桔梗屋に通い詰めたことだ。幕府寄りの庄右衛門の存在は薩摩に警戒されるだけでなく、『あの庄右衛門すらも惑わす陰間』と蜜羽の名前に箔をつけ、ほかの豪商や江戸滞在中の大名たちの闘争心を煽ることとなった。
そうそうたる顔ぶれが蜜羽を求めたことで、蜜羽の評判は瞬く間に江戸中を駆け巡り、桔梗屋は、幕府の思惑に反し、わずか一年で高級遊郭にまでのし上がった。
結果、蜜羽は一介の武官には手の届かない売れっ子陰間となり、当初の目的であった、店の敷居を低くし、少しでも多くの情報を引き出すという幕府の目論見は崩れ去った。
それでも薩摩領島津家上屋敷に出入りする反幕府派の面子は稀に登楼することもあり、その度に蜜羽は寝物語でもねだるように巧みに情報を引き出した。
しかし一方で、政情は幕府に不利に働き、更に一年後、蜜羽が桔梗屋に遣わされて二年が経った今、希望を見出す筈の帝への政権返上が返って反幕府勢力の怒りを買い、城下は過激派による窃盗、刃傷被害が相次ぐ混沌状態となっていた。
まさに一触即発、一歩間違えば命をも落としかねない任務に蜜羽は神経をすり減らしていた。
疲れていたのだ。
だから魔が刺した。
何度思い返しても、蜜羽は、自分が正常であったとは思えなかった。
『高い銭をぶん取っておいて、まともに客を迎えることも出来ないのか』
久一の、怒り蔑む冷酷な目を前に、蜜羽は柄にもなく感情的になっていた。
突然の衝撃だった。
大人しくしていろ。余計な真似はするなと言われていた。
自分自身、厄介ごとを抱えるのはたくさんだとも思っていた。
これ以上の重圧はいらない。
人としての生き方などもはや望んではいない。今の自分はただのモノ。人としての自分はとうの昔に死んだのだ。
けれど、久一の瞳を見た瞬間、蜜羽の人としての感情が再び揺り起こされた。
怒りと蔑みと憎悪に満ち満ちた暗い瞳。しかし蜜羽は、久一の瞳の奥底に潜む強烈な感情に気付いてしまった。
それは壮絶な孤独。ひとたび足を踏み入れれば跡形もなく飲み込まれてしまうような圧倒的な暗闇であった。
その闇が、蜜羽の胸をきりきりとしめつけていた。
「いい加減お終いにしなければ……」
肩に回された腕を払い、蜜羽は、気付かれないよう静かに寝床から上体を起こした。
掛け布団からそろそろと脚を抜くと、寝入っているとばかり思っていた庄右衛門が不意に蜜羽の腕を掴んで引き止めた。
「どこへ行く……」
「厠(かわや)ですよ」
「ならいいが、あまり無用心に出歩くな。薩摩が反幕府派の浪士を集めているのは知っているだろう。そうでなくとも、御公儀様が帝に政権を返上したことで奴らは殺気立っている。幕府の密偵だということが知れたら手篭めにされるだけでは済まされない」
「それは庄右衛門様も同じでしょう」
「俺には私兵が付いてる。言っちゃぁ悪いが、お前が入れあげているあの田舎武士じゃ何の役にもたたないぞ」
「はて、なんのことやら」
「とぼけるな。町中もっぱらの噂だ」
「噂なぞ信じるんですか?」
「こうまで騒がれちゃさすがに俺も無視は出来ん。もっともあんな弱小田舎大名の武官など誰も本気で相手にはしないだろうが、そうは言ってもあちらさんも立派な幕府支持派だ。時が時だけに、あまり悪目立ちすると、それこそ奴もろとも過激派に取っ捕まってあの世行きだ」
「よして下さいな。なんだってこの俺があんな冴えない武官と一緒に死ななきゃならないんです。ご心配いただかなくとも、もう、あのお方に会うつもりはありません」
「ならば良いが……」
探るような庄右衛門の視線を小さく笑ってやり過ごすと、ふいに庄右衛門が蜜羽の腕を手前に引き寄せ、蜜羽は、庄右衛門の胸元へ抱き竦められる形でしなだれ落ちた。
「もう……。厠に行くと言ってるではありませんか……」
「厠になぞ用はないだろう?」
お上に命じられた事とは言え、十六の頃から今日まで身体を重ねた相手である。庄右衛門がただのおふざけで蜜羽を抱き寄せたのではない事は、庄右衛門の低い声色からも察しはついた。
「蜜羽。悪いことは言わないから俺のところへ来い。もうすぐ全てカタがつく。そしたらお前は用済みだ。役目を無くした密偵がどうなるかぐらいは想像がつくだろう?」
「お陰様で、偉い方の考えていることを当てるのは得意になりました」
「茶化すな。お前がその気なら、俺が、小笠原殿におとりなしをお願いしてお前を身請け出来るよう段取りしてやる。俺に囲われていれば当面の間は安全だ。生まれ変わったと思って、また俺の元で暮らさないか?」
蜜羽は何も答えず庄右衛門のしっとりと汗ばんだ胸板に頬を寄せた。
「もう生まれ変わるのはたくさんです」
聞こえるか聞こえないかの呟きは、唇をかすかに震わせただけで言葉になることは無かった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「またお前はそのような戯言を言って。葵はもう死んだのだ。七回忌の法要が終わったという報せも届いたろう?」
「だが、あれは葵だ! 俺には解るのだ!」
「馬鹿もたいがいにしろ! 死んだ人間がどうしてここにおる!」
「本当に死んだのか? 葵は討ち首になったのか? 首を見たものは? 葵が死んだ日、首斬り場に首は一つも並んでなかったと聞いた」
「だが、埋葬も済んでる。お前も見ただろう?」
