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最終章
萌芽 14
しおりを挟むストラスブールの街は、打ちつける雨にすべての音が掻き消され、まったく別の場所に変わったようだった。いつもは遠くからでも見えていた大聖堂は、雨と靄でその存在を消し、絵画のように美しい運河沿いの街並みも、今はグレーのフィルターをかけられているかのように寂しげに見える。
僕は急に雨に降られたせいで全身ずぶ濡れになっていた。店に入ることも出来ず、かといって、アパートメントに帰るには少し距離がある。駆け込んだ軒先で、ただじっとしているしかなかった。
静寂を裂くように雷鳴が響き、思わず身をすくめる。異国に独りでいることに今更心細くなって、固く目を閉じた。
――こんな時、結月さんが居てくれたなら。呆れたように笑って、抱き締めてくれたなら。
轟くような音は、恋しさに拍車をかける。溢れる想いを堪えるように自身の肩を抱き、その場に蹲ってしまった。
どれくらいそうしていたのだろう。
まるで暗い底から救い出すように、雨音に混じって優しい声が降ってきた。
「相変わらず、雷、苦手なんだな」
見なくても分かる。
――その声を、どれだけ聞きたかったか。
「亜矢」
自然と涙が溢れ出て、衝動のまま、声の主の腕の中に飛び込んだ。
「ゆ、づきさん……」
名前を呟いた瞬間、回された腕に力が籠もる。僕はそれに応えるように、強く抱き締め返した。
冷たく濡れた服越しに感じる体温は、まるで溶け合ってしまうほどに、熱かった。
「どうしてここに来た。あんなに酷いことをしたのに……どうして……」
絞り出すような声に、張り裂けそうなほど胸が苦しくなる。ギュッと目を瞑ると、彼の心臓の音だけに意識が研ぎ澄まされ、やや速めの鼓動が何故か心地良く感じた。
「もう知っているだろ?……俺は、君が思っているほど優しくない。君のことになると、何もかもが駄目になる。離れてしまうのも、手放すのも怖いくせに、嫉妬深くて、全部独占したくなる。どうしても自分が抑えきれなく――」
「それが、何だって言うんですか?」
僕は堪らずに言葉を遮った。
「貴方に出会ったあの日、この人に愛されたいと思いました。
何も知らない状態で、嫌悪の対象だった男の人に、そんなことを思うなんて、僕こそどうかしている」
目の奥が熱い。服を掴む手が、声が、勝手に震える。
「――それでも、好きになってしまったんです。結月さんが居なければ、駄目なんです。
そうしたのは結月さんじゃないですか……!そんな僕が、貴方を忘れることなんて、絶対にできない……!」
言葉を選んでいる余裕なんてない。
まるで可愛げのない台詞ばかりを、声の限り捲し立てた。
涙が後から後から流れ落ちてくるのも構わず、胸に顔を埋めたままでいると、その雫を受け止めるように、大きな掌が頬に添えられた。
上を向いた瞬間、かち合った紺青の瞳に、ひどく懐かしさを覚えて、もっと泣きたくなった。
「あんなことをされても離れられない僕に、幻滅しますか……?」
濡れたように澄んだ瞳が僕を見つめる。彼は小さく、首を左右に振った。
「好きです。結月さんが、大好きです。何度だって言います。だから、もう、どこにも行かな――」
唇に柔らかな圧を感じた途端、最後の言葉は溺れるような口づけの中に消えた。
「君はどうしていつも、欲しい言葉を真っ直ぐにくれるのだろう」
凛とした目元を緩ませて、今にも泣き出しそうに笑う。彼のその表情が愛おしくて、唇の輪郭を辿るようにそっと指先で撫でると、「亜矢」と、その形にゆっくり動いた。
「――愛している。俺と一緒に、生きてくれ」
再び抱き締められて告げられたその言葉は、脳の奥から全身に甘く響いた。
その余韻までも余すことなく心に刻みたくて、返事をすることすら出来ないまま、暫くの間、動けずにいた。
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