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第6話 ぶっきらぼうな『さみしい』
ある日の昼下がり。
「こだま」の店内は、いつもより静かだった。
昼時の混雑が引いたあとのカウンターに座っているのは、雫ひとり。
湯気を立てる味噌汁をひと口すすり、ふっと気が抜けたように言葉がこぼれた。
「……実は、そろそろ引っ越そうかなって思ってて」
アジフライを盛りつけていた朔の手が、ぴたりと止まる。
「……引っ越し?」
「今の部屋、元婚約者と折半してたから。ひとりになると、さすがに家賃きつくて。もうちょっと安いところに移ろうかなって」
軽く笑いながら言ったつもりだったけれど、朔は笑っていなかった。
「……そうですか」
感情を押し殺すような、低い声。
ほんの数秒の沈黙のあと──
朔は、声を絞り出すように言った。
「……じゃあ、あんまり来れなくなるんですね」
「えっ……」
思ってもみなかった反応に、雫は箸を持ったまま固まる。
(そんなふうに、思ってくれるの……?)
「あ……いや。できるだけ、来たいと思ってます。ここ、居心地いいし……ご飯も、本当に美味しいから」
気づけば早口になっていた。
どうして、こんなに必死になっているんだろう。
朔は黙ったまま、無言で奥へ下がって行った。
その背中がどこか、拗ねたみたいに見えてしまう。
(……怒ってる? いや、まさか。そんなわけない。……けど)
自分でも戸惑うくらい、心がざわついていた。
それから少しして、微妙な空気を察したのか、奥から大将が顔を出し、カウンターに近づいてきた。
「……なんだ、二人とも浮かねぇ顔して。ケンカでもしたか?」
「してねえ!」
「してません!」
ぴたりと重なった声に、大将がふき出す。
「ったく、図星かよ。朔、お前、また何か無神経なこと言ったんじゃねぇのか」
大将のからかうような声が響いた。
「別に、何も言ってねぇよ。ただ……引っ越すって聞いて。ちょっと……思っただけだ」
ぽつりと返した朔の声には、どこか拗ねたような響きがあった。
雫は、慌てて口を開く。
「そんなに遠くには行きません。電車一本だし……それに、ここに来るの、ちょっと楽しみだから」
言いかけたところで、大将がやれやれと肩をすくめた。
「雫ちゃん。こいつ、こう見えて意外と気にしいだからな。口数少ねぇくせに、勝手にしょげてる。分かりづらいけどな」
「親父……余計なこと言うなって……」
朔が小さくうめくように睨むが、大将はにやりと笑って意に介さない。
「だったらよ。“また来てくれ”くらい、言えよ。言葉にしねぇと、来てほしいのかもわかんねぇだろ? ……なぁ、雫ちゃん?」
「なっ……!」
朔が詰まり、言葉を失う。
そのまま黙り込んだ朔の顔が、じわじわと赤く染まっていくのを見て、雫はぽかんとしたあと──
思わず、笑ってしまった。
「……朔さんって、ほんと、不器用ですね」
「うるせぇ……」
つっけんどんな返しに、温かみを感じる。
ふたりの間に流れる空気が、少し変わった気がした。
どこか照れくさくて、それでも心地いい――そんな時間だった。
その夜。
「……引っ越し、か」
誰もいない厨房で、シンクに肘をつき、朔はぽつりと呟いた。
外は静かで、風が窓をかすめる音だけが、かすかに聞こえてくる。
深く息を吐き目を伏せると、心の奥が締めつけられるように重くなる。
(……もう、来なくなるのか)
ふと浮かんだその考えに、胸の奥がじん、と痛んだ。
雫が店に現れるたび、気づけば目で追っていた。
アジフライを食べるときの真剣な顔、味噌汁を飲んでほっとする表情。
そんな何気ない仕草が、妙に記憶に残っている。
(……あの人、たまに笑うんだよな)
ふと口元がゆるむあの表情を思い出すだけで、胸がざわつく。
──それを、もう見られなくなるのかもしれない。
「……なんなんだよ、俺」
ぼそりと漏らし、無意識に頭をかいた。
普段通りの厨房も、今夜はやけに落ち着かない。
雫がいつも座っているカウンター席を見て、またため息がこぼれる。
(……会えなくなるのは、やっぱり、嫌だ)
思わず漏れた心の声に、自分でも驚いた。
けれど、もう否定はできない。
料理を出して、「美味しい」と言われるだけで、なんでこんなに――
いや、そんなこと、もうとっくにわかってる。
自分の中で、ごまかしていた気持ち。
「ただの常連」って、言い聞かせてきただけで──本当はもう、そんなふうに思えなかった。
「ったく、アジフライに文句つけてきたくせに……」
思わず呟きながら、口元に微かな笑みが浮かぶ。
あの時の少しむくれた顔──なんでか、すげぇ覚えてる。
無意識に力の入った指先が、じんわりと痺れていた。
(……どうすりゃ、いいんだよ)
照明を落とした厨房に、ぽつんと響いた独り言。
そこで朔はふと思い立ち、顔を上げた。
「親父、ちょっと……相談、あんだけど」
カウンターの奥で仕込みの魚を捌いていた大将が、包丁を止め、朔をちらりと見る。
「ん? なんだ、金か? それとも客と揉めたか?」
「いや……そうじゃなくて」
朔は言いづらそうに、前掛けの端をぎゅっと握った。
「……あのさ。うちのアパート。俺の部屋の隣、空いてるよな」
「ああ。去年の春からずっとな」
「……あそこ、雫さんに貸せねぇかな」
厨房に、一瞬だけ静寂が落ちる。
「──は?」
大将の声が低く響いた。
「今の部屋、元婚約者と折半だったらしい。で、引っ越すって。多分、店にもあんまり来れなくなるって話で」
朔はぼそぼそと続けた。
大将は、黙って朔の顔を見つめていた。
「家賃、今より高くしないで。差額出るなら……俺が、出す。別に、変な意味じゃねぇけど」
その言葉に、大将の表情がふっと変わる。
しばしの沈黙のあと、低く問いかけた。
「……お前、それ、本気で言ってんのか」
「……マジで言ってる」
顔を赤くしながら、朔は真正面を見たまま返す。
「来なくなるの、ちょっと……嫌なんだよ」
静かな声。でも、嘘のない本音だった。
大将はじっと朔を見つめたあと、鼻で笑う。
「……お前なぁ。やっとかよ」
「なんだよ、それ」
大将は鼻を鳴らし、包丁を拭いた手で顎をさすった。
「いや、なんでもねぇよ。……ま、構わないがな。ただし──あそこは築三十年、防犯も頼りねぇし、オートロックもねぇぞ」
「それは……嫌だって言われたら、それまでだけど」
「断られたらどうすんだ」
「……そんときは、しゃーねぇなって思うしかねぇけど……」
一拍置いて、ぽつりと続けた。
「それでも、言わねぇと、多分後悔するから」
「まったく、お前ってやつは……本当、変なとこで真面目だな」
「……うるせぇ」
「とりあえず、本人に聞いてみろ」
「……ああ。聞いてみる」
(……ちゃんと、言葉にしなきゃダメなんだよな)
カウンターの向こう。
今は空っぽの、でも、彼女の気配が残る席を見つめる。
静かに、けれど確かに、朔の胸に決意が灯った。
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