確かに見たが、むしろから覗く脚は、いくら夏場とはいえ元の色を留めないほど激しく傷み、とても葵の脚とは思えなかった。
「あんなもの、どこの誰のものだか分かったもんじゃない……」
一度は諦め納得したものの、どうしてあの時もっと追求しておかなかったのだろうと今更ながら後悔が込み上げる。
しかし、それを理解してくれる者は誰もいなかった。
「お前は疲れているのだ!」
「疲れてなどいない! あれは絶対に……」
言い掛けたところを、「いい加減にしろ!」と一喝され、久一は、その先の言葉を飲み込んだ。
「あれほど葵を思い慕っておったくせに、ただ見てくれが似てるというだけで心乱されおって。お前は、葵とあの淫らな陰間の区別もつかないのか! そのようなことで、葵が可哀想だとは思わないのか!」
思い慕っていたからこそ久一には解る。しかし言ったところで理解されないことも解っていた。
久一は、言い返したいのを堪え、眼光の鋭い瞳を頑なに強張らせ、脚の横に揃えた握り拳を腕が震えるほどぎりぎりと握り締めた。
同部屋の及川も腹立たしさを噛み締めるように押し黙り、畳六畳ほどの寝所の空気が瞬く間にピリピリと張り詰める。
しかしそれを打ち破ったのは、久一でも及川でもなく、突然部屋を訪ねてきたまとめ役の武官だった。
「火急の用だ。夜分に失礼する」
武官は、久一と及川を部屋の真ん中に集め円陣を組むように座わらせると、顔を至近距離に詰め、殆ど吐息のようなヒソヒソ声で囁いた。
「今から言うことは、江戸市中取締役の新徴組(しんちょうぐみ)より我が領武官への内々の要請だ。くれぐれも他言の無いように」
武官は、久一たちをぐるりと見渡すと、息を整え、近々、江戸城及び江戸市中の警護を任されている庄内領の新徴組が、江戸にはびこる攘夷過激派の志士たちを一網打尽に捕らえる計画を立てていることと、その新徴組から、志を同じくする者同士、助太刀を願いたいとの申し出があったことを伝えた。
「相手が多勢なだけに、命がけの任務になるやも知れん。年の瀬の慌ただしい時ではあるが、気を引き締めて任務に当たって欲しい」
日時は追って沙汰があるとの事であったが、武官の口ぶりからここ二、三日のうちには動きかありそうな気配だった。
その晩、久一と及川はともに眠れない夜を過ごした。
命がけの任務になるかも知れない。
及川は自分の身を案じていたようだったが、久一は、自分の命よりも、このまま蜜羽と会えなくなってしまうことを恐れていた。
真相も解らないまま死ぬのは心残りだった。以前は、葵が待っていてくれていると思うと死ぬのも怖くは無かった。
しかし今は、葵を残して逝くのが怖かった。
「いい加減はっきりさせなくては……」
控えめに寝返りを打ち、久一は、首にぶら下げた小袋を握り締めた。
葵にもらった紙紐。
葵が触れた、葵の痕跡の残る形見。
迷っている隙は無かった。
翌日、早番の仕事を終えた後、久一は早速桔梗屋へと向かった。
昼見世の最中であったが張り見世に出ている色子はおらず、皆が入り口の土間に集まり、若い衆が正月用の餅をつく姿を楽しそうに眺めていた。
久一は店の外から蜜羽を探した。
蜜羽は、楼主の横で火鉢に当たりながら若い衆が杵を振り上げる様子を見入っていたが、久一に気付くと、楼主に何か耳打ちし、すっくと立ち上がって久一の前に来た。
「こんな時間に来るなんて珍しいですね」
無地の着物に半纏(はんてん)を羽織り、耳の横で束ねた髪を片方の肩から胸元に垂らし、毛先を指でいじりながら蜜羽は久一を見上げた。
久一は、自分を見上げる蜜羽の黒く澄んだ瞳を瞬きもせずに見た。
「話しがある。ここじゃ言えない……大事な話しだ」
「なら、俺の部屋へ行きましょう。俺もちょうど旦那に話しがあったんです……」
誘われるまま入り口をくぐり、訝しげな顔で見上げる楼主の横を通り過ぎ、大階段を上がって長い廊下の一番奥の蜜羽の部屋へ向かう。
絢爛豪華な座敷に足を踏み入れると、蜜羽は、長火鉢の横の座布団に久一を座らせ、その正面に姿勢を正して正座した。
「旦那の話はあとでゆっくり聞きますんで、まずは俺の話を聞いてくださいな」
蜜羽の男にしては高く澄んだ声が、滑舌良く空を切った。
「実はこの度、近衛庄右衛門様に身請けされることになったんです。だからもうこういうことは、これきりにしていただきたいんです」
「これきり、って……」
「身請けされるのに他の男と会っていていいわけが無いでしょう? だから、旦那とはもうこれきりにしたいんです。短い間でしたが、ご贔屓にしていただきありがとうございました。俺のことはどうぞ今日限りで忘れて下さい」
久一は一瞬にして凍りついた。
「勝手なことを言うな……」
頭は真っ白のまま何も考えようとしないくせに、身体が本能に突き動かされるように、ひとりでに、膝立ちになって蜜羽の半纏(はんてん)の襟を握り締めていた。
「ちょっと、離してください!」
「うるさい! これきりになんてさせて堪るか! せっかく逢えたのに! 葵! 葵!」
「だから俺は葵じゃない!」
胸の中に掻き抱いたところを激しく突っぱねられ、それを負けじと抱き寄せ、揉み合いながら床に崩れた。
「待て、葵!」
「離せ! 俺はそんな奴じゃない! 俺から離れろ!」
暴れる蜜羽を押さえつけ、仰向けに返して、身体の上に馬乗りに跨って両腕を押さえつけた。
