恋するこだま食堂 〜一膳に詰めた想い〜

Sena

文字の大きさ
7 / 104

第6話 ぶっきらぼうな『さみしい』 


ある日の昼下がり。

「こだま」の店内は、いつもより静かだった。
昼時の混雑が引いたあとのカウンターに座っているのは、雫ひとり。

湯気を立てる味噌汁をひと口すすり、ふっと気が抜けたように言葉がこぼれた。

「……実は、そろそろ引っ越そうかなって思ってて」

アジフライを盛りつけていた朔の手が、ぴたりと止まる。

「……引っ越し?」

「今の部屋、元婚約者と折半してたから。ひとりになると、さすがに家賃きつくて。もうちょっと安いところに移ろうかなって」

軽く笑いながら言ったつもりだったけれど、朔は笑っていなかった。

「……そうですか」

感情を押し殺すような、低い声。

ほんの数秒の沈黙のあと──
朔は、声を絞り出すように言った。

「……じゃあ、あんまり来れなくなるんですね」

「えっ……」

思ってもみなかった反応に、雫は箸を持ったまま固まる。

(そんなふうに、思ってくれるの……?)

「あ……いや。できるだけ、来たいと思ってます。ここ、居心地いいし……ご飯も、本当に美味しいから」

気づけば早口になっていた。
どうして、こんなに必死になっているんだろう。

朔は黙ったまま、無言で奥へ下がって行った。
その背中がどこか、拗ねたみたいに見えてしまう。

(……怒ってる? いや、まさか。そんなわけない。……けど)

自分でも戸惑うくらい、心がざわついていた。

それから少しして、微妙な空気を察したのか、奥から大将が顔を出し、カウンターに近づいてきた。

「……なんだ、二人とも浮かねぇ顔して。ケンカでもしたか?」

「してねえ!」
「してません!」

ぴたりと重なった声に、大将がふき出す。

「ったく、図星かよ。朔、お前、また何か無神経なこと言ったんじゃねぇのか」

大将のからかうような声が響いた。

「別に、何も言ってねぇよ。ただ……引っ越すって聞いて。ちょっと……思っただけだ」

ぽつりと返した朔の声には、どこか拗ねたような響きがあった。

雫は、慌てて口を開く。

「そんなに遠くには行きません。電車一本だし……それに、ここに来るの、ちょっと楽しみだから」

言いかけたところで、大将がやれやれと肩をすくめた。

「雫ちゃん。こいつ、こう見えて意外と気にしいだからな。口数少ねぇくせに、勝手にしょげてる。分かりづらいけどな」

「親父……余計なこと言うなって……」

朔が小さくうめくように睨むが、大将はにやりと笑って意に介さない。

「だったらよ。“また来てくれ”くらい、言えよ。言葉にしねぇと、来てほしいのかもわかんねぇだろ? ……なぁ、雫ちゃん?」

「なっ……!」

朔が詰まり、言葉を失う。

そのまま黙り込んだ朔の顔が、じわじわと赤く染まっていくのを見て、雫はぽかんとしたあと──
思わず、笑ってしまった。

「……朔さんって、ほんと、不器用ですね」

「うるせぇ……」

つっけんどんな返しに、温かみを感じる。

ふたりの間に流れる空気が、少し変わった気がした。
どこか照れくさくて、それでも心地いい――そんな時間だった。

その夜。

「……引っ越し、か」

誰もいない厨房で、シンクに肘をつき、朔はぽつりと呟いた。

外は静かで、風が窓をかすめる音だけが、かすかに聞こえてくる。

深く息を吐き目を伏せると、心の奥が締めつけられるように重くなる。

(……もう、来なくなるのか)

ふと浮かんだその考えに、胸の奥がじん、と痛んだ。

雫が店に現れるたび、気づけば目で追っていた。
アジフライを食べるときの真剣な顔、味噌汁を飲んでほっとする表情。
そんな何気ない仕草が、妙に記憶に残っている。

(……あの人、たまに笑うんだよな)

