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00章:
00:~あいつが消えた日。~[前編]
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――それは、いやになるほど蒸し暑く、吹き出す汗が肌に纏わりつくような喧しく、煩わしい季節があと1歩のところまで近付いてきていることを予感させる雨の日のことだった。
梅雨特有のじっとりとした重々しい雨は数日間に及び、濡れきった地面をしきりに叩いている。
日本中を照らしていた太陽が雲に隠れて久しく、気怠くうんざりとした日々を助長するかのように、雷鳴が遠くで鳴り響いていた。その轟音はもうじきにこちらへ迫ってくるだろう。
――明日は休校だろうか。
家を破壊するのではないかと思うほどの激しい雨の叩打音を聞いて浮かぶ、学生の淡い妄想も、苛立つ気分もだらしなく項垂れてしまうような日に、始まりは突然、音もなくやってくるのだ。
「え?ひーちゃんが帰ってない?」
不意にリビングから聞こえた大声は、風呂上がりで蒸気した少年の体を小さく反応させた。
きょとんと口を小さな三角形にしたまま、灯りのついたそこへ顔を覗かせると、受話器に向かって困惑した表情をした2番目の姉が、「うちには来てませんけれど……」と声を顰めて告げていた。そして、背中に突き刺さる視線に気づいた彼女は、振り返り「知らない?」と目配せをするが、少年は黙って首を横に振り、逃げるように廊下へと首を引っ込めた。
立て付けの悪いドアをそっと閉め、1人になった彼は、ドアノブに手をかけたまま、深く深く息を吐く。
――鎮まりそうにない胸騒ぎが、体中を支配していた。
ひーちゃんという愛称で皆に愛される少女は、お転婆で常軌を逸した行動をする割に、律儀に約束は守り、ルールにも忠実なのだ。誰よりも真面目で思いやる心の持ち主だと評価されている彼女が、果たして両親に心配をかけるようなことをするだろうか。
最後に見た彼女の無邪気な笑顔を思い浮かべると、どうしてか、焦燥感が湧いて出てくる。普段ならこんなことにはならないのに。
きっとまた、明日になれば、歳いたの幼馴染の晴天にも負けない明るい笑顔を見ることが出来るはずなのに、5日前の彼女の姿と声が、最後の記憶になるような気もして仕方がないのだ。
脳内を横断する黒く暗い想像が現実になってしまうのを避けたくて、丁度通話を終えた姉に、状況を聞き出そうと試みるが、重く強張った体は緊張し、足裏を床に貼り付けられてしまったかのように動かすことも出来ない。
緊張感が脳を征服し、呼吸困難に陥りそうなほどに息が詰まっている。目眩と頭痛も覚える。
裸足のままの足先は冷え切っているはずなのに、高熱を出してしまったかのように体中に熱が迸り、『これ以上踏み込んではいけないよ』などと、幻聴まで聞こえてくるのだ。
――今日はもう、休んでしまおうよ。
頭の中に直接響く甘い誘惑に、締め付けられるような倦怠を感じる胸を押さえながら、階段を駆け上がった。
ドン、と音を立てて、強く最後の段を踏み切ると、突き当たりにある自室へと転がり込み、部屋の隅にあるベッドに潜り込んだ。包まれるような安心感に、ゆっくりと肩で息を吐くと、身動ぎをする。彼が入眠しやすい体勢になるまでに、濃紺色のカバーを取り付けられた枕は、濡れたままの短髪がじめじめと濡らし、湿った匂いを色濃く含んだ。
『このまま眠ってしまえば、きっと明日には全て終わっているよ。君は決められた運命に身を委ねていればいいんだ』
彼の眠りを助力する囁き声は、少年のものなのだろうか。はたまた少女のものなのだろうか。
ふわふわと柔らかく、鈴のような可愛らしい声は、幼く曖昧だった。まだ自立するには危うい子どもの口調なのに、泣く子を慰める母のように、彼の掻き乱された心を癒し、逆立つ感情を1つ1つ丁寧に撫で整える。
その目に見えぬ存在は、さながら安寧を与える天使のようだった。『大丈夫だよ』と優しげに言われると、彼を蝕んでいた緊張は解け、すぅ、と夢の中へと誘われる。