蜜羽は、柔らかな印象の眉を別人のように憎々しげに歪め、噛み付くように久一を睨み付けた。
「葵……」
「うるさい! 俺をそんな名前で呼ぶな! 俺はそんなやつ知らない! 俺は葵じゃない!」
あまりの迫力に久一が怯んだその時だった。
突然、蜜羽が久一の手をすり抜けようと身体を反転させ、その拍子に、半纏の袂(たもと)から何かがコロリと床に転がった。
「これは……」
「それは、違っ!」
蜜羽も同時に手を伸ばしたが、先に拾い上げたのは久一の方だった。
久一の手の中にあったもの。それは、小さな花が二輪、絡まるように咲く彫り物が施された木製の根付だった。
「これは……」
途端に、久一の脳裏に、あの日の光景が蘇った。
ーーーこれは、俺が葵にやったものじゃないか。
葵と過ごした最後の朝。
葵と別れる間際に、久一が、紙紐と引き換えに葵に渡した根付。
寂しくなった時、いつでも思い出せるように、久一が葵に渡した根付。
それが今ふたたび久一の手の中にあった。
思い出した途端、恐ろしさにも似た感動が込み上げ、背筋に、熱いのか冷たいのか解らない震えが走った。
「葵……。やっぱりお前は葵なんだな……」
蜜羽を振り向かせて強引に目を合わせる。しかし蜜羽は、激しく首を振りながら久一を突き飛ばした。
「違う! 知らない! 俺は葵じゃない!」
「嘘だ! やっぱり俺が間違えるわけが無かったんだ。お前は葵だ! ずっとずっと会いたかったんだ、葵!」
畳の上を這いつくばって逃げる蜜羽の腰を掴んで引き戻し、後ろから腕を回してしっかりと抱き締める。
しかしそこまでだった。
「誰か! 金剛! 金剛はいないのか!」
蜜羽が叫ぶが早いか、突然襖が開き、蜜羽の付き人が部屋へ押し入り久一の首根っこを掴んで蜜羽から引き離した。
「葵! どうしてなんだよ、葵!」
蜜羽は何も答えず、押し倒された身体をよろよろと起き上がらせると、金剛に羽交締めにされた久一に近付き、久一の手を開いて、握り締めていた根付を取り上げた。
「葵! 葵!」
葵は答えはしなかった。
「葵! なんでだよ、葵!」
廊下を引き摺られながら、久一は、泣き出しそうな顔で立ち尽くす蜜羽に叫び続けた。
蜜羽の、色白の鼻筋の通った瓜実顔が恐怖を浮かべて引き攣った。
力任せに吸った唇が充血して赤く腫れ上がる。
無理やり唇を奪ったあと、久一は、嫌がる蜜羽の腕を掴んで裏口脇の納屋へ引きずり込み怒りのままに詰め寄った。
蜜羽を傷付けるつもりは無かった。
久一はただ確かめたかった。
「どうして黙ってる! 言えよ! お前は誰だ! 何処から来た! お前の本当の名前は! 歳は! ここへ来る前は何処にいた!」
「何ですかいったい! そんなことを聞いてどうしようって言うんです!」
「いいから答えろ!」
細い手首を捻り上げ、詰め置かれた炭俵の上に押し倒して押さえ付けた。
弾みで、蜜羽が足先にひっかけた駒下駄が脱げ、足袋を履いた白い脚が、振り袖の裾を捲り上げながら久一の下でもがく。
その剥き出しになった脚を、動けないよう自分の膝で踏み付け、胸の前で結んだ帯を引っ掴んでほどいた。
「ちょっと……こんなとこで何する気です!」
「答えないなら今すぐお前をここで抱く」
「そんなめちゃくちゃな……。こんなことをして許されると思ってるんですか! だいたい、俺の過去なんか知ってどうするつもりです!」
「確かめたいんだ……」
低く呟くと、久一は、背中を左右によじって抗う蜜羽の肩をつかんで正面を向かせ、動揺に揺れる瞳を射抜くように睨んだ。
「俺が間違えるわけが無いってことを確かめたい……」
「いったい何言って……」
「俺が、あいつの顔を間違えるわけがない。この俺があいつを忘れるなんて有り得ないんだ」
柱に置かれた油皿の小さな灯りだけを頼りに、久一は、自分の陰で蜜羽を隠してしまわないよう、身体をずらし、蜜羽の顔を舐めるように見た。
「言ってくれ。お前は誰だ。言わないと本当に酷い目にあわせるぞ……」
橙色に染まる蜜羽の頬を撫で、ほっそりとした首に片手をかける。
今すぐにでも絞め殺すとでも言いたげな迫力に、蜜羽がごくりと唾を飲み込む。
しかし、そこまでだった。
久一の脅しなど物ともせず、蜜羽は、揺らめく炎に大きな瞳を赤茶色に染め、暗闇を歩く猫の目のようにギラつかせて久一を見返した。
「やれるもんならやりゃあいい。いきなりそんな訳わかんないこと言われて誰が答えられますか。それに、いくら聞かれたところで、俺には旦那が望んでるような答えは何一つ言えやしませんぜ?」
「どうしてそんなことが解る!」
売り言葉に買い言葉。深い意味など無いと知りながら、些細な言葉が久一の胸に引っ掛かった。
「どうして、って……」
「どうして俺が望んでる答えが言えないんだ。俺がどんな答えを望んでいるのか知ってるのか!」
「知りませんよ! ただの言葉のアヤでしょう。何をそんなにムキになってるんです!」
「ムキになってるのはお前の方だろう! 言っただろう? この俺が間違えるわけが無いんだ!」
「乱暴はやめて下さい!」
首を掴む手を除けようとする蜜羽の手を空いている方の手で阻み、吐く息がお互いの鼻先に流れ込みそうなほど近くに顔を近付けた。
「頼むから答えてくれ。俺はお前が好きなんだよ、葵……」
「やめ……」
鼻先に口付け、身体が逃げていかないよう両肩を押さえ付けて唇に口付けた。
