恋するこだま食堂 〜一膳に詰めた想い〜

Sena

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第3話 それはまだ、恋と呼ぶには早すぎて


春の雨は、思ったよりも長引いた。

(……この前もらったお惣菜、美味しかったな)

自宅でタッパーの煮物を口に運びながら、あたたかくなった気持ちを思い出していた。

昼過ぎには止むはずだったのに、最寄駅から「こだま」までの道を歩くあいだにも、細かな雨粒がコートの肩をしっとり濡らしていく。

暖簾をくぐると、朔のぶっきらぼうな声が出迎えた。

「……いらっしゃい」

カウンター越しに目が合う。
朔の視線が、濡れた前髪と袖口にぴたりと留まった。

「傘……持ってなかったんすか」

「うん。昼には止むって予報だったから」

ハンカチを取り出し、濡れた前髪を軽く押さえると、朔はふいに奥へ消える。
少しして戻ってきた手には、乾いたふきん。

「……これ、使ってください。乾いてるやつなんで」

「ありがとうございます」

雫がそっと髪をふきながら、ふと朔を見上げた。

「柔軟剤の匂い、なんか意外ですね。朔さんって、そういうのこだわる人ですか?」

「は?別に……普通っすよ」

「普通の割に、けっこういい香りですよ」

「……それ、たぶん、親父のやつです」

「えっ、じゃあ……大将と同じ匂い?」

からかうように笑って言うと、朔が一瞬言葉に詰まり、目を逸らした。

「……そっちは嗅がなくていいです」

雫は吹き出して笑いながら、「ごめんなさい」と肩をすくめた。

「別に……心配とかじゃないですから。風邪ひかれたら、面倒なんで」

「はいはい」

わざわざ言い訳がましく添えるところが、いかにも朔らしい。
その不器用な優しさに、また少し心が緩む。

「あ……この前のお惣菜、ありがとうございました」

ふと切り出した雫の言葉に、朔の箸がぴたりと止まる。

「すごく、おいしかったです」

その笑顔はやわらかくて、自然で、どこか嬉しそうで。

「……ちゃんと、食べきったんですか」

「え? まさか、途中で捨てたとでも?」

「いや、あの量……。雫さん細いし、胃袋ちっさそうだし」

食の細さを勝手に案じていたが、どうやら余計な心配だったらしい。

「意外と入りますよ? 甘く見ないでください」

「甘くは……見てないけど」

雫はくすりと笑って、テーブルに肘をつく。その仕草がなんだか少女のようで、朔は視線を皿に戻した。

「……まぁ。気が向いたら、また作ります」

そっけなく告げられたその言葉に、雫は思わず声を漏らす。

「ふふっ、期待しちゃいます」

そんなつもりじゃないのに、ぽろっと口からこぼれた言葉。自分でも驚くくらいに素直な言葉だった。

朔は黙ったまま厨房へ戻り――
数分後、湯気とともに甘酸っぱい香りを乗せた皿が、カウンターに置かれた。

「……これ、朔さんが?」

「まあ……一応、俺が作りました」

どこか照れくさそうに皿を拭きながら答える朔。

一口食べた瞬間、じわっと舌に広がる酸味と、あとを追うようなやさしい甘み。

「……美味しい。こういうの、大好き」

「……そうっすか」

短い返事。でも、彼の口元が少しだけ緩んでいた。

少しの沈黙のあと、朔がポツポツと話し出した。

「本当は、もっと早く料理覚えたかったんすよ」

「え?」

顔を向けると、カウンター越しの朔はまっすぐ前を見たまま、どこか遠くを見ているような目をしていた。

「親父の背中見てるだけじゃ、どうにもならなくて。でもあの人、何も教えてくれないし……俺も、距離置いてたとこあるし」

言葉が少しずつ、空気に溶けていくように落ちていく。

「でもまあ……こうして、誰かに“美味しい”って言われると……ああ、続けててよかったなって、思います」

その“誰か”って、私でもいいのかな──
そう思っただけで、胸が少しきゅっとなる。

「……わかります。誰かのために頑張ったことが
ちゃんと届くと、嬉しいですよね」

「……そうっすね」

その時、ふきんを返そうとして伸ばした指先が朔の指に触れる。
一瞬、お互いの手が止まった。

ドクン、と跳ねた心臓の音が、思考を全部かき消していく。

朔も、わずかに息をのんだように見えたけれど、すぐに目をそらされる。

それから、ぽつりと声が落ちてくる。

「……この店、守りたいんです。味とか、雰囲気とか。親父が作ってきたもの、俺なりに受け継げたらって思ってて」

その言葉に、雫は自然と顔を上げた。

「きっと、大将にも伝わっていますよ。少なくとも私は……前よりずっと、このお店が好きになっているから」

朔が目を瞬いた。

「……マジっすか?」

「マジです。ただし、ぶっきらぼうな店員がいるってとこは、減点対象ですけど」

「減点って……それ、けなしてますよね?」

「五分五分。愛のある毒です」

思わずふたりで笑い合った。
こんなふうに、肩の力を抜いて笑える日が来るなんて、最初は想像もできなかった。

「……そう言ってもらえると、悪くないっすね。頑張ってきて、よかったって思う。ちょっとだけ、ですけど」

「ちょっとだけ?」

「いや、……だいぶ、かも」

その“だいぶ”が、なんだかすごく、照れくさそうで。
雫の胸の奥にも、ふんわりとしたぬくもりが広がっていく。

沈黙が心地いい余韻を引いたあと、ふいに雫が小さく呟いた。

「……じゃあ、私がここに来る理由、もうひとつ増えました」

「……え?」

「朔さんに、会いに」

朔の手が止まり、目を見開いて――でもすぐに咳払いでごまかす。

「そういうの、急に言うのやめてもらえます?」

「そんな言い方じゃ、照れてるのバレバレですよ?」

「……別に照れてなんかないっすけど」

「はいはい。じゃあ“耳まで真っ赤選手権”は朔さんの優勝で」

「勝手にどうぞ」

「ふふ、分かってますよ。“だいぶ嬉しい”んですよね?」

得意げに言うと、朔は頭をかくようにして胸を張る。

「そりゃあ……俺に会いに来るって言われたら、ちょっとくらい調子に乗ってもいいでしょ」

「ちょっとどころじゃない感じですけど」

「いやいや、これはまだ序の口。次なんて、味噌汁にハートの人参、入れてやりますからね」

「……それは、いりません」

「なんで。映えるでしょ?」

「料理人が“映え”を狙うんですか?」

思わず吹き出すと、朔もつられるように笑った。

ふと目が合って、お互い、ぱっとそらす。けれど、心だけは逸らせない。

――気づけば、ちゃんと“会話”ができるようになっていた。
ぎこちなくて、遠慮ばかりだった最初の頃が、なんだか遠い。

外では、春の雨がようやく止んだところだった。

澄んだ空気が、ふたりの間にそっと流れこみ、
まるで、次の季節へ導くように静かに包んでいた。


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