そうだ。この『声』のいう通りだ。明日になれば全て解決している。あいつもきっと朝早いうちに「ごめんごめん」となんでもない笑顔で、この家の玄関先に立っていることだろう。
うつらうつらと重い瞼を瞬かせる。
まだ多感で、夜更かしをしたがる不真面目な高校生が眠る時間にはまだ早い。今日のうちに考えておくことは山ほどあるのだと、襲いくる強烈な眠気に少しばかり抗おうとする。
だが、ぽかぽかと暖かい温度を感じてしまえば、限界だった。
頑なに彼を寝かしつけようとする瞼は錘が乗せられたかのようだ。かろうじて薄らと開かれていた瞳を閉じ、眠りに堕ちてしまった――その刹那。
まだ何も解決していないと、安らかな心地で眠り彼の頬を叩き上げるように、ドスドスと乱暴な足音が部屋の前まで迫ってきていたのだ。……姉だ。
「ねえ!本当にひーちゃんのこと見てないの!?」
「あ?しらねー」
響く声に、心地の良い入眠を妨げられた彼は、喧しい女だ、と顔を顰める。
誰もが眠りにつこうとしている静かな雨の夜に相応しくない怒鳴り声を上げながら、粗雑な手つきでドアを無遠慮に開けて、部屋に侵入してくる姉は、弟が立て篭もる布団を捲り上げ、鬼のような形相でうつ伏せになっている彼の無防備な首根っこを軽々と掴んで持ち上げた。
「ちょっと、真面目に答えて」
弟の顔を覗き込み、糸状になっていた重い瞼を持ち上げたのを確認すると、ふん、と不機嫌に鼻を鳴らして、部屋着の襟首から手を離した。すると、たちまち彼の体はベッドに落ち、「ヴ」と短く鳴くと、湿った枕に顔を埋めた。
濡れた布と、シャンプーの加織が入り混じった湿っぽい匂いに鼻を擦り付け、再度姉の質問に否定を返す仕草をするが、この暗がりでは通じなかったらしい。
ちょっと聞いてるの。
と、まるで王者のような強い口調で言った姉は、自主的に体を起こした彼の頬を抓った。
「…………友達ん家でも泊まってんじゃねーの?連絡し忘れてたなんて、今までもよくあっただろ?あいつ、ドジだし」
「そんな何日も忘れるなんてことある?富里さん家からひーちゃんにかけてみても繋がらないらしいの。最近ずっと天気悪いのに、心配ね」
「そうだな」
先程の強引な挙動を忘れ、唐突に上品ぶる姉に間延びした返事をし、ふぁあ……と欠伸をする。
「何と、その言い方!ほんっとに冷たい奴ね!探しに行ってあげようとか思わないわけ!?」
「いや、今何時だと思ってんだよ。補導されるわ」
「普段これくらい夜遅くまで遊んでるくせに、こういう時だけ優等生ぶるんじゃないわよ!大体、アンタはいつもいつもあの子のお世話になってるんだから――」
「あーはいはい」
ずっと昔から、彼女は同じことを言っている。
全く聞き飽きた、とコンプレックスだと言いながら、いつも利用しているようにも見える、父親似の目つきの悪い瞳で睨み下ろしてくる彼女に対抗する。しかし、姉の尻に敷かれている立場の弱い弟は、口喧嘩や睨みあいで彼女に敵うはずもなく。「分かったから」と不満げに視線を逸らして後頭部を掻き毟り、わざとらしいため息をおまけすると、硬い頬を摘んでいた彼女の指先の力が強まった。
面倒臭いとあからさまに顔に書いてある彼の態度が不満だったらしい。
「女の子が1人で怖い重いをしてるかもしれないのに……。そんなんだから彼女出来ないのよ」
「別にいらねーよ、そんなもん」
「馬鹿、そういう話をしてるんじゃないの!」
「わ、分かったから!探しに行きゃいいんだろ?」
「うふふ、最初からそうしていればいいのよ」
実力行使に出た姉に怯える弟に向かって拳を振り上げたままの姉は、今まで彼女の表情を形成していた鬼の形相を最初からなかったかのように、けろりと明るい表情にシフトして頷く。満足げに「気を付けて行きなさいよ」と言いながら、何度も頷く実姉。足取り軽くリビングへと戻っていく彼女に対して、少年はやれやれと盛大にため息を吐いた。
渋々重い腰を上げて、よれた半袖のTシャツに黒のスウェットというだらしない格好を隠すように、椅子の背もたれにかけてある黒色の上着を羽織ってのそのそと重い足取りで部屋を出る。