ふと口元がゆるむあの表情を思い出すだけで、胸がざわつく。
──それを、もう見られなくなるのかもしれない。

「……なんなんだよ、俺」

ぼそりと漏らし、無意識に頭をかいた。
普段通りの厨房も、今夜はやけに落ち着かない。

雫がいつも座っているカウンター席を見て、またため息がこぼれる。

(……会えなくなるのは、やっぱり、嫌だ)

思わず漏れた心の声に、自分でも驚いた。
けれど、もう否定はできない。

料理を出して、「美味しい」と言われるだけで、なんでこんなに――
いや、そんなこと、もうとっくにわかってる。

自分の中で、ごまかしていた気持ち。
「ただの常連」って、言い聞かせてきただけで──本当はもう、そんなふうに思えなかった。

「ったく、アジフライに文句つけてきたくせに……」

思わず呟きながら、口元に微かな笑みが浮かぶ。
あの時の少しむくれた顔──なんでか、すげぇ覚えてる。

無意識に力の入った指先が、じんわりと痺れていた。

(……どうすりゃ、いいんだよ)

照明を落とした厨房に、ぽつんと響いた独り言。

そこで朔はふと思い立ち、顔を上げた。

「親父、ちょっと……相談、あんだけど」

カウンターの奥で仕込みの魚を捌いていた大将が、包丁を止め、朔をちらりと見る。

「ん? なんだ、金か? それとも客と揉めたか?」

「いや……そうじゃなくて」

朔は言いづらそうに、前掛けの端をぎゅっと握った。

「……あのさ。うちのアパート。俺の部屋の隣、空いてるよな」

「ああ。去年の春からずっとな」

「……あそこ、雫さんに貸せねぇかな」

厨房に、一瞬だけ静寂が落ちる。

「──は?」

大将の声が低く響いた。

「今の部屋、元婚約者と折半だったらしい。で、引っ越すって。多分、店にもあんまり来れなくなるって話で」

朔はぼそぼそと続けた。
大将は、黙って朔の顔を見つめていた。

「家賃、今より高くしないで。差額出るなら……俺が、出す。別に、変な意味じゃねぇけど」

その言葉に、大将の表情がふっと変わる。
しばしの沈黙のあと、低く問いかけた。

「……お前、それ、本気で言ってんのか」

「……マジで言ってる」

顔を赤くしながら、朔は真正面を見たまま返す。

「来なくなるの、ちょっと……嫌なんだよ」

静かな声。でも、嘘のない本音だった。

大将はじっと朔を見つめたあと、鼻で笑う。

「……お前なぁ。やっとかよ」

「なんだよ、それ」

大将は鼻を鳴らし、包丁を拭いた手で顎をさすった。

「いや、なんでもねぇよ。……ま、構わないがな。ただし──あそこは築三十年、防犯も頼りねぇし、オートロックもねぇぞ」

「それは……嫌だって言われたら、それまでだけど」

「断られたらどうすんだ」

「……そんときは、しゃーねぇなって思うしかねぇけど……」

一拍置いて、ぽつりと続けた。

「それでも、言わねぇと、多分後悔するから」

「まったく、お前ってやつは……本当、変なとこで真面目だな」

「……うるせぇ」

「とりあえず、本人に聞いてみろ」

「……ああ。聞いてみる」

(……ちゃんと、言葉にしなきゃダメなんだよな)