「やっ……はなっ……んんっ」
抗う声が吐息と一緒に喉に流れ込む。唇を逸らそうと横を向く蜜羽の顔を追いかけて唇を奪い、歯の隙間から強引に舌をねじ込み奥深くに差し入れた。
「んんんっ……ん、いやっ……」
溶けてしまいそうなほどねっとりと絡み付く蜜羽の舌が、久一を拒絶しているというには無理があった。
「嫌じゃないだろ?」
緩んで開いた唇にたっぷりと舌を入れ、深く浅く、口の中の隅々まで丹念に舐め回す。
一旦、唇を離し、蜜羽に舌を突き出すよう言いつけると、蜜羽がためらいながらそろそろと舌を伸ばす。
やはり心底嫌がってはいない。
目の前に差し出された震える舌を吐息ごと唇で挟んで引っ張り出し、舌を絡めながらキツく吸い上げた。
「あぅっ……んっ、痛ッ……」
途端に、蜜羽がビクッと肩を竦めて久一の着物の袂(たもと)にしがみ付いた。
苦しそうな喘ぎ声がだんだん色っぽい鼻声に変わって行く。
反抗的な態度を取りながらも、蜜羽の身体が久一の愛撫を受け入れていることは誤魔化しようがなかった。
久一は、蜜羽の顎を伝う唾液を舌の先で舐め取ると、そのままツーっと喉を舐め下がり、振袖の前合わせを開きながら、鎖骨の窪み、胸元へと舌を這わせた。
「あっ……だめぇっ……」
声を上げたのは、胸の突起に唇が触れたせいだった。
納屋の中という人目を憚かる状況が性的興奮を煽るのか、蜜羽は、久一との口付けだけで乳首を硬く尖らせ、自らねだるように久一の前に胸を迫り出す。久一が膨らんだ乳輪ごとすっぽりと口に含むと、小さな粒となった乳首が更に硬く締まり、卑猥な性感帯となって久一の舌の上を転がった。
その感触が、あの時の葵の感触と重なった。
葵は、蜜羽のように、自分から愛撫をねだることも肢体を悩ましくくねらせたことも無かった。
けれどあの日。葵と過ごした最後の朝。蜩(ひぐらし)の鳴く座敷牢で、雨戸の隙間からわずかに差し込む朝日に浮かび上がる葵を抱いた時、葵は、今の蜜羽と同じように乳首を硬く尖らせ、久一がそれを口に含むと小さな粒を更に硬く縮ませビクビクと身体を震わせた。
妖艶さも淫靡さも男を手玉にとる手練手管も持っていない、本質的に蜜羽とは真逆の位置にありながら、それでも触れた時の肌の熱さや滑らかさは、今この手や舌に触れる蜜羽の感触に限りなく近かった。
これが、全て気のせいだというのだろうか。
人の記憶は当てにならない。葵の姿を寸分違わず覚えているわけではない。だから知らない間に葵の姿を蜜羽にすり替えてしまった。
けれど、久一の身体中の感覚がそれを真っ向から否定していた。
なぜなら、自分が葵を間違えるわけが無いからだ。
そして久一は結論を出した。
「これは葵だ……」
有り得ない戯言だと笑われようが、久一は、そう思うことでしか気持ちを抑えられなかった。
「お前は葵なんだろう?」
耳元で囁き、蜜羽の肉付きの薄いお腹に手を滑らせ、下腹部に指先を伸ばす。
探さなくとも、既に芯を持ち始めた蜜羽のしっとりと汗ばんだ竿が、久一の指先をピンと弾き返す。指を開いて手の中に握り込むと、蜜羽が、久一の着物の袂(たもと)をギュッと握り直し、言葉にならない声を上げた。
「やぁっ……なにす……」
手の中に収まる感覚も、手のひらに寄り添う感触も、全てがあの時と同じ質感で久一を包み、久一の意識を混同させる。
久一は今、暗闇の納屋で蜜羽に触れながら、同時に、あの夏の座敷牢で葵に触れていた。
「答えてくれ。お前は葵なんだろ? そうだって言ってくれよ……」
「いきなり何言ってんですか! 俺はそんな奴知らな……あぁっ、やめっ…あっ…ぁ……」
「葵……」
指先に力を入れ、手の中で強張りを増す竿を激しく扱き上げた。
「あっ! 嫌っ!」
腰をよじる蜜羽を、竿をギュッと握って大人しくさせ、潤み始めた先端に親指を当てしつこく撫で回した。
久一の手の中で、形良く起立した竿が熱を帯びて行く。暗闇だからこそ、肌の匂いや質感、触れた時の熱の変化や些細な反応がより確かに手のひらに伝わる。その全てが、今、自分の下で喘いでいるのは葵だと伝えていた。
「葵……葵……」
確信を求めるように、蜜羽の胸元にむしゃぶりついていた唇を皮膚伝いに下腹部まで伝い下ろした。
何をされるか察した蜜羽がゾクゾクとお腹を波立たせる。
手の中の竿はようやく男根と呼ぶに相応しいほどの硬さに反り返り、久一の指先にいやらしい蜜を滴らせていた。
「こっ、こんなところで駄目だ! あぁっ、だめっ……だめ……んぁあ」
ジタバタと抵抗する蜜羽に構いもせず、握りしめた手からはみ出た先の部分を口に含み、周りを伝う蜜を丁寧に舐め上げた。
先端の溝を舌でつつくと、蜜羽が、ヒッ、という声にならない叫びを上げる。構わず、小さな穴に唇をぴったりとつけて溢れる蜜を吸い出すと、蜜羽が、もうどうにも堪らないとばかり身体を硬らせ、股間に貼り付く久一の後頭部を掴んだ。
「あぁぁっ! いやっ! だめっ! だめだったら!」
「いい加減素直に認めろよ……」
「認めるも何も、俺は本当にそんな奴は……あぁぁっ、いやっ……あんっ」
「しっ。声を出すと店のもんに気付かれる……」
「いったい誰のせいで……んぁっ」
蜜羽が自分の腕を噛んで快感に耐える姿が、納屋を照らす小さな灯りにぼんやりと浮かび上がる。