唐突に行方知れずとなった幼馴染のことが心配ではないわけがなかったが、時計の針があと1周半すると日付が変わってしまうような時間帯だ。「どうして俺が」と口の中でぼやき、不平不満を垂れるが、これ以上姉に逆らうわけにはいかないため、それは見ないふりをしたのだ。
梅雨特有のじっとりとした重々しい雨は数日間に及び、濡れきった地面をしきりに叩いている。
日本中を照らしていた太陽が雲に隠れて久しく、気怠くうんざりとした日々を助長するかのように、雷鳴が遠くで鳴り響いていた。その轟音はもうじきにこちらへ迫ってくるだろう。
――明日は休校だろうか。
家を破壊するのではないかと思うほどの激しい雨の叩打音を聞いて浮かぶ、学生の淡い妄想も、苛立つ気分もだらしなく項垂れてしまうような日に、始まりは突然、音もなくやってくるのだ。
「え?ひーちゃんが帰ってない?」
不意にリビングから聞こえた大声は、風呂上がりで蒸気した少年の体を小さく反応させた。
きょとんと口を小さな三角形にしたまま、灯りのついたそこへ顔を覗かせると、受話器に向かって困惑した表情をした2番目の姉が、「うちには来てませんけれど……」と声を顰めて告げていた。そして、背中に突き刺さる視線に気づいた彼女は、振り返り「知らない?」と目配せをするが、少年は黙って首を横に振り、逃げるように廊下へと首を引っ込めた。
立て付けの悪いドアをそっと閉め、1人になった彼は、ドアノブに手をかけたまま、深く深く息を吐く。
――鎮まりそうにない胸騒ぎが、体中を支配していた。
ひーちゃんという愛称で皆に愛される少女は、お転婆で常軌を逸した行動をする割に、律儀に約束は守り、ルールにも忠実なのだ。誰よりも真面目で思いやる心の持ち主だと評価されている彼女が、果たして両親に心配をかけるようなことをするだろうか。
最後に見た彼女の無邪気な笑顔を思い浮かべると、どうしてか、焦燥感が湧いて出てくる。普段ならこんなことにはならないのに。
きっとまた、明日になれば、歳いたの幼馴染の晴天にも負けない明るい笑顔を見ることが出来るはずなのに、5日前の彼女の姿と声が、最後の記憶になるような気もして仕方がないのだ。
脳内を横断する黒く暗い想像が現実になってしまうのを避けたくて、丁度通話を終えた姉に、状況を聞き出そうと試みるが、重く強張った体は緊張し、足裏を床に貼り付けられてしまったかのように動かすことも出来ない。
緊張感が脳を征服し、呼吸困難に陥りそうなほどに息が詰まっている。目眩と頭痛も覚える。
裸足のままの足先は冷え切っているはずなのに、高熱を出してしまったかのように体中に熱が迸り、『これ以上踏み込んではいけないよ』などと、幻聴まで聞こえてくるのだ。
――今日はもう、休んでしまおうよ。
頭の中に直接響く甘い誘惑に、締め付けられるような倦怠を感じる胸を押さえながら、階段を駆け上がった。
ドン、と音を立てて、強く最後の段を踏み切ると、突き当たりにある自室へと転がり込み、部屋の隅にあるベッドに潜り込んだ。包まれるような安心感に、ゆっくりと肩で息を吐くと、身動ぎをする。彼が入眠しやすい体勢になるまでに、濃紺色のカバーを取り付けられた枕は、濡れたままの短髪がじめじめと濡らし、湿った匂いを色濃く含んだ。
『このまま眠ってしまえば、きっと明日には全て終わっているよ。君は決められた運命に身を委ねていればいいんだ』
彼の眠りを助力する囁き声は、少年のものなのだろうか。はたまた少女のものなのだろうか。
ふわふわと柔らかく、鈴のような可愛らしい声は、幼く曖昧だった。まだ自立するには危うい子どもの口調なのに、泣く子を慰める母のように、彼の掻き乱された心を癒し、逆立つ感情を1つ1つ丁寧に撫で整える。
その目に見えぬ存在は、さながら安寧を与える天使のようだった。『大丈夫だよ』と優しげに言われると、彼を蝕んでいた緊張は解け、すぅ、と夢の中へと誘われる。
そうだ。この『声』のいう通りだ。明日になれば全て解決している。あいつもきっと朝早いうちに「ごめんごめん」となんでもない笑顔で、この家の玄関先に立っていることだろう。
うつらうつらと重い瞼を瞬かせる。
まだ多感で、夜更かしをしたがる不真面目な高校生が眠る時間にはまだ早い。今日のうちに考えておくことは山ほどあるのだと、襲いくる強烈な眠気に少しばかり抗おうとする。
