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最終章 声と日々
第1話
同棲を始めて、もうすぐ三ヶ月になる。
休日はふたりで食材を買いに行き、帰り道にはコンビニスイーツを選び合う。
平日は遅い時間でも「おかえり」「お疲れ様」の言葉と、あたたかい食卓がある。
以前と変わったことは、もう一つ――
叶人が、元の会社に戻ったことだった。
出向先での任務を終え、クロニアへ復帰。今は再び、本社で営業として動いている。
かつて“あの声”に恋をしてから、一年。
今はその相手と、同じ家で暮らしているなんて。
あの頃の自分が知ったら、信じてくれないかもしれない。
叶人は、オフィスのデスクでふっと息を吐き、スマホに保存された番号を押した。
発信先は、A.S.コミュニケーション。かつて自分が在籍していた出向先。
そして今、唯が働いている会社でもある。
(まさか、唯ちゃんが出るってことはないよな……いや、でも……)
そんな期待と半信半疑を胸に、受話器を耳にあてる。数コールの後、スピーカーから聞こえてきたのは――
『──お電話ありがとうございます。A.S.コミュニケーションの一之瀬です』
一瞬、時が止まったように感じた。
どこか緊張をはらんだ仕事の声。
けれど、聞き慣れたあたたかさが、微かに滲んでいる。
胸の奥に、ふっと熱が灯った。
(……この声だ)
一年前、ただ“声”だけに一目惚れならぬ"声目ぼれ"した、あの日の記憶が蘇る。
「クロニアの柊です。お世話になっております」
努めて平静を装いながら、そう名乗ると、電話の向こうで唯が少しだけ声を和らげた。
『いつもお世話になっております。本日はいかがなさいましたか?』
その口調は、まさしく“業務対応”そのもの。
でも、ほんのわずかに――音の端に、親しさが混じっているような気がした。
ふたりはそのまま、変わりないやりとりを交わしていく。
問い合わせ内容を確認し、資料の送付について話し、事務的な会話の中にだけ流れる、静かで特別な温度。
ほんの一年前は、こんな風に会話ができること自体が夢みたいで。
一通のメール、一回の通話に、一喜一憂していたのに。
(……今は、帰れば“おかえり”って言ってくれる)
そう思っただけで、胸の奥がじんとあたたかくなった。
やりとりの締めくくり。
唯が少しだけ声をほぐしながら、こう言った。
『また何かあれば、お電話くださいね。……お待ちしてます』
――それは、一年前とまったく同じ言葉だった。
でも今は、意味がまるで違って聞こえる。
あの頃の“お待ちしてます”は、業務の決まり文句だったかもしれない。
けれど今のそれは、確かに“わたしからの言葉”として届いてくる。
叶人は、思わず受話器越しに微笑んだ。
「……また、かけます」
電話が切れると、オフィスのざわめきが戻ってくる。けれど心の中は、まだ彼女の声の余韻に包まれていた。
一年前は、次の電話を焦がれていた。
ただもう一度、彼女の声が聞きたくて。
名前を呼ばれたくて。笑ってほしくて。電話が鳴るたびに、心を躍らせていた。
けれど今は、そんな必要はない。
だって――帰れば、彼女がいる。
あの日、声に恋をして。
何度も何度も振り向いてもらおうと頑張って、追いかけた先に。
いま、この日常がある。
スマホの画面には、「通話終了」の文字。
けれど、彼の心には、あたらしい“始まり”のような静けさが広がっていた。
(……唯ちゃん、今日もちゃんと、可愛かった)
帰り道が、少し楽しみになる。
きっと玄関を開けたら、
あの声が「おかえり」と迎えてくれるから。
休日はふたりで食材を買いに行き、帰り道にはコンビニスイーツを選び合う。
平日は遅い時間でも「おかえり」「お疲れ様」の言葉と、あたたかい食卓がある。
以前と変わったことは、もう一つ――
叶人が、元の会社に戻ったことだった。
出向先での任務を終え、クロニアへ復帰。今は再び、本社で営業として動いている。
かつて“あの声”に恋をしてから、一年。
今はその相手と、同じ家で暮らしているなんて。
あの頃の自分が知ったら、信じてくれないかもしれない。
叶人は、オフィスのデスクでふっと息を吐き、スマホに保存された番号を押した。
発信先は、A.S.コミュニケーション。かつて自分が在籍していた出向先。
そして今、唯が働いている会社でもある。
(まさか、唯ちゃんが出るってことはないよな……いや、でも……)
そんな期待と半信半疑を胸に、受話器を耳にあてる。数コールの後、スピーカーから聞こえてきたのは――
『──お電話ありがとうございます。A.S.コミュニケーションの一之瀬です』
一瞬、時が止まったように感じた。
どこか緊張をはらんだ仕事の声。
けれど、聞き慣れたあたたかさが、微かに滲んでいる。
胸の奥に、ふっと熱が灯った。
(……この声だ)
一年前、ただ“声”だけに一目惚れならぬ"声目ぼれ"した、あの日の記憶が蘇る。
「クロニアの柊です。お世話になっております」
努めて平静を装いながら、そう名乗ると、電話の向こうで唯が少しだけ声を和らげた。
『いつもお世話になっております。本日はいかがなさいましたか?』
その口調は、まさしく“業務対応”そのもの。
でも、ほんのわずかに――音の端に、親しさが混じっているような気がした。
ふたりはそのまま、変わりないやりとりを交わしていく。
問い合わせ内容を確認し、資料の送付について話し、事務的な会話の中にだけ流れる、静かで特別な温度。
ほんの一年前は、こんな風に会話ができること自体が夢みたいで。
一通のメール、一回の通話に、一喜一憂していたのに。
(……今は、帰れば“おかえり”って言ってくれる)
そう思っただけで、胸の奥がじんとあたたかくなった。
やりとりの締めくくり。
唯が少しだけ声をほぐしながら、こう言った。
『また何かあれば、お電話くださいね。……お待ちしてます』
――それは、一年前とまったく同じ言葉だった。
でも今は、意味がまるで違って聞こえる。
あの頃の“お待ちしてます”は、業務の決まり文句だったかもしれない。
けれど今のそれは、確かに“わたしからの言葉”として届いてくる。
叶人は、思わず受話器越しに微笑んだ。
「……また、かけます」
電話が切れると、オフィスのざわめきが戻ってくる。けれど心の中は、まだ彼女の声の余韻に包まれていた。
一年前は、次の電話を焦がれていた。
ただもう一度、彼女の声が聞きたくて。
名前を呼ばれたくて。笑ってほしくて。電話が鳴るたびに、心を躍らせていた。
けれど今は、そんな必要はない。
だって――帰れば、彼女がいる。
あの日、声に恋をして。
何度も何度も振り向いてもらおうと頑張って、追いかけた先に。
いま、この日常がある。
スマホの画面には、「通話終了」の文字。
けれど、彼の心には、あたらしい“始まり”のような静けさが広がっていた。
(……唯ちゃん、今日もちゃんと、可愛かった)
帰り道が、少し楽しみになる。
きっと玄関を開けたら、
あの声が「おかえり」と迎えてくれるから。
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