初恋の代償

南 鴇也

文字の大きさ
108 / 111
最終章

萌芽 14

しおりを挟む

ストラスブールの街は、打ちつける雨にすべての音が掻き消され、まったく別の場所に変わったようだった。いつもは遠くからでも見えていた大聖堂は、雨と靄でその存在を消し、絵画のように美しい運河沿いの街並みも、今はグレーのフィルターをかけられているかのように寂しげに見える。

僕は急に雨に降られたせいで全身ずぶ濡れになっていた。店に入ることも出来ず、かといって、アパートメントに帰るには少し距離がある。駆け込んだ軒先で、ただじっとしているしかなかった。

静寂を裂くように雷鳴が響き、思わず身をすくめる。異国に独りでいることに今更心細くなって、固く目を閉じた。

――こんな時、結月さんが居てくれたなら。呆れたように笑って、抱き締めてくれたなら。

轟くような音は、恋しさに拍車をかける。溢れる想いを堪えるように自身の肩を抱き、その場に蹲ってしまった。


どれくらいそうしていたのだろう。
まるで暗い底から救い出すように、雨音に混じって優しい声が降ってきた。

「相変わらず、雷、苦手なんだな」

見なくても分かる。
――その声を、どれだけ聞きたかったか。

「亜矢」

自然と涙が溢れ出て、衝動のまま、声の主の腕の中に飛び込んだ。

「ゆ、づきさん……」

名前を呟いた瞬間、回された腕に力が籠もる。僕はそれに応えるように、強く抱き締め返した。
冷たく濡れた服越しに感じる体温は、まるで溶け合ってしまうほどに、熱かった。

「どうしてここに来た。あんなに酷いことをしたのに……どうして……」

絞り出すような声に、張り裂けそうなほど胸が苦しくなる。ギュッと目を瞑ると、彼の心臓の音だけに意識が研ぎ澄まされ、やや速めの鼓動が何故か心地良く感じた。

「もう知っているだろ?……俺は、君が思っているほど優しくない。君のことになると、何もかもが駄目になる。離れてしまうのも、手放すのも怖いくせに、嫉妬深くて、全部独占したくなる。どうしても自分が抑えきれなく――」

「それが、何だって言うんですか?」

僕は堪らずに言葉を遮った。

「貴方に出会ったあの日、この人に愛されたいと思いました。
 何も知らない状態で、嫌悪の対象だった男の人に、そんなことを思うなんて、僕こそどうかしている」

目の奥が熱い。服を掴む手が、声が、勝手に震える。

「――それでも、好きになってしまったんです。結月さんが居なければ、駄目なんです。
 そうしたのは結月さんじゃないですか……!そんな僕が、貴方を忘れることなんて、絶対にできない……!」

言葉を選んでいる余裕なんてない。
まるで可愛げのない台詞ばかりを、声の限り捲し立てた。
涙が後から後から流れ落ちてくるのも構わず、胸に顔を埋めたままでいると、その雫を受け止めるように、大きな掌が頬に添えられた。
上を向いた瞬間、かち合った紺青の瞳に、ひどく懐かしさを覚えて、もっと泣きたくなった。

「あんなことをされても離れられない僕に、幻滅しますか……?」

濡れたように澄んだ瞳が僕を見つめる。彼は小さく、首を左右に振った。

「好きです。結月さんが、大好きです。何度だって言います。だから、もう、どこにも行かな――」

唇に柔らかな圧を感じた途端、最後の言葉は溺れるような口づけの中に消えた。

「君はどうしていつも、欲しい言葉を真っ直ぐにくれるのだろう」

凛とした目元を緩ませて、今にも泣き出しそうに笑う。彼のその表情かおが愛おしくて、唇の輪郭を辿るようにそっと指先で撫でると、「亜矢」と、その形にゆっくり動いた。

「――愛している。俺と一緒に、生きてくれ」

再び抱き締められて告げられたその言葉は、脳の奥から全身に甘く響いた。
その余韻までも余すことなく心に刻みたくて、返事をすることすら出来ないまま、暫くの間、動けずにいた。


しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 【エールいただきました。ありがとうございます】 【たくさんの“いいね”ありがとうございます】 【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。

貧乏Ωが御曹司αの将来のために逃げた話。

ミカン
BL
オメガバース

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

【完結】恋人になりたかった

ivy
BL
初めてのキスは、 すべてが始まった合図だと思っていた。 優しい大地と過ごす時間は、 律にとって特別で、 手放したくないものになっていく。 けれど……

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

処理中です...