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第8話 隣の部屋
数日後。
「――それじゃ、案内します」
仕事終わり、夕陽が傾き始めた空の下。
「こだま」の裏手にある、小さな木造アパートの前に、二人は並んで立っていた。
「思ったより、雰囲気いいですね。静かだし」
「古いだけです」
「ううん。“こだま”っぽい。ちょっと落ち着く感じ」
朔が鍵を差し込み、ぎぃ、と音を立ててドアを開ける。
「掃除はしときました。まあ、狭いですけど」
「……わぁ」
中に入った雫が、思わず声を漏らす。
きれいに整った室内。
キッチンの隅には、新品のスポンジと洗剤が、ちょこんと並んでいた。
「……あの。これ、もしかして」
「……置いたのは、親父っす」
目を逸らす朔。完全に照れてる。
雫は、くすっと笑った。
「じゃあ、大将にお礼言わないと」
「……今、俺に言ってる?」
「うん。朔さん、大将の息子でしょ? 代理で」
「代理って……」
からかいを含んだ笑みと、朔の小さな肩の揺れ。その間に落ちた一瞬の沈黙のあと――
「……あの、本当に、ありがとうございます。いろいろ」
「別に、俺がどうこうしたわけじゃ……」
「ううん。ちゃんとわかってます。……すごく、感謝してます」
雫がほんの一瞬、朔をとらえる。
その瞳が、本気で言っていると伝わったのか朔は少しだけ言葉に詰まる。
「……無理だけは、しないでください。ちゃんと食べて、寝て。じゃないと」
「じゃないと?」
「惣菜、強制的に押し付けます」
「……ふふ。それはそれで、嬉しいかも」
笑い合った直後、視線が重なって――
なにかを言いかけて、ふたりともそのまま黙ってしまう。
(……いま、朔さんとの距離がすごく近い)
触れそうで、触れない。
その曖昧な空気に、雫の胸がきゅっと締めつけられる。
──まだ“隣人”になると決めたわけじゃない。
それでも、胸の奥に芽吹き始めた気持ちは、
引き返せないところまで来ている気がした。
「じゃ、また明日。アジフライ、用意しときますんで」
朔が何気なくそう言って、くるりと背を向ける。
その背中に、雫がちょっと悪戯っぽく返す。
「はい。楽しみにしてます、“隣の人”」
冗談風に。でも、少しだけ本気を込めて。
朔の背中が、ほんのわずかに立ち止まったように見えた。
雫は、ふわりと目を伏せる。
──この気持ちは、もう、誤魔化せそうにない。
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