声を殺して喘ぐ蜜羽とはうらはらに、久一は、わざと卑猥な音を立てて竿の先端を吸い、ふいに唇を離すと、今度は根元まですっぽりと口の中に納め、激しく頭を上下させた。
「いやっ! やだやだっ……離して! だめっ! いやだっ……っぁあぁっ…ん!」
既にじゅうぶん射精感を高められたところへ追い討ちを掛けるように吸い上げられ、蜜羽が、嫌、嫌、と首を振りながら身体を震わせる。
気をやるのももはや時間の問題だった。離れて欲しいと懇願する蜜羽をよそに、久一は、最後の仕上げとばかり蜜羽の男根を搾り上げ、蜜羽は久一の口の中に欲望を吐き出した。
久一は、それを舌の先に絡め取ると、自分の手のひらに吐き出し、指先ですくって後孔に擦り付けた。
「んぁッ、やっ、だめっ! 本当に、もうこれ以上はやめてったら!」
「やめないさ。ずっとずっと想ってたんだ、葵……」
「だから俺は葵じゃない! 俺はそんなやつ知らない!」
「嘘をつくな……」
後孔に添えた指を少しづつ根元までねじ込み、肉壁にこすり付けながらゆっくりと回し広げる。
広がった孔にさらに指を足し、中を掻き混ぜるように動かした後、蜜羽が泣いてよがり狂う場所を重点的に突いた。
「あああぅっ、そこだめっ……ううぅ、んんっ」
押し殺すことの出来ない喘ぎ声が、蜜羽の唇の隙間から漏れる。
三本まで増やした指を後孔からずるりと抜き、指先に残る愛液を猛々しく反り勃つ男根に擦り付け、先の部分を後孔の入り口に押し当てた。
「葵……」
「いやっ! だめっ! 入れちゃだめっ!」
両脚を強引に開き、腰を掴んでお尻を持ち上げながら体重をかけて中へ押し込む。肉壁を割り裂くように更に奥へとねじ込むと、蜜羽が両脚を宙に広げながら背中を弓なりに仰け反らせた。
「あっ、あああああっ、いいいっ……あっ……」
蜜羽の悶え泣く声を聞きながら、久一は、挿入してさらに硬さを増した男根を根元まで埋め込み、蜜羽の肉壁が自分の男根に馴染むのを待ってからおもむろに腰を動かした。
「あぁぁっ、あぁっ、も……やぁ……いッ……」
最初は小刻みに、次第にゆっくり大きく腰を動かし、だんだん速度を速めて行く。
意識を持っていかれそうな恍惚の中で、久一は、葵の声を聞いていた。
『俺じゃない』『こんなのは俺じゃない』
それは確かに葵の声だった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
通された大広間は、この世のものとは思えない美しさだった。
壁一面に描かれた荘厳な松と優雅な鶴。襖から天井まで伸びる色鮮やかな障壁画に、随所に散りばめられた高価な装飾金具。
まさに、豪華絢爛。権威の象徴。
しかし、その目も眩むような様相とはうらはらに、漂う雰囲気は殺気にも似た緊張感を孕んでいた。
「蜜羽、と申します。歳は十五。学問に秀でており、学ぶ機会を与えてくだされば洋学も難なく習得する逸材にございます。見ての通り、見目麗しい容姿なれば、こたびの亜米利加との交渉にもお役立ていただけるのではないかとこうして連れて参った次第にございます」
「ふむ。蜜羽とやら、面をあげい」
言われ、蜜羽は、平伏した顔を恐る恐る持ち上げた。
上質な着物の胸元が見える辺りまで顔を上げ、目が合わないよう視線を下げてさらに顔に上げる。
少しの沈黙の後、想像よりも若く親しみやすい声が蜜羽の頭上をゆるやかに流れた。
「確かに、男とは思えぬ美しさだ。これなら先方も必ずや気に入ろうぞ。美しい男を求めておると聞いた時はどうしたものかと途方に暮れたが、よもや、そちの領内にこれほどの逸材がおろうとは思わなんだ。誠に大義であった。後で褒美を遣わすぞ」
「有難き幸せにございます」
夢にまで見た御公儀様との対面は、目も合わさず、言葉も交わさないまま終わった。
いや、目が合い、言葉を交わせたとしても蜜羽の心は晴れなかった。
自分は売られたのだ。人ではなく、モノのように。
ほどなくして、蜜羽は、付き人と称する男の元へと預けられ、そこで色を売るためのありとあらゆる性技を仕込まれた。
男の仕打ちは、肉体的にも精神的にも苦痛を強いられる羞恥に耐えないものであったが、こうする以外に生きていく道は無く、断れば親兄弟が露頭に迷うことになると言われれば逆らうことは出来なかった。
唯一の救いは、男が邪な気持ちの無い職人気質な男だったことで、蜜羽は、仕込みの最中以外は辱めを受けることはなく、むしろ、優しく丁寧に扱われた。
男は蜜羽に性技を教えるだけでなく、蜜羽の身の回りの世話や洋学の手ほどきなどもした。
生きながらにして地獄へ落とされた蜜羽にとって、男から教わる洋学だけが唯一の拠り所だった。
そんな生活がひと月ほど続いたある日、突然、御公儀の紋付きの籠が屋敷の前に付けられ、蜜羽は、付き人の男とともに、とある寺へと連れられた。
待っていたのは、飴色の髪と灰色の瞳、白い顔に髪と同じ飴色の髭を蓄えた大柄な男だった。
男は蜜羽が初めて見る異国人だった。
男の顔を見るなり、蜜羽は、自分が招かれざる客であることを瞬時に感じ取った。男は明らかに蜜羽を歓迎していなかった。
それでも夜になれば蜜羽を寝所へ招き入れ、付き人がしたのと同じように蜜羽を辱め、蜜羽にあらゆる性技を強要した。
未通では無いというものの、男のイチモツは自分と同じ人間とは思えないほど大きく、付き人が渡した通和散というぬめり薬をもってしても腹を引き裂かれるような痛みを蜜羽に与えた。