カウンターの向こう。
今は空っぽの、でも、彼女の気配が残る席を見つめる。

静かに、けれど確かに、朔の胸に決意が灯った。

感想 0

あなたにおすすめの小説

優しいマッチョ先輩とみたらし

羽月☆
恋愛
マッチョの松田先輩ときれいだけど実は腹黒毒舌の百合先輩。 同期のいない私 鴻島みどりはふたりに仲良くしてもらってます。 会社でも並びの席で、飲み会でもたいてい三人一緒にいて。 優しい松田先輩にはお酒を勧められます。 飲み足りない顔をしてると思います。だって私は飲めるんです! だけど三杯まで、お外では三杯までって決めてます。 今日も部屋で一人二次会。 だって恋活中の私はあふれる期待を胸に参加した飲み会で・・・まったく意識もされず。 なかなかうまくいかない恋活中の私。 どうしてなんでしょうか? そんなにダメですか? 長い間掲げていた恋活中の看板、やっと下ろすことが出来ます。 緑のちょっと変な恋愛事情の話です。

仮面夫婦のはずが、エリート専務に子どもごと溺愛されています

小田恒子
恋愛
旧題:私達、(仮面)夫婦です。 *この作品は、アルファポリスエタニティブックスさまより、書籍化されることとなりました。 2022/07/15に本編と雅人編が引き下げとなり、書籍版のレンタルと差し替えとなります。 今井文香(いまいあやか) 31歳。 一児の母でシングルマザー。 そんな私が結婚する事に。 お相手は高宮雅人(たかみやまさと)34歳。 高宮ホールディングスの次男で専務取締役。 「君は対外的には妻であり母である前に、僕とは今後も他人だから」 要は愛のない仮面夫婦を演じろ、と。 私は娘を守る為、彼と結婚する。 連載開始日 2019/05/22 本編完結日 2019/08/10 雅人編連載開始日 2019/08/24 雅人編完結日 2019/10/03 (本編書籍化にあたり、こちらは多大なネタバレがあるため取り下げしております) 史那編開始 2020/01/21 史那編完結日 2020/04/01 2019/08/20ー08/21 ベリーズカフェランキング総合1位、ありがとうございます。 (書籍化に伴い、ベリーズさんのサイトは引き下げた上で削除しております) 作品の無断転載はご遠慮ください。

普通のOLは猛獣使いにはなれない

ピロ子
恋愛
恋人と親友に裏切られ自棄酒中のOL有季子は、バーで偶然出会った猛獣(みたいな男)と意気投合して酔った勢いで彼と一夜を共にしてしまう。 あの日の事は“一夜の過ち”だと思えるようになった頃、自宅へ不法侵入してきた猛獣と再会し、過ちで終われない関係となっていく。 普通のOLとマフィアな男の、体から始まる関係。

メイウッド家の双子の姉妹

柴咲もも
恋愛
シャノンは双子の姉ヴァイオレットと共にこの春社交界にデビューした。美しい姉と違って地味で目立たないシャノンは結婚するつもりなどなかった。それなのに、ある夜、訪れた夜会で見知らぬ男にキスされてしまって…? ※19世紀英国風の世界が舞台のヒストリカル風ロマンス小説(のつもり)です。

【R18】秘密。

かのん
恋愛
『好き』といったら終わってしまう関係なんだね、私たち。

不遇な令嬢は次期組長の秘めたる溺愛に絡め取られる。

翼 うみ
恋愛
父の会社を立て直す交換条件のため、ほぼ家族に身売りされた形で関東最大級の極道・桜花組の次期組長に嫁入りしたジェシカ。しかし母を亡くして以降、義母と義妹に虐げられていたジェシカは実家を出られるなら、と前向きだった。夫となる和仁には「君を愛することはない」と冷たく突き放される。それでもジェシカは傷つくことはなく、自分にできることを探して楽しんでいた。 和仁には辛い過去がありそれ故に誰のことも愛さないと決めていたが、純真で健気なジェシカに段々と惹かれてゆき――。 政略結婚から始まる溺愛シンデレラストーリー。

なし崩しの夜

春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。 さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。 彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。 信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。 つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。

Wavering Heart ~ 元同級生は別人級に甘すぎる ~

芙月みひろ
恋愛
ある日のランチで一緒になった男性。苦手だと思っていた彼が、ほとんど話したことのなかった中学の同級生だったことが分かり……