だが、ぽかぽかと暖かい温度を感じてしまえば、限界だった。
頑なに彼を寝かしつけようとする瞼は錘が乗せられたかのようだ。かろうじて薄らと開かれていた瞳を閉じ、眠りに堕ちてしまった――その刹那。
まだ何も解決していないと、安らかな心地で眠り彼の頬を叩き上げるように、ドスドスと乱暴な足音が部屋の前まで迫ってきていたのだ。……姉だ。
「ねえ!本当にひーちゃんのこと見てないの!?」
「あ?しらねー」
響く声に、心地の良い入眠を妨げられた彼は、喧しい女だ、と顔を顰める。
誰もが眠りにつこうとしている静かな雨の夜に相応しくない怒鳴り声を上げながら、粗雑な手つきでドアを無遠慮に開けて、部屋に侵入してくる姉は、弟が立て篭もる布団を捲り上げ、鬼のような形相でうつ伏せになっている彼の無防備な首根っこを軽々と掴んで持ち上げた。
「ちょっと、真面目に答えて」
弟の顔を覗き込み、糸状になっていた重い瞼を持ち上げたのを確認すると、ふん、と不機嫌に鼻を鳴らして、部屋着の襟首から手を離した。すると、たちまち彼の体はベッドに落ち、「ヴ」と短く鳴くと、湿った枕に顔を埋めた。
濡れた布と、シャンプーの加織が入り混じった湿っぽい匂いに鼻を擦り付け、再度姉の質問に否定を返す仕草をするが、この暗がりでは通じなかったらしい。
ちょっと聞いてるの。
と、まるで王者のような強い口調で言った姉は、自主的に体を起こした彼の頬を抓った。
「…………友達ん家でも泊まってんじゃねーの?連絡し忘れてたなんて、今までもよくあっただろ?あいつ、ドジだし」
「そんな何日も忘れるなんてことある?富里さん家からひーちゃんにかけてみても繋がらないらしいの。最近ずっと天気悪いのに、心配ね」
「そうだな」
先程の強引な挙動を忘れ、唐突に上品ぶる姉に間延びした返事をし、ふぁあ……と欠伸をする。
「何と、その言い方!ほんっとに冷たい奴ね!探しに行ってあげようとか思わないわけ!?」
「いや、今何時だと思ってんだよ。補導されるわ」
「普段これくらい夜遅くまで遊んでるくせに、こういう時だけ優等生ぶるんじゃないわよ!大体、アンタはいつもいつもあの子のお世話になってるんだから――」
「あーはいはい」
ずっと昔から、彼女は同じことを言っている。
全く聞き飽きた、とコンプレックスだと言いながら、いつも利用しているようにも見える、父親似の目つきの悪い瞳で睨み下ろしてくる彼女に対抗する。しかし、姉の尻に敷かれている立場の弱い弟は、口喧嘩や睨みあいで彼女に敵うはずもなく。「分かったから」と不満げに視線を逸らして後頭部を掻き毟り、わざとらしいため息をおまけすると、硬い頬を摘んでいた彼女の指先の力が強まった。
面倒臭いとあからさまに顔に書いてある彼の態度が不満だったらしい。
「女の子が1人で怖い重いをしてるかもしれないのに……。そんなんだから彼女出来ないのよ」
「別にいらねーよ、そんなもん」
「馬鹿、そういう話をしてるんじゃないの!」
「わ、分かったから!探しに行きゃいいんだろ?」
「うふふ、最初からそうしていればいいのよ」
実力行使に出た姉に怯える弟に向かって拳を振り上げたままの姉は、今まで彼女の表情を形成していた鬼の形相を最初からなかったかのように、けろりと明るい表情にシフトして頷く。満足げに「気を付けて行きなさいよ」と言いながら、何度も頷く実姉。足取り軽くリビングへと戻っていく彼女に対して、少年はやれやれと盛大にため息を吐いた。
渋々重い腰を上げて、よれた半袖のTシャツに黒のスウェットというだらしない格好を隠すように、椅子の背もたれにかけてある黒色の上着を羽織ってのそのそと重い足取りで部屋を出る。
唐突に行方知れずとなった幼馴染のことが心配ではないわけがなかったが、時計の針があと1周半すると日付が変わってしまうような時間帯だ。「どうして俺が」と口の中でぼやき、不平不満を垂れるが、これ以上姉に逆らうわけにはいかないため、それは見ないふりをしたのだ。
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