凶悪な責め具と化したイチモツに繰り返し後ろを貫かれ、蜜羽は一晩のうちに何度も気を失った。
積極的に男を喜ばせるわけでも、気の利いた言葉を囁くわけでも無い、ただされるがままに責められ悶え喘ぐ蜜羽であったが、むしろそれが初々しいと、男は毎晩のように蜜羽を抱いた。
それでも歓迎されていない空気は相変わらず蜜羽の周りをピリピリと漂い、蜜羽をなんとも言えない居心地の悪い気分にさせた。
付き人は、男は蜜羽を歓迎していないわけではなく、母国への帰国を望む男を、ありとあらゆる方法で引き止めようとする幕府のやり方を歓迎していないのだと言ったが、だからといって蜜羽の置かれた状況が変わるわけでも無く、蜜羽は心を殺して男の相手をした。
男の欲求は凄まじく、男が蜜羽に飽きるよりも、蜜羽の身体が壊れて使い物にならなくなる方が早いのではというところまで来ていたが、幸いなことに、男はそれから一年も経たないうちに母国へと帰って行った。
表向きには病気療養になっていたが、それが仮病であることは蜜羽が一番良く知っている。
嘘も突き通せば誠になるのだということを、蜜羽は改めて思い知らされた。
男が去ると、次は、貿易商の近衛庄右衛門(おうみしょうえもん)の屋敷へと連れられた。
庄右衛門は言わずと知れた豪商で、当時、長崎で幅を利かせていた英吉利(イギリス)の武器商人に対抗して、亜米利加から武器を輸入するべく奔走していた。
洋学を学び、英語を理解するようになっていた蜜羽は、庄右衛門の商談に通訳として同行するなど重要な役割を任されていたが、見目の麗しさから色を売る宿命からは逃れられず、商売の道具として、当然のように取引相手の寝所へ向かわされた。
庄右衛門自身に男色嗜好は無かったが、相手の男たちが蜜羽との情交を天にも昇る気持ちであったと噂しているのを聞き付け、興味本位で蜜羽を抱いて以来、すっかり病み付きになってしまったようだった。
こうして蜜羽は、庄右衛門の元で取り引き相手と庄右衛門に繰り返し抱かれた。
そんな生活が四年ほど続き、十六だった蜜羽は二十歳になり、自分はこのまま庄右衛門の囲われ者として生きていくのだと思い始めた頃だった。
突然、前触れもなく幕府の使いが庄右衛門の元を訪れ、蜜羽は、花街にある寂れた妓楼へと送られた。
時はまさに動乱のさなか。長州征伐に失敗した幕府に追い討ちをかけるように、公武合体派だった薩摩が反幕府に方針転換したとの噂がまことしやかに囁かれていた頃だった。
蜜羽は、寂れた妓楼で、薩摩藩士の動向を探れとの命を受けた。つまりは密偵である。
薩摩藩士は男色を好む傾向が強いと聞き付けた幕府が、それに目を付け、蜜羽を陰間専門の妓楼に売ったのだった。大きな妓楼では敷居が高いからと、わざと寂れた桔梗屋を選んだのが功を奏し、蜜羽は、張り見世に出るなり薩摩藩士の目に止まり、多くの藩士と閨(ねや)を共にし情報を引き出した。
誤算だったのは、蜜羽の人気が予想以上に高まってしまったことと、役目を終えたはずの庄右衛門が、蜜羽恋しさに桔梗屋に通い詰めたことだ。幕府寄りの庄右衛門の存在は薩摩に警戒されるだけでなく、『あの庄右衛門すらも惑わす陰間』と蜜羽の名前に箔をつけ、ほかの豪商や江戸滞在中の大名たちの闘争心を煽ることとなった。
そうそうたる顔ぶれが蜜羽を求めたことで、蜜羽の評判は瞬く間に江戸中を駆け巡り、桔梗屋は、幕府の思惑に反し、わずか一年で高級遊郭にまでのし上がった。
結果、蜜羽は一介の武官には手の届かない売れっ子陰間となり、当初の目的であった、店の敷居を低くし、少しでも多くの情報を引き出すという幕府の目論見は崩れ去った。
それでも薩摩領島津家上屋敷に出入りする反幕府派の面子は稀に登楼することもあり、その度に蜜羽は寝物語でもねだるように巧みに情報を引き出した。
しかし一方で、政情は幕府に不利に働き、更に一年後、蜜羽が桔梗屋に遣わされて二年が経った今、希望を見出す筈の帝への政権返上が返って反幕府勢力の怒りを買い、城下は過激派による窃盗、刃傷被害が相次ぐ混沌状態となっていた。
まさに一触即発、一歩間違えば命をも落としかねない任務に蜜羽は神経をすり減らしていた。
疲れていたのだ。
だから魔が刺した。
何度思い返しても、蜜羽は、自分が正常であったとは思えなかった。
『高い銭をぶん取っておいて、まともに客を迎えることも出来ないのか』
久一の、怒り蔑む冷酷な目を前に、蜜羽は柄にもなく感情的になっていた。
突然の衝撃だった。
大人しくしていろ。余計な真似はするなと言われていた。
自分自身、厄介ごとを抱えるのはたくさんだとも思っていた。
これ以上の重圧はいらない。
人としての生き方などもはや望んではいない。今の自分はただのモノ。人としての自分はとうの昔に死んだのだ。
けれど、久一の瞳を見た瞬間、蜜羽の人としての感情が再び揺り起こされた。
怒りと蔑みと憎悪に満ち満ちた暗い瞳。しかし蜜羽は、久一の瞳の奥底に潜む強烈な感情に気付いてしまった。
それは壮絶な孤独。ひとたび足を踏み入れれば跡形もなく飲み込まれてしまうような圧倒的な暗闇であった。
その闇が、蜜羽の胸をきりきりとしめつけていた。
「いい加減お終いにしなければ……」
肩に回された腕を払い、蜜羽は、気付かれないよう静かに寝床から上体を起こした。
掛け布団からそろそろと脚を抜くと、寝入っているとばかり思っていた庄右衛門が不意に蜜羽の腕を掴んで引き止めた。
「どこへ行く……」
「厠(かわや)ですよ」
「ならいいが、あまり無用心に出歩くな。薩摩が反幕府派の浪士を集めているのは知っているだろう。そうでなくとも、御公儀様が帝に政権を返上したことで奴らは殺気立っている。幕府の密偵だということが知れたら手篭めにされるだけでは済まされない」
「それは庄右衛門様も同じでしょう」
「俺には私兵が付いてる。言っちゃぁ悪いが、お前が入れあげているあの田舎武士じゃ何の役にもたたないぞ」
「はて、なんのことやら」
「とぼけるな。町中もっぱらの噂だ」
「噂なぞ信じるんですか?」
「こうまで騒がれちゃさすがに俺も無視は出来ん。もっともあんな弱小田舎大名の武官など誰も本気で相手にはしないだろうが、そうは言ってもあちらさんも立派な幕府支持派だ。時が時だけに、あまり悪目立ちすると、それこそ奴もろとも過激派に取っ捕まってあの世行きだ」
「よして下さいな。なんだってこの俺があんな冴えない武官と一緒に死ななきゃならないんです。ご心配いただかなくとも、もう、あのお方に会うつもりはありません」
「ならば良いが……」
探るような庄右衛門の視線を小さく笑ってやり過ごすと、ふいに庄右衛門が蜜羽の腕を手前に引き寄せ、蜜羽は、庄右衛門の胸元へ抱き竦められる形でしなだれ落ちた。
「もう……。厠に行くと言ってるではありませんか……」
「厠になぞ用はないだろう?」
お上に命じられた事とは言え、十六の頃から今日まで身体を重ねた相手である。庄右衛門がただのおふざけで蜜羽を抱き寄せたのではない事は、庄右衛門の低い声色からも察しはついた。
「蜜羽。悪いことは言わないから俺のところへ来い。もうすぐ全てカタがつく。そしたらお前は用済みだ。役目を無くした密偵がどうなるかぐらいは想像がつくだろう?」
「お陰様で、偉い方の考えていることを当てるのは得意になりました」
「茶化すな。お前がその気なら、俺が、小笠原殿におとりなしをお願いしてお前を身請け出来るよう段取りしてやる。俺に囲われていれば当面の間は安全だ。生まれ変わったと思って、また俺の元で暮らさないか?」
蜜羽は何も答えず庄右衛門のしっとりと汗ばんだ胸板に頬を寄せた。
「もう生まれ変わるのはたくさんです」
聞こえるか聞こえないかの呟きは、唇をかすかに震わせただけで言葉になることは無かった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「またお前はそのような戯言を言って。葵はもう死んだのだ。七回忌の法要が終わったという報せも届いたろう?」
「だが、あれは葵だ! 俺には解るのだ!」
「馬鹿もたいがいにしろ! 死んだ人間がどうしてここにおる!」
「本当に死んだのか? 葵は討ち首になったのか? 首を見たものは? 葵が死んだ日、首斬り場に首は一つも並んでなかったと聞いた」
「だが、埋葬も済んでる。お前も見ただろう?」
確かに見たが、むしろから覗く脚は、いくら夏場とはいえ元の色を留めないほど激しく傷み、とても葵の脚とは思えなかった。
「あんなもの、どこの誰のものだか分かったもんじゃない……」
一度は諦め納得したものの、どうしてあの時もっと追求しておかなかったのだろうと今更ながら後悔が込み上げる。
しかし、それを理解してくれる者は誰もいなかった。
「お前は疲れているのだ!」
「疲れてなどいない! あれは絶対に……」
言い掛けたところを、「いい加減にしろ!」と一喝され、久一は、その先の言葉を飲み込んだ。
「あれほど葵を思い慕っておったくせに、ただ見てくれが似てるというだけで心乱されおって。お前は、葵とあの淫らな陰間の区別もつかないのか! そのようなことで、葵が可哀想だとは思わないのか!」
思い慕っていたからこそ久一には解る。しかし言ったところで理解されないことも解っていた。
久一は、言い返したいのを堪え、眼光の鋭い瞳を頑なに強張らせ、脚の横に揃えた握り拳を腕が震えるほどぎりぎりと握り締めた。
同部屋の及川も腹立たしさを噛み締めるように押し黙り、畳六畳ほどの寝所の空気が瞬く間にピリピリと張り詰める。
しかしそれを打ち破ったのは、久一でも及川でもなく、突然部屋を訪ねてきたまとめ役の武官だった。
「火急の用だ。夜分に失礼する」
武官は、久一と及川を部屋の真ん中に集め円陣を組むように座わらせると、顔を至近距離に詰め、殆ど吐息のようなヒソヒソ声で囁いた。
「今から言うことは、江戸市中取締役の新徴組(しんちょうぐみ)より我が領武官への内々の要請だ。くれぐれも他言の無いように」
武官は、久一たちをぐるりと見渡すと、息を整え、近々、江戸城及び江戸市中の警護を任されている庄内領の新徴組が、江戸にはびこる攘夷過激派の志士たちを一網打尽に捕らえる計画を立てていることと、その新徴組から、志を同じくする者同士、助太刀を願いたいとの申し出があったことを伝えた。
「相手が多勢なだけに、命がけの任務になるやも知れん。年の瀬の慌ただしい時ではあるが、気を引き締めて任務に当たって欲しい」
日時は追って沙汰があるとの事であったが、武官の口ぶりからここ二、三日のうちには動きかありそうな気配だった。
その晩、久一と及川はともに眠れない夜を過ごした。
命がけの任務になるかも知れない。
及川は自分の身を案じていたようだったが、久一は、自分の命よりも、このまま蜜羽と会えなくなってしまうことを恐れていた。
真相も解らないまま死ぬのは心残りだった。以前は、葵が待っていてくれていると思うと死ぬのも怖くは無かった。
しかし今は、葵を残して逝くのが怖かった。
「いい加減はっきりさせなくては……」
控えめに寝返りを打ち、久一は、首にぶら下げた小袋を握り締めた。
葵にもらった紙紐。
葵が触れた、葵の痕跡の残る形見。
迷っている隙は無かった。
翌日、早番の仕事を終えた後、久一は早速桔梗屋へと向かった。
昼見世の最中であったが張り見世に出ている色子はおらず、皆が入り口の土間に集まり、若い衆が正月用の餅をつく姿を楽しそうに眺めていた。
久一は店の外から蜜羽を探した。
蜜羽は、楼主の横で火鉢に当たりながら若い衆が杵を振り上げる様子を見入っていたが、久一に気付くと、楼主に何か耳打ちし、すっくと立ち上がって久一の前に来た。
「こんな時間に来るなんて珍しいですね」
無地の着物に半纏(はんてん)を羽織り、耳の横で束ねた髪を片方の肩から胸元に垂らし、毛先を指でいじりながら蜜羽は久一を見上げた。
久一は、自分を見上げる蜜羽の黒く澄んだ瞳を瞬きもせずに見た。
「話しがある。ここじゃ言えない……大事な話しだ」
「なら、俺の部屋へ行きましょう。俺もちょうど旦那に話しがあったんです……」
誘われるまま入り口をくぐり、訝しげな顔で見上げる楼主の横を通り過ぎ、大階段を上がって長い廊下の一番奥の蜜羽の部屋へ向かう。
絢爛豪華な座敷に足を踏み入れると、蜜羽は、長火鉢の横の座布団に久一を座らせ、その正面に姿勢を正して正座した。
「旦那の話はあとでゆっくり聞きますんで、まずは俺の話を聞いてくださいな」
蜜羽の男にしては高く澄んだ声が、滑舌良く空を切った。
「実はこの度、近衛庄右衛門様に身請けされることになったんです。だからもうこういうことは、これきりにしていただきたいんです」
「これきり、って……」
「身請けされるのに他の男と会っていていいわけが無いでしょう? だから、旦那とはもうこれきりにしたいんです。短い間でしたが、ご贔屓にしていただきありがとうございました。俺のことはどうぞ今日限りで忘れて下さい」
久一は一瞬にして凍りついた。
「勝手なことを言うな……」
頭は真っ白のまま何も考えようとしないくせに、身体が本能に突き動かされるように、ひとりでに、膝立ちになって蜜羽の半纏(はんてん)の襟を握り締めていた。
「ちょっと、離してください!」
「うるさい! これきりになんてさせて堪るか! せっかく逢えたのに! 葵! 葵!」
「だから俺は葵じゃない!」
胸の中に掻き抱いたところを激しく突っぱねられ、それを負けじと抱き寄せ、揉み合いながら床に崩れた。
「待て、葵!」
「離せ! 俺はそんな奴じゃない! 俺から離れろ!」
暴れる蜜羽を押さえつけ、仰向けに返して、身体の上に馬乗りに跨って両腕を押さえつけた。
蜜羽は、柔らかな印象の眉を別人のように憎々しげに歪め、噛み付くように久一を睨み付けた。
「葵……」
「うるさい! 俺をそんな名前で呼ぶな! 俺はそんなやつ知らない! 俺は葵じゃない!」
あまりの迫力に久一が怯んだその時だった。
突然、蜜羽が久一の手をすり抜けようと身体を反転させ、その拍子に、半纏の袂(たもと)から何かがコロリと床に転がった。
「これは……」
「それは、違っ!」
蜜羽も同時に手を伸ばしたが、先に拾い上げたのは久一の方だった。
久一の手の中にあったもの。それは、小さな花が二輪、絡まるように咲く彫り物が施された木製の根付だった。
「これは……」
途端に、久一の脳裏に、あの日の光景が蘇った。
ーーーこれは、俺が葵にやったものじゃないか。
葵と過ごした最後の朝。
葵と別れる間際に、久一が、紙紐と引き換えに葵に渡した根付。
寂しくなった時、いつでも思い出せるように、久一が葵に渡した根付。
それが今ふたたび久一の手の中にあった。
思い出した途端、恐ろしさにも似た感動が込み上げ、背筋に、熱いのか冷たいのか解らない震えが走った。
「葵……。やっぱりお前は葵なんだな……」
蜜羽を振り向かせて強引に目を合わせる。しかし蜜羽は、激しく首を振りながら久一を突き飛ばした。
「違う! 知らない! 俺は葵じゃない!」
「嘘だ! やっぱり俺が間違えるわけが無かったんだ。お前は葵だ! ずっとずっと会いたかったんだ、葵!」
畳の上を這いつくばって逃げる蜜羽の腰を掴んで引き戻し、後ろから腕を回してしっかりと抱き締める。
しかしそこまでだった。
「誰か! 金剛! 金剛はいないのか!」
蜜羽が叫ぶが早いか、突然襖が開き、蜜羽の付き人が部屋へ押し入り久一の首根っこを掴んで蜜羽から引き離した。
「葵! どうしてなんだよ、葵!」
蜜羽は何も答えず、押し倒された身体をよろよろと起き上がらせると、金剛に羽交締めにされた久一に近付き、久一の手を開いて、握り締めていた根付を取り上げた。
「葵! 葵!」
葵は答えはしなかった。
「葵! なんでだよ、葵!」
廊下を引き摺られながら、久一は、泣き出しそうな顔で立ち尽くす蜜羽に叫び続